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見捨てられた密使たち(下)

ハーグ密使事件100周年【5】最終章 ハーグ、最後の20日間

▲オランダ・ハーグ市のイ・ジュン烈士記念館にある「イ・ジュンの部屋」。1907年7月14日にイ・ジュン烈士が殉死した「ドゥ・ヨン」の客室だ。今は彼の胸像が立てられている。

◆彼らは徹底的に捨てられた  

 7月14日午後7時、イ・ジュンは「ドゥ・ヨン」の粗末な客室に横たわっていた。オランダの夏は、この時間、まだ昼間のように明るい。その日は日曜で、しかもフランス革命記念日だったため、各国代表はお祭り気分で浮き足立っていた。万国平和会議は閉会までまだ3カ月以上も残っていた。しかし、4カ月前に法部大臣弾劾事件でむち打ちの刑70発に処された上に、1万キロメートル以上という長旅の結果、失意と怒りの果てに健康を害した48歳のイ・ジュンは、何日も食べ物を口にできない状態に陥っていた。

 自殺かどうかが重要なのではない。それよりも彼らが徹底的に「捨てられた」ことを記憶にとどめなければならない。ロシアも、列強の代表たちも、ステッドも、ハルバートも、そして高宗皇帝さえも、彼らに救いの手を差し伸べなかった。彼らを派遣した大韓帝国はすぐに欠席裁判を開き、イ・サンソルに絞死刑、イ・ジュンとイ・ウィジョンに無期懲役を宣告しようとしていた。イ・ジュンにはもうこれ以上耐えるだけの力がなかった。グラスがぶつかり合う音や笑い声、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』が窓の外の街まで響いていたことだろう。イ・ジュンは混濁する意識を必死に振り払い、体を起こした。そしてこう言った。

 「わが祖国を救いたまえ!」

 イ・サンソルが抱き締めたときには、すでにイ・ジュンの体は冷え切っていた。イ・ジュンの棺を買うお金もなかったイ・サンソルは、2カ月後の9月6日にイ・ウィジョンと共に再びハーグを訪れ、102ドル75セントで葬式を行った。

▲1面全面でハーグ密使たちの活動を大きく報じた1907年7月5日付「万国平和会議報」の写真を見ると、正使のイ・サンソルは座り、副使のイ・ジュン(左)とイ・ウィジョンは立っている。

兪碩在(ユ・ソクジェ)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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