帰国できなかった密使たちのその後
ハーグ密使事件100周年【5】最終章
イ・サンソルとイ・ウィジョン、生き残った密使2人は、ついに帰国を果たせなかった。イ・ジュンの死後、米国で日本による侵略の違法性を訴えた彼らだが、その後は正反対の道を歩んでいったようにみえる。イ・サンソルは朝鮮王室を擁護し続けた反面、イ・ウィジョンはロシア革命が起きると赤軍(共産軍)側についた。だが、その生涯を抗日と救国に捧げたという点では、2人は同じだった。
ハーグ特使3人のうち、正使の地位にあったイ・サンソルはその後、ロシア・ウラジオストクの韓国人社会の指導者になり、抗日運動を続けた。ロシア・沿海州と中国・北間島の義兵勢力を集め、「十三道義軍」を作り、高宗皇帝のロシア亡命を推進した。1914年に初の亡命政府「大韓光復軍政府」を建て、15年には中国・上海で新韓革命党を組織した。17年にこの世を去る際、「私の亡骸(なきがら)と遺品を燃やし、祖国の光復(失った国権を取り戻すこと)に邁進(まいしん)してほしい」と遺言した。
イ・ウィジョンは現在もその没年が定かでない。全州李氏(李王朝の始祖を先祖に持つ家系)広平大君派の出身だったため、ハーグで「プリンス」と呼ばれた彼は、1908年に沿海州に渡り、李範允(イ・ボムユン)、安重根(アン・ジュングン)らと共に義兵団を組織した。11年に前駐ロシア公使だった父・李範晋(イ・ボムジン)が自決した後、遺産1万2000ルーブルを米国やロシアにある多くの独立運動団体に配り、鉄道の駅の事務員として働いていた。だが、第1次世界大戦が起きると軍事学校に通い、将校として活動した。1917年に起きたロシア革命では、革命軍側につき、戦功を立てた。彼は20年代中盤まで生存し、ソ連の韓国人赤軍部隊の司令官としてシベリア一帯で活動していたことが、最近明らかになった。彼はこのころ戦死したものと思われる。彼のロシア人の妻ノルケンは1943年、スターリングラード攻防戦の時に餓死したと言われている。
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