興宣大院君をめぐる誤解と真実(下)
ヨン・ガプス博士、『高宗代の政治変動研究』出版
◆むやみに門戸を閉じていたわけではなかった
大院君の対外政策の基本的方向は、「富国強兵」を通じ外部勢力に対する自主権を確保しようというものだった。これは、欧米諸国が主導権を握った新しい世界秩序に対応するためのものだ、というのがヨン博士の解釈だ。士林勢力が政権を掌握した朝鮮後期にあっては、「富国強兵」自体が異端視される概念だった。しかし大院君が伝統の性理学的世界観から抜け出した法家的な人物だったため、これが可能だったというわけだ。
備辺司を廃止し景福宮を再建するなど、大院君の「復古政策」は意図的に作り出されたイメージだった、という独自の解釈も打ち出した。朝鮮王朝草創当時を標榜し改革の名分を得るための方策に過ぎず、実際に「復古」を志向したものではなかったという。1866年(高宗2年)の丙寅洋擾(江華島に来航したフランス艦隊と交戦し、これを撃退した事件)を契機として西洋の軍事技術の導入を試み、66年と68年(高宗4年)に米国艦船が出現した際にも地方官を通じ穏便に解決するなど、対外関係に柔軟な側面も持っている、というわけだ。
◆大院君失脚後も富国強兵追求政策は続く
1873年(高宗10年)の大院君失脚後の高宗親政期は、これまで「閔氏政権」と呼ばれてきた。しかしヨン博士は、当時の高宗の役割について大胆かつ積極的な解釈を打ち出した。西洋の軍事技術を導入しなければならないという認識の下、統理機務衙門を設置し、壬午事変(1882年〈高宗19年〉に発生した軍隊の反乱)以後、清の干渉が強まる中にあっても改革の方針を盛り込んだ「善後事宜六条」を練り上げるなど、この時代の政策の中心には高宗がいた、というわけだ。
「(外戚の一族が実権を掌握していた)勢道政治の時代とは異なり、この時代の外戚・閔氏一族は国王の統制を受けており、こうした王権強化は大院君が成し遂げたものだといえる」とヨン博士は語った。結局、高宗親政期は「富国強兵の追及」という大院君執権期の基本的性格を受け継ぐものだった、というわけだ。ヨン博士のこうした分析に対し、金源模(キム・ウォンモ)壇国大名誉教授は、「大院君の軍事改革は西洋勢力に抵抗し得ない程度のもので、時代に後れを取ったという点から、大院君の富国強兵は張子の虎だった、という明白な限界を認識しなければならない」と指摘した。
兪碩在(ユ・ソクジェ)記者
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