「高宗のロシア公館避難」写真、徳寿宮惇德殿と判明
- 写真2
この写真を通じ、俄館播遷(アガンパチョン、1896年)当時、高宗(コジョン)が平服に冠をかぶってロシア公使館に避難した際(写真2)日本軍が高宗の後を追って武力圧迫を加えるところ(写真3)としてこれまで知られてきた写真の背景が、ロシア公使館ではなく惇德殿だったという事実が明らかになった。
したがって時期も1896年ではなく1907年7月であり、日帝が高宗に皇帝譲位を要求して宮廷の中庭にまで軍事力を動員し、武力圧迫を加えたということが確認できる。
この写真はソウル大の李泰鎮(イ・テジン、近代史) 教授が日本の学習院大学所蔵の「韓国写真帖」(1910年、統監府発行)から発見し21日、本紙に公開した。
惇德殿は1900年代初盤に建てられた洋式建築で徳寿宮・石造殿(ソクチョジョン)の裏手、現在の布德門(ポドクムン)の北西にあった。
純宗はここで即位し(1907年)、1920年代初めに撤去されたと推測される。今回の写真で惇德殿が確認されたことにより、大韓帝国の象徴だったスモモの花柄がこの建物の柱と欄干に施されていたことなどを確認することができる。
- 写真1(左)と写真3
李泰鎮教授は俄館播遷の際の写真として知られていた写真1、2の日付を1907年7月22日だと推定した。
当時日帝は高宗がハーグ万国平和会議(1907年 6月)に李儁(イ・ジュン)、李相卨(イ・サンソル)、李瑋鐘(イ・ウィジュン)など 3人を特使に送り日帝の大韓帝国侵略を訴えようとしたことに言いがかりをつけ、皇帝退位を強要した。
7月22日未明に徳寿宮の守備にあたるデモ隊一部兵力が親衛クーデターを試みたが、李完用(イ・ワンヨン)など親日大臣らが一足先に察知して、日本軍一個大隊がデモ隊を鎮圧し、惇德殿の前で高宗の皇帝退位を要求する武力蜂起を起こした。
この事件直後に高宗は皇帝を退き、同年8月1日に大韓帝国軍隊も解散された。武装解除された大韓帝国軍人たちは義兵に合流し、武装抗争を繰り広げた。
シン・ヒョンジュン記者 hjshin@chosun.com
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