まともな「信任状」もない旅立ち(下)
ハーグ密使事件100周年【1】
◆高宗の「特使」派遣努力は挫折
最近、オランダ・ライデン大のクン・ツィステル教授は、高麗大が主催した学術大会で、「当時、万国平和会議の副総裁だったドゥ・ボフォートが密使らと話を交した後、“本物の密使”との判断を下した」という趣旨の発言をした。しかし、この際も信任状を示したわけではなかった。
イ・ジュンは3月24日夜、徳寿宮重明殿で皇帝に極秘裏に拝謁したが、やはり信任状を受け取ることはできなかった。信任状はその後、尚宮(宮廷女官)や外国人のハルバート博士のように、日本軍によるチェックを余り受けずに済む人物によって持ち出されたものと推定されてきた。
ここで再びハーグ現地のイ・ジュン烈士記念館に話を戻すと、記念館にはイ・ギハン館長が探し出したロシア側の招待国リストの写本が展示されている。このリストによると韓国は、47カ国におよぶ招待国の中で12番目に記されている。1905年の第2次日韓協約(韓国の外交権を日本側に譲り渡した条約)直前、ロシア皇帝ニコライ2世が06年に予定されていた万国平和会議の招待状を高宗に送った。このとき高宗は特使派遣に非常に積極的な姿勢を見せ、列強の国家元首らに親書を送り、第2次日韓協約が無効であることを訴えた。しかし、既に外交権を喪失していたため、皇帝の努力は挫折に終わった。
その後、万国平和会議が1年延期され、今度は民間から特使派遣を唱える声が上がった。1907年3月、ソウル尚洞教会を中心に、全徳基(チョン・ドクキ)、イ・ジュン、李会栄(イ・フェヨン)などの人物らがこの問題について協議し、この3人を特使として派遣するという原則が打ち出された。そこでイ・ジュンが高宗に拝謁し、「特命」を受けたというのがこれまでの通説だった。
◆密使らはどれほど暗鬱で切迫していたのか
しかし、密使らは出国が迫った4月末まで、誰かが代わりに持ってくるはずの「印章だけが押された白紙の信任状」すら受け取れず、高宗はロシアから送られた招待状も密使らに渡すことができなかった。その後も力なき皇帝は、密使を自分が送ったということを是認も否認もできなかった。
ただ明らかな事実は、信任状に問題があることを知りつつも、急きょ出発しなければならないほど、3人の密使のハーグ行きが非常に差し迫った状況の中で行われたものだったということだ。イ・ジュンが釜山港を出発したのは、信任状の日付からわずか3日後の4月23日だった。2カ月後、ハーグHS駅に到着したとき、彼らの心中はどれほど暗鬱かつ切迫していたことだろうか。
ハーグ=兪碩在(ユ・ソクジェ)記者
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