明成皇后の初の埋葬地「洪陵」を確認
ファン・ピョンウ韓国文化遺産政策研究所長は25日、「崇陵の右側の丘で石物(ソクムル、墓の前のに置かれた石の飾り物)が発見されたという通報があり、現場と各種文献を照らし合わせた結果、位置が確認された」とした。
この場所からは封墳の周りに並べるために使ったと見られる欄干石柱(ナンガンソクジュ)や童子石(トンジャソク)など石物3点が発見された。この石物は地中に埋まっていたが、雨水などにより土が流れ落ち、姿を現した。
しかし明成皇后陵はこの場所に建立されなかった。急変していた当時の政治状況のためだ。乙未事変で執権した金弘集(キム・ホンジプ)内閣は、暗殺事件の2日後、暗殺の事実さえ発表しないまま、「王妃が人民を搾取した」として皇后を庶民へと廃位させ、50日間後に暗殺の事実を公式発表した。
しかし陵を建立する工事の真っ最中だった1896年2月11日、俄館播遷(アグァンパチョン、乙未事変の後、身辺に危険を感じた高宗(コジョン)と王子が1896年2月11日から約1年間、王宮を捨てロシア公館に避難した事件)により、高宗は金弘集らを“乙未4敵”に定め逮捕令を発令、内閣は崩壊した。
明成皇后陵は高宗が大韓(テハン)帝国皇帝に即位(1897年10月12日)した後の1897年11月22日、現在の洪陵樹木園(ソウル市・東大門(トンデムン)区・清涼里(チョンリャンリ)2洞)にに建立され、明成皇后はここに葬られた。この後、高宗が1919年1月21日に死去すると、同年2月16日、京畿道・南楊州(ナムヤンジュ)市の現在の洪陵に移された。
韓永愚(ハン・ヨンウ)、 李泰鎭(イ・テジン)ソウル大学教授(国史学)は「明成皇后陵の建立と改葬という史実は紆余曲折の多かった朝鮮末期の歴史を体現している」とし、「東九陵内の洪陵を近代史教育の場として保存すべきだ」と指摘した。
九里=シン・ヒョンジュン記者 hjshin@chosun.com
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