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【コラム】明成皇后の「ニセ写真」騒動

 25日午後、各メディアの文化財担当記者たちは熱い取材合戦を繰り広げていた。それは同日午前、あるメディアがロサンゼルス発で「明成(ミョンソン)皇后(閔妃/1851~1895年)と推定される写真が発見された」と報じたためだった。

 だが、この写真は1997年に三星言論財団から発行された『西洋人が見たコレア』に、「高宗代(1863~1907年)の女官あるいは一般女性」として既に紹介されたことのある写真だった。また、明知大LG蓮庵文庫にも同一の写真が掲載された19世紀末の本と雑誌が所蔵されており、こちらでも「女官」などとして紹介されている。

 そのため、本紙は26日付の各日刊紙に大々的に掲載されたこの記事をあえて報じなかった。その代わりに、このような取材経緯の詳細を本紙インターネット・ホームページ(http://www.chosun.com)に掲載した。

 ここでひとまず歴史を振り返ると、明成皇后は壬午軍乱(1882年)の際、洪啓薫(ホン・ゲフン)という軍人に背負われて辛くも宮中を脱出し、命拾いした。それ以降、身辺の安全を守るために明成皇后は写真撮影を極端に避けていたのだろうと近代史の専門家らは推測している。

 そのため、1895年に明成皇后を殺害した日本の浪人たちも、どの死体が明成皇后のものなのかわからなかったという。ソウル大の韓永愚(ハン・ヨンウ)名誉教授によれば、日本の浪人たちは死体の前で号泣する王世子(後の純宗)を見て、初めて「キツネ狩り」が終わったことを確信したそうだ。

 このように明成皇后が写真を残さなかったことで、近代史や服飾史の分野でわれこそはと思う学者たちの間では、ずいぶん前から新たな写真が発見されるたびに「明成皇后だ」、「いや違う」といった論争が繰り返されてきた。

 しかし、今回の写真はどう考えてみても違うようだ。19世紀末の古書で既に紹介されていた点については、広く公開されている資料ではないので、見落としたのもやむを得ないとしよう。だが、10年前に国内で出版された本に既に掲載された写真が、どうして「新発見」と報じられたのだろうか。

 本紙が取材した専門家の大半は、この写真を初めて見たと語った。本紙も安東大博物館の李恩珠(イ・ウンジュ)館長から『西洋人が見たコレア』の存在を指摘されなかったら、「明成皇后と推定される写真を発見、論争中」と書いていただろう。誰もが第一人者と認める元老級の服飾史家さえ、「写真の人物の化粧法は遠い山を描くように眉毛を塗る遠山黛であり、各種文献に記録された明成皇后のイメージと一致する」と言っていたほどだから…。

 だが、「真夏の夜の騷動」で終わった今回の騒動は、専門家の水準のせいにばかりはできないようだ。専門家だからといって、あらゆる本や写真をすべて見つくしているわけではない。もし、多様な歴史関連の情報を集めたデータベースがあったならば、今回のような騒動が起きただろうか。昔の写真や資料の大部分が、相変わらず国立中央博物館や国立中央図書館、ソウル大博物館、韓国学中央研究院、個人所蔵者などに分散しているのが実情だ。

 もう一つ指摘しておかねばならないのは、メディアの習性を利用した商売人の行動だ。メディアで報道されれば値段がべらぼうに跳ね上がるので、それを狙ってこっそりとメディアに資料を流すのだ。最近では、外国人までもが金になりそうな韓国関連の資料を持って、メディアを利用しようとする事例が少なからず起きている。

 一方、毎日速報競争を繰り広げているメディアにとって、資料をじっくり検討する時間が不足しているのが実情だ。そのため、今回のような誤報が生じる可能性も高くなってしまう。今回、「明成皇后と推定される写真を所有している」と主張したイギリス人が、写真の学術的価値に対する正当な評価を知りたかったのならば、ロサンゼルスではなく韓国で、メディアではなく専門家らにまず資料を見せるべきだった。

 もちろん、「時間に追われている」という理由は、不正確で誤ったメディアの報道に兔罪符を与えるものではないが…。

慎亨浚(シン・ヒョンジュン)文化部文化財チーム長

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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