日記を書くのも3日坊主だった私が、細々であったとしてもこうしてブログを続けられるのは、
ここにこうして来てくれる、読んでくれるひとがいるからなのです。
顔が見えないあなたに、
いつも、ありがとう。 Sugiyama Misa
ヘッドフォンで耳をふさぐ。
音の世界がこだまする。
私の言葉の先にあなたがいてほしいと思う。
怒ってもいい。わめいてもいい。
私の発する世界の先であなたが応えてくれるなら。
ヘッドフォンをはずす。
音の世界がもれ聞こえる。
だけれどそれはすでに朽ち果てた残像でしかなく
押し寄せる波はまったく知らない既視感を送り込む。
私の発する世界の先であなたは歌ってくれるだろうか。
逃げおおせる間もなく
私の言葉は跡形もなく呑みこまれていく。
あなたは彼女を忘れられないでいる。
あなたは私を抱くことが好きだと言う。
空は早くも暮れていく。
あなたの汗を浴びる肢体は空をつかむ。
あなたは私を押し潰せないでいる。
空が早くも黙ってしまう。
話など何一つかみ合わないことは知っている。
私は見ないふりができないでいる。
あなたは私を忘れようとしている。
夜が早くも消していく。
深呼吸する言葉のブログパーツができたので
さっそく貼らさせていただきました!
視覚でも刺激する言葉。
http://shin-kokyu.jp/info/6_index.html
おもしろい方向にいろいろ展開していきます。
参加している私も、楽しみ。
言葉といえば、
最近、瀬戸内寂聴さんが「ぱーぷる」というペンネームで
ケータイ小説を書いたことが話題になったり、
はたまた、老舗漫画雑誌が休刊、廃刊になったりと、
「読む」周辺事情がかなり変わってきていると思います。
私が思春期の頃に読んでいた少女漫画。
今はまさに携帯小説がその役割を担っているんですよね。
「あれを小説だ、文学だなんて」という声をよく聞きますが
そう考えるとわかりやすいと思うのです。
あの頃だって、漫画なんてくだらない、と親によく言われましたから。
おんなじような(ありえないような。笑)乙女の夢みるストーリー展開てんこもりでしたから。
お金をかけるところが雑誌でもCDでもなく、すべて今は携帯の中へ。ということなのでしょう。
その昔、文学よりも蔑視傾向にあった漫画が、今は日本を代表するカルチャーへと広がり、
漫画から映画、テレビドラマ、その他付随するあらゆる商業効果へと
なくてはならないものにもなっています。
漫画の役割も変わってきているのです。
小説や漫画など、物語や、はたまた言葉そのものの発信の仕方が
まさに今転換期なんだなあと、強く思っていて。
私も、関わる側である以上、柔軟に、そしてまだまだ新たな方向へと
模索していきながら展開したいと思っています。
頭の中ではいろいろ、そう、本当にいろいろうごめいているのですが。
はたして、みなさんに披露するまでに至ることができるかどうか。
今後も、気長に見守っていてくれるとうれしいです。
白々と明ける。
はげた化粧。
不釣合いな黒ドレス。
取り逃す今日。
透ける足。
向こう見ずな先。
隣にはカラス。
引きずるのはカラダ。
引きずらないあなた。
夢の中。
優しく抱き上げる腕の強さ
見送る最後の静かな眼差し
数少ない言葉の一つひとつは時間と距離を埋めるに余り
私は小さく微笑みを返す。
はしゃがず、乱れない、あなたの余韻
初々しくもおだやかな
初めての安らぎ
扉を開けました。
そこからは目もくらむような強い光が
ほんの少しの隙間から
まるで挑戦的に
あなたに向けて射貫くでしょう。
思わず手をかざし
思わず自分を守るでしょう。
でも待ちに待った先は
どん底にへばりつくヘドロでも
お先真っ暗な闇でもなかったはず。
闇はあなたを優しく介抱してきたことに
底はあなたを優しく受け止めてきたことに
ここで初めて気づくでしょう。
居心地の良さがそんな場所にはあるのです。
光はあなたの体をずたずたに切り刻むでしょう。
光はあなたの瞳を黒焦げに焼き尽くすでしょう。
何も見れずどこへも歩けない体になるのでしょうか。
そんなこと、誰も知るはずもなし。
それでも
待ちに待ったはずのものがすぐ目の前で手招きしています。
さあ、
扉を開けました。
踏み出すも引き返すも
どうぞご自由に。
引き止める人も背中を押す人も
そんな器用な人も構ってくれる人もいやしませんから。
それが誰も知らない明日というものです。
それがあなたしか知らない、明日というものです。
あなたなりに混乱していた。
それもなるようになった今
あなたは解き放たれ
わたしの髪に甘えた。
あなたなりに想っていた。
垣間見えてしまう戸惑いや苛立ち
すべてが終わった今
あなたはわたしの名まえを呼んだ。
東京都庭園美術館 で9月23日まで開催されている
舟越桂「夏の邸宅」 にやっと行ってきました。
昨日は夏の忘れ物のように日差しが照りつけ
庭園を優雅に散策、とまではいきませんでしたが、行ってよかった!
それまでの私の関心はもっぱら絵画や写真、映像などの平面作品に終始していたのを
彼の木彫作品がかっさらっていった、と言っても過言ではないでしょう。
いつものように本屋を徘徊して美術書の棚をくまなく見てたときに
目に飛び込んできた、なんともいえない表情をした人物。
唯一そこだけが大理石でできているというその瞳に私は釘付けになったのを覚えています。
ものを言わない静かなたたずまいからは相反している物語る強い意志。
私に何かを訴えかけているようにも、いえ、私など軽がると通り越した先を見据えている
その人物たちに、人間である私がたじろいでしまった。
まさにそんな衝撃でした。
「東京都庭園美術館は
として1933年(昭和8年) に建てられた建物を、そのまま美術館として公開したもの」
と美術館の説明にもあるように
歴史ある落ち着いた洋館の部屋という部屋に彼の作品がたたずみ、
不思議な世界へ導かれるまま、まさに作品たちの邸宅と化していました。
日々の日常では感じ取ることさえ困難な、
我を張るのではない、静かに居ながらにして存在する個々のオーラが
どの部屋(展示室)からも作品を通して匂い立ち、
私の潜在意識が彼らの物語へと吸い込まれていくような不思議な感覚に陥りました。
舟越さんの作品を創る過程もビデオ上映されていたりと、
それもまた内容の濃い充実した話を聞くことができ、
私はすっかり「夏の邸宅」にながい時間、お邪魔させていただいたのでした。
彼の作品が一躍有名になったのはもしかしたら
天童荒太の「永遠の仔」の表紙ではないでしょうか。