|
日本ではなぜか、D・H・ロレンス(855夜)、T・S・エリオット、J・G・バラード(80夜)というふうに、ファーストネームとセカンド・ネームを英文字イニシャルにして並べるという、文学史家だか翻訳者だか出版社だかの慣習がありますね。
ずっと以前のことですが、ロンドンの郊外に住むそのバラードのところに日本語訳の本を何冊か持っていったとき、「J・G」「J・G」と並んでいる表紙を見て、バラードは大きなラブラドール犬を撫でながら、ハッハ・ハッハとおおいに笑っていたものでした。E・M・フォースターも日本では、必ずこのようにイニシャル表記されてきたのです。まあ、そんなことはどうでもよろしいが、こういうこと、ぼくはあまり好きな趣味ではないというだけであります。
そんなことより、やっとエドワード・モーガン・フォースターを綴れる夜がやってきました。とはいえ、何かうまく書けるような気が、ちっともしていません。フォースターの小説を知ったのはずいぶん前のこと、『ハワーズ・エンド』を集英社の世界文学全集の吉田健一訳で読んだのもだいぶん前のことだったのですが、なんといっても急速にフォースターに近づいたのは映画『モーリス』を見てからだったからです。
『モーリス』は長らく禁断の書でありました。書かれたのは1914年にさかのぼるのに、出版は1971年まで見送られてきたのです。フォースター自身が自分の死後にしか出版できないと言っていた代物で、そのフォースターが1970年に死んだから、やっと陽の目を見たのですね。
映画を見て、ぼくはびっくりしてしまいました。この美しい青年たちは何なんだ、これを綴ったフォースターには、こんな美学が20世紀初頭にしてすでに宿っていたのかということに、驚いたのです。そしてすぐに、この主人公モーリス・クリストファー・ホールの名は、オスカー・ワイルド(40夜)のドリアン・グレイやトーマス・マン(316夜)のトニオ・クレーゲルのように、今後ますます輝きつづけるだろうと確信しました。それほどにこの作品のなかのモーリスは、痛ましくも愚かで、そして美しい。いや、映画のなかでの話ですよ。
ジェームズ・アイヴォリーの監督で、ジェームズ・ウィルビーがモーリスになりましたね。うーん、美しい。1987年の公開で、さっそくヴェネチア映画祭の男優賞・監督賞・音楽賞をとった。音楽はリチャード・ロビンズでした。20世紀初頭のケンブリッジ学舎の雰囲気がノスタルジックに描かれていて、実に痛ましいフラジリティが伝わってきたものです。
日本の読者のためにわかりやすくいうのなら、竹宮恵子・萩尾望都・山岸涼子らが日本の少女コミックに“美しい青少年たちの同性愛”をもちこんだのでありますが、その系譜に属するすべてのマンガ家やその読者にとって、この映画はきっと隠れたバイブルのひとつになったであろうものなのです。
では原作はどういうものかというと、小説のほうは、モーリスがクライブ・ダラムという秀才に出会って恋に落ちていくという発端から、途中に森番のアレックス・スカダーに誘惑され、ついに森で生活するという決断をする結末にいたるまで、フォースターならではの「存在のアンヴィバレントな否定と肯定」がちらちらと燃えつづけているというものです。映画とはちがって、全篇に痛みが哭いている。その痛みは存在学の深みに向かっているのです。
けれども映画では、小説のなかの青年どうしの鶺鴒(セキレイ)の尾のピコピコした動きのような、そんな恋の痙攣に照準をあわせて謳っていて、たいそうノスタルジーに富んでいたわけですね。そのぶん映画賞を総ナメできたのだと思います。
いったい小説と映画の、どちらにフォースターはいるんでしょうね。それはいまはおくとして、ところで、このような話はたとえばロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』のごとく、ふつうなら男と女の冒険になるはずです。チャタレイ夫人は森番と激しい恋をしたわけですからね。それでもセンセーショナルな話題になって、発禁されたりしたものでした。
それがところが、フォースターはそれをいとも軽々と、男の感性のなかだけに生じた出来事として描きえた。これはまことに驚くべきことなのです。何を驚くべきなのかというと、まず、フォースターがブンガクしていた時代は19世紀末から20世紀の初頭なのですが、ホモセクシャルな出来事は、すべて御法度だったわけで、よく知られているようにオスカー・ワイルドはそのため投獄されたほどなのです。
しかもおまけに、フォースターの綴ったゲイ感覚は、その後の20世紀文学におなじみのカポーティ(38夜)やバロウズ(822夜)のものとはまったくちがう。もちろんテネシー・ウィリアムズ(278夜)のような、いわゆるカミングアウトな臨場感など、まったくありません。
それなのにこれを読む者にとっては、いったん読みはじめると、そこからいっときも離れたくなくなるような快感がある。しかもそれは、映画『モーリス』を見た者ならわかるでしょうが、あるいは少女マンガのファンならもっとわかるでしょうが、女性にとってもとても気持ちのイイものなのです。 なぜ、こんなことがフォースターはできたのか。ここが驚くべきところなんですね。
ま、ここまでは枕の話です。フォースターの作品の魅力は、禁断の『モーリス』にはとどまらない。『ハワーズ・エンド』や『インドへの道』はそれ以上に有機的に美しく、かつまた深甚な作品なのです。
いやいや、あえて言うのなら、フォースターの作品は、近ごろの日々を騒がせている金融恐慌なんぞに脅える21・1世紀のコスモポリタンたちが忘れそうになっている、いや、とうてい想像だにしていない「文化」そのものなのであります。だから、今夜はそういう話をしてみたいとも思うのですが、なんだかそういうふうになるような気がしません。これは、フォースターのことなど、いまどき伝わらないだろうなというぼくの気分と、それを「文化」 と呼んだりすれば、もっとわからないだろうなという気分とが、まじっているからです。
でもそれでは話が進みませんので、では、ちょっと気をとりなおして言いますが、フォースターを知ってもらうには、やっぱりブルームズベリー・グループの話からするのがいいでしょう。
『モーリス』は、さきほども書いたように、ケンブリッジの眩しい学生生活を舞台にしているのですが、そのケンブリッジには19世紀半ばころから「アポスルズ」あるいは「ソサエティ」と名付けられた“使徒会”が自由討論会をひらいていて、そのソサエティに参加していた“会員”たちは、まとめてブルームズベリー・グループと言われていたのです。
|
「使徒会」のメンバーとなったケンブリッジ時代
|
|
有名どころでは、ヘーゲル研究のマックタガート、当時は記号数理学者だったホワイトヘッド(995夜)、バートランド・ラッセル、ケインズ経済学の例のケインズ、のちにヴァージニア・ウルフと結婚するレナード・ウルフ、そして当時のアカデミック・カリスマだったリットン・ストレイチーなどが会員でした。で、1897年にケンブリッジ大学に入ったフォースターもそのソサエティに属していたのです。
問題はこのソサエティでは、同性愛が公然たる秘密だったということで、ここにフォースターの「知の青春」があったということが、ぼくが思うにはいろんな意味で決定的なのですね。
|
当時最盛期を迎えた使徒会に入会したフォースター(最後列左端)と
その仲間たち
|
|
もともとフォースターは『小公子』のリトル・フォンテルロイそっくりに、女の子のような服装をさせられ、髪を肩までたらしている幼少年時代をおくっていました。これはロラン・バルト(714夜)の幼年時代に似ています。
|
幼いフォースターと母アリス・クレアラ・ウィッチロー
|
|
また、青少年期にはどんな猥談を聞いても気分が悪くなっていたようでした。ぼくも猥談がめちゃくちゃ苦手で、一度もそれができないということをいっときコンプレックスに思っていたほどなので(笑)、多少のことならわかるのですが、フォースターはそれどころではないのでしょう。さらにこれは本当かどうかはわからないのですが、30歳のころまで男女のセックスの仕方を知らなかったというふうにも言われているのですね。
さあ、これだけの条件が揃っていれば、フォースターがケンブリッジで筋金入りのホモセクシャルな感性を磨いたということはあきらかなのですが、さてしかし、このようなことは、ふつうに20世紀初頭のヨーロッパをブンガクしている者にとっては、フォースター作品を語るにあたっての意外な難問になるわけです。フォースターのどこまでをホモセクシャルに見て、どこからをブンガクに見るのかが、わかりませんからね。そこでついつい価値観の根底に何か異質なものが入っている可能性があるだろうと思いたくなってしまうのです。
いえ、実際にも、ぼくが知っているかぎりでも、フォースターの価値観にはちょっと変わったところがあるのです。価値観とまで言わないとしたら、好悪感というものですか。
たとえばダンテ(913夜)は大好きだったのに、中世のスコラ主義や神学や悪魔学は大嫌いで、キリスト教美術が表現しているありとあらゆるキリスト像すら受け入れがたかったというのは、ちょっと変です。さらには、キリスト教の「知」そのものについても、ああいうものはなんだか猥雑だというふうに随所で述べているのです。これも変です。せいぜいエラスムスかモンテーニュ(886夜)なら尊敬できるというのはよくわかりますが、それだけじゃないんですね。
いったいこういう見方はどこからきたのかといえば、誰しもがまず憶測したくなるのは、それらがホモセクシャリティやゲイ感覚から滲み出した感想だろうということなのですが、さて、本当のところはどうか。ちょっとかんたんには決めつけられません。
というのも、他方では、どうもそれだけでは推察しきれないものがある。 なぜなら、キリスト教の知なんて、そもそもがヨーロッパの歴史の大半とフクザツに重なっているわけで、そのような見方がホモセクシャリティと切り結んでいるかというと、なかなかそうとは言いきれないし、第一、フォースターの「知」がセクシャリティから発しているとはかぎらないからです。
だからぼくは次のような見方に加担するのですが、フォースターにおいてはすでに若き日々に、ヨーロッパの仕上げ方による「知」に対する疑念のようなものが形成されていたと見るべきではないか、それがゲイ感覚でいっそう磨かれたのではないか、と思うのです。疑念というより、疑団というべきかもしれません。
すでに表題でおわかりのように、今夜は世界文学史上の傑作中の傑作のひとつである『インドへの道』をとりあげますが、この作品についてのあらかじめブンガク史としての評判を言っておくと、西洋的な知の無惨な姿を捨てたフォースターが、微妙な見方をもって東洋的世界にどのように触れていったかという物語だということになっている。これがフツーのブンガク批評です。そして、このような作品を書く見方をフォースターがもったのは、アレキサンドリア旅行やインド旅行をしてからのことだったというふうになっているのです。
しかし、いささかぼくが察するには、それはすでにケンブリッジ時代に芽生えていたと感じられるのですね。もっとはっきりいえば最初から「セクシーな知」というものが、見えていたということです。「知」と「性」とが分断されていないんです。ということは、『インドの道』にはホモセクシャルな感覚だけではとうてい語れない、うんと深まった文明的な知というものがあるとともに、やはりゲイ・セクシャリティが加味されたものがあったのではないかということなんです。
何も説明していないような気分になってきましたが、ともかくも、というわけで、フォースターを語るのは、いまなおぼくにとっても、もどかしい。とても心地よいもどかしさではありますが。
|
インド人の服装をしたフォースター
|
|
実は、ぼくは『ハワーズ・エンド』を読んだとき、このこともまた不思議な気分になるのですが、フォースターの作品のなかの描写には、また文体には、ほとんどどぎまぎするような箇所がないという、なんだか裏切られたような特色をもっているということに気がついたものでした。
淡々としているというと誤解されそうだから、あえて比喩的に言いますけれど、なんというのか、熱力学的平衡を僅かに破ってみせるというような、描写を丸出しにしないのにそこから少しだけ破れ目が見えるというような、ZEST(熱中)をもって綴っているのにそれを羞恥しているような、そんな書きっぷりなんです。登場人物たちもめったに過激なことを言わないし、謎めいた言葉をのこさない。
ほかの作品も、だいたいそうなっています。小説の技法からいえば、むしろ目立った出来事や過激な発言をあれこれ適当に入れておいたほうがずっとラクなのに、それをしないのです。それで読者のわれわれはどうなるかというと、作品のなかに象徴的事件を探せないということになる。
これがもどかしさを生んでいる原因といえば原因なのですが、ところが、ところがですね、ふと気がつくと、何でもなそうな場面にも実はいくつもの象徴が含まれていて、われわれはいくつもの“象徴の回遊”をしていたのだということに気がつくのです。そしてそのあげく、そのようにフォースターが仕組んだ「セクシーな知」の巡礼体験だけが大きく残響しつづけるというふうになるわけなのです。
これは、やっぱり不思議なことであります。いいかえれば、フォースターが好きになるのは、ここなんです。ここしかないでしょう。これこそはフォースターが“象徴の回遊”のために架けた橋の掛け方というもので、いわば「シンボリック・ストーリー」の手法というものなのでしょう。
稀有なことではありますが、そういう作家がいたということなんです。きっと少女マンガのファンや吉本ばなな(350夜)のファンなら、すぐわかることでしょうね。江國香織さん(747夜)とか。川上弘美さん(523夜)とかね。
さて、さきほどから例に出している『ハワーズ・エンド』という作品は、1910年に書かれたものです。『インドへの道』に先立つこと14年前の作品で、これを書いたあとフォースターはすっかり沈黙し、そのあとやっと『インドへの道』を書き継いで、そして死ぬんです。
そういう意味で『ハワーズ・エンド』はフォースターの生涯のターニング・ポイントに立つ作品なのですが、物語の筋書きというと、ヘンリー・ウィルコックス父子とシュレーゲル姉妹の対立というふうになっています。筋書きがあるといえば、それだけなんです。しかもたいした事件はおこらない。逆にいえば、その程度でも、フォースターは“象徴の回遊”を読者に提供できたということです。
では、目立った象徴的な事件はおこらないからといって、何もない私小説みたいなものなのかというと、ゼーンゼン。まったく逆です。象徴はあるのです。それがハワーズ・エンド邸であり、楡(にれ)の木であり、ウィルコック夫人の想像力の欠如であって、ひたすら鳴り響くベートーヴェンの交響曲なのです。そして、これらはことごとく“非雄弁”というものなのですね。無言でも沈黙でもなく、そこに現れるべくして現れ、消えるべくして消える「状態」なのです。その状態の、ありのままが綴られるというのが、フォースターなのです。
こういう作品からわれわれが感じるものは、何でしょうか。ブンガク批評的にいえば「柔らかなシニシズム」などとも言えます。
でも、それではつまらない。もっと大胆に一言にまとめれば、「プロポーション」と、その僅かな破れというべきものなのです。プロポーションとは、均衡であり、比例であり、割付けです。それゆえ、フォースターもあえてそうしているのだと思いますが、それを読むこちらのほうも平衡感覚のようなものを読みながら曳行することになります。
ところが、またところがですね、しかしとはいえ、それは言葉の風景によるプロポーションなのですから、当然に微妙にゆらいでいるわけです。そうすると、ちょっとしたことでこちらも平衡を失うような心境になる。いや、必ずそうなります。よく出来た少女マンガのように、ね。フォースターの作品がもっているのは、そういうプロポーションなのです。
こんなことを書いていても、さてさて、これが何かの説明になったのか、あいかわらずたいへんおぼつかないのですが(まあ、そういうふうに今夜は千夜千冊しているのですが)、とりあえずのフォースターの入口くらいは見えてきたというふうにしてください。
が、念のため、もう一つ、二つ、ぼくが気がついてきた重要なことを加えておきましょう。ちょっとぶっとばして言いますが、それはフォースターにおける「マナー」と「リベラル・アーツ」ということです。
マナーとは、作法とか所作事とか習慣をあらわす言葉です。219夜にも書いておいたように、もともとは「手」を意味するラテン語の「マナス」から派生しました。そのマナスを使って生まれたものがマナーであり、マニュアルであり、マネージャーであり、マニフェストです。きっとフォースターは、そのマナーの管轄と価値観を作品に織りこんだはずなのです。
このことは、フォースターの1905年の最初の長編『天使も踏むを恐れるところ』にすでにして散りばめられていると思います。天使が二の足を踏むような状況を選び、そこに登場人物たちの戸惑いを描きながら、フォースターがそのうえで描きたかったことは、人々にひそんでいた「マナスの力」というものだったのです。
もう一つのリベラル・アーツとは、前々夜(1266夜)に書いたばかりのように、むろん「教養」(明治日本なら「修養」)ということですが、フォースターの好きなリベラル・アーツは何というのか、「こちら側にある教養」と「向こう側にある教養」とが出会って、なにかのぐあいで衝突し、そして捩れていくところに発生するものだったと、思います。
もうちょっと、説明しておきます。その「こちら」とか「向こう」というのはいったい何かというと、あえて断定するのなら、「こちら側」とはやっぱり西洋です。キリスト教です。「向こう側」はフォースターにとっては東洋でした。しかし、それが東洋であろうと確定するのは、これについては評者たちも言ってきたように、アレキサンドリアやインドに行ってからのことかもしれません。
けれどもフォースターにはそれ以前にすでに、「こちら側の教養」というものが、金や贅沢や儲けにまみれながらも、それを強引に道徳で糊塗しておおげさな楼閣にしたものだということが、はっきり見えていたはずなんです。そして、それに対して、どこに「向こう」があるのかは確認できていなかったかもしれないものの、その「向こう」にはきっと「向こう側の教養」というものがあるはずだと確信していたはずなんです。
この直観は、きっと小さなころに早くも掴んでいたのではないでしょうか。そして、これこそが二十世紀文学の「セクシーな知」の最初の綴り方になったのではないかと、ぼくは思うのです。ブルームズベイリーの“モーリスの青春実験”とは、それだったんでしょう。
ふつう、そういう「向こう」は鏡台や町はずれやサーカス小屋や、せいぜい近くの山のような大きさのものでしょう。ところがフォースターは、そこがまさにフォースターのフォースターたるゆえんになるのですが、物語のなかでは、その「セクシーな知」を見えないほどの大きさにしていったんですね。これがフォースターのリベラル・アーツです。それは、西洋から見放されていても、あたかも宇宙のリズムや世界に寄せては返す波のような、何か根源的なものがいまなお残響しているだろうと見当のついていたものだったはずなのです。
以上のことを短絡していえば、フォースターは西洋的教養の成り立ちと自国文化の防御癖と鼻持ちならない自慢が大嫌いだったということにもなるのですが、でも、そう言っては身も蓋もありません。
むしろ注目すべきは、フォースターはそのようなことをどのようにわれわれに伝えようとしたかということです。どのようにしたのか。それを何かの流れのようなものにしてしか伝えないと決めたのです。そうと決めたとしか思えない。つまりレヴィ=ストロース(317夜)のようにはしなかったとしか、言いようがないのです。できるだけ文明批評にしないように努めたとしか、言えないのです。
これは、批評家や知識人からすると、少々はがゆいことですね。こんなふうにフォースターがしたのは、まわりまわってはイギリス人気質のせいなのか、それともゲイ感覚のダンディズムというものなのか、そこはわかりません。むろん、何も言わないようにしたわけではなくて、ときどきはフォースターもこのことを吐露させていました。たとえば『ハワーズ・エンド』では、わざわざドイツ人の強国意識をゆっくりと締め上げている場面もつくってはいるのです。
でも、ほとんどは流れです。それも、できるかぎりありのままにしておきましたというような、そういう流れです。そこにフォースターならではの「未知の教養」が生まれていったんです。
ということで、話はようやっと本題に入ることになるのですが、そして、そこからすぐ出てくることになるのですが(笑)、以上の、仮に名付けたような「シンボリック・ストーリー」「プロポーション」「マナー」「リベラル・アーツ」といったものの組み合わせを、ついについに全面展開させたのが、『インドへの道』だったのです。
フォースターが最初のインド旅行をしたのは1912年です。当時のインドはヴィクトリア朝イギリスの植民地です。ヴィクトリア女王がインド皇帝になったのが1877年ですから、イギリスのインド支配はこのときすでに30年以上たっていました。
むろんガンジー(266夜)が立ち上がるのは、まだまだ先のことです。ですからインドに栄えていたのはコロニアル・カルチャー(植民地文化)ばかりなのですが、それでもそこにはヨーロッパにない有象無象のものが悠然とのたうっていたと、フォースターには感じられたのです。
いや、以前から感じていた「向こう側」が動きだしたのですよ。それで、すぐにでも何かを書きたかったフォースターではあったでしょうけれど、なんだか躊躇するものもあったのです。そのうちヨーロッパは世界大戦に突入します。すべての西洋知識人を困惑させたこの戦争が、何を痛切にもたらしたかはもはや言うまでもないでしょう。トーマス・マン(316夜)もD・H・ロレンス(855夜)もオズワルド・シュペングラー(1024夜)も、心ある者ならひとしく「西洋の没落」を感じたわけでした。
|
戦時中のアレクサンドリアで
カーキ色の制服を着たフォースター
|
|
かくしてフォースターは2度目のインド旅行に行きます。1922年のことでした。それから2年、足掛けではたっぷり10年をかけて『インドへの道』が出来上がるのです。まことに入念な仕上がりです。たちまちまずはアメリカで大評判になったのですが、フォースターは「それは、アメリカ人がイギリスの失敗を知って勝手な優越感をもったにすぎない」と唾棄します。
アメリカ人によろこんでもらっても困るというんですね。むろんヨーロッパの良識派たちは眉をしかめました。いったい『インドへの道』は何を書いたのでしょうか。これを説明するのは、でもとても難しい。
|
インド滞在時のフォースター
|
|
物語の梗概なら、こうなっています。なるべくぶっきらぼうに説明することにしておきますが、舞台はチャンドラポアという架空の町です。イギリス人の官僚たちが支配している小さな町です。そこへ若きアデラ・クウェステッドが、年老いたムア夫人に付き添われてやってきます。
ムア夫人は、アデラを息子のロニーのフィアンセにしたいと思っています。ロニーはすでにイギリス人居留地に住んでいた青年判事で、実は日々の仕事にも生活にも退屈しきっていた。しかし夫人とアデラのほうは、たちまちインドの未知の魅力に惹きこまれ、もっとインドを知りたい、もっともっとインドを知りたいという気持ちになっていきます。
これはロニーにとっては迷惑なことです。すでにインドのひどいところも知っていましたからね。それでも、まあ、象にでも乗せてやれば、この二人の女たちはすぐに飽きてくるだろうとタカをくくっていた。けれどもムア夫人のほうは、そんなことにはいっこうにめげる様子もなく、周囲から「やめておきなさい」「危険です」と言われていたイスラム寺院にも足を踏み入れ、そこでイスラム教徒の青年医師アジズと知り合いになってしまいます。
アジズは、土地のイギリス人たちの高慢と偏見が大嫌いな青年です。イギリス嫌いなのですが、ムア夫人にだけは格別な優しさを感じます。これはまあ、ありうることでしょう。それで二人は温かい心情をもちはじめ、ついついその輪にアデラも加わります。
やがてアジズはこの二人のイギリス女性を、さらにインドに近づけたいと思うようになっていきました。こちらは「深いインド」のほうですね。そこでマラバール洞窟への旅行を計画します。どういう洞窟かは、ここでは言わないことにします。一行には、チャンドラポア大学のフィールディング教授とヒンドゥ教徒のゴドボレ教授も加わる予定でした。そのあたりの人間関係も、ここでは省きます。ともかくそういう予定だったのですが、二人の教授は汽車に乗り遅れるんですね。そこでやむなく従者たちを連れての洞窟観光が始まることになった。
|
「マラバール洞窟」のモデルとなった、
インドのバラバール洞窟の入り口 |
|
さて、洞窟に入ってみると、そこは狭くて深い異様な空間でした。さすがのムア夫人もそうとう変な気分になってしまいます。だって、そこは「深いインド」あるいは「本物のインド」なのです。ムア夫人は失神しそうな自分を抑えるのがやっとこさっとこだったので、みんなに迷惑をかけないようにと、洞窟を出てしまいます。
洞窟の先には、アジズとアデラと従者たちだけが入っていくことになりました。でもアデラも、この「深いインド」にそれ以上の関心をもてません。それよりアデラはロニーとの婚約にいろいろ疑問をもっていたので、ついついアジズに「本当の愛」というものはもっと別なものだというような話をしていくのです。ところが、理由はよくわからないのですが、これにアジズが傷ついた。だって、ヨーロッパ人ってそんなことを洞窟でも話すんですからね。
そこに、アデラが持参してきた双眼鏡の紐を誰かが引っ張って切ってしまったというちょっとした出来事がおこります。これもまあ、ありうることでしょう。たいしたことじゃないのです。従者たちのせいだったかもしれなかったのですが、アデラはアジズが自分に襲いかかろうとしたのだと思ってしまうんです。そこで諍いがおこり、それがなかなか収まらず、アデラは泣きながら洞窟を出てしまいます。そして、アジズは自分にこんなことをしたと、周囲に言いふらしてしまう。
一行がチャンドラポアの町に戻ってくると、イギリス居留民たちは次々にアジズを罵りました。そして結局、アジズは告訴されることになるのです。イギリス人たちはこの処置に沸き立ちます。裁判が近づくと、アジズの有罪はどうやら確定的になりそうです。しかし、ムア夫人とフィールディングの二人は、こんな暴行未遂事件などありえないと確信していたようです。これはきっとアデラの幻覚なんだと判断していたのです。
けれども、あまりにアジズの無罪をみんなに主張したフィールディングは、イギリス人のコミュニティから爪弾きになっていきます。また、ムア夫人のほうはロニーの面子や自己保身もあって、ついに本国に帰らされることになってしまいます。が、途中の船中で帰らぬ人となるのです。
こうしてアジズの裁判が大詰めにさしかかっていくのですが、周囲はアジズを非難する興奮に包まれていく。かくして物語もラストにかかる。そしてそのさなか、アデラの幻覚がぷつりと消えたのです。やはりすべては幻覚だったらしい。アデラは我に返って、告訴をとりさげます‥‥。
プロットを縮めてしまえば、こんな物語です。ぶっきらぼうにしたせいもあって、ずいぶん単純な話だと思ったでしょうが、けれども、これが読んでいくと深いのですね。深いだけでなく、洞窟のように懐が広い。つまりは、まさにプロポーションがゆっくりと裂けていくのが見えてくるのです。
実は『インドへの道』の「道」は、英語のロードではなくて、パセージ(パッサージュ)です。読んでいくと、そのパセージが、深々と伝わってきます。まさにベンヤミン(908夜)。植民地にのさばっている者と原郷に生きつづける者との対比や対立は、薄っぺらとはいえないまでも、そんなことをはるかに圧倒するパセージ(パッサージュ)が、そこに見えてくるのです。
そうすると突如として、この小説は第1部「回教寺院」、第2部「洞窟」、第3部「神殿」というふうになっているのですが、この物語はなんだかとんでもなく重大なゲニウス・ロキを三つに分けていたということも伝わってくるのです。そういうふうにフォースターが10年をかけてしたということの重みが感じられてくるのです。ゲニウス・ロキというのは土地がもっている「マナスの力」のことです。
それは、イスラムとヒンドゥを異様な洞窟がつないでいるとも、死にゆくムア夫人と生き抜くアジズをフィルディングの孤立がつないでいるとも、フォースターの幼年と晩年をこの作品そのものがつないでいるともいえるような、そういう多重のパセージです。それが伝わってくるのですね。
実は『インドへの道』はデヴィッド・リーンが映画化をしています。あの『アラビアのロレンス』の監督です。ぼくは2度見ましたが、名状しがたい直感が深まったと思っています。ところが、名状しがたいと、いま書いたように、小説のほうもそうなのですが、これを言いあらわすのがなかなかなのですよね。
そこをあえて突っ込めば、そうですねえ、プロポーションに僅かな亀裂が走っていくと、向こうのほうに象徴の回遊が見えてきて、そこから「未知の教養」ともいうべきリベラル・アーツが、フォースターが一番ほしかったマナスをもってやってくるというふうに、なるでしょうか。
でも、そんなふうに説明してみると、やっぱり気分がのりきらない。むしろ、この物語は日本の少女マンガ家こそが、独得の流れと余白をもって描いたほうがいい、そんなことを言いたくなります。ま、そういうことにしておきましょう。だって、エドワード・モーガン・フォースターとは、そういう作品を用意周到にのこした“一人ぽっち”の男だったのだとしか、言いようがありませんからね。
|
晩年のフォースター
|
|
附記¶フォースターの作品はかなり日本語で読めるようになっています。『E・M・フォースター著作集』(みすず書房)が全12巻・別巻という構成を組んでくれているのが、やはり大きくて、そこに『ロンゲスト・ジャーニー』『ハワーズ・エンド』から、これもちょっと有名な評論『小説の諸相』まで入っています。別巻はフランシス・キングの『フォースター評伝』です。ここにはいろいろアルバムも入っています。やっぱりゲイっぽいですよ。
『モーリス』(扶桑社)は片岡しのぶさんの訳で、単行本で読めます。それから『ハワーズ・エンド』(集英社)は上にも書いた吉田健一訳が単行本になりました。池澤夏樹がかんたんな解説を書いていますね。そのほか研究所や評伝もいくつかあって、ぼくがもっているのは小野寺健の『E・M・フォースターの姿勢』(みすず書房)、ライオネル・トリリングの『E・M・フォースター』(みすず書房)、阿部義雄の『E・M・フォースター研究』(成美堂)くらいですが、近藤いね子編『フォースター』(研究社)、長崎勇一『E・M・フォースター』(英潮社)、岡村直美『フォースターの小説』(八潮出版社)などもあるようです。 まあ、読んでみてください。最後に付け加えておけば、このフォースターのちょっと前に、ジョーゼフ・コンラッドの『闇の奥』(1070夜)が書かれているんですよ。
|
|