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田母神 俊雄 平成16年3月

航空自衛隊を元気にする10の提言

〜パートU〜


目    次
  はじめに 6 止(や)めない勇気と始める勇気
1 頼まれたら頑張れ 7 身内の恥は隠すもの
2 法令改正を年度要求する 8 戦場は2つある
3 上司が部下を補佐する 9 脱「茶坊主」宣言
4 お手並み拝見致します 10 国家感観、歴史観の確立
5 日本一を目指せ   おわりに

 はじめに
 もう20年以上も前のことになろうか、我が国において総合安全保障なる言葉がもてはやされたことがあった。エネルギー安全保障とか食糧安全保障とか、いろいろな安全保障について議論され、安全保障の中核に軍事力を据えるのはもはや時代遅れだと声高に叫ぶ人たちがいた。そしてこのことは我が国の非武装中立を支持する人たちから、故意に軍事力の役割を低下させようとする意図で盛んに利用された。しかしながら冷戦後の状況を見ても分かるとおり、国際社会の安定のためには相変わらず軍事力が絶対的な役割を果たしている。もし米軍を中心とする先進諸国の軍事力がなければ、国際社会は第2次大戦前の弱肉強食の世界に戻ってしまうであろう。

 現在のように富める国が貧しい国を支援するようになったのは第2次大戦後のことである。第2次大戦までの世界は端的に言って、強い国が弱い国を虐め回った世界であった。いまアメリカ合衆国は抑制のきいた世界のリーダーとして立派な国である。日本の若い人たちの中には、日本はアメリカみたいないい国とどうして戦争をしたのだろうと思っている人も多い。日本人は今も昔もアメリカ大好きである。しかしこのアメリカでさえも第2次大戦までは人種差別の急先鋒であった。我が国は19世紀後半以降、執拗な米国の虐めに苦しめられたのである。これは米国に限らず、英、仏、露、蘭などの強国は世界中に植民地政策を押し進め、アジア、アフリカ諸国などはその犠牲になった。世界地図でみるとアフリカ諸国の国境だけが直線になっているが、これは英、仏などが適当に線引きした結果である。アジアでは我が国とタイだけがこれら列強の支配を受けずにいたが、不幸にも我が国は第2次大戦の結果、一時期米国の支配を受けることになった。米国は我が国が再び強国として米国に刃向かうことがないように徹底的に日本を精神的に破壊しようとした。いわゆるウオーギルトインフォメーションプログラムである。これは折からの国際共産主義運動と相まって大成功を収め、今なお我が国には多くの反日的日本人が存在し、米ソの冷戦構造が崩壊したにも拘わらず、国内的な冷戦状態が続いている。

 第2次大戦が終わって国際連合が設立された。そして1948年には国連において「世界人権宣言」が採択された。これは、もう弱い者虐めは止めましょう、人種差別は止めましょうという先進国間の協定であると考えられる。それ以来世界は変わった。建前上、強い国が弱い国を虐めることができなくなったのである。むしろ強い国あるいは富める国が弱い国ないしは貧しい国を支援することになった。我が国も、いわゆるODAなど巨額の経費を発展途上国に対し支援している。

 このように世界が変わったことから、先進国の軍事力は国際社会の安定のために必要になった。決して他国を侵略するために使われることはない。世界には今、大人の判断力を持った先進諸国と自分のことだけで精一杯の発展途上国がある。これら発展途上国の中にはいわゆる悪ガキみたいな国がたくさんある。今、国際社会では、大人が悪ガキよりも強い腕力(すなわち軍事力)を保有している。国際社会の安定のためにはこれは不可欠の用件である。もし大人の腕力が、悪ガキの腕力よりも弱かったならば国際社会は無茶苦茶になってしまう。先進国の軍事力は、帝国主義時代の侵略する軍事力ではなくて、国際社会の警察力と認識すべきなのだ。

 これを理解しないのが戦後の我が国の知識人といわれる人たちである。彼らの国際社会を見る眼鏡は殆ど歪んでいると言わざるを得ない。先進国の軍事力が今なお弱い者虐めをすると信じているのだ。時代錯誤も甚だしい。彼らは学校やマスコミ界を中心に、あらゆるところに棲息し、純真無垢の青少年の目を曇らせてきた。それら青少年はやがて成長し、今では我が国の各方面において重要な役割を果たすようになったが、一部の人たちの目は今なお曇ったままである。その結果、我が国には今なお軍事アレルギーがはびこ蔓延っている。我が国は、軍事あるいは自衛隊のことに関し、他の先進諸国と同じような考えをもつことができない。あるいは同じような行動をすることができない。一部の人たちは、国民の財産である自衛隊を有効に使うことよりは、自衛隊の手足を縛ることばかり考える。自衛隊が悪さをしなければ世界は平和であると信じているのだ。だから北朝鮮のようなテロ国家に対してでさえ自衛隊に対するよりも親近感を覚えたりする。ここまで目が曇ってしまうともはや治療法がない。

 しかしながら先の国会において有事関連法案が成立し、また自衛隊の海外における活動も逐次増加の方向にあることを考えれば、今後我が国も次第に変わっていくだろう。21世紀の100年間を見れば、我が国も普通の先進国として、軍事力の活用を含め、国際的な責務を果たすことになると思う。21世紀においても自衛隊は我が国安全保障の根幹である。自衛隊がなければ我が国の安全保障は成り立たない。外交交渉だって軍事力の裏付けがなければ、ぎりぎりのところで相手を動かすことができない。軍というのは国家の最後の拠り所である。従って自衛隊はいつでも元気でなければならない。たとい国民が自信を失って悲嘆にくれているときでも、自衛隊は心身共に元気であることを求められている。自衛隊が元気であってこそ有事即応の態勢を維持し、国民の負託に応えることができるのだ。

 そこで昨年の鵬友7月号に「航空自衛隊を元気にする10の提言」として小論文を寄稿させてもらった。予想以上の反響があり、全国の空自の先輩、同期生、後輩の皆さんから電話や手紙を頂いた。またこれを読まれた一部防衛産業の皆さんからもコメントを頂戴した。そのほとんどが私の論文を肯定的に捉え、激励していただくような内容であった。特に後輩の皆さんから大いに参考になったとか元気が出たとかいう言葉を聞いて大変嬉しく思った。私としては常日頃の職場の会議などで話してきたことをまとめたつもりであったが、作者として大変な満足感を味わうこととなった。改めて文章の力の大きさを感じた次第である。更に後になって陸上自衛隊、海上自衛隊の上級指揮官等からも部下等に配布したいという話があり、喜んで配布させて頂くことにした。

 その後一部の皆さんから続編を書かないのかという話があり、この度鵬友編集室からも改めて依頼されたので、常に「頼まれたら頑張れ」ということを部下に指導してきた手前、受けざるを得なくなった。そこで今回もう一度頑張ってみようかと思った次第である。

 さて日本には建前と本音という言葉があり、人は立場上、本音の部分は公にできない場合も多く、そのためにストレスがたまることも多い。その点、前作で努めて本音の部分に迫ろうと努力したことが評価して頂いたのではないかと思う。そこで今回もできるだけ本音に迫ろうとするスタンスを維持したいと考えている。例によって、本論文に述べる内容は私の私見である。私の提言の中には同意できない提言があるかもしれない。読者の皆さんは前回同様、大いなる批判精神を持って読んで欲しいと思う。これから部隊長等に配置される皆さんや若い幹部諸君の何らかの参考になれば幸いである。


1 頼まれたら頑張れ
 景気が長期に渡り低迷し、我が国の中小企業も生き残りを懸けていろんな分野に進出することとなった。従来防衛調達に関係していなかった会社も多数自衛隊にモノを売りに来るようになった。また旧調達実施本部における調達不祥事により、防衛調達改革が実施され、防衛装備品調達における競争入札が強化された。空幕、補給本部などの実施する防衛関連調達が、従来からこれに参加していた会社だけではなく、多くの会社に拡大されることとなった。更に防衛予算は年々縮減の傾向にあり、これに輪をかけてインターオペラビリティーの観点から米国製装備品等の調達額が増加している。このようなことから従来から自衛隊に物品等を納入している国内企業からみれば、当然自衛隊に対する売り上げが減るので、自衛隊に対しいろいろと相談にくる。「何とか当社の製品を買ってもらえないか」というようなお願いをされることも多い。しかしながら一般競争入札である限りお願いをされても自衛隊としてもどうしようもない。会社側に出来るだけ安価で良質のモノを提供してもらうことを期待するだけである。

 空幕で防衛力整備に携わっていると頼まれごとが多い。もちろん頼まれても出来ないことはどうしようもない。しかし出来ないことが反復されると、出来ることまでやらなくなってしまうことも多い。近年のように諸制約が多くなり、担当者の裁量の幅が狭くなってくるとその傾向は一層強くなる。人は自分の裁量の幅が小さくなればなるほど精神的に沈滞してしまう傾向がある。意欲があれば出来ることさえ放置してしまう。自衛隊の戦力発揮を支える防衛産業を護る意欲さえ失われてくる。自衛隊以外には市場がない航空機、艦船、ミサイル及びその部品などの製造会社は、自衛隊がこれを支えなければやがて会社は傾き、結果として自衛隊の行動が出来なくなるのだ。我が国は、諸外国が保有する軍の工廠を保有せず、工廠の役割を民間企業に依存している。これらの会社からの依頼事項については、防衛産業・技術基盤の維持の観点から、担当者は頑張らなければならない。

 空幕の装備部長をしているときに「最近は頼まれてもどうしようもない。何も出来ない」というようなことを聞くことがあった。それに対し私は、「頼まれたら頑張れ」と指導していた。確かに10個頼まれてそれを全部受けることは不可能なことが多い。しかし1つでも2つでも頑張ってあげるという姿勢が必要だ。頼みにくるということは相当困っていると認識すべきである。そのときに助けてあげなければ、やがて誰も頼みに来なくなる。あの人の所へ行ってもどうせだめだから行ってもしょうがないということになる。結果として自分の力を失っていくことになる。

 これは防衛力整備に限らず、部隊等における隊務運営においても同じことが言えると思う。人は仕事をすることによって力をつける。ステータスも向上する。頼まれたことを面倒がって断り続ける人と、多少面倒でも快く承諾し頑張る人とでは長い間には、その力量に大きな差が生まれる。彼に頼めば何とかしてくれる、彼が出来なければ誰も出来ないというような信頼を得たとき、その人は一回りも二回りも大きくなっている。これまでの部隊勤務の経験で幹部や准尉、空曹に限らず周囲の人たちから絶対的な信頼を得ている人たちがいた。そういう人が増えれば自衛隊はより強くなる。彼らは周囲からの依頼に対しては例外なく困難なことにチャレンジしていたような気がする。困難なことを簡単に出来ないと言ってはいけない。ほんとに出来ないかどうかよくよく考えることが大切である。

 しかしみんなから一斉に頼まれたらどうしようもないではないかという人がいる。そのときは2度3度と頼みにくる人を優先してあげてはどうか。現実にはみんなが一斉に頼みに来ることなどあり得ない。そこはやるかやらないかを含めて自ら判断する必要がある。それはいわゆる不公平とかいうものではない。不公平だから何もしないというのは、多くの場合何もしないことの言い訳であるように思う。面倒くさがったり自分の行動に対する批判や摩擦を恐れたりしているのだ。確かに面倒であるし、自分が判断して行動すれば必ず何らかの批判や摩擦を生ずる。それを覚悟の上で頑張らなければ仕事をすることはできない。頼まれて何もしないことだってどうせ批判を受ける。同じ批判を受けるなら仕事をして批判を受ける方がましではないか。仕事をしなければ力も付かないし、周囲の信頼を得ることもできない。

 あの人は頼りになると言われるようになろう。自衛官はみんなから頼りになると言われる存在でなければならない。だから頼まれたら頑張ってみよう。


2 法令改正を年度要求する
 空幕でも部隊でもルーティンの仕事は法令を始め各種規則類によってやり方が決まっている場合が多い。そして長い間それらに基づいて仕事をしていると、次第に疑問を感じなくなってくる。それどころか決まっていないことを新たに実施することが面倒に思えてくることも多い。どうしてやり方が変えられないのかと尋ねると規則でそうなっていますという答えが返って来たりする。しかし所詮規則は目的や目標を効果的、効率的に達成するための手段なのだ。時代が変わり、状況が変われば規則を見直すことが必要である。法令や規則絶対主義に陥ってはいけない。

 空幕では毎年内部部局を通じて財務省に対し予算要求が実施される。航空自衛隊の装備品の取得や改善の要求、部隊等の編成上の要求及び自衛官の処遇に関する要求に分けて実施されるが、法令改正の要求は陸海空自衛隊とも編制や処遇の要求に関わるもの以外は実施していない。しかしインド洋やイラクなどに自衛隊が派遣されるようになると、自衛隊が最も効果的に行動できるように普段から自衛隊の行動に関わる法制について、自衛隊が自ら考えておくことが必要であると思う。前国会において有事関連3法案が成立したが、今後とも国家のためによりよい法律を策定すべく研究を継続することが必要である。

 我が国は、これまで自衛隊の海外派遣については個別の事案ごとに法律を作り対処してきたところであるが、今、自衛隊の海外派遣のための包括法を作る動きがある。自衛隊も今後要求される海外或いは国内における行動を予測して、年度の業務計画の一環として定例的に法律改正要求を実施していくことが必要ではないかと思う。それをやらないとこの動きの速い世界の中では、自衛隊が国家のために適時適切に行動することが困難になる。またそれをやることによって自衛官も我が国の有事関連法制等の要改善事項等を把握することが出来る。

 因みに我が国以外の先進国では、軍は国際法に基づいて行動することになっており、軍が各種行動をするための国内法上の根拠を必要としない。諸外国においては、我が国が自衛隊法で規定している海上警備行動や対領空侵犯措置などは軍としての当然の行動とされ、特別に行動のための法律は存在しない。有事法制関連で自衛隊の任務ではないとされている領域警備の話なども、諸外国の軍では当然の任務とされていることも知っておく必要があろう。これに対し我が国では自衛隊が警察予備隊として発足した経緯があり、自衛隊が何か行動をする際に国内法上根拠規定を必要とするというふうに考えられている。昨年イラクで日本人外交官2名が殺害され、日本大使館の警備に自衛隊を使うという話が出たときに、自衛隊法を改正しなければそれはできないということになった。しかしわが国以外の国では、このような場合直ちに軍を使うことができる。

 国際的には軍の行動に関わる法制については禁止規定とすることが一般的であり、軍に対しては予め禁止事項が示される。外敵の侵入に際し国内法、国際法によって禁止されていない事項は全てやって良いということになっている。この点で自衛隊が実戦に臨んで、いちいち何を根拠にそれが出来るのかと考えるようでは、適時迅速な行動が出来るはずがない。戦いにおいて自ら手足を縛っては、両手両足を自由に使える相手に勝つことは出来ない。国家の防衛に責任を有する者としては、これを重大な問題として認識しておくことが必要であるし、また国民にもその現実を知ってもらう努力が必要であると思う。恐らく多くの国民は自衛隊も諸外国の軍と同じように国際法に基づいて行動できると思っている。しかし現実はそうなっていない。

 さらに有事でなくとも平時においても不具合と考えられる規則等がある。火薬類取締法、電波法、武器輸出許可手続き等は、もともと民間の会社や個人を対象に定められたものと思うが、今では自衛隊にも殆んど同じように適用されている。対領空侵犯措置や災害派遣などに際し、自衛隊の即応態勢を維持する上での障害になっている。またPKOやイラク派遣の際にも自衛隊はこれらの手続きと承認受けを要求される。自衛隊が行動するに際し経済産業省や総務省の許認可を必要とするなどという国が世界のどこにあるのだろうか。軍は悪いことをする、暴走する、だからこれを監視する必要があるという東京裁判史観がここにも息づいているような気がする。もっと自衛隊を信用して任せてもらってもいいのではないか。

 法令関連の要求を年度要求とすることにより自衛官が法制上の問題点を改善しようとする意識が生まれる。いま現在は、自衛官は決められた枠の中で精一杯任務を遂行することだけを考えている場合が多い。もちろんそれは大事なことであるが、よりよく任務を遂行するためには法令の改正も視野に入れて努力することが大事である。現行法制上の問題点を国民に理解してもらうためにも、それが大切ではないかと思っている。


3 上司が部下を補佐する
 部隊等の勤務においては、通常は部下が上司を補佐する。しかしながら大きな事故があったりあるいは部隊等が何らかのトラブルに巻き込まれたような場合は、これが逆になるということを理解しなければならない。上司が部下を補佐するのだ。上司が部下を支えるのだ。

 例えば航空事故によってパイロットが死亡するとか、ミサイル事故によって整備作業中の隊員が死亡するとかの事故があった場合、マスコミでも大きく取り上げられる。このとき一番大変なのは誰なのだろうか。もちろん肉親を亡くした御遺族は最も大変であるが、自衛隊にあっては現場の近くにいる人ほどいろいろと大変である。状況の違いもあり一概に言えない場合もあろうが、通常は団司令よりは群司令、群司令よりは隊長が大変だと考えておいた方が良い。従って団司令は群司令が各種処置をし易いように、群司令は隊長が動きやすいように配慮してあげることが必要である。当然方面隊司令部の幕僚は、方面隊直轄部隊長である団司令を支えるという心構えが必要である。隷下部隊の状況を把握し方面隊司令官に報告するだけが仕事だと思ってはいけない。

 空幕でもメジャーコマンド司令部でも、各幕僚はそれぞれ空幕長やメジャーコマンド司令官になったつもりで仕事をしなければならない。もし自分が空幕長や司令官であったならこの状況でどうすべきなのか、自ら判断し決心する覚悟が必要である。どんな場合にも部隊等を強くすることが各幕僚の仕事と心得るべきである。事故発生等により部隊等が混乱に陥っている場合には部隊等の戦力が極力ダウンしないように、隷下部隊を護ることを考えなければならない。上司に報告するための自分の仕事のやり易さのみを考えるようでは幕僚としては失格である。

 練成訓練計画や業務計画に従って部隊等が訓練や恒常業務を実施している間においては、各級指揮官は上級司令部や上級指揮官の支援を必要としない。支援を必要とするのは何か突発事態が生起し、迅速な対応が必要になったときである。事故等があった場合に上級司令部や上級指揮官は当該指揮官にとって頼りになる存在でなければならない。一部の対応のまずさに怒ったり怒鳴ったりすることは極力避ける必要がある。そうでなくとも当該指揮官はあれやこれやと処置事項が多くて混乱している場合が多い。上司の意向は気になるし、上司の支援を必要としているのに上司によって一層混乱するようでは困るのだ。事故処理で「一番大変なのは上司対応です」と言われるような上司になってはいけない。事故等の処理に際し上司が冷静であってくれると部下指揮官は落ち着いて各種対応ができる。もちろん部下指揮官はこれに甘えてはいけない。上級司令部や空幕においてマスコミ等への対応が必要な場合もある。そこで状況によっては上級部隊等への報告専門係をおいてできるだけリアルタイムで状況が報告されるよう処置する配慮が必要である。

 さて事故処理に際し各級指揮官は、何故こんな事故が起きたのかとか、あの時こうしておけば良かったとか考えてはいけない。それは後ろ向きの発想である。事故はすでに起きてしまって、過去のことはもう戻ってこない。我々が出来るのは、今からどうするのかということだけである。眼前の受け入れたくはない現実を受け入れて今から実施すべき事項を早急に列挙することだ。そしてそれを冷静に着実に実行するのだ。これが前向きということだ。

 事故を起こした上に部隊の士気が低下するようでは、部隊にとっては二重のマイナスとなる。事故は起きてしまったのだから、被害は事故だけに限定し、士気の低下はさせないようにしよう。指揮官としては被害の局限に努めなければならない。当初は何をしていいのか分からない、その混乱状態が指揮官を悩ませる。しかし行動方針が決まり指揮官の的確な指示があれば部隊は力強く動き出す。行動方針が決まらず、指揮官やこれを取り巻く幕僚が「大変だ、大変だ」と騒ぎ立てることが部隊を混乱させる。部隊の頭脳が混乱していては部隊は右往左往するばかりである。当初の何をしていいか分からないという時にも指揮官は無理にでも泰然自若としていなければならない。部下指揮官等の行動を助けることが任務だと思えば少しは心も平静になれる。事故があると部隊の士気が低下すると言われるが、事故に伴う各級指揮官の対応の拙さがその3倍も5倍も部隊の士気を低下させる。事故そのものではなく上司が混乱し、あれこれ言うことによってより一層士気が低下することがあるのだ。部下指揮官の立場に立てば「アンタがギャーギャー言うから士気が低下する」と言いたくなる場合もある。

 思うに指揮官に3種類あるのではないか。@何かをやって部隊を強くする指揮官、A何もやらない指揮官、B何かをやって部隊を弱くする指揮官である。私たちは常に@の指揮官を目指すことが必要であるが、最小限人畜無害のAの指揮官ではいたいものだ。この場合部下がしっかりすれば何とかなる。しかしBの指揮官になってしまうと部隊にとって害毒を垂れ流しされているようなものだ。むし寧ろいない方が良いということになる。Bの指揮官は頭の中が混乱しているのだ。これを病名「大変だ症候群」ともいう。大変だ症候群を患うととても部下を支えてやることはできなくなる。

 指揮官の混乱はその事態を上手く処理しきれないのではないかという不安が原因である。しかし上手くやるということはあきらめた方が良い。緊急事態であるから多少の抜けはあってもしょうがない。格好良くは出来ないと腹をくくった方が冷静になれる。基本教練や飛行展示のように整斉とは出来ない。このような際の業務処理は、荒馬に乗ってでこぼこの荒野を駆け抜けるが如しである。さっそう颯爽と馬を乗りこなすのではなく、如何にも下手くそ、落ちるかな落ちるかなと思われながらも、馬の腹にしがみついて、どう見ても格好は悪いが、どうやら落ちずに駆け抜けてしまったという感じである。落ちなければいいのだ。そう思えば冷静になれる。指揮官の心は直ちに部下の心に投影される。指揮官が冷静でないと部下は混乱し力強い部隊行動が出来ない。


4 お手並み拝見致します
 近年IT化の進展等によりマスコミ等の情報伝達が極めて迅速になっている。自衛隊の地方の一部隊において起きた事故等があっという間に全国に報道される。その結果中央において記者会見等が行われ、航空幕僚長や関係部長等がこれに対応することになる。自衛隊の事故防止対策はどうなっているのか、自衛隊はどのような隊員指導をしているのかとか、今後の対策はどうかとかいろいろな質問が実施される。幕僚長や幕の部長等がこれに回答すれば幕の関係幕僚が動き出す。これに伴ってメジャーコマンド司令部が動き出す。更には団司令や群司令や隊長が動き出すということになる。空幕、メジャーコマンド司令部或いは方面隊司令部等において監察団が編成され、特定監察が行われることもある。

 このような上級部隊等の動きは、隊員の心の引き締めや事故防止意識の高揚のためには非常に効果があるが、一方では大きなマイナス面があることも理解しておく必要がある。それは現場の隊員がどうせ対策は上がやるので指示を待とうという姿勢になりがちであるということである。事故の度に上級部隊等の指導が入ると、現場としては上級司令部等のお手並みを拝見致しますということになってしまう。私は上級司令部等が動くときは本当にそれが必要なのか、現地部隊等に任せることは出来ないのかということを自問自答してみるべきだと思う。中央にいる人が、確かに仕事をしているという自分のやり甲斐を求めるだけで、部隊の精強化が二の次になっているようではいけない。もちろん空自を挙げての対策が必要な場合があることを否定するものではないが、上級司令部等が動くことが何時でも事故防止効果が最大であるというものでもない。部隊の精強化を考えると、このような対策や処置は出来る限り低いレベルで実施した方がよいと私は思っている。現場の部隊が自ら問題点を究明し、自ら対策を取るような方向で処理されることが重要である。上級司令部等が動きすぎると指示待ちの部隊や隊員を造り上げてしまうので注意することが必要である。

 例えば隊員の服務に関する事故の場合、彼がそういう行動をしているのを何故周囲の人たちが知らなかったのかとか、心情把握が不十分だったのではないかとか質問がある。しかし行動や心情を把握しようとする場合、部隊でいえば内務班長、先任空曹、レベルを上げても小隊長クラスがその気にならなければそれは極めて困難である。群司令や隊長が大勢の隊員の全てについて心情や行動を把握できるはずがない。私は若い頃にペトリオットの前身であるナイキの運用幹部として高射隊で勤務していたが、小隊長としての仕事の大半が隊員指導であった。隊員の服務事故が多くて困っていたある時、服務関連の事故を起こした隊員の処分等に関しその処置を内務班長であるI3曹に任せてみた。それまでは小隊長が直接処分等を検討することが多かったが、I3曹は私が期待した以上の処置を見事にやってくれた。このときの経験以来私は内務班のいろんなルールを先任空曹の指導の元に内務班長会議に任せることにした。それまで小隊長が決めていたことを内務班長に決めさせるようにしたのだ。結果は驚くべきものだった。服務事故はぴったりと止まってしまった。私は内務班長たちがそれまでは小隊長から管理されているという意識で、小隊長のお手並み拝見という状態に置かれていたのではないかと思う。それが今度は自分たちの責任で事故防止等に頑張ることが必要になったのだ。人は管理されるより管理する側に立つと意識が変わる、心構えが変わる。自らは事故を起こせないという気持ちになる。思い切って部下たちに任せてみることだ。それは決して部下への迎合とか甘やかしとかいうものではないのである。

 近年若手幹部自衛官や上級空曹等の事故が増加しつつあるが、上級司令部等が部隊等の服務事故等の防止に熱心になるあまり、彼らを管理する側から管理される側にしてしまっていることはないのだろうか。自衛隊全体としては出来る限り管理する側の人間を増やし管理される側の人を減らすことだ。事故防止の責任を小隊長や班長、SHOP長、先任空曹、内務班長等に預けてしまうことだ。そうすれば管理される側の人は極めて限定された数になる。私は時々自衛隊は管理が行き過ぎていると感じることがある。すなわち管理される側の人が多過ぎるということである。各級指揮官は事故等の処理に際し、緊急に処置を要するものは別にして、可能な限り「こうせよ」と指示をせずに「どうするのか」と尋ねた方がよいと思う。そして彼らの持ってきた案が余程おかしくなければそれを支持してやることだ。指揮官は我慢が必要である。その我慢が部隊を強くする。全てのことに全力投球とか言って何にでも100%を求めることは決して部隊を強くしない。指揮官がいつでも何でも部下に完璧を求めて指導を始めると、部下から上司に対する仕事の丸投げが始まる。それは貴乃花もびっくりするほどの立派な丸投げだ。「あの文書、どうせ部長がまた細かく直すから適当に書いて早く持って行け」などという話はよくあることだ。部下たちは自ら判断し自らの責任で仕事を進める習慣を失っていく。千変万化する有事の状況下において必要とされる実戦的体質が失われていくのだ。指揮官は満足感を味わいながら部隊は緩やかに弱体化していく。

 指揮官は、部下が積極溌剌として隊務に取り組むことができるように、自分の満足度は80%ぐらいで抑えておく必要がある。それが長期的にみると部隊を強くするのだ。経験上80%を超える部分は通常指揮官の好みに左右されることが多い。指揮の本質は意志の強制であると言われる。しかしこれを完璧に追求することがいつでも正しいとは限らない。何事もほどほどがよい。


5 日本一を目指せ
 第2次大戦後の40数年間の冷戦において、最終的に米国を中心とする西側陣営がソ連を中心とする東側陣営を圧倒し、ソ連の崩壊という結果になった。経済的側面では自由競争を原則とする西側が、統制経済を柱とする東側に勝ったということだ。何故ソ連が成功しなかったのかと言えば、努力してもしなくても結果が同じ競争のない社会では、努力する人がいなかったからといえるだろう。我が国ではJRやNTTが旧国鉄、旧電電公社から民間の会社になってどれほどサービスが良くなったかは国民が肌で感じている。JRもNTTも民間会社との競争にさらされることになったからである。

 さて自衛隊も国内において何をやっていようが潰れることはない。だから油断していると部隊がどんどん弱体化してしまうことがあるのだ。気が付いたら国民の期待に応えることができなかったでは自衛隊の存在価値がない。国民に対し申し訳がない。そこで我々も競争する対象が必要である。幸いにも自衛隊の場合は同じ形の部隊が複数存在し、戦技競技会などが定期的に実施されるので個人の戦技に関しては競争状態に置かれている。しかしながら指揮官としての指揮統率能力や作戦における指揮能力はあまり競争にさらされることがない。本人が競争意識を持って努力しない限り競争のない状態に置かれている。

 そこで6空団司令を拝命したときに、司令部の部長、各群司令、各隊長等に対し、「私は日本一の航空団司令になるよう努力するので諸君もそれぞれ日本一の部長、日本一の群司令、日本一の隊長になるよう頑張って欲しい」と要望した。何が日本一か評価基準はそれぞれの人に任せていたが、少なくともそれぞれの人が隣の航空団等を見ながら日本一になろうとして頑張ってくれたのではないかと思う。基地内の視察の折りに若い空曹が「司令、日本一になります」などと言って話しかけてくることがあったが、みんながあいつには負けないと思って努力してくれることが第6航空団を精強にしてくれることだと思っていた。また空自の全部隊長がそれぞれ日本一を目指して頑張れば航空自衛隊の精強性はより一層向上することになろう。

 もう一つは各人の努力目標を常に明確に意識させておくことが大切であると思う。そこでこれも6空団司令の時に、部隊の練成訓練目標とは別に、全隊員に対し当該年度の仕事上の目標と私生活上での目標をペーパーに書いてもらうことにした。もちろんその全てを団司令が見るわけではなく、各隊或いは班、小隊等で管理してもらっていた。若いパイロットや隊員を例に取れば、仕事上の目標はエレメントリーダーの資格を取るとか7レベルの特技試験に合格するとかいうようなことである。また私生活上の目標でいえば今年中に100万円の貯金を貯めるとか今年は車の免許を取るとかいうもので良いと思う。タテマエ的な目標ではなくホンネの目標を掲げることが大切である。目標が展示用の立派過ぎるものであると達成の困難さにやがて努力することを止めてしまうことになる。

 人間は目標に向かって努力するよう神様によって造られている。目標を持つと人は生き甲斐を感ずると思うし、またつまらないことで事故を起こしたりすることもなくなる。目標を持つことは若い隊員にとって服務事故をなくすという副次的効果もあるのではないかと思う。具体的な目標を持って、常に自分が負けてはいけない対象を見ながら日本一を目指して頑張ることだ。もちろん我々は外敵と戦うことが本務であり、比較の対象として外国軍人や外国軍隊を視野に入れておくことが必要であろう。特に自衛隊の1佐以上の高級幹部を目指すような立場にある人は、米国、韓国、中国、露国等の軍人の力量を把握し、これに負けない識見、徳操を身につけなければならない。しかしながら多くの隊員にとってはもう少し国際交流が盛んにならなければそれは困難であるので、当面は国内において日本一を目指すことで良いだろう。


6 止(や)めない勇気と始める勇気
 景気がなかなか回復しない。十数年前のバブル景気が忘れられず、夢よもう一度と思っている人も多い。景気が悪いと隣の芝生が青く見える。ひがみ根性が強くなり、何かうまくいかないと他人のせいにしたくなる。自分よりいい思いをしていると思えるような者に対しては腹が立つ。また戦後の社会風潮や日教組に牛耳られた学校教育のせいで、何にでも自分の権利を主張したがる人が増えてしまった。会社においても或いは行政に対してでも些細なことでも注文をつける。自分にとって都合の良いことは当然の権利と思う反面、少しでも気に入らないと文句を言わずには収まらない。このような人が増えると世の中いろいろとうるさくなる。マスコミもこれをあおり立てるようなところがある。自衛隊においても縮み指向が加速され、何事にも慎重に対応する人が増えてくる。積極的に仕事にチャレンジするよりは、上から指示されたことだけやろうと思うようになる。チャレンジしようとすればエネルギーが必要だし、失敗したときのリスクもある。主導権争いなどで周辺との摩擦を生じたりすることも多い。とにかく部内外からいろいろ言われないことが大事になる。マスコミなどで批判されることが一番困るのだ。

 こうなってくると自衛隊の中で今までやってきたことでも、ひょっとするとあれは止(や)めたほうがいいかもしれないというものが目についてくる。それは自衛隊の仕事としてやっていいのかとか、情報公開を求められたときに耐え切れるのかとかいう議論が出てくる。例えばOB会の面倒を見るなどということに関しては、自衛隊はやたら慎重になり過ぎている。しかし自衛隊がやっていることで明らかに違法であると言いきれることなどないと言っていい。あらゆることは社会常識の範囲内でやっていると私は思う。いま現在やっていることは何かの理由があって始めたことであり、そのとき当然法令や規則のフィルターはかけられているはずである。自衛隊は極めて順法精神の高い組織であるので各級指揮官等にはこの点自信を持ってもらいたい。もちろん自衛隊を好ましく思っていない人たちから見ればあれやこれや言いたいことがあるかもしれない。しかし私のこれまでの経験では、指摘を受けた後でも議論できるようなものばかりであったと思っている。いわゆるグレーゾーンに属するようなものはあるだろう。しかしそれは自衛隊を精強化するために諸先輩が知恵を出したぎりぎりの選択なのだ。だから何かを止(や)めようとするときは、それを止(や)めたら自衛隊が強くなるのか弱くなるのか自問自答してみる必要があろう。年月が経って現状にそぐわなくなっているものもあるだろう。或いは最早自衛隊の団結の強化や士気の高揚に効果がなくなってしまっているものもあるかもしれない。そんなものなら止(や)めたらいい。しかしそれが自衛隊の精強化に貢献していると思われるものについては、外からとやかく言われるかもしれないという理由だけで中止すべきではない。それを止(や)めるということは、外から何か言われるということを理由に、自衛隊が弱体化するという選択を予めしてしまうということなのだ。止(や)めない勇気を持つことが大事である。是非自分の胸に手を当てて考えて欲しい。心の底で自衛隊が弱くなっても自分がトラブルに巻き込まれなければいいと思っていないかどうか。もしそうだとしたら是非止(や)めないで頑張ってもらいたい。貴君がそこで踏ん張ってくれることが自衛隊の精強性を維持することになるのだ。

 反対に何か新しい事を始めようとしたときに、それは問題になるのではないかとか、時期尚早ではないかとかの意見が出る。いわゆるつぶしの論理である。しかし自衛隊が一歩前進するためには常に新たなチャレンジが必要である。今までと同じやり方では何も変わらない。むしろ後退している可能性さえある。新たなことを始めようとするのだから摩擦があるのは当然である。絶対に問題がないと言い切れることなど殆どない。何か言われるぐらいのことは覚悟しておいた方がいい。しかし摩擦や問題を恐れていては一歩も前進できないこともまた事実である。失敗を恐れずにチャレンジを継続しなければならない。一般に真面目と云われる人ほど慎重になる傾向があるので、自分が真面目だと思っている人は注意する必要がある。慎重すぎる指揮官は決心が遅れ、適時適切な部隊行動を損なうこともある。或いは部下たちの成長の芽を摘んでしまう場合もある。何か問題が起こるかもしれないということで予防整備に走りすぎてはいけない。指揮官が予防整備症候群にかかってしまうと部隊の活力はどんどん失われていく。だから案外真面目な人が自衛隊をだめにすることがあるのだ。そこで部下たちの提案が自衛隊の精強化に貢献するものであるならば、それが外からとやかく言われるかもしれないという理由で、これを退けるべきでない。明らかに違法であるものは論外であるが、その他については始める勇気を持つことだ。よそから絶対に何も言わせないと自信を持てるまで行動しないようではタイミングを失ってしまう。それが違法であるとか明確に非常識であるとか思われるものでない限り、とやかく言われることなど気にしなければいいのだ。上司がそう思っていてくれると部下としてこれほど有り難いことはない。反日的な人たちに気を遣い過ぎてはそれらの人たちの思いで自衛隊が動かされてしまう。自衛隊は本来我が国を愛する国民の思いに応えて動かなければならないのだ。

 自衛隊の現状を見るに、止(や)めない勇気と始める勇気がとても大切であると思っている。各級指揮官は精神的に伸び伸びとしていなければならない。


7 身内の恥は隠すもの
 近年「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」、いわゆる情報公開法が施行され、自衛隊においても国の安全保障上秘匿を要すると考えられるものなど、一部を除き保有する文書等が要求に応じ公開されることになった。部隊等においても情報公開に関する教育が徹底され、最早如何なることでも隠すのは悪であるというような風潮が生まれつつある。しかし私は少し行き過ぎているのではないかと思っている。昨年話題になったサーズなどは、これを隠蔽することは他人に迷惑をかける。だから絶対にその情報を公開する必要がある。中国政府の対応に非難が集中したことは記憶に新しい。またエイズの非加熱製剤による感染の話なども情報公開が遅れたことにより被害が拡大する結果となったものであり、けしからん話である。そのほかにも医療ミスとか原子力発電所の放射能漏れ、あるいは建設工事のミスなど当該情報が公開されることにより、第3者が対応行動をとることができ被害に遭わないようにすることができるものについては、情報を隠蔽することは厳重に戒められるべきである。更に事故に伴う民事裁判等を有利にするために、官公庁や民間会社などが情報を隠蔽することも責められてしかるべきである。

 それでは何でもかんでも全て公開する必要があるのか。そんなことはないと思う。またそれが情報公開の趣旨であるとも思えない。情報公開法の第1条(目的)には、「公正で民主的な行政の推進に資すること」が目的であり、そのために「@政府の諸活動を国民に説明する責務を全うすること、A国民の的確な理解と批判を得られるようにすること」の2点が書いてある。その本来の狙いとするところは、当該情報が公開されないことにより国民が損失を受けることを防止することなのだ。国民の知る権利を楯に、のぞき趣味的なことまで情報公開を要求することは、また戒められなければならないのではないか。情報公開法第5条第二項イ号には「公にすることにより、当該法人等又は当該個人の権利、競争上の地位その他正当な利益を害する恐れがあるもの」について、情報公開を拒否できることになっている。公人や公的な組織にもプライバシーがあると考えて良いのではないか。自衛隊は国の安全保障を最終的に担保する組織であり、公にできない秘密が存在することはいかなる人も否定はできない。しかしそれ以外にも自衛官にも自衛隊にもプライバシーが認められていいと思う。部隊や隊員が三面記事や週刊誌で笑われただけで終わるようなもの、いわゆる身内の恥的なものまで公開されるようになると、隊員は自分のことを上司に相談することができなくなる。上司に知られてしまえば全て情報公開の対象になってしまうようでは部下隊員の指揮官に対する信頼感は失われてしまう。

 最近はマスコミの情報が迅速でまた突っ込みも厳しいので、下手に隠すと後が大変になるというようなことを聞くことがある。それは言葉を換えれば、「俺はマスコミで叩かれるのがいやだから部下隊員を護らない」と言っているに等しい。上司が部下を護れないことほど上司に対する信頼を失わせるものはない。社会的な影響が大きいか又は国民に損失を与えるようなものでない限り指揮官は部下隊員や部隊の保全に努めるという明確な意志を持つ必要がある。自分の部下が公衆の面前で笑われたり辱めを受けたりすることは指揮官の恥である。指揮官のその姿勢が部隊団結の基盤なのだ。

 論語に次のような話がある。
「楚の葉公(そのようこう)が自慢話をして孔子に言った。『私の村に正直者の躬(きゅう)という正義漢がおります。その男の父親が羊を盗んだとき、息子である彼がその証人となって父を告発したほどであります』と。これに対して、孔子はこう答えました。『私の村の正直者はそれと違っています。父親は子どもをかばって隠してやるし、子どもは父親をかばって隠してやります。これは不正直のようにも見えますが、実はこういう行為の中にこそ、本当の正直さがあると思います』と」(子路第十三)

 私がこの話を初めて知ったのは昭和54年に陸自業務学校(現小平学校)幹部精神教育課程入校に際し、上智大学渡部昇一教授の「日本史から見た日本人(古代編)」を読んで読後所感文の提出を求められたときであった。現代社会において何にでもこれが通用するとは思わないが、何となくほのぼのとするいい話である。身内の恥は隠すものという意識を持たないと自衛隊の弱体化が加速することもまた事実ではないか。反日的日本人の思う壺である。

 自衛隊の精強化を望まない人たちは、どんなことにでも隠蔽体質とか言って攻撃をしてくるであろう。念のために断っておくが私は公開すべきものを隠せと言っているわけではない。各級部隊指揮官が、もはや何もかも公開しなければならないと思い、部隊や隊員を保全するという意識が低下しているのではないかと心配しているのである。情報公開法が我が国や自衛隊の弱体化を目論む人たちに利用される可能性についてもっと注意を払うべきだと思うのである。自衛隊は我が国有事に際し部隊の行動を秘匿しながら作戦を実施しなければならない。そのために常日頃から保全を意識した隊務運営を心がける必要がある。公開を要しない事項については徹底的に秘匿するということで、有事のための訓練をしていると思えば良い。秘匿すると決めたことを秘匿できないようでは作戦遂行に大きな支障が出る。指揮官はそれが出来るまで部隊を鍛えるべきである。もし現状でそれが不可能ならば、これを作戦実施上の重大な問題として認識しておくことが必要である。もし秘密が漏れたならば、なぜ漏れたのか、誰が漏らしたのかを徹底的に追求しなければならない。それが秘密漏洩の抑止力になる。それは国家のため、国民のために必要なことなのだ。自衛隊の秘密保全の態勢は、諸外国の軍と同様に完璧であることを求められている。私たちは航空事故ゼロを目指すと同じように秘密保全についても完璧を目指して努力すべきなのだ。


8 戦場は2つある
 湾岸戦争が終わった1991年にボブ・ウッドワードの書いた「司令官たち(文藝春秋)」という本が出た。当時自衛隊でもかなり多くの人がこの本を読んでいたし、いま私のこの小論文を読んでいる皆さんの中でも読んだ人がいるのではないかと思う。1989年のブッシュ政権誕生後1991年の湾岸戦争開始までの米国における軍事上の意思決定について書かれたものである。米軍のパナマ侵攻及び湾岸戦争を題材に大統領、国防長官、三軍長官、統合参謀本部議長、現地司令官などの心の内面の動きを見事に描き出している。その177ページにパウエル統合参謀本部議長の次の言葉が出てくる。「なにもかもが正しい方向に進み、すべてのことが司令官の手中におさめられれば、そこでテレビに目を向けるべきだ。マスコミの報道を正しい方向に向けさせなければ、戦場では勝っても、戦争には負けたことになってしまう」。また232ページには、パウエル統合参謀本部議長が司令官たちに宛てた手紙の内容として「ほかのことはすべて上手くいったとしても、マスコミへの対応が適切に行われない限り、その作戦は完全に成功したとは言えない」と。またこの著者ボブ・ウッドワードは2003年2月にはブッシュの戦争(日本経済新聞社)という本を出している。こちらは2001年9月11日の同時多発テロ以降米軍のアフガニスタン攻撃に至るまでの、米国政府内の意思決定やブッシュ大統領以下最高権力の中枢にいる人々の心の動き、発言、行動を追ったものである。この369ページにも「われわれは広報戦争に負けつつある」というブッシュ大統領の言葉が紹介されている。

 私たちは米軍のマスコミに対する対応が大変に上手いと感ずることが多い。それはこのような考え方がベースにあってのことなのだと思う。米軍では軍の戦場は2つあると認識されているのだ。第1の戦場は我々自衛隊も考えている伝統的な戦場である。戦闘力をぶつけ合う本物の戦場である。しかし戦場はこれだけではない。世論やマスコミと戦う第2の戦場があるのだ。民主主義国家においては世論の支持がなければ戦争を継続することは出来ない。マスコミが高度に発達した現代においては、アメリカのCNNに見られるように、戦地の映像がほぼリアルタイムで茶の間に届く。多くの戦死者や戦傷者の映像を見て、戦争の悲惨さばかりが強調されるような報道に接すれば国民の厭戦気分はいやが上にも高まることになる。だから戦争の目的や必要性を国民が理解し、自国の軍は正義のために或いは平和のために、止むを得ず血を流しているというマスコミ報道が必要なのだ。国家として軍としてマスコミの報道をそのように導くことが出来なければ、戦争の継続は困難となるばかりか、パウエル現国務長官の言うように、戦闘には勝っても国家や軍が悪玉に仕立て上げられてしまうことがあるのだ。つまり戦闘に勝って戦争に負けてしまうことになる。

 さて、この第2の戦場における戦いは、我が国においては戦時のみならず平時から常続的に実施されていると考えた方がよい。特に我が国の場合、他の先進国と違い国家防衛についての国民的合意が必ずしも十分とは言えないため、平時からマスコミ関係者や国民に対し、国防の必要性について理解を深めさせる努力が必要である。これまで自衛隊の各級指揮官は第1の戦場における勝利を目指し部隊の練成に精を出してきた。それはもちろん我々自衛官の最重要任務であるが、今後は第2の戦場における勝利も併せて追求しなければならないと思う。そのため各級指揮官は平時から第2の戦場における戦いについて明確に意識しておくことが必要である。我が国においては反日グループの熱心な活動のせいで、自衛隊があるから戦争になると信じ、自衛隊の動きを出来るだけ封じたいと思う人たちが多い。これらの人たちは、あれやこれやで自衛隊を攻撃し、自衛隊の精神的弱体化を目論んでいる。一部マスコミにはこれを支持する人たちもいる。自衛隊はいま第1の戦場で戦うための訓練をしながら、第2の戦場では正に戦闘実施中なのだ。冷戦が終わってなお我が国には国内でイデオロギーの対決、すなわち冷戦状態が残存している。私たちはこれまでこれを戦いと認識していなかった。だから攻撃されてもそれを止むを得ないものと感じ、防御手段も講ずることをしないし、まして積極的な攻勢に打って出ることなど考えもしなかった。今ならインターネットを使って簡単に反論することも可能である。国民の国防意識の高揚という第2の戦場における戦いは、自衛隊はこれまで総理大臣や政治家の戦いだと思ってきた。しかしこれからは、各級指揮官や基地司令等がこれを第2の戦場における戦いと位置付けて勝利を追求することが必要であると思う。

 国民の世論を形成する上でマスコミの果たす役割は絶大である。だから我々はマスコミと正対せざるを得ない。これまで自衛隊ではマスコミには出来るだけ関わりたくないという風潮があったが、今後はもっと積極的にマスコミに関与するぐらいの気構えを持つべきである。広報担当者などは、自衛隊担当の記者とは、繰り返し、繰り返し意見交換を行い、安全保障や自衛隊に関して理解を深めてもらうことが必要である。幸い自衛隊においても近年広報の重要性が叫ばれるようになり、各級指揮官等も第2の戦場があるという意識に目覚めつつある。今後この動きをより進展させるためにアグレッシブな広報を専門とする組織を自衛隊の中に造ることも一案であると思う。従来のマスコミ対応にとどまるのではなく、ホームページの更新、テレビ、ラジオを通じた発信、定期刊行物の発刊、新聞、雑誌への投稿などを常続的に実施するのだ。本を書く人を育てることも必要であろう。若い人たちを自衛隊に呼んで教育することも必要であろう。また隊員に対しては部外で個人や団体が実施する親日的な活動には経費も含めて個人的に支援するという意識を持たせるべきであろうと思う。例えばここ数年新しい歴史教科書が話題になっているが、今後このような本などが出た場合、これをみんなで買いまくるぐらいの意識があっても良いのではないか。更に若い幹部や隊員の場合には新聞や雑誌でもそれがどういう思想傾向を持ったものであるのかさえ理解していない場合もある。無知故に反日活動に協力するようなことがあってはいけない。親日的活動が一定の成果を収めないと、やがて反日活動に圧倒されることになる。それは正に組織的に実施されている。我が国の現状を見れば自衛隊の指揮官、特に上級の指揮官は、いま第2の戦場に目を向けることが大事であると思う。


9 脱「茶坊主」宣言
 自衛隊においては賞詞を与えるときなど部下を誉める際に「上司の意図を体し‥」という言葉が使われる。それでは上司の意図を体するとはどのように理解すればよいのか。それはそれぞれの上司と部下が置かれている状況によって少し異なってくる。下級指揮官とその部下の場合は、文字通り上司が考えていることを具現化することで十分かもしれない。しかし上級の指揮官と部下の関係においてはそれだけでは不十分である。

 部隊等で業務を実施していると、幕僚作業を経ないで指揮官から「このようにしたい」と意図が示されることがある。しかし直ちにその具現化に走るのは禁物である。上級の指揮官になると状況判断のために考慮すべき事項が多くなり1つや2つは大事な考慮事項が抜け落ちる可能性もある。従ってこのような場合、上級指揮官を補佐する者の心構えとして、果たして上司の意図は任務遂行上正しいのか疑ってみる必要がある。何か重要な考慮要素が欠落しているようなら上司に対して意見具申を行い意図の再確認を実施する必要がある。そして正しいことが確認できてから、その意図の具現化に努力するのである。その確認作業をしないで上司の意図のみを後生大事にすることは、いわゆる茶坊主のすることである。部下が茶坊主ばかりになると指揮官が一歩間違えば部隊は間違った方向に大きく舵を切ることになる。だから茶坊主的に指揮官を補佐する場合、部下としてどれほど誠心誠意でも、それは指揮官にとってあだ仇になることがある。茶坊主は側に置くと心地良いが、指揮官にとっては毒にもなる。

 20代の頃は5年とか7年とか年齢差があると若い部下が先輩の上司よりも広い考察をしていることなどないと言っていい。しかし10年以上もの部隊経験を積んだ3佐や2佐ともなると上司の考えが及ばない部分についても考えが及ぶようになる。上級の指揮官を補佐する場合、上司の考えを具現化する前に、上司の考えが及んでいない部分を補うことが必要である。それにより大きな部隊が正しい方向に舵を切ることが出来るのだ。だから佐官以上の部下ともなれば、上司に対し平生どれだけ意見を述べているかを自ら確認しておく必要がある。勤務半年以上も経過したのに上司の言ったことをひたすら真面目に実施するだけで、何ら採用されるような意見を言ったことがないとしたら、それは真剣に職務に精励しているとは言い難い。もっと勉強しなければならない。3佐や2佐にもなった者が茶坊主であってはいけない。

 さて茶坊主は上司の満足がいつでも最優先であるから、とにかく上司の意図が示されればその実現に突っ走ることになる。しかし自衛隊における部隊の目的は上司の満足ではなく、作戦の目的、目標を達成することなのだ。これに関し部下は上司に対し責任を負うべきであるが茶坊主にはその覚悟がない。茶坊主は、結果が良くない責任は上司にも自分にもなく、状況が悪かった、不運だったということにしたいのである。上級指揮官を補佐する者が茶坊主になってはいけない。軍事作戦においては結果がすべてと言って過言ではない。目標とする結果を招来するために上司と部下は良く意見の交換をして意思疎通をしておくことが大切である。もっと尤も部下が上司に対し意見を言わないのは部下の勉強不足ばかりが原因ではない。上司の側に問題があることもある。上司は部下が意見を言いやすいような雰囲気を造ることが必要である。部下が真剣になっていないときや明確に命令違反をした場合は別にして、部下が一生懸命作った案や部下のやり方に対し、怒ったり怒鳴ったりすることが最もいけないことだ。これを頻繁にやると部下はみんな茶坊主になってしまう。部下がみんな茶坊主になるということは、もはや民主主義国家の軍における上司と部下の関係ではない。独裁国家北朝鮮と変わらないことになる。そうならないために上司と部下は穏やかに話し合わなければならない。それによってより効果的、より効率的な任務遂行が出来るのだ。

 話はやや飛ぶが我が国における政治と軍事の関係では、我が国の政治は戦後、よく自衛隊を怒ったり怒鳴ったりしてきたのではないか。戦前の我が国はといえば今とは全く逆で、5.15事件や2.26事件に見られるように軍が政治家にテロを行っても軍の思いを実現しようとするような行き過ぎがあった。政治は無理矢理軍の意向に添わされたと言って良い。その反動で戦後は制服自衛官にはモノを言わせないという風潮が広がってしまった。だから自衛官は国家に対し茶坊主になるしかなかった。しかし、これらはいずれも民主主義国家における政軍関係のあるべき姿ではない。

 自衛隊が行動しない時代には自衛隊は国家の茶坊主でも良かったと思う。しかし自衛隊の海外派遣が頻繁に行われるような情勢になると、自衛隊が茶坊主であっては我が国の国益を損なうことになる。自衛隊は最終的には政治の決定に従わなければならない。しかしながら国家の方針決定に当たっては、自衛隊は軍事専門的見地から意見を述べなければならない。だから2003年9月の自衛隊高級幹部会同において石破防衛庁長官が、自衛隊は茶坊主になってはいけないと戒められたのだと思う。石破長官は訓示の中で次のように述べておられる。少し長くなるが長官訓示を読んでおられない方のために引用させて頂くことにする。「‥‥。私はこの国において、本来の意味における民主主義的な文民統制を実現したいと考えております。それは主権者たる国民に説明責任を果たし、政治が正確な知識に基づく判断を下すということであります。その過程において、いわゆる軍事の専門家である自衛官のみなさんと法律や予算や技術などの専門家である事務官、技官などのみなさんが車の両輪となり、最高指揮官である内閣総理大臣を支えることがもっとも肝要であります。法律や、予算や、装備・運用に対して、それぞれの専門家であるみなさんが意見を申し述べることは、みなさんの権利であると同時に義務であると考えます。‥‥」。

 昭和53年に栗栖弘臣統合幕僚会議議長が、我が国の有事に関わる法制上の問題点を指摘したいわゆる超法規的行動発言のときには、栗栖統幕議長は国民に対し無用の不安をあおったとかの理由で更迭された。その後自衛官はモノを言わずに言われたことだけやればよいのだというような時期が続いたような気がする。しかしあれから四半世紀を経て今明らかに時代は変わった。石破長官は「制服の自衛官が意見を述べることは権利であるだけではなく義務である」と言っておられるのだ。義務であるからには問題を認識しながら意見を言わなかった場合には義務の不履行になる。栗栖発言は、当時は言ったことが問題になったが、これからは言わないことが問題になるのだ。

 時代が変わっているということを自衛官も認識する必要がある。自衛官も我が国の政治に対し軍事専門的見地から意見を言うべきなのだ。これは自衛隊の将官等高級幹部に課せられた義務であると考えなければならない。自衛官にとってはより厳しい時代になってきたと思う。高級幹部を目指す者は、若いうちからよく勉強し、それなりのことが言えるだけの見識を身につける必要がある。我々の仕事は部隊運用だなどという人がいるが、それでは責任の半分を回避しているようなものである。これまで自衛隊では政治的活動に関与せずということが強く指導されてきた経緯があり、政治家と接触することさえ臆病になっていたようなところがある。しかし政治家を知らずして政治に対し意見を述べることは出来ない。

 かつて私は防衛庁長官政務官を辞めた後の岩屋毅議員のパーティーに出席したことがあった。グランドヒル市ヶ谷で実施されたそのパーティーには、当時の中谷防衛庁長官、石破現防衛庁長官初め歴代の防衛庁長官経験者、現在の安倍自民党幹事長、石原国土交通大臣ら多数の有力政治家が出席していた。そして内局からは事務次官以下ほとんどの局長、参事官とともに一部の課長が出席していた。一方、各幕僚監部はといえばそれぞれ総務課長が出席しているのみだった。また防衛政務次官を辞めた後の自由党の西村真悟議員の出版記念パーティーが九段会館で行われたことがあった。各幕僚監部の出席者はまた同じく総務課長のみだった。政治家及び内局の出席者は岩屋議員の時とほぼ同じ顔ぶれだった。当時自由党はすでに野党になっていたが、なんと野党の西村議員のパーティーにも拘わらず与党の防衛関係議員のほとんどが出席しているのだ。そして内局も政治家の出席状況に合わせたかのように事務次官以下各局長、参事官などが出席していた。内局と各幕の対応の差が如実に現れている。しかしこれでは政治家から見て制服の顔が見えないのではないか。また政治に対し意見を述べるチャンスをみすみす失っているのではないかと思うのである。石破防衛庁長官の訓示を生きたものにするためにも、自衛官も今後は政治家と積極的に接触するよう努めるべきではないのだろうか。国家のため国民のため、政治に対し軍事専門家としての意見を述べるためにはそれが第1歩である。因みに私はこのようなパーティーには時間のある限りお邪魔虫大作戦を敢行することにしている。確かに面倒ではある。しかしそれは自衛隊の高級幹部に課せられた任務ではないかと思う。


10 国家観、歴史観の確立
 先日新しい歴史教科書をつくる会の藤岡信勝先生(東大教授)の話を聞く機会があった。つくる会ではその主張を英語に翻訳して米国で出版しようとしているが、米国の出版社でこれを請け負ってくれる会社がないそうである。戦前の日本の行動を弁護し、米国にも大きな非があったというつくる会の主張を、たとい出版社の利益のためであっても受け入れることが出来ないということなのだそうだ。そういえばマスコミに関しても、少なくとも欧米のマスコミ人は、それぞれの国家に対する愛国心を持っており、国益を損なうと考えるものに関してはそれなりの考えた対応をすると聞いたことがある。翻って我が国の状況を見るに、一部を除きそのようなマスコミ人は存在しない。我が国をおとし貶めてもとにかく日本の暗部をあば暴こうとする。小学校に入ったときから日本国を個人に敵対するものと教えられてきた結果なのだろう。彼らにとって日本国は個人の幸福を邪魔する忌み嫌うべき対象なのだ。そして日本以外の国は北朝鮮でさえも素晴らしい国なのだ。

 自衛隊に入隊してくる人たちも、このような教育を受け同じ世相の中で育ってきた青少年たちである。しかし彼らは入隊後自衛隊の中で教育を受け、また自らいろいろと勉強する内に国家に対する愛情が芽ばえる。しかしそれでもなお多くの幹部自衛官でさえも、日本が中国や韓国にひどいことをした、南京大虐殺があったと思い込まされている。しかし歴史を紐解いてみれば、中国や韓国に対しては経済的に見れば日本は持ち出しだったのだ。回収が投資を下回るような植民地政策を実施した国は日本以外にはない。また南京大虐殺は実際に見た人は一人たりとも存在しないのだ。すべては東京裁判における伝聞証言である。更に東京裁判でさえも正当な裁判であると思っている人も多い。だから戦前の我が国の行動について中国、韓国や東南アジア諸国に謝り続けることはやむを得ないと思っているのだ。しかし歴史の真実はそうではない。東京裁判が誤りであったことは、その執行者であるマッカーサー将軍でさえも米国の議会で証言しこれを認めている。因みにいわゆるA級戦犯と呼ばれる人々が起訴されたのは昭和21年4月29日、昭和天皇の誕生日である。東条総理大臣以下7名の死刑執行が執り行われたのが昭和23年12月23日、現在の天皇陛下の誕生日である。こんなことは歴史の偶然ではないと思う。4月29日といえば当時の天長節、国を挙げて天皇陛下の誕生日を祝う日である。いわゆるA級戦犯とされた人々の起訴が行われたのではお祝いが出来ないではないか。死刑執行が行われたのでは皇太子殿下の誕生日のお祝いが出来ないではないか。

 さて戦後しばらくの間は反日運動は起こらなかった。いや継続的に実施はされていたが日本国内でそれほど盛り上がることはなかった。日本にも、中国、韓国にもそして東南アジア諸国にも真実を体験した人たちが多く存命していたからである。日本の占領地統治が欧米諸国のそれと比較してどれほど慈愛に満ちたものであったか多くの人が知っていた。1982年の例の教科書問題の頃から反日運動が盛況になってきた。真実を体験した人たちが社会の大舞台から引退されるようになったからだと思う。変わって戦後教育を受けた世代が政治や行政や会社の中枢を占めるようになった。この世代は戦後教育を真実の歴史だと思っている。アサヒビールの中條高徳氏が書いた「おじいちゃん戦争のこと教えて(致知出版社)」という本がある。1998年の12月に発売された。これを読んだ国家公務員上級職の超エリートだった人がいる。その人は終戦時、尋常小学校の生徒だったというが、「日本の国がそんなに悪い国ではなかったことがわかって目から鱗だった」と言っていた。すなわち公務員である間は、彼は日本の国が中国や韓国の言うような極悪非道の国だったと思っていたわけである。また先日統幕学校学生に対し、外務省から中国情勢を講義に来たある講師が、学生から南京大虐殺関連の質問を受けたが、ほとんど知識がないのにはいささか驚いてしまった。これでは中国からの抗議に反論できるはずもない。我が国をリードする立場にある人たちにして現状はこの通りなのだ。これは恐らくこの人たちだけに限られる話ではないのだろうと思う。国家としてこの現実をどのように考えればよいのか。

 国家防衛の基盤となるものは愛国心である。国民は国家や国民の歴史、伝統に対する誇りを持たなければならない。まして国を守る自衛官はその先達となる覚悟が必要である。これを民族主義の台頭などと批判する人たちがいるが、我が国を民族主義と言うなら、世界中の全ての国が今までずっと民族主義だったと言わなければならない。少なくとも我が国は、学校で教える歴史教育の内容についてグローバルスタンダードに比較し、民族主義とは正反対の方向に大幅に振れている。偏狭な民族主義は排されなければならない。しかし大昔から和の政治を旨とする我が国に、そんなものが台頭する可能性など心配する必要がない。聖徳太子の時代から仏教の伝来にしろ、大陸文化の受け入れにしろ、我が国は外来のものを国内のものとうまく融合させてきている。民族主義の台頭とか言うのは歴史に無知であるか或いは他に目的があって言っているのだ。

 1980年代のアメリカで、そしてイギリスで、レーガン大統領やサッチャー首相が米英それぞれの国を再生させるため最初に着手したのも国家に対する国民の誇りを取り戻すことだった。統幕学校では今年の一般課程から「国家観・歴史観」という項目を設け、5単位ほど我が国の歴史と伝統に対する理解を深めさせるための講義を計画した。主として部外から講師をお迎えして実施してもらっている。これがきっかけとなり今までこれに関する勉強をしていなかった学生も、真実の歴史に興味を持ってくれれば幸いである。これから信頼醸成のため、関係諸国との間において軍人の相互訪問等がますます盛んになっていく。その際に意見の対立による緊張が嫌でいつでも相手国の言い分を認めるようなことになっては我が国の国益を損なうことになる。その場で一時的な対立状態になろうとも国家を背負って頑張らなければならない。言わなければどんな状況になるのか。この50年の歴史が証明している。なおその場に臨むと反論するのは勇気がいる。昨年のマレーシア訪問の際私はそれを体験した(航空自衛隊連合幹部会機関誌『翼』平成15年9月号参照)。しかし反論しようにも国家や歴史に対する基本的な素養が無ければ出来ないのである。幹部自衛官は明治維新以降の我が国の歴史について勉強し、我が国の歴史と伝統について揺るぎない自信を持ってもらいたい。各級指揮官のその自信が自衛隊を元気にする源である。無知故に、我が国の歴史に対する贖罪意識を持っているようでは部隊を元気にすることは出来ない。

 我が国の戦後教育においては国家というものがすっぽりと抜け落ちてしまっている。他の先進国の国民と日本国民とでは、国家に対する感じ方がかなり違っているような気がする。それは国民に対する国家や歴史に関する教育の違いによるものと思う。幹部自衛官は我が国の歴史や伝統について理解し国民を啓蒙できる能力を育成しておく必要があると思っている。これから部隊指揮官等に配置される皆さんは、この国を愛する正しい国家観、歴史観を確立して、部下隊員を指導することはもちろんのこと、部外における講演などでも国民を啓蒙する気構えを持って頑張ってほしいと思う。


 おわりに
 1991年の湾岸戦争の時、私は防衛研究所の一般課程の学生であった。この課程における森繁弘元統幕議長の講義で私はPKOとかPMOとかの言葉を初めて知った。当時はこれらの言葉が自衛隊の中でも出始めたばかりの頃であり、まさかこの年にペルシャ湾に掃海艇が派遣され、翌年に自衛隊がPKOに派遣されるとは思っていなかった。1992年9月自衛隊創設以来初めて陸上自衛隊施設部隊が他国の領土であるカンボジアに派遣されることとなった。その後ルワンダ、モザンビークへの部隊派遣を経て、現在でもゴラン高原と東チモールのPKOに自衛隊が派遣されている。まして自衛隊が今のようにインド洋やイラクまで派兵されることなど思いもよらなかった。

 当時は防衛庁の内局や各幕の仕事は防衛力整備がほとんどであり、部隊運用が話題になることもなかった。現在との比較でいえば自衛隊が働く時代ではなかったのだ。従って内局の関心も自衛隊をいかに管理しておくかが関心事であったと思う。おとなしく礼儀正しい自衛隊がそれまでの我が国の求める自衛隊だったのだと思う。自衛官は自衛官である前に立派な社会人たれなどという言葉が象徴的にそれを言い表している。東西冷戦構造が壊れたばかりの時期であったが、それまでは自衛隊も米国を中心とする西側の抑止戦略の一端を担っていた。抑止戦略の中では軍としての形が立派なものであれば中身はあまり重要ではない。見かけが重要である。最先端の戦闘機やミサイルシステムなどを保有していればそれが大きな抑止力になる。いわゆる張り子の虎でもよかったのである。

 しかし自衛隊が働く時代になってくるとそれだけでは困るのである。自衛隊は形だけではなく一旦国の命令が下れば的確に行動し勝利を収めることが必要となる。我々自衛官は今、精強な部隊を造ることに、より一層努力しなければならない。仏造って魂入れずになってはいけないのである。ここ10年間の自衛隊の海外派遣を巡る動きを見ると、あっという間に進んだというのが実感である。次の10年の変化はもっと早いかもしれない。その速い動きに追随するためには自衛隊が元気であることが大切である。元気がなければ積極進取の気風も隊員の任務にかける情熱も生まれない。これまではおとなしい礼儀正しい自衛隊であれば十分であったが、これからは腕白でもいい、逞しいといわれる自衛隊に脱皮する必要がある。

 昨年は我が国においても、ようやく有事関連法案が成立した。その内容が不十分であるとかいろんな批判はあるが、いままでゼロであったところにいわゆる有事法制の形が出来たのだから、これまで永年にわたりその成立に努力された諸先輩始め関係者の皆さんには頭が下がる思いがする。また3自衛隊の統合運用についても平成17年度末を目途に態勢の整備が鋭意進められている。米国やNATO諸国に遅れること約15年の我が国の統合運用のスタートである。いよいよ自衛隊が働く時代がやってくる。その時自衛隊は伸び伸びしていなければならない。精神的に萎縮していては戦いに勝つことは出来ない。各級指揮官は自分の部隊を伸び伸びと元気にしておくことが必要である。

 以上述べてきた10の提言がそのための何らかの参考になれば幸いである。指揮官は部下から見て「さすが、強い、頼もしい」と言われる存在でなければならない。部隊は正に指揮官によって決まる。それは貴君の双肩に懸かっている。

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