自然科学
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原発不要論
脱原発を目指しています。反原発運動の手助けのため、元ゼネコン社員としての経験と知識から原発が不要である科学的根拠を示しました。
本当に地球温暖化防止に役立つのか? 原発の寿命 安全計算の誤差 自然エネルギーは非効率か 日本が工業資源を輸入に頼る理由  コンクリート構造物の補修費と寿命 コンクリートの強度 安全基準、検査体制の欠陥 手抜き工事の代表的手口 ネガティブフリクションの恐怖 ゼネコンに対する過大評価 公共工事の重い負担
技術亡国
日本の科学技術が「技術立国」ならぬ「技術亡国」だという恐るべき実態を暴いた衝撃作 第一章 日本の技術が過大評価される理由
自国の技術に対する自信  技術ナショナリズム  日本市場の閉鎖性  地元のメリット  御用学者が多い  GDPが大きい  存在価値の低い技術
第二章 物作り産業に関する勘違い
経営者と消費者の意識のずれ  独善的な技術者 製造業離れと3K  上の者は本当に知らない  自動化の実態  自分のための自己犠牲  先端分野への出遅れ  日本企業は人を大事にしてきたか
第三章 夢想家と御用学者
西澤潤一  唐津一  石原慎太郎  長谷川慶太郎  船井幸雄
第四章 太平洋戦争の教訓
自軍に甘い評価  戦艦大和  零式艦上戦闘機  成功は失敗のもと
第五章 ワンセット主義
宇宙開発事業  テクノポリス列島  多過ぎる工学部  縦割り行政  飛び級制の欠如
第六章 必要ない技術
SST  巨大土木建造物  スーパーコンピュータ
第七章 脱工業化
需要と供給の逆転  ハードウェア至上主義  他の産業との関わり  なぜ製造業が基本でなければいけないのか  ※ヴァーチャル・リアリティー  農業

注)※は他ページへのリンクを表す。


原発不要論
本当に地球温暖化防止に役立つのか?
 原発推進派は「原発は二酸化炭素を出さないので地球温暖化対策に好ましい」としているが、実はこの意見は世界中から失笑をかっているのだ。原発の初期の目的は高効率エネルギーを得る事であり、地球温暖化対策は全く視野に無かった。原発が地球温暖化防止に有効であるというのはとってつけた様な意見であり、全く存在意義の無くなった原発を存続させるために後から作られた苦しい言い訳に過ぎないようだ。日本の原発は海に面しているが、これは海水で冷却するためだ。原発の温排水については共産党などから何度も指摘されている。
 又、コンクリートの発熱については意外に知られていない。セメントの焼成には大量の熱を要するし、コンクリート練り混ぜ時にも水和熱を出す。水和熱はコンクリートの種類によっては巨大構造物の場合では、下手をすると数十年に渡り発熱しかねないほどなのだ。原発もコンクリートの厚みが1m以上もあるのだそうだが、土木構造物並みのコンクリートが必要という事になる。水和熱は大きな量になる。
 専門家の中には、「地球温暖化からすると、むしろ最低水準のシステムだ」と言う人も少なくない。電力会社などの説明では運転時に発生する二酸化炭素についてしか計算していない様に思われる。上記のコンクリートやセメントなどの建設時の発熱などは全く話題になっていない事からすると、恐らく計算の中に入っていないと思われる。その他にも見落とした点はあるかもしれないので、二酸化炭素や熱量の発生については徹底的に検証し直す必要があると思う。

原発の寿命
 原発の寿命は30年から60年に変更された。私は大手ゼネコンで人工知能による建物診断システム構築を担当していた。維持補修担当者は「建物はどれくらいもつか」とよく質問されるが、老朽化は環境によって大きく違うため、寿命予測はベテランでも難しい。
 寿命が30年とか60年というのは、科学的根拠に基づいている訳では全く無い。例えば、コンクリートの中性化に何年かかるかは大体見当は付く。しかし、全てのコンクリートの中性化に50年かかるとしても、原発が50年もつとは限らない。
 維持補修の分野はまだまだ未熟だ。特に構造体内部の老朽化の検査は難しい。原発推進派は原発の寿命が60年であるという根拠を公開すべきだ。例えば、「コンクリートの品質向上によって、中性化に三十年かかっていたのが六十年になった」という具合にだ。

安全計算の誤差
 数年前、青森市三内丸山遺跡から縄文時代の建物跡が見つかった。直径1m以上のクリの木柱六本の高床式建物だったらしい。柱跡の圧力推定値から高さ二十mと算定されたが、これは人により意見が大きく違う。せいぜい八mだろうと言う人もいれば、数十mあったという説もある。
 私は大手ゼネコンの建築技術部で、仮設物の構造計算を担当していた。構造計算には大きな誤差がつきものだ。特に、土は自然な生成物なので、人工物より組成が不均一だ。また、土質図を見ると地層が波打っている場合が多い。土は粒子の大きさで砂、シルト、粘土などになるが、その境界は不明瞭だ。
 土質係数の設定は大雑把で、担当の技術者の考え方次第で変わるものなのだ。地質調査の地点がたまたま強い地盤という事もあり得る。土に関する研究や計算方法は大学や企業でもまだ確立していない。 これらの理由で土の計算は慎重な人とそうでない人では、私の経験からすると一対十くらい差が出てもおかしくない。
 原発の安全は土の他に、原子炉の安全や作業員の錬度などの要因が複雑に絡む。総合的には、人により事故発生の確率計算で一対一万くらい差が出る可能性すらあるのだ。

自然エネルギーは非効率か
 原発推進派は自然エネルギー発電に否定的だ。自然エネルギーは不安定で、非効率と主張している。個々の自然エネルギー発電については、風や太陽や波が無いと動かない。しかし、太陽、風力、地熱、波力などを組合せれば、全て停止する可能性はかなり低い。
 原発と自然エネルギーの効率は「卵が先か鶏が先か」という関係だ。国は原発を重視し、研究開発費等の多くを原発に注いだ。自然エネルギー発電自体は低効率ではない。低効率と決め付け、研究開発費が少ないからこそ低効率になってしまっている。
 工業製品のコストは生産量が多いほど低い傾向が有る。少量生産では自動化しづらい。少量を作るのにロボットを使っても採算が合わない。自然エネルギーを重視し、大量生産すれば低コスト化は可能になる。

日本が工業資源を輸入に頼る理由
 日本は工業資源を殆ど輸入に頼っているが、資源に乏しいせいと思う人が多い。原発推進派は資源の乏しさを推進の根拠としているが、日本は必ずしも資源が乏しくはない。日本は世界屈指の林産国であるし、殆ど忘れられているが産金国でもあった。
 そもそも資源輸入国は資源が乏しいとは限らない。米国やロシアは世界屈指の産油国だが、石油輸入国だ。日本は木材が豊富だが、木材輸入国だ。日本が工業資源を輸入するのは資源が乏しいからでなく、工業国だからだ。資源が豊富でも質やコストに難があったり、質や量が国際的水準以上でも需要が多い場合には、それを輸入する事がある。国際競争に勝つには、低品質の国産資源だけに頼っていたのでは不利になってしまう。最近では建設用の砂まで輸入している始末だ。砂などいくらでもありそうだが、無駄な建造物を造りまくったため、不足してしまった。
 資源が乏しいから原発が必要というのは大きな間違いだ。現に自然エネルギー主体の国がある。無資源国にこそ自然エネルギー発電がふさわしい。脱工業化によって原発は不要になる。

コンクリート構造物の補修費と寿命
 (株)鴻池組の資料によると、コンクリート構造物の一生にかかる費用のうち、調査、用地買収等を含む初期建設費は約25%だ。残りの大半が維持補修費だ。
青函トンネルの維持費は年間七十億円にも達する。環境悪化などで今後、維持補修費率は更に増えそうな見込みだ。私は人工知能による建物診断システム開発者なので良く知っているが、維持補修費がこれほど大きい事は、興味を持たないとなかなか気付き難いものだ。
 コンクリート構造物は頑丈で長寿命であるというイメージが有る。実際、古代ギリシャ建築は数千年の歴史があり、丁寧に造れば長持ちする。しかし、現在日本のコンクリート構造物の工期は短いが短命だ。新幹線の高架橋が十年でボロボロになった例もある。原因は良質な砂の減少や工事が雑になった事や酸性雨や排気ガスによるコンクリートの劣化などだ。特に海底トンネルなど海に近い施設は、鉄が塩分に弱いために短命だ。新関門トンネル漏水事故は殆ど注目されなかったが、NHKの「クローズアップ現代」によると幸運が偶然幾つも重なり大事故が回避できたようだ。
 こららの施設の解体や放棄も考えるべきだ。

コンクリートの強度
 原発推進派は原発が安全である事を示すために、原発のコンクリートの厚さを強調する事がある。コンクリートの厚さが1m以上あるという話を聞くと、極めて頑丈と感じるだろう。しかし、コンクリートは意外に強度が弱い。
 コンクリートの歴史は古く、一万年近く前からあったとも言われる。基本的に現代のコンクリートは古代と殆ど違わない。コンクリートは引張強度が圧縮強度より著しく弱い。木材より遥かに引張強度が弱い。圧縮強度でさえ、必ずしも木材より強くない。数値的には木材より遥かに低強度の構造材料だ。
 主要建造物がコンクリート製の理由は低価格と施工性の良さだ。コンクリートが厚いから安全とは言えない。逆に考えると何mも厚さがないと強度が確保できないのだ。

安全基準、検査体制の欠陥
 世界一厳しい日本の建築基準は阪神大震災で脆さを露呈した。
 阪神大震災では接合部の破損が多かった。私が監督していたマンションの階段はPC板だったが、ベテラン副所長は「地震が来たら簡単に外れる」と語った。建造物は自動車と違い、完成品全体を壊せない。コンクリートや鉄筋など個々の検査はするが、インチキする気ならいくらでもできる。不正が無くても建物全体の安全性は確かめようがない。
 労働基準監督署は検査日を業者に予告する。現場所長は「○月×日に労基署の立入検査があるから、現場を整理しておけ」と指示するのが恒例だ。抜打か検査官常駐でないと無意味だ。労働基準監督署の検査対策に労力をさくので、工程が遅れ、却って危険だ。

手抜き工事の代表的手口
 日本で手抜き・欠陥工事は日常茶飯事だ。コンクリートは普通、柔らかいと作業し易いので、水で薄める事がある。違反だが、今の工法には違反し易い条件が多い。昔のコンクリートは現場練りで、今は工場製が多い。工場から遠いと生コンが硬化しがちだ。コンクリートポンプ車の登場も関係ある。パイプを通してコンクリート圧送するので、固まると大変だ。それでコンクリートを柔らかくするのだ。

ネガティブフリクションの恐怖
 超高層建築や原子力発電所など高い安全性を要する建造物の耐震性について、「杭を硬い岩盤のある支持層まで深く打込んであるから大丈夫だ」と言わていれる。一見もっともらしい説明だが、建築構造力学の専門家からすると全く素人臭い意見だ。硬い岩盤まで杭を打込んだというのは業者の証言で、信用できない。阪神大震災でテレビで解説した学者や評論家には御用学者が少なくなかった。
 仮に岩盤まで杭を打込んでも、まだ問題がある。杭にネガティブフリクションという負の力が働く事がある。岩盤が沈下すると、杭は建物を支えるどころか地中に引き摺り込む事がある。等しく沈下すれば水平に保たれるが、不同沈下といって場所により沈み具合が違う場合、建物が傾く可能性がありとても危険だ。現時点で有効策はない。

ゼネコンに対する過大評価
 ゼネコンのイメージは、技術力は高く、下請を苛めるというのが一般的だ。これは良くも悪くも過大評価だ。(株)鴻池組は余剰人員が多く、窃盗、傷害で逮捕者続出の弛んだ集団だった。「現場員に頭は関係無い。声が大きく、元気良く、酒が飲めれば良い」という世界だった。国や会社による技術差は殆ど無い。
 ゼネコン倒産は下請へ影響が大きいというのは素人の意見だ。中堅ゼネコンが多数倒産したが、連鎖倒産は少ない。下請は一つのゼネコンに忠実な訳ではない。超大手はともかく中小ゼネコンの下請は片手間で中小ゼネコンの仕事を引き受ける事が多い。だから、超大手以外のゼネコンが潰れても下請の影響は小さい。
 総合建設業という形態が不自然だ。単独の巨大事業ならメリットがあるが、巨大事業は殆ど共同企業体で実施され、単独では殆ど無い。日本を代表する総合メーカーの不振からも分るが、超大手以外はメリットが無い。ゼネコンは三社で十分だ。

公共工事の重い負担
 日本の公共工事額の対GDP比は欧米の3〜4倍の異常な水準だ。欧米ほど社会資本が充実していないからという意見もあるが、アジアと比べても低くない水準だ。工事自体が目的なのだ。一九九六年度の公共投資額(固定資本形成)は41.9兆円で、これを基に80歳まで生きたとして一人が一生に負担する公共投資額を計算すると約三千万円だ。公共工事は借金によるし、償還期間も長い。老朽化や金利も考慮すべきだ。今、超低金利でも将来は金利上昇の公算が高い。借金が雪だるま式に膨れ上がり、国民一人当り負担が一億円を超す可能性もある。
 巨大建造物は何れも経営難だ。本四連絡橋は経営破綻、青函トンネルも利用者が少ない。東京湾アクアラインは1m1億円したが、通行が少ない。大都市を結ぶユーロトンネルでさえ経営難だ。田舎の超大型施設は当然赤字だ。


技術亡国

 日本人の中には、自国を「技術立国」あるいは「技術王国」などと誇らしげに呼んで得意になっている人が少なからず存在する。だが、その実態は、「物真似立国」または「技術亡国」とでも呼ぶのが相応しいお粗末な状態だ。日本が技術立国であるという考えは愚かな幻想に過ぎない。
 このような主張に対して、「お前はそれでも日本人か」と激怒している人がおられるかもしれない。しかし、私は日本が憎くて、このような事を言っているのではない。日本の科学技術のお粗末な実態を認めなければ、結局日本人が損をしてしまう事になる。巨大橋の建設や宇宙開発などにかかる莫大な費用は、韓国人が負担してくれる訳でも、中国人が負担してくれる訳でもない。当然、それは日本人自身が負担しなければならない。研究開発費に注がれる経済的な負担は重い。無駄な技術開発は国家の存亡に関わる重大な問題だ。
 教育に関しても、基礎研究の分野で力を発揮できる人材を作り出せないシステムになっている。応用技術が優れているといっても、所詮は基礎研究がお粗末であるために欧米の物真似をしているに過ぎない。過去の成功に安住してしまって、独創的で個性的な人材を輩出するのに全く熱心ではない。
 また、原子力発電のような巨大技術は一歩間違うと日本だけでなく世界を吹き飛ばしかねない。日本の技術を高く評価するのは愛国心でもなければ、美しいものでもない。
 逆に、食品や工業製品などの危険を強調する人の中には、大した根拠も無く危険性を感情的に煽り立てる人や騒ぐ事によって利益を得ようとしているのではないかと思われる人も見受けられる。日本の技術を低く評価したり貶したりする人が偉いとか正しいという訳でも無い。
 とにかく、日本では、ただ誉めるだけ、ただ貶すだけといった客観性に乏しい感情的な判断がなされがちだ。どちらがよりましという事ではなく、どちらも好ましくないので排除しなければならない。
 本書は、日本の科学技術に対して感情を一切排除して、客観的な判断を行う。

第一章 日本の技術が過大評価される理由
 日本人の中には自国の技術に自惚れる人が多い。その理由について、検証していこうと思う。

自国の技術に対する自信
 一九九九年九月三十日、茨城県東海村にあるJCOのウラン再転換施設で臨界事故という原子力関連施設としては致命的な大事故が発生した。従業員が作業手順を勝手に変更して、手作業による手抜き工事を行った事が事故の原因だ。この事故は原子力発電関係の事故としては旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で発生した事故やアメリカのスリーマイル島の原子力発電所事故に次ぐ甚大な事故という位置付けがなされている。
 これまで日本では原子力関連施設の安全性がやたらと喧伝されていた。原子力の危険性を訴える人たちは非現実的な夢想家として散々馬鹿にされてきた。しかし、現実はこのようにお粗末な体たらくであった。日本の原子力施設の安全管理体制がいかに低いレベルであるかが白日の下に晒された。
 この事故の発生に対してイギリス人やフランス人からは、「信じられないようなお粗末な事故であり、厳重に管理されている我が国ではこのような事態は考えられない」というようなコメントがあった。確かに欧米の検査体制は建設工事をはじめとして多くの場合、日本より遥かに厳しくてしっかりしているのは事実のようだ。しかし、イギリスやフランスの原子力関連施設が絶対に安全だと言い切れるのだろうか。これは自国の技術に対する驕りではないのだろうか。
 実はイギリスでも英国原子燃料会社(BNFL)のセラフィールド事業所で原子力燃料の杜撰な管理が行われていた事が明らかになっている。朝日新聞社系の週刊誌AERAの2000年4月24日号によると、BNFLのセラフィールド事業所でのMOX燃料工程で抜き取り検査データが捏造されていたそうだ。下手をすると原子力発電所の重大な事故に繋がりかねない致命的なミスが発生していた。この時に製造されていたMOX燃料は三菱重工から発注されていたのだが、このミスは日本側に対してだけではなく、BNFLの社長にすら秘密にされていた可能性があるようだ。
 似たような事は阪神大震災が発生する一年前の日本でも見られた。一九九四年一月十六日、ロサンゼルスで大地震が発生し、高速道路の高架橋が落下するなど建造物が大きな被害を受けた。このとき、日本の建設関係者たちはアメリカの建設費が安い点を指摘し、そのために安全性が犠牲になっているのだと説明した。そして、日本ではこのようなことはあり得ないと断言し、アメリカの建設工事や行政が如何にお粗末であるかを強調していた。日本の報道陣もまた、専門家の発言を鵜呑みにし、アメリカの建設工事が欠陥だらけであるというような報道を繰り返した。
 ところが、ロサンゼルスの地震からほぼ一年が経過した一九九五年一月十七日に発生した阪神大震災では、前年に発生したロサンゼルスの地震より揺れが小さかったにも関わらず、遥かに多くの犠牲者を出してしまった。専門家の中には「直下型で縦揺れの激しい特殊な地震」などという言い訳をした人もいたが、直下型の地震は今まで何度も経験しているので、必ずしも珍しいタイプの地震では無かった。この地震により日本の建造物の耐久性が極めて低く、如何に日本の建設工事がお粗末であるかが明らかになった。阪神大震災で破壊された建造物からは手抜き工事や欠陥工事が行われた証拠が嫌というほどたくさん見つかった。ところが、このような事があっても、多くの日本人は未だに日本の耐震技術が万全であり、構造物が地震に強いと思い込んでいる。
 戦闘機のように性能を数字で表しやすくて優劣が比較的明確である工業製品ですら、必ずしも客観的な評価がなされていない場合が少なくない。自国が開発した戦闘機に対して甘いと思われるような評価がなされている場合が少なくないのだ。例えば第二次世界大戦で活躍した日本海軍の零式艦上戦闘機とバトル・オブ・ブリティンでドイツ空軍相手に大活躍したイギリスの名戦闘機スピットファイアの優劣に関する評価は様々な文献を読んだところ、日本人とイギリス人で大きく異なっているような事例が見受けられる。日本海軍航空隊のエースとして大活躍した零戦パイロットである坂井三郎氏の証言によると、スピットファイアは零戦に比べると性能的に大した事のない格下の戦闘機であったという印象を受ける。
 しかし、イギリス側の記録を読むとスピットファイアの方が優秀であり、零戦は凡作であるかのような印象を受ける文献もある。戦闘機は優美さや精神性を競い合うものではない。いくら機体が美しくて芸術的でも性能が悪ければ存在価値は低い。空中戦の勝敗が戦闘機の数や燃料の質やパイロットの優劣やどちらが先に発見したかなどの諸条件に左右されるという問題はあるにせよ、戦闘機の性能は誰から見ても客観的かつ明確に優劣がほぼ決まりそうなものだ。それにも関わらず何故このように評価の大きな差が生じたのだろうか。
 このように自国の技術や検査体制に対する過大な思い上がりと思えるような高い評価は日本人に限らず、世界中に見られる。特に日本人にはその傾向が非常に強い。それは一体何故なのだろうか。その事について詳細に検討を進めていこうと思う。

技術ナショナリズム
 日本の工業製品に対する日本人の評価は過大であるようだ。この理由を自動車の例で説明する。日本人の中には日本製自動車の品質や生産システムが世界最高だと思っているが少なくない。日本製自動車がアメリカ製自動車より優秀だから、日米貿易摩擦が生じたのだと認識している人が少なくない。しかし、中国人によって著されて評判になった反米、反日的な著作である「ノーと言える中国」には韓国製自動車についての次のような記述がある。
 ある中国の記者が韓国を訪問した際、首都ソウルの街を走っているのがほとんど国産車ばかりで、輸入車が少ないことに驚かされた。韓国では、個人が車を買うときに国産車を選ぶのは、別に政府に強制されたわけではなく、個々人の愛国心のあらわれである。だからこそ、アメリカ人が一心に韓国の自動車市場を開放させようとしているにもかかわらず、いまだに韓国におけるアメリカ車の販売台数は年間二〇〇〇台強にしかならない。多くの韓国人は、アメリカに移住してさえもアメリカ車を買おうとせず、韓国車が世界一だという誇りをもっている。
 これと同じ様な事はフランス製品についても言える。フランス人はフランス製の自動車こそが世界最高と思っているようだ。このように各国民が自国の製品を最優秀であると思い込む大きな理由の一つとして、技術ナショナリズムという事が考えられる。自国の自動車が優秀だと思いたいという意識が働くのだろう。
 どこの国でもそうかもしれないが、自分たちが世界最優秀な民族だと思いたがる日本人は少なくない。特に科学技術に対しては、その傾向が強い。技術に対する思い入れの強さは日本をはじめとして世界中の多くの国に見られる。オペラと歌舞伎とどちらが優秀かと言われても、これらは精神性や芸術性を表現するものなので比較が難しい。決着をつけようとしても水掛け論になってしまうだろう。それに対してスポーツや科学技術はオペラや歌舞伎などの伝統文化や精神文化などと比べると数字で比較しやすいし優劣が分かり易いので、民族の優劣意識と繋がり易いのだろう。これらの分野ではつい競争に熱狂しがちだ。オリンピックが開催されると、多くの人が自国の選手を応援する。
 また、科学技術というのは高度なイメージがあるから、この分野が得意な国民は優秀民族という感覚を持ってしまいがちだ。特にこの分野では外国に負けているとは認めたくないという意識が強く働きがちだ。これは世界中の多くの国で見られる傾向だ。オリンピックに対する熱狂を責める気は無いが、科学技術についてはオリンピックと同じような感覚で考えるべきではない。自国の文化や歴史に誇りを持つのは一向に構わないが、科学技術に対するナショナリズムは大きな危険性を孕んでいる。
 過度のナショナリズムが、国家の破滅を招いた例は枚挙に暇が無い。太平洋戦争では日本軍が中国やアメリカなど敵国の戦闘能力を侮り、彼らの士気を過小評価した事が敗北に大きく繋がっている。旧日本海軍は大和という最強の戦艦を有していたが、日本が誇るこの巨大戦艦は海戦で殆ど活躍する事無く、アメリカ軍の空襲により沈没している。自分たちが劣っていると認めたくないという意識があったのだろう。
 巨大化した現在の技術の危険性は核兵器のような軍事部門だけでなく、平和目的の技術についても注意を払わなければならなくなった。ダイオキシン、高速鉄道の事故などは社会に甚大な被害をもたらす恐れがある。原子力発電所の事故は、日本全土を吹き飛ばしてしまう可能性がある。場合によっては、世界を破滅させてしまう可能性すらある。
 日本の技術が本当に優秀であるのかどうかを徹底的に検証してみる必要がある。自国の技術については、どうしても優秀だと信じたい願望が働いてしまいがちだ。そのため、科学技術に対する正しい判断力を失いがちだ。しかし、厳しく客観的な評価をしないと自分たちが損してしまう恐れがある。
 技術ナショナリズムが国家の崩壊に繋がった典型的な例が米ソの宇宙開発競争だ。かつて米ソの間で国家の威信をかけた激しい宇宙開発競争が行われた。それがソ連の崩壊を招いた大きな要因の一つとなっている。宇宙開発は科学技術の発展に大きく貢献すると言われているが、ソ連がアメリカと張り合っていたのは国家を発展させたり国民を豊かにさせたりするという実用的な意味だけでなく、技術的な優劣が比較的分かり易い分野でアメリカに勝ちたいという幼稚な意識があったようだ。競争自体が宇宙開発技術の存在目的となってしまった。
 大して意味の無い愚かな競争によって、軍事など多くの分野で間違いなく世界第一級の科学技術を保有していた超大国ソ連はあっけなく崩壊してしまった。今のロシアにはかつての超大国の面影は全く無い。先進国どころか発展途上国と言われても仕方ない状態だ。ロシア人売春婦が日本の都市を徘徊しているが、彼女たちは日本人男性に特別魅力を感じて体を売っているという訳では無さそうだ。国家の愚かな政策の失敗によって、仕方なく売春婦に転落してしまったのだろう。これは日本にとっても他人事ではない。下らない技術開発にうつつを抜かしていると、日本人女性も外国人相手の売春婦として輸出しなければならなくなってしまうだろう。
 そもそも、技術の優劣と民族の優劣は全く関係ない。自分の国に優秀な人材がいなければ移民を受け入れればいい。アメリカの技術が優秀なのは、ロケット工学のフォン・ブラウンや化学者のフェルミといった天才的な外国人を積極的に受け入れてきた事が大きな理由だ。
 現在の技術をもってすれば、高さ千メートル以上の建造物を建設する事はさほど難しい事ではない。また、ひたすら速度を追求すれば時速千キロ以上の速度で走行する列車を作る事も恐らく可能だろう。しかし、これらは採算性や実用性という事を考えると必要性が非常に低い。「高さのための高さ」、「速度のための速度」を追求しても無意味だ。日本には世界最大の橋、世界最速の列車というような世界一がたくさんある。だが、これらは日本人の優秀性を示すものではなく、愚かさを示すものでしかない。

日本市場の閉鎖性
 日米貿易摩擦が発生した原因についてはアメリカ側から「日本市場の閉鎖性に問題がある」と盛んに指摘されてきたが、アメリカの対日貿易赤字が発生した原因の全てが日本市場の閉鎖性によるものではない。例えば、自動車の場合について考えると、アメリカ製自動車には大型で燃費が悪い製品が多かったという事が日本であまり売れなかった大きな理由の一つだ。しかし、アメリカの主張する通り、貿易不均衡が生じたのは日本市場がアメリカより閉鎖的である事が大きな理由の一つである事は紛れも無い事実だ。
 現在、東京都知事である作家の石原慎太郎氏は、かつて如何に日本市場が開放的であるかをやたらと強調していた。確かに、石原慎太郎氏が主張するように、輸入工業製品に対する関税率など表面的な数字だけを見れば日本市場は極めて開放的であり、超優等生とさえ言えるかもしれない。しかし、系列企業間の取引や株式の持ち合いや談合などをはじめとする日本特有の様々な閉鎖的慣習が非関税障壁として外国製の工業製品や外国の建設会社の参入を阻んできたのも厳然たる事実なのだ。
 例えば、私の努めていた準大手ゼネコンの(株)鴻池組では、社内で業務用に使うパソコンとして日本電気のPC98シリーズを購入する事が推奨されていた。(株)鴻池組が日本電気製のパソコンを優先的に購入していた大きな理由の一つとして、メインバンクとなっている住友銀行の系列企業である日本電気の製品を義理で優先的に購入しようという意図があったようだ。このような系列間取引を重視する姿勢は他の日本企業でもよく見られる。パソコンのパワーユーザーとしてみれば、特に性能が優秀な訳でもないし値段が高く互換性に難のある旧規格のPC98など出来ればあまり使いたくないという人が少なくなかった。しかし、外国製パソコンの購入を希望しても、会社から許可が降りないという事がしばしばあった。(株)鴻池組以外の会社でもそういう事はよくあるようだ。
 日本市場の閉鎖的な慣行として代表的なのが公共工事における建設業界の談合だ。ゼネコン社員は一人でできる事を二十人でやっていると言われている。このように日本の建設会社はちっとも優秀ではないのだが、閉鎖的な慣行のために外国の建設会社が日本の建設工事を受注する事が出来ないでいる。そういう訳で、外国の建設会社が日本で工事を発注できないのは必ずしも日本のゼネコンが優秀だからという訳ではないのだ。外国から談合を排除するように要請された事に対して、日本側からは、「内政干渉だ。提訴してやる」などと息巻いているような的外れな主張さえある。
 このような数字に表れにくい非関税障壁は日本の社会の随所に存在する。アメリカが、「日本の市場は閉鎖的だから、アメリカ製品が日本ではなかなか売れない」と主張しているのは全くの言い掛かりとは言えないのだ。しかし、日本人の中には「工業製品の貿易不均衡は、日本製品がアメリカ製品より優秀である事とアメリカ人がアメリカ製品の売り込みに対する努力を怠っている事が原因である」と思い込んでしまった日本人が少なくない。
 日本だって中国の日本に対するダンピングや日本製品に対する著作権侵害などに対しては盛んにクレームをつけているのだが、その事はあまり大きなニュースになっていない。アメリカからの市場開放に関する対日要求だけをマスコミが好んでニュースとして取り上げているから、アメリカの態度が横暴と感じるのであって、アメリカの軍事行動についてはとにかく、日米の経済関係についてはアメリカの対日要求はさほど横暴とは思えない。
 ただ、日本市場が閉鎖的であると言っても、あくまで欧米と比べての話であって、アジアやアフリカ諸国などと比べると日本市場の方が遥かに開放的であると言える。建設業界のような極端な例を除いて、世界の平均から見るとむしろ日本市場は開放的な方であると思われる。あくまでアメリカとの間で市場の開放性に差があるから、日米貿易摩擦が生じているのだ。特に日本の農業に関しては閉鎖的と思われているようだが、意外に開放的だ。「米は一粒たりとも輸入しない」という極端な話を聞いてきたからそう思うのであって、農業全体としてみると必ずしも閉鎖的ではない。日本の農産物市場は世界一開放的と言っても過言ではない。
 そもそも、日米貿易摩擦が生じたのはアメリカ製品が劣っているとかアメリカ人が怠惰という事が理由ではない。むしろ、先進国を相手にした方が工業製品を売りやすい傾向がある。市場を閉ざしている国に対してはいくら優秀な製品でも売る事ができない。また、需要や金がない国にも製品を輸出する事はできない。アメリカは中国や韓国などとの貿易摩擦でも苦しんでいるが、アメリカの製造技術の方が韓国や中国より高いと考える人の方が圧倒的に多いだろう。このように工業製品の貿易収支に関しては先進国が発展途上型工業国に苦しめられる場合が少なくない。だから、むしろ日本が発展途上段階にあった事が日米貿易摩擦の原因だったのであり、その点を多くの日本人が、「日本の工業製品はアメリカの工業製品より遥かに優秀だから、貿易摩擦が生じているのだ。日本の技術は既にアメリカを凌駕した。もう、アメリカに学ぶ事は何もない」と勘違いしてしまったのだ。

地元のメリット
 自国で生産された製品が国際競争をする上で持つ様々なメリットというのもまた、日本の工業製品が多くの日本人から実際の品質以上に高く評価されている大きな理由の一つだ。工業製品や農産物などの競争力については、地元で作られた製品の方が輸入品より有利になりやすい傾向がある。
 例えば、自動車を例に国産製品と輸入品の品質の違いについて考えてみよう。自動車の品質を競い合う場合に一番有利なのが、その国で生産された自動車である場合が少なくない。生産する自動車のうちの輸出にまわす割合にもよるが、自動車は普通、その国の風土に合わせて作られる場合が多い。気候や舗装率などの道路状況やガソリン代の高低などの自動車をとりまく環境に関する諸条件は国によって大きく異なってくる。
 例えばタイのような熱帯地方の国で使用する自動車では冷房がないと不便だが、ヒーターのような寒冷地用の装備はあまり必要とはしない。タイではヒーターがついていない自動車が売られている。同様に日本製の自動車は日本の風土に合わせて作られている事が多い。アメリカ車はアメリカの風土に合わせて作られる事が多い。アメリカの自動車は一般に日本製自動車より大きくて燃費が良くないのが特徴だ。道路が狭く、ガソリン代がアメリカより遥かに高い日本ではやたらと大きくて燃費の悪いアメリカ製の自動車はあまり人気が無かった。そのせいもあり、アメリカ製自動車の日本での販売は振るわなかった。
 これは、必ずしもアメリカ製の自動車が日本製の自動車に比べて劣っているという事を示すものではない。その証拠に、北米やアジアやヨーロッパをはじめとして、ゼネラル・モータースやフォードなどをはじめとするアメリカ製自動車は世界中で一番良く売れている。道路や駐車場が日本より広くてガソリンなどの燃料代が安いアメリカでは、車体の大きさや燃費の悪さはドライバーにとって大してデメリットにならないので、アメリカで使う限りにおいては必ずしも致命的な欠点とは言えないのだろう。
 性能や品質以外についても様々な面で、国産製品が競争において輸入品より有利になり易い傾向がある。その事が、国産の製品が外国製品に比べて優秀だと思われがちな大きな理由の一つだ。輸入品については国産品に比べて、関税や輸送コストなどの余分なコストや時間がかかってしまう場合が多い。その分、輸入品は価格競争力が劣り、新製品の投入時期も遅れてしまうなど様々な面で国産製品より不利になりがちだ。サービスという点でも、外国製品は国産製品のようにサポートセンターが十分整備されていない場合が少なくない。外国車は国産車と比べて、サービスステーションやショウルームなどが少ない場合が多い。説明書がその国の言葉でないと消費者には分かり難い事が多い。社員の質という点でも言葉や生活習慣などの違いなどが外国企業や外国製品にとって国内の企業や国産品と比べて不利になり易い条件だ。そういった余分な手間が輸入品にとって非関税障壁となりがちだ。
 このように地元製品の持つ様々なメリットが日本人にとって日本製品を過大に評価させる一因となっているのだろう。これは日本人以外の多くの国民についても言える事だし、日本特有のアンフェアな慣習とは必ずしも関係ないのだが、この事については、しっかりと認識しておく必要がある。
 日本の工業製品が外国の工業製品より優秀と思われがちな別の大きな理由として、輸出品と国内で販売する製品に品質の差がある事が指摘されている。また、「ノーと言える中国」からの引用になるが、アメリカに留学したある中国人留学生によると中国にある日本製自動車の品質はアメリカで売られている同型車に遥かに及ばないそうだ。彼のもっていた日産自動車の車は、アメリカで一一年間風雨にさらされてきたが、車体の塗装はいまでも鏡のようにピカピカだそうだ。だが、中国の道路を走っているブルーバードにはそんなものは一台もないそうだ。彼は日産自動車のある幹部社員と話をした感想を次の様に述べた。
 日本人は一流品は欧米に輸出し、二流品は自分のものにし、三流品を中国人に売りつける。
 この話自体が本当かどうか確かめていないので分からないが、多いにありそうな感じのする話だ。事実、似たような話は盛んに耳にする。数年前の事だが、日本の自動車メーカーは日本より衝突安全基準の厳しい欧米に輸出する自動車についてはドアに補強用のサイドビームを入れるが、日本車には入れていないという事がテレビで放送されるなどして話題になった。
 これは自動車以外の製品についても同じ様な事が言える。以上のような理由で、日本製品は輸入製品より優秀と思う日本人がいるのだろう。

御用学者が多い
 科学技術に対する評価は、専門家による評価が最も正解に近いと思われがちだ。工学部教授などの学者は理屈を良く知っているし技術者は製造現場をよく知っている人が多い。学者や技術者による技術評価はとても重要だ。
 しかし、企業の技術者や工学部教授などによる技術評価は様々な問題点を孕んでいる。それらの人たちによる技術評価の大きな問題点の一つは、技術を評価する立場の組織や人物が企業に対して公平でも中立でも無い場合が少なくない事だ。メーカーやゼネコンの社員による技術的な説明は、会社の宣伝を含んでいるという事も当然有り得る。例えば、石原慎太郎氏が著した『「NO」と言える日本』では、石原氏の友人である三菱重工の技師長が設計したとされている次期支援戦闘機の優秀性が強調されている。三菱重工の技師長による次期支援戦闘機の性能についての解説は、三菱重工の社員によって三菱重工に有利な説明がなされた可能性がある。
 日本の技術を高く評価している研究機関として、PHP研究所や三菱総合研究所などがある。これらの研究機関は、どちらも大手メーカーの御用機関となっている。PHP研究所は松下電器産業と、三菱総合研究所は三菱グループと深い関係がある。特にPHP研究所の息のかかった技術評論家や技術評論関係の著作は数が多い。
 代表的な技術評論家としては唐津一氏や牧野昇氏がいる。唐津一氏はPHP研究所と、牧野昇氏は三菱総合研究所と関係が深い。
 もちろん、工学部教授や技術評論家の中には企業の手先ではない良心的な人もいる。決して、御用評論家ばかりではないし、客観的で洞察力を持つ人もいる。例えば、コンクリート工学の権威であり著書に「コンクリートが危ない」(岩波新書)がある小林一輔千葉工業大学教授は建設業者の手抜き工事を盛んに糾弾している。しかし、企業や官僚に媚びない人たちは資金面をはじめとして様々な面で苦労しがちだ。技術の危険性など企業に不利な情報についての本を出す場合には、自分で資金を調達しなければならない。新聞や雑誌などで好んで使われるコメントは日本の技術を褒め称える御用学者によるものが圧倒的に多い。良心的な評論家は、企業の後押しがある御用評論家にはなかなか勝てない。企業や政府の御用評論家でないとなかなか有名にはなれない。技術評論家については、「悪貨は良貨を駆逐する」という感じなのだ。
 工学部教授による技術の評価というのはどうだろうか。これも技術評論家と同様に中立的立場に無い場合が多い。そもそも、技術評論家には工学部教授が多いので技術評論家との共通点も多い。必ずしも、全ての工学部教授が企業から賄賂を貰っていると言っている訳ではない。しかし、直接的に企業から金を貰っていないにしても、メーカーやゼネコンの援助なしでは研究開発を続ける事が困難な状況だ。また、学生の就職に関してもメーカーやゼネコンに世話になる。工学部教授は、メーカーやゼネコンに対して悪口は言いづらい立場にある。また、東海大学教授の唐津一氏をはじめとして、技術評論家には工学部教授が少なくない。
 一九九五年一月十七日に発生した阪神大震災では手抜き工事や欠陥工事が多数、発覚した。建設関係者は日本の耐震技術の高さを誇っていたが、建造物が極めて地震に脆い事が露呈した。阪神大震災の約一年前にロサンゼルスで地震が発生して建造物が大被害を受けた際に「日本ではこんな事はあり得ない」と大見得を切っていた学者やゼネコンなどの建設関係者たちは苦しい言い逃れをした。
 阪神大震災発生後の建設関係者の話は、「地震力は通常、横方向に働くものだ。今回は縦方向の揺れが強い特殊な地震だったので被害が大きかった」とか「千年に一度起きるかどうかというような巨大な地震が起こったのだから、被害はある程度仕方ない。全ての建物を巨大地震に絶えられる構造にするのは不経済だ。これだけ地震の規模が大きければ、被害はやむを得ない。地震後の迅速な救助活動で被害者を減らすしかない」あるいは、「倒壊したのは、木造や古い基準の建造物であり、新しい基準の建造物は殆ど被害を受けていない」などと言い訳をしている。
 この話は一見、もっともらしく聞こえるが、そうではない。実際には「新耐震」の建物でも大きな被害を受けた例は少なくない。阪神大震災は被害が大きかったから凄い地震だというイメージがあるが、揺れを示す数値galを比べると約一年前にロサンゼルスで起こった地震より弱かった。地震の水平力だけに気を取られていたのは、研究の未熟さを示すものだし、千年に一度の頻度で発生する大地震のために建物を強化するのは不経済だという説明は自分勝手な言い訳でしかない。高架橋が倒れた直ぐ傍で旧式の木造建築や地震に弱いとされるブロック塀が殆ど被害を受けずに残った例も見受けられた。
 このように工学部教授や技術評論家の中にはメーカーやゼネコンの手先のような人がたくさんいる。専門家に「日本の技術は素晴らしい」と言われれば、どうしても素人は信じ込んでしまいがちだ。日本に企業や政府の御用学者が多いという事が、日本の技術が過大評価される一因となっている。

GDPが大きい
 東海大学総合科学技術研究所の唐津一教授は、日本のGDP(国内総生産額)は年間約五百兆円で、イギリスとドイツとフランスのGDPの合計額より大きい事を盛んに自慢している。そして、年間約五百兆円という巨大なGDPを稼いでいる主役が製造業や建設業などの物作り産業だ。
 日本人の中にはGNPやGDPあるいは一人あたりのGNPやGDPの額が大きい事を誇らしく思う人が少なくないようだが、実は必ずしも自慢にはならないのだ。GDPは、その国の経済状況を示す一つの重要な指標ではあるが、GDPを大きくする事が国家の最終的な目標ではない。GDPを増やす事だけに徹底すれば、GDPの額を倍増させる事も、技術的には、それほど難しい事ではない。しかし、単にGDPの額だけを無理に膨らませても、あまり意味が無い。
 GDPというのは、企業の経営で例えると売上高のようなものだ。企業の最終的な目標は利益をあげる事であって、売上高はその過程に過ぎない。例えば、大手スーパーの代表格であるダイエーとイトーヨーカドーの業績を比較すると、売上ではイトーヨーカドーはダイエーより遥かに少ない。しかし、利益の額では、イトーヨーカドーの方がダイエーを上回っている。企業にとって大事なのは、収益性だ。これは国家についても似たような事が言える。
 日本は加工貿易を得意とする工業国なので、石油や鉄やアルミニウムなどの工業用資源を大量に輸入しなければならない。ゼネコンやメーカーの中には、利益率が一割にも満たないような企業が少なくない。利益率が一%を割っている会社すら存在する。製造業の場合、売上は大きくても、原料の購入費や工場などの設備にかかる費用など途中の経費もまた大きいので、手元に残る金額は大幅に目減りしてしまう。NECをはじめとする日本の大手電機メーカーは、売上では格下であるアメリカのマイクロソフト社に収益性では遥かに及ばないし、力関係ではマイクロソフトの方が上にある。企業の業績については、売上高など見掛けの規模だけでなく、収益性についても注意しなければならない。
 日本には青函トンネルや明石海峡大橋や東京湾アクアラインなどの殆ど使われない超巨大施設の建設といった無駄な公共事業が多過ぎるという事も、日本経済の実態よりGDPを大幅に膨らます結果に繋がっている。日本の建設投資額はGDPの二割程度を占めている。これは欧米諸国の数倍にも達する異常な割合だ。その大半が無駄な投資である事を考慮すると、無駄な建設投資額はGDPの一割を超える額になってしまう。国の実力としては、GDPからこの無駄な建設投資の分を割り引いて考える必要がある。
 工業部門で費やされる原料費や工場に対する投資などの途中経費や、公共事業の無駄の分を割り引いて考えると、最終的に手元に残る金額は五百兆円より遥かに少ない額になってしまう。
 かつてはGNPやGDPの大きさが国家の実力を示していると考えられていた時期があった。特に戦争中は生産力が勝敗を決める重要な要素になる。従来はGDPが大きいという事は、生産性や産業の効率が高い事を示していた。しかし、冷戦が終了し物が余っている現在では必ずしもGDPの大きさが国家の実力を示す有効な指標ではなくなってきている。
 豊かになった現代社会では物があり余っている状態だ。無駄な生産を繰り返している国や環境保護やリサイクルの事を全く考えない国の方がGDPの大きな国になりやすい事になる。車を平均して十五年間使う国と五年で廃車にする国では後者の方がGDPは大きくなり易い事になる。このように、長持ちする製品を作るとメーカーの売上が減るから、GDPの減少に繋がり易い。GDPが大きいという事は、別の見方をすると無駄が多い国であるというふうに考えられない事もない。
 イギリスのように社会資本がほぼ整備された国では、橋や道路などの新規建設はもうあまり必要ない。ドイツなどをはじめとして物を大事に使って長持ちさせようという傾向が先進国に拡がっている。そういった事はGDPを縮小させる方向に向かわせる要因だ。次々に新しい物を作りまくって、使い捨てにする国の方がGDPが大きくなり易いという傾向がある。
 このようにGDPが大きいという事は必ずしも自慢にはならない。GDPは単に分かり易いというだけで、必ずしもその国の豊かさや進歩の度合いを示すものではない。GDPで比較すると実質的な豊かさが日本と同じ国よりも日本の方が大国に見えてしまいがちだ。そして、その見せかけだけの大きさであるGDPを支えてきたのが製造業や建設業だ。日本経済は言わば、張子の虎のようなものだ。それが技術立国という幻想を生んだ一因である。

存在価値の低い技術
 技術に対する評価は必ずしも過大ではないが、その技術の存在価値自体があまり高くないというような技術が日本では少なくない。その代表的な例として液晶の製造技術と巨大橋建設技術について説明する。
 日本の液晶製造技術が抜群に優れているという話はよく聞く。東海大学の唐津一教授をはじめとして日本の液晶技術を絶賛する人は少なくない。果たして、日本の液晶製造技術の実態はどうなのだろうか。
 液晶表示技術を世界で初めて開発したのはアメリカのRCA社と言われている。しかし、液晶製造の主役は次第に日本に移り変わっていった。確かに、液晶の分野では日本は他の国と比べて抜け出た存在であるようだ。日本の液晶製造技術が優れている事はほぼ間違いないようだ。コンピュータのディスプレイはノートパソコンではもともと液晶が使われていたし、デスクトップ型のパソコンのディスプレイについても今まで主流だったCRTディスプレイから液晶ディスプレイに移行しつつある。将来的には液晶がコンピュータのディスプレイの主流になるという事は、別の画期的な技術が開発されない限り、ほぼ確実のように思われる。今日のOA化や情報化社会にとって液晶は欠かせない存在であり、今後ますます液晶の地位が高まっていきそうだという事は素人でもおよそ見当がつく。
 では、この極めて重要な液晶製造の分野を制した日本は、先端技術の世界で圧倒的な強さがあるのだろうか。私は日本が液晶技術で優れている事に対して、あまり大きな期待はしていない。日本が液晶を得意としている事は必ずしも日本の先端技術が飛びぬけているという事を意味しないし、実は、それほど自慢になることではない。
 日本が液晶を得意とする理由として、欧米諸国には日本ほど液晶に力を入れていない国が多いという事情がある。そもそも、液晶の製造というのは、非常に歩留まりが悪いと言われている。液晶ディスプレイは一つ一つの細かい粒から構成されており、非常に工作の手間がかかる。それにディスプレイのサイズが違うと同じラインでは作りにくいという事情もあるようだ。このような理由があり、液晶の製造というのは自動化が非常に難しい。そのため、あまり儲かりにくいと言われている。
 コンピュータの中心部であるCPU(中央演算装置)を製造しているアメリカのインテルは日本の電機メーカーや半導体メーカーと比べて極めて高い収益を上げているようだ。日本のメーカーだって、できればCPUのような儲けの大きい製品をたくさん作りたいというのが本音であろう。しかし、そういう収益性の高い分野は、殆どが欧米のメーカーによって占められている。
 要するに、日本のメーカーは収益性の高い分野を欧米に取られてしまったから、仕方なく液晶製造のような収益性の低い仕事をしているに過ぎないのだ。できれば、液晶製造などあまりやりたくないというメーカーがあっても何らおかしくない。アメリカをはじめとする外国の技術で日本製の液晶ほどではないにしても、必要最低限の性能を持った製品は作ろうと思えば作れるだろう。最近では、台湾、韓国などが量産体制に入りつつある。また、アメリカも液晶製造に力を入れ始めている様子だ。
 液晶自体は重要性が高いのだが、液晶製造技術については無くても、製品を外国から輸入すれば済む話だ。また、抜群な液晶技術があったからと言って、外国が日本に対して平身低頭する事もあまり考えられない。これは日本人が黄色人種だから馬鹿にされているのではなく、既に説明した通り、日本に売ってもらわなくても大して困らないからだ。
 液晶製造技術はあっても困らないし、それなりの存在意義はある技術だ。だが、巨大橋の建設技術となると何の意味も無い無駄な技術というだけでなく、ある事が社会にとってマイナスにさえなっている。
 例えば、青函トンネルのような巨大トンネルを建設して採算のあう場所は世界中捜しても見当たらない。ほぼ同じ規模で欧州の大都市を結ぶユーロトンネルでさえ、赤字なのだ。巨大土木建造物については後で詳しく説明するが、とにかく、こんな技術があるために、無駄な橋やトンネルを造らなければならないというのは馬鹿馬鹿しい限りだ。
 巨大橋の建設技術のように技術自体は確かに優秀だが、存在価値の低い技術の是非というのは専門家よりも素人の方がむしろ気付き易い事もある。
 実際には見かけほど重要でない技術や必要性が全くなくどうでもいいような技術が多いという事が日本の技術を過大評価させる一つの要因となっている。

第二章 物作り産業に関する勘違い
経営者と消費者の意識のずれ
 日本のメーカーの動向を見ていると、消費者のニーズや要望から完全に意識がずれているのではないかと思われる事例が数多く見受けられる。幾つかの例をあげて説明する。
 一九九七年頃だったと思うが、NHKの特別企画として財界などをはじめとする各界の著名人が出演して緊急に討論する番組があった。その番組の正確な日時や名前は覚えていないが、テーマは「現在の深刻な不況から日本経済をどう立て直すか」というような事だった。その著名人の中にNECの関本忠弘会長(当時)がいた。
 コンピュータの業界に関する用語としてウィンテルという言葉はよく見聞するが、ウィンテルとはパソコンのOSのシェアで圧倒的な強さを誇るウィンドウズとコンピュータの心臓部であるCPUでパソコン分野を制したインテル社の頭文字を合わせた造語の事だ。
 ウィンテルがパソコンのOSとCPU(中央演算装置)という情報通信分野の主要な部分を牛耳っており、彼らが日本のメーカーに対して支配的な立場にある事についてどう思うか関本氏が尋ねられた。関本氏は顔を斜めにしてふんぞり返り、「ふん。我々の開発している半導体の方が遥かに優秀だ」というような事を自社製品の半導体を手に持って見せびらかしながら、その半導体が如何に優秀であるかを得意になって語っていた。「何メガ」と言っていたかは覚えていないが、具体的な数値をあげてその半導体の優秀さを強調していた。「いずれ、巻き返す」というような彼の姿勢は自信に満ちていた。
 私はこれを見て、「ああ、この会社はもう駄目だな」と思った。確かに数値だけにこだわれば、現在最優秀の半導体の百倍の性能を持った半導体を作る事も十年以内には恐らく可能だろう。しかし、いくら性能が良くてもユーザーのニーズに合わないような製品を作ってもあまり意味が無い。何故、インテルが世界一の半導体メーカーに躍進したのかという事をよく考えてみる必要がある。単に性能だけだったら、インテルの製品と比べてさほど見劣りしない製品もある。インテルの経営者の優れているところは早くから、OSとCPUに目をつけた事だ。日本の半導体メーカーがメモリに力を入れる会社やあらゆる分野に手を出す総合電機メーカーが多いのに対して、インテルはCPUに特化した。CPUはOSとの繋がりが強いという特徴がある。その点でソフトに弱い日本のメーカーは後手にまわる事になってしまったという面もある。あれから三年以上経っても未だに日本の電機メーカーがウィンテルの支配を受け続けている現状を見ると、関本氏の発言は間違いであったと考えた方が正解に近いのではないだろうか。
 技術的な事とは違うかもしれないが、ここで、東芝が顧客からインターネットで中傷された事件についても述べておく。東芝製品を買った顧客が東芝に苦情を訴えた。すると、その顧客は電話で強烈な罵詈雑言を浴びた。その音声をインターネットで公開したところ、ものすごい反響を呼んだ。というのが事の顛末だ。
 私はこの顧客がやった事は決して誉められる事ではないと思っている。こういうやり方というのはフェアではない。何度も嫌がらせの電話をするうちに相手が激怒して、顧客を怒鳴りつけるという事も有り得る。そして、その部分だけを公表すれば、非常に無礼な応対をしたという印象を受けるだろう。だから、この東芝事件自体に対しては、私はどちらの味方をする気もない。
 ただ、この事件はメーカーの消費者に対する応対の悪さをあからさまにした。私は東芝製品のサポート体制についてはよく知らないが、京セラのプリンターの不調を電話で訴えた事がある。相手はやくざのような口調で、「お前の説明では何を言っているか分からない」というような素人扱いを受けた。技術評論家の私でさえ素人扱いされてしまうのだから、多くの消費者がメーカーの相談室から不愉快な思いをさせられている事は想像に難くない。
 東芝の事件について言うと、顧客に電話で応対したのは警察官OBだそうだ。警察官OBというのはやくざより態度が悪いと言われる事が少なくない。そのような人物を顧客に対応する部署に配置したのが間違いのもとだ。その点を東芝は根本的に考え直す必要があるのではないだろうか。
 メーカーというのは単に優秀な製品を作ればいいというものではない。消費者の苦情処理も含めた運用面などについても考えなければいけない。最近、ソリューションという言葉が流行っているが、今後は運用面の比重が高まっていく事はほぼ間違いない。そういう面で日本のメーカーは根本的に遅れをとっていると思う。

独善的な技術者
 技術評論家や工学部教授に企業などの御用学者が多い事については第一章で既に説明した。日本の科学技術の専門家の問題点としては企業や政府との利権や癒着などの関係という以外にも大きな問題がある。
 利権以外で技術評論家や工学部教授などに見られる大きな問題点としては、日本の科学技術関係者の中には社会性に欠ける独善的な人が少なくないという事だ。明石海峡大橋のような超巨大建造物やリニアモーターカーの開発に見られるように、日本の技術者は、橋の大きさや列車の速さといったハードウェアの見かけの数値にこだわり、ソフトウェアの優劣や費用対効果といった面に全然興味を示さない人が少なくない。巨大技術の開発には談合や贈収賄といった利権が裏に絡んでくる場合がしばしばある。実際には必ずしも社会にとって必要性が高いからという理由で、研究開発が進められている訳ではない場合も少なからず存在する。しかし、日本の技術者はそういった社会の裏側や国民や消費者の要望に対して無頓着で、ひたすら意味の無い性能を追求する幼稚な人が多い。言わば、「技術のための技術」というような、それ自体が目的になっている場合が少なくない。
 これは日本の社会全般について言える事かもしれない。例えば、公安警察は、冷戦が終了し左翼勢力が衰退した現在では存在価値は無くなったと断言する人も少なくない。しかし、公安警察に所属する人にとってみれば、組織が解体されれば自分たちが職を失い路頭に迷う事になる。そのために過激派に代わる仮想敵を作り出そうという動きが見られる。週刊誌上などで、公安警察が過激な活動とは無縁な市民活動家までもターゲットにしようとしている事が話題になった。これについては保守派の文化人の中にさえ、やり過ぎではないかという意見を述べる人がいるほどだ。このように現在では存在価値が無くなった組織に対して、無理やりとってつけたような理由をつけて存続させようという動きは、科学技術の世界でもよく見られる。超巨大橋の建設技術は航空機の発達した現代では全く必要のない技術だ。しかし、巨大橋の建設を止めると建設技術者が職を失う事になるので、無理やり理由をつけて建設を継続させている。
 別の大きな問題点としては、専門家と言われている人あるいは専門家と称している人の中には、実態がよく分かっていないにも関わらず、分かったつもりでいる人が少なくないという事だ。工学の専門家と言っても普通は、建築が専門とか電子工学が専門であるとか、ごく狭い分野でしか分からない人が殆どだ。どんな天才でも、実践的な知識をよく理解している分野というのはごく狭い範囲でしかない。例えば、東海大学の唐津一教授は、日本の殆どあらゆる分野の技術を褒め称えているのだが、本当に全ての分野の技術について理解しているのかどうか多いに疑問だ。唐津一氏や牧野昇氏は一応、工学に対する専門的な知識は持ち合わせているようだ。しかし、どんな研究者や技術者についても言える事なのだが、一人の人間が専門としている技術や研究の分野は殆どの場合、科学技術全体のうちの本当にごく狭い範囲でしかない。例えば電子工学を専攻したとか建築工学が専門であるといったように、技術者の専門的な知識はごく限られた狭い範囲のものでしかない場合が少なくない。しかし、技術評論家の中には自分が知っているごく限られた範囲について評論するのではなく、殆どあらゆる分野の技術について評論している例が見受けられる。例えば、電子工学の専門家と称する人物が大深度地下や超大橋の建設技術についてコメントするといった具合だ。実際に技術評論家のような職業に就けば、多くの分野について総合的に評論する必要がある場合も出てくるかもしれない。自分の専門の分野だけでなく、知らない分野についても評論しなければならない事も場合によっては出てくるかもしれない。厳密に自分の知っている範囲だけで、評論していたら商売にはならない事もある。
 技術評論家の中には実際には素人と大差ないという人もいるようだ。自分の知らない分野についても知ったかぶっているという場合もある。実際に工場見学をしたところで必ずしも実態がつかめるとは限らない。企業としては見学者に対して、良い所だけを見せたがるから、見学する側は問題点には気付きにくい。阪神大震災に対する建設関係者のコメントにしても、建設業者を庇っているという面もあるが、手抜き工事や欠陥工事の実態に対して致命的に実態が分かっていないという面もある。もちろん、全ての技術評論家が夢想家という訳ではない。私自身も技術評論家であるから、同業者を苛めるのは本望ではない。しかし、夢想家のような技術評論家がいるという事はしっかりと認識しておく必要がある。

製造業離れと3K
 3Kという言葉が登場したのは確かバブルの初期の頃だったように思う。3Kとは「危険、きつい、汚い」の頭文字をとったものだ。当時、理工系の学生の製造業離れが大きな社会問題になっていた。若者が製造業や建設業を嫌うのは、製造業や建設業が危険、きつい、汚い、或いは給料が安いといった過酷な状況があるからだという社会一般の認識が形成されていった。
 しかし、製造現場の実態は本当に3Kなのかどうか私は疑問に思っている。「危険」という事に関しては、オフィスのデスクワーク業務と比較した場合、確かに事故の確率は製造現場の方が高いと考えるのが一般的だろう。しかし、実際に製造現場で働いている人たちはそんなに危険と思っていないのではないだろうか。危険とは言っても、工場や建設工事現場で事故死する確率は一般的に自動車事故の死亡率より低い。決死の覚悟で工場や建設工事現場にいる人は恐らくあまりいないだろう。
「きつい」と言われている事に関しては、これは全くおかしな認識だと言わざるを得ない。頭脳労働と肉体労働のどちらがつらいとは一概に言えないだろうし、あまり意味の無い比較だ。「デスクワークよりも体を動かしている仕事や外でする仕事の方が好きだ」と言う人も決して少なくないし、夜遅くまで年中無休でデスクワークをするのと五時で仕事が終わる週休二日の肉体労働を比較した場合、後者の方が楽かもしれない。頭脳労働者が過労死した話は良く聞くが、工場労働者や建設現場の労働者が過労死したという話はあまり聞いたことが無い。また、最近の工場では自動化や機械化が進んでいて、過酷な肉体労働は著しく減っている。サービス業の中にも、労働条件が過酷な業種はたくさんあるし、製造業が特に「きつい」とは言えないのではないか。
「汚い」という事についても現実を正確に認識していないように思う。建設工事現場などでは体が汚れ易いという事は言えるが、食品工場や半導体工場などでは、汚いどころか、逆に究極の清潔さが求められる場合も少なくない。しかも、清潔さが求められる分野には先端産業が多いから、今後そのような工場が増える公算が高い。製造業が特に体が汚れる産業とは言えないように思う。
 工事現場や工場での労働にはもともと、3Kという印象は一般的に持たれていなかったように思う。むしろ、ボーと突っ立っている、或いは同じ事の繰り返しで退屈な仕事という印象が強かった。私は建築工事現場の現場監督をしていた事があるが、自分の職業が現場監督である事を教えると、「暇な仕事なんでしょう」と聞かれる事が多かった。従来の認識としてはむしろ、製造現場での労働は楽な仕事という印象があったように思う。
 私は若者が製造業や建設業を敬遠した最初の理由は、これらの産業が3Kである事とはあまり関係無いと思っている。今の時代、物があふれているし、工業製品の耐久性も高くなっている。そのため工業製品の需要が減ってきた。逆に供給能力については、生産性の目覚しい向上により著しく高くなっている。そのため、供給過剰に陥っている。製造業や建設業は今や落ち目の産業であり、その事を若者が敏感に察知した結果であろう。
 また、工学部の学問は製造現場での仕事を想定していない場合が多い。だから、むしろ理工系の学生がゼネコンやメーカーに就職する事の方が不自然だったのだ。何故、理工系の学生がゼネコンや大手メーカーに就職していたかという理由は、「大手なら給料も高く、生活も安定している」と考える人が多かったのではないかと思う。むしろ、今までの方が不純だったと考える事も出来る。工学部の出身者が自分の学んだ学問を生かそうと思ったら、メーカーより銀行に就職した方が遥かに自然な場合も有り得る。理工系の学生が銀行に就職するというのは全然不自然ではなく、嘆かわしい事でもない。
 また、最近では業務のアウトソーシング(外注)が進む傾向がある。例えば、自動車の設計者について考えると、メーカーに所属していれば製造業従事者で設計事務所に所属していればサービス業の従事者という事になる。やっている仕事は全く同じでも分類上は違う業種という事になってしまう。そんな形式的な分類にこだわるのは大して意味が無い。必ずしも製造業離れで無いものまで、製造業離れとされている場合もあるようだ。
 このように若者の製造業離れを招いた理由は3Kとはあまり関係無かったのだが、誰かが「若者の製造業離れは3Kが原因だ」と言い出した事で、ますます製造業離れが進行してしまったのではないだろうか。

上の者は本当に知らない
 大企業の総会屋に対する利益供与などの不正があると、「トップが何も知らない筈が無い」と新聞やテレビや雑誌などで企業の上層部が糾弾される事が多い。私は決して経営者を庇う訳ではないのだが、そういう犯罪は総務部長クラスが勝手にやって、上層部が本当に知らない場合が少なくない。大きな組織では上層部は、えてして構成員が何をしているかを把握しきれていない事が多いものだ。数千人あるいは数万人社員がいるような組織で、個々の社員が何をしているか把握しきれていないのはむしろ当然の事だ。どこの組織にも大抵、派閥や反主流派が存在するから、組織ぐるみで犯罪の隠蔽工作をするというのは実際にはかなり難しい。組織ぐるみで不正を隠す事ができる巨大組織があるとすれば、それは警察くらいのものだろう。
 原子力発電の危険性についても同じ様な事が言える。電力会社の経営者や通産省の高級官僚や学者は原子力発電の安全性を強調する。私は原子力発電のフォーラムに参加した昼休みに、北海道の日本海側にある泊村の共産党村会議員から感想を聞かれた。「私は技術者として原子力発電の危険性を誰よりも認識しているつもりです。しかし、私が聞いた感じでは、電力会社の経営者や通産省の役人は恐らく嘘をついている訳ではないと思います。連中は実際に実務的な科学計算をしている訳でもないし、現場を知らないから、下の者から話を聞いて、本当に原子力発電が安全だと信じ込んでいるのだと思います。だから、感情的に原子力発電反対を叫ぶのは全くの逆効果だと思います」と答えた。実際に原子力発電を造っているのはゼネコンやメーカーだ。ゼネコンやメーカーの社員にしても上の者は常に現場を見ている訳ではないから、安全性については殆ど把握していない。まして、電力会社の経営者や通産省の役人に原子力発電の安全性の実態が分かる筈が無い。末端の関連業者まで含めると何十万人という人が関わってくるから、とても一人一人についてチェックできるものではない。原子力発電の危険性が分かっていれば、彼らはとっくに原子力発電など放棄している筈だ。電力会社の経営者が危険を知っていながら、その事実を隠している訳ではなさそうだ。
 私は建築工事現場で現場監督をしていた経験がある。日本の建設工事では手抜き工事や欠陥工事は横行しているが、現場の人間が勝手にやる事が少なくない。何度も言うようだが、私は決して経営者を庇う気は無い。私は日本式経営など最低の経営方式だと思っているし、日本企業の経営者で尊敬できる人は殆どいない。しかし、事実を客観的に判断しないと社会に大きな損失をもたらすことになる。経営者にはモラルの低い社員を作った責任や手抜きをせざるを得ない状況に追い込んだ責任はあるかもしれない。しかし、ただ責めるだけでは何の解決にもならない。無知な経営者たちに事実を正確に教えてやる必要がある。
 工学部教授などの学者の中には、「原子力発電は安全だ」とか「日本の建造物は耐震性が高い」などと事実とかけ離れた事を平気で言う人が多い。私は室蘭工業大学工学部名誉教授に手抜き・欠陥工事の実態を教えたが、「本当にそのような事が日常的にあるのでしょうか。あってもごく僅かだと思います」という何の根拠もない手紙が送られてきた。その人と直接会って話した事があるが、「昔は確かに手抜きはあったが、今では検査システムが変わったから昔のような事は無くなった」と言われた。現場経験者の私としては甘いと言わざるを得ない意見だ。工事現場には非常にたくさんの工程がある。検査システムが少し変わったくらいで、とても完全にチェックできるものではない。今でも手抜き工事が横行している可能性は高い。彼らは手抜きや欠陥工事というものを無視して安全計算をしている。そもそも手抜き工事を考慮すると、構造計算のパターンというのは果てしなく増えていく。手抜き工事の可能性を考慮していると安全計算は成り立たない事になる。だから、学者が手抜き工事の存在を無視するのはある程度仕方ないが、「手抜きがなければ、計算上安全だ」という事を付け加えておくべきだろう。
 研究者と現場サイドの意識のずれを如実に示す例として、最近日本各地で発生しているコンクリートの崩壊がある。研究者サイドで現状の危険性を唱えている著名人は小林一輔教授くらいしか見当たらない。「大した事はない」と認識している研究者が少なからず存在するようだ。それに対して現場サイドではコンクリートが安全だなどと信じている人は少ないようだ。特に手抜きの多いコンクリート打設については苦言を呈する人が少なくない。その筆頭が私だ。拙著「ゼネコンが日本を亡ぼす」(明窓出版)などで警鐘を鳴らしているが、残念ながら無名の技術評論家ゆえにあまり重く受け止められていないようだ。
 二〇〇〇年の夏に発生した雪印乳業の大阪工場で製造された牛乳による食中毒事件は、経営者が如何に現場の実態を知らないかを明らかにする事件だった。雪印乳業の石川社長は本当に何も知らないようだった。評論家の佐高信氏はこの事件について、「現在の日本企業では社長は“裸の王様”であり、社外取締役の増加とか、オンブズマン制の導入とか、外からチェックしなければ、こうした事故は防げない」としている。
  安全性を強調する電力会社の社長や通産省の官僚や工学部教授が必ずしも嘘をついている訳でないから、話は却って厄介なのだ。彼らは本当にそう思っているから説得力があり、聞いている方も本気にしてしまいがちだ。
 日本の社会では主任あたりが最も優秀で、上に行くほど現場の実態を知らない人が多くなる。これはある程度は仕方ないかもしれない。上の人間ほど仕事の範囲が広がり、どうしても広く浅くなってしまうので、個々の分野の能力に関しては低くなる傾向がある。とにかく、上に行くほど実態が分かっていないという事を認識しておく必要がある。

自動化の実態
 日本の製造現場ではロボットの普及率が高く、自動化が進んでいると思われている。しかし、一般に思われているほど日本の製造現場では自動化が進んでいないというのが実態だ。また、一般に考えられているほどロボットが活躍している訳でもない。
 特に建設現場でのロボットの導入や作業の自動化は遅れている。私は準大手建設会社の技術者として大規模な建築工事現場をいくつか見てきたが、ロボットを使った現場など一つも無かった。大手でも、ロボットを使っているのは非常に大規模な現場の中で、ごく一部の工程に過ぎないようだ。私が新入社員のころいた建築現場であるライオンズマンション伊勢崎新築工事現場にいた先輩たちは口を揃えて、「現場の自動化は百年経っても無理だ」と得意になって語っていた。
 製造業については建設業よりはましなようだ。自動車、食品、半導体など巨大でない製品を大量生産する場合には、工程の自動化率が比較的高い。しかし、半導体のような先端分野についても、一般に考えられているほど自動化は進んでいない。半導体工場で働いていた人の証言によると、「ロボットなんて、ごく一部の工程でしか使われていないし、洗浄は手作業でやっている」そうだ。自動車の溶接作業などロボットが自動的に作業を進める光景を見ると高度な印象を受け感動してしまうが、本当にごく一部の工程に過ぎない。
 溶接ロボットについて私がゼネコン社員の時に上司から聞いた話だが、ロボットに作業を覚えさせるためには熟練した溶接工が作業をしなければならないそうだ。その手順をロボットが覚える。ロボットの費用やセットする手間を考えると、採算の合う工程は非常に少ない。原子力発電所や大型航空機やロールス・ロイスなどハイテク分野や高級製品を少量生産する場合には却って、手作業が多くなる傾向がある。今後、製品の高度化、多様化が進むにつれて、むしろ自動化率が低下する可能性も高い。現に新しく建設されたハイテク分野の工場ではロボットの使用を減らすという事例が少なくないのだ。
 また、肝心な所で自動化が進んでいないというのも日本の特徴だ。一九九九年九月三十日、茨城県東海村にあるJCOのウラン再転換施設で臨界事故が発生した事は既に述べた。その際に、核物質の反応を沈静化するための言わば特攻隊が編成された。技術者の人力による後始末が行われた訳だ。こういう所でこそ、ロボット化を進めるべきなのだが、恐らく採算に合わないという理由なのだろうが、人命を救うための自動化に対しては積極的ではなかった。
 拙著「『NOと言える日本』への反論」(明窓出版)を読んだ在日朝鮮人の読者が私に感想を書いた手紙を送ってきた。その中に次のような文章があった。
 以前から思っていました。何故日本人は機械化ばかりが優秀だと思うのでしょうか? 失業者が増えてリストラだとさわいでいますが、それはロボットや機械に仕事をうばわれた結果ではないのですか。 私は常々不思議に思っていました。物が溢れてありとあらゆる世界中のものが日本に集中しています。いつかは自爆するのは目に見えているのに気がつかないのですね。“売れるはずがない”、対称的に韓国では時間をかけて手作りで着る物、食べる物を安い手間賃で丁寧に市場に出していますから、細く長く経済が地味に、ゆったりと流れていますから危機感も少ないです
 この人は科学技術に対しては素人らしいが、この内容については全くその通りだと思う。唐津一教授や牧野昇氏などより遥かに事実を的確にとらえている。御用学者たちは現場の労働者や消費者の事が何も分かっていないのだ。素人の方が有名な学者よりよほど事実を正しく認識しているようだ。
 日本の製造現場に見られる自動化の中には更に馬鹿馬鹿しい事例が見受けられる。「よそで使っているのだから、うちでもやらなければ格好悪い」というような下らない見栄でOA化や作業の自動化に取り組んでいる例が少なからず存在する。私も(株)鴻池組の港北ガーデンヒルズ新築工事現場でOA機器の管理を担当して苦労した事がある。電算部(後に情報システム部)は入退場管理システムや日報処理システムというものを持ってきた。これらのシステムは高価な装置を使い手間をかけた一見画期的なシステムなのだが、実は現場員にとって単なる足手まといに過ぎなかった。
 大きな現場では作業人員を数えるのは困難な作業だ。入退場管理システムというのは現場の関係者にキャッシュカードのような形状のカードを持たせて入り口のリーダーで読み込ませて、コンピュータで現場に出入りした人員を管理するというシステムだ。大手ゼネコンの鹿島で開発されたシステムだそうだ。便利な筈だったが、鴻池組の現場では役に立たなかった。鴻池組の作業員は現場に対して定着が悪く出入りが激しい、だから、理屈からすると現場終了時までに作業員に対して発行するカードの枚数が延べで何万という数になってしまうのだ。しかし、その時のシステムで管理できる人員の限界は二千人程度だった。うまくいく筈がなかった。電算部には現場の実態が分かっていない夢想家が多く、「大手ゼネコンの現場で成功したシステムは鴻池組の現場でもうまくいくはずだ。うまくいかないのは現場の管理者が下手だからだ」と決め付けていた。日報処理システムについても、高価な入力機器を使っていながら、ワープロの方がまだましという何のためにあるのか全く分からないようなお粗末な代物であった。
 役に立たないのが分かっていても現場の人間の習性としてなかなか、「こんなもの役に立たないから、やめよう」とは言い難いものだ。そんな事を言うと「先端機器を使いこなせない不器用な奴」と思われそうだからだ。私の現場の所長は、「何だ。お前、このシステムは何も役に立ってないじゃないか」と私を罵りながら、会社の上層部が視察に来ると、「OA機器が多いに役立っております」と報告するのだった。それを聞いて、「全然役立っていないんじゃなかったのか」と不満を感じた。このように上から下まで役に立っていないものを役に立っているふりをしている。しかし、会社の上層部は何も分かっていない様子だった。
 私が経験した事例はOA化についてだが、ロボットや自動化についても多くの製造現場で同じような状況があるようだ。

自分のための自己犠牲
 日米を比較した場合に日本がチームワークの国のように言われる事が少なくない。だが、それは本当にそうなのだろうか。プロ野球を例にとって、チームワークについて検証を進めていこうと思う。
 2000年6月27日の北海道新聞の夕刊に野球評論家の江藤省三氏による『「和」は勝ってこそ』という次のようなエッセーがあった。
下位に低迷している横浜ベイスターズにとんでもない事件が起きた。十八日の広島戦、同点で迎えた六回裏二死一、二塁のチャンスに代打中根を送られた駒田内野手(三七)は激昂し、ベンチ前でバットとヘルメットをたたきつけ、試合中にもかかわらず帰宅してしまった。  翌一九日、フロントと権藤監督は駒田に罰金三十万円と無期限のファーム落ちの処分を科した。駒田も謝罪し一件落着となったが、両者間に大きなしこりを残した。今回の事件はだれが良くて、だれが悪いかは別として、私は起こるべくして起こったと思っている。 一九九八年、「監督と呼ぶな、権藤さんと呼べ」で出航した横浜権藤丸は、それまでのプロ野球の常識を覆す数々の言動をキャンプで行った。ミーティングなし、夜間特訓禁止にはじまり、他球団の練習時間を聞いては、「長ければいいってもんじゃない、必要なだけでいい」と12球団一の短い練習。さらにオープン戦では、「バント無用」の打って、走って、投げるだけの自由にやりたい放題。  この権藤イズムは現代風の若い集団にピッタリはまり、「大魔人佐々木」と「ハマのマシンガン」が三十八年ぶりのVをもたらした。その時の駒田は「細かいことは言わないし、好きに打たせてくれるからいい結果が出る」と自由奔放の権藤野球を歓迎している。
 勝てば官軍を地で行った年だった。しかし、野球はチームプレーのゲームだ。少年野球でさえ、バントや走塁の練習をしている。ましてプロの世界でこんな個人プレーの野球が続くわけがない。負けが込むと監督やコーチがあれこれと手を打つのは当然。だが、選手はそれを管理と受け取り、「監督は変わった」となる。「いいときはチヤホヤして、少し悪くなるとソッポを向く」と両者の溝はさらに深くなっていくのだ。
 名将三原脩監督は「アマは和をもって勝利を目指すが、プロは勝って和をなす」と名言を残した。今の横浜には勝つことが一番の薬である
 私はこれを読んで、「さすがは野球評論家だ」とは全く思わなかった。プロ野球チームの最終的な目標は何かと言うと、それは勝つことだ。権藤監督が自由放任を貫いているのは、選手に野球を楽しませるためにやっているのではなく、勝利に繋がると信じているからだ。
 これから、数日後の六月二九日の対中日戦で、横浜ベイスターズの斎藤隆投手は八回まで二失点と好投した。八回が終了した時点で得点は四対二で横浜がリードしていた。斎藤投手が勝利投手になる事はほぼ確実と思われたが、九回表に斎藤投手と交代した救援投手陣が踏ん張りきれずに同点にされてしまった。結局、横浜が延長戦を制したが、「斎藤隆投手を勝ち投手にしてやりたかったでしょう」という質問に「そんな事のために野球をやっているんじゃない」という権藤監督らしいアメリカ的な考えの答えが返ってきた。
 長々と野球について書いたが、「野球と科学技術とは何の関係も無いじゃないか」と思う人がいるかもしれない。両者に直接的な関係は無いが、私にとって日本の野球のあり方が、学校教育や企業や研究機関などをはじめとする殆どあらゆる分野の縮図になっているように思える。
 日本のスポーツマンの練習について「練習のための練習」と言われる事がよくある。練習というのは本来は試合などの実践のためにあるのだから、「練習のための練習」であるというのは全くおかしな話だ。しかし、この言葉は日本の現状を実にうまく物語っている。「人の二倍練習した」と自慢している選手をよく見かけるが、練習のし過ぎで疲れたり、怪我をしたりして試合で力を発揮できないのでは、何の自慢にもならない。プロ意識の欠如という事すらできる。
 日本では練習ではやたらと厳しく自由がない割に変なところで甘い事がある。後一人打ち取れば勝利投手の権利を得られる先発投手が交代になると、非人情な監督として非難される事がある。これはおかしな話で、プロ野球は個人記録のためにやっている訳ではあるまい。そんなものは二の次の筈だ。また、犠打というのもやたらと高く評価されるが、できれば犠打を打つよりヒットを打った方が本人だけでなく、チームにとっても好ましい。チームが勝つことが目的である筈なのに、チームが勝つための自己犠牲ではなく、自己犠牲自体が目的となっている例もある。
 これは企業や大学や研究機関などについても同じ事が言える。仕事が終わったのに、上司が帰らないと部下が帰りにくい雰囲気がある。そういう時に上司が帰るまで、大してやる事も無いのに部下が待っている「付き合い残業」ほど馬鹿馬鹿しいものはない。また、大学や会社をはじめとする多くの組織で飲酒やカラオケなどの付き合いを強要される事が少なくない。酒や歌が嫌いな人にとっては苦痛であり、次の日の仕事にまで影響する事もある。そんな付き合いは会社などの自分が所属する組織の事を考えるとむしろマイナスであり、自分が悪く思われたくないというエゴイズムに過ぎない。
 日本の製造業や研究機関についてチームワークが優れていると言われているが、私は全く逆だと思う。大した意味の無い慣習で組織にとっても無意味な自己犠牲を強いられる事が多い。NECの元会長である関本忠弘氏は、日本の組織について面従腹背であるという事を述べている。表向きは従順だが、内心は上に対して反感を持っている。逆らうと自分に災いが及ぶのを恐れているだけの話だ。日本の組織がチームワークで優れている訳では決してない。

先端分野への出遅れ
 近い将来に日本経済と韓国経済の力関係が逆転するのではないかと予測する日本人がいる。二〇〇〇年七月六日の日本経済新聞に韓国経済の将来について次のような記事があった。
 日商岩井社長の安武史郎さんは「五年か十年の間に、日本の経済力は韓国に追い抜かれるのではないか」と語る。その根拠は韓国企業の意思決定の早さ。「大企業でも即断即決でベンチャーに投資している。ネットビジネスではもう先を越されている」と見る。
 ソウル支店長の経験もある安武さんは、韓国企業が「アメリカンナイズされた考え方や経営手法を柔軟に取り入れている」ことを評価。一度は危機に見舞われた韓国の経済の“復活”ぶりに感慨深い様子だ。
 私は韓国に行ったことも無いし、韓国経済の実態について詳しくは知らないが、安武史郎氏の韓国経済に対する見方は恐らく正解であろう。メーカーに限った事ではないが、日本企業の特徴はとにかく意思決定が遅くて、新しい事をやろうとすると上層部や幹部から大きな抵抗があるという事だ。
 日本は先端技術の分野で圧倒的に強いハイテク国家のように思われているが、実は全くそうではない。真の先端分野というのは、社会から先端技術であるという認識がなされていない場合が少なくない。先端技術は大抵の場合、登場した初期の頃は遊びや実現不可能な戯言と思われている。日本では既に確立された分野においては圧倒的な強さを示している。例えば、自動車産業や半導体産業や巨大橋建設技術などがそうだ。日本が誇る原子力技術にしても、先行した欧米諸国は必要のない過去の技術として、とっくに棄ててしまった国も少なくない。日本が保有する殆どの技術が二番煎じの技術なのだ。既にある程度確立されて、確実である事が分かった分野にしか投資しようとしない。リスクを徹底的に嫌う風土が見られる。
 安武史郎氏が指摘したようにネットビジネスという点ではアメリカをはじめとする欧米先進国のみならず、韓国にも遅れをとっている。IT革命についても、今でこそ盛んにその必要性が当たり前のように説かれているが、これも欧米に大きく遅れをとっており、「今ごろになって」という感が否めない。また、森首相をはじめとする自民党の重鎮がIT革命の必要性を熱心に説いているのは必ずしもインターネットを普及させようという意図によるものではないらしい。ITを促進する事を口実に側溝を掘ったりしてゼネコンを儲けさせるのが狙いではないかという疑いを持つ人もいる。従来の公共工事のばら撒きをカムフラージュしただけのものらしい。
 日本では目新しい分野に対する投資には全く消極的であり、動きが非常にのろくさい。アメリカのマイクロソフト社のようなベンチャービジネスが育ちにくい土壌がある。本田技研工業やソニーの登場以降は、日本国内でベンチャービジネスと言えるような企業が興った例は殆ど見当たらない。
 コンピュータ・ソフトに関しては、欧米に対して遅れているだけでなく、中国やインドの技術者の方が日本より優れているとも言われている。コンピュータ・ソフトに対する日本での評価はつい最近まで非常に低く、コンピュータのおまけくらいにしか思われていなかった。最近ではIT革命の必要性が盛んに叫ばれているが、今でもソフトウェアに関する日本人の理解は必ずしも高いとは言えない。ウィンドウズをはじめとするコンピュータ・ソフトのマイクロソフト社が日本の大手電機会社を支配している様子を目の当たりにしているにも関わらず、未だに企業や官僚や大学関係者の中にはハード中心主義者がうようよしている。ハードウェアで優位にある日本が将来逆転すると信じて疑わない唐津一東海大学教授のような信じ難い夢想家も存在する。
 困った事に、日本が先端分野で遅れているという認識に欠けている日本人がたいへん多い。知名度や社会的地位が高い人や高齢者にそういう人が多く見受けられる。そういうふうに日本の技術が絶対に優れていると決め付けて譲らない人たちが会社などの組織の重鎮として居座っているものだから、全然進展が無い。「日本は先端技術の後進国である」という認識を持つ必要がある。

日本企業は人を大事にしてきたか
 欧米では企業が社員を突然指名解雇する事は決して珍しい事ではない。それに対して社員を解雇する事が少ない日本企業については、社員を大事にする組織だというような日本式経営を賛美するような話が日本企業の経営者や御用評論家などから盛んに言われてきた。フランスの自動車メーカーであるルノーに買収された日産自動車については、新しく経営者となったカルロス・ゴーン氏によって非常に大規模なリストラが行われた。これについて、「社員を大事にする。日本の風土に合わない」と激しい非難の声が盛んに上がっていた。
 日本の企業が社員を大事にしてきたというのは果たして、本当だろうか。
 月刊誌「噂の真相」の一九九九年十二月号の「読者の場」にトヨタと日産に勤めていたという人物による次のような投稿があった。
 現在トヨタの会長を務める奥田碩氏(達郎氏病死による棚ぼた会長)は雑誌に「リストラをする会社の役員は切腹せよ」なんて言ってるが私はこれについて大いに疑問を感じる。
 トヨタはリストラしなくても、したような形で従業員が淘汰されている。トヨタ生産方式なる人を人と思わない生産性だけを求めた地獄が展開されているからだ。そして悪名たかい、かんばん方式推進者の現社長、張某氏。
 この話が本当かどうかはとにかくとして、そういう事があったとしても全くおかしくないという感じはする。もちろん、社員を簡単に解雇しないという事自体は決して悪い事ではない。しかし、日本企業では労働基準法を無視した過酷な労働に耐えられず社員が依願退職する場合や嫌がらせによって社員が退職を強要される場合が少なくない。私自身が勤めていた会社から悪質な嫌がらせを受けている。
 私は上司である(株)鴻池組東京本店建築技術部の高田一部長の不正を神田警察署に訴えた事がある。すると、東京本店の総務部長から呼び出されて、「馬鹿野郎。お前、自分の会社を訴えるとはどういうつもりだ」と大声で怒鳴られた。更に日が経ってから、また呼び出された。そして、「お前。辞表を書け。お前の実家に部下を派遣して、お前の両親に辞表を書かせるように説得した」と言われた。私はいきなりそんな事を言われて、狼狽してしまった。おかげで私は両親から不肖の息子と思われただけでなく、親戚一同にも知れ渡ってしまった。東京から北海道へわざわざ二人の副部長を派遣したのだ。そして、私が如何に無能で役に立たないかを強調させた。宿泊費まで含めると数十万円になっているだろう。そんな金の使い方をするよりも、退職金に上積みしてくれれば良さそうなものだが。
 表向きは円満に退社しているが、実は悪質な嫌がらせによって辞めさせられた社員の例は少なくない。解雇された場合と自主退職の場合とでは、前者の方が当然、企業の法的責任は重い。解雇の場合の方が退職する社員に対する給料の支払いなどをはじめとする会社の負担は大きい。だから、嫌がらせによって退職を強要するよりは、解雇した方がよほどフェアであると私は思う。嫌がらせによって退職を強要された人の中には、その事を他人に話さない人も少なくない。外資系の会社を解雇された人の中には「こんなにたくさん退職金を貰っていいのか」と思うくらい退職金を貰った人もいる。社員を解雇したとしても、辞めた後の面倒をしっかり見ればそれほど恨まれる事もない。
 長期的な雇用というのは必ずしも社員に愛社精神や忠誠心をもたらすとは限らない。終身雇用によって無駄な人材を社内に抱える事になるから、平均すると社員一人あたりの労働は過酷になりがちだ。終身雇用と年功序列によって、若い社員は低賃金長時間労働に耐えなければならないので、特に不満は大きい。中高年社員にとってみれば、「俺たちは若い頃、散々こき使われたのだから、今楽して構わないのだ」というように会社から恩恵を受けても当然の事であり特別有り難いと思っていない人が少なくない。長年会社にいて漸く割に合うシステムになっているのだから、平均的な年齢の社員の条件は良くない。社員の平均的な満足度は決して高くない。
 日本企業は必ずしも人道的な手段として終身雇用や年功序列を採用してきた訳ではない。高度経済成長期においては最も効率的だから、そういう方式を採用しただけの話だ。そもそも、終身雇用が成り立つ前提としては、会社の経営が順調に存続するという事が必要だ。会社が倒産してしまえば、全ての社員が職を失う事になる。リストラをしている経営者が必ずしも非人道的な人物とは限らない。日産でリストラを断行したゴーン氏を非人道的だという人がいるが、あの状態では誰が経営者となってもリストラせざるを得なかっただろう。石炭産業は石油という優れたエネルギー資源が台頭したために斜陽化していった。石炭産業では大量の社員を解雇したが、経営者が冷徹だからではなく、社員を支える余裕が無くなったからだ。石炭産業についても、誰が経営者だろうと社員を解雇せざるを得なかっただろう。
 日本の経営者の中には自分が社員から人気があると思い込んでいる人が多い。しかし、日本では面従腹背という言葉があるように、表向きの態度と心の中とは全く逆である場合が少なくない。メーカーの経営者にありがちなのだが、社長が作業服を着たり社員食堂で社員と一緒に食事したりしただけで、勝手に社員と一体になったと思い込んでいる愚かな経営者が少なくない。企業は家族でも何でもない。社員と接する事が却って社員にとって迷惑という事だってあるのだ。社員にとってみれば、給料と休みをたくさん貰える方がよほど有り難い。社員から人気があると思い込んでいる経営者が一番厄介だ。
 このように日本企業は必ずしも社員を大事にしてきた訳ではない。雇用のルールを守っている外資系企業が、裏で悪質なリストラをしている日本企業より低く評価されるのはおかしな話だ。嫌がらせや人間性を無視した苛酷な労働による依願退職の存在を無視して、上辺だけで判断する形式的なリストラ議論は間違っている。

第三章 夢想家と御用学者
 日本の著名人の中には科学技術に対する夢想家や的外れな言動をする人が往々にして見受けられる。ここでは、そのような例を幾つかあげてみる。

西澤潤一
 岩手県立大学学長の西澤潤一氏は半導体の権威と言われている。文化勲章の受賞者でもあり、輝かしい経歴の持ち主だ。
 西澤氏は一九九九年十月二八日の毎日新聞夕刊に『「人災」の責任転嫁』というタイトルで、新幹線のトンネルの壁の崩落と東海村の原子力事故と阪神大震災での高速道路の破損についてコメントしている。私はこの記事を読んで、「西澤氏は現場を全く分かっていない夢想家の学者なのではないか」という疑問を持った。
<阪神大震災では、高速道路の橋げたが折れました。これも、手抜き工事による人災説が強い。どうお考えです>
という質問に対して次のようにコメントしている。
 コンクリートは、表面活性剤を入れてセメントと鉄筋の付きをよくする。ところが、問題の高速道路には使われていないという情報があったので、私は「あっ、やはりきたか」と思いました。
 ただ、大震災の映像を見ていて終戦直後の日本を思い出した。日本中が、神戸のようだったのです。私は終戦のときに18歳でした。私の一つ上、二つ上の先輩はみんな戦争に行って、特別攻撃隊で死んでいった。世の中の楽しみを何も経験しないうちに死んでしまったんです。生き残った僕らは、彼らの犠牲の上に存在する。その人たちの分まで生きよう、社会を、国を良くしようと頑張ってきた。今でもそうです。しかし、今の日本にはそれがない。自分さえ良ければいいという風潮がまん延している。ここら辺で土俵を踏み固めないと、日本は大変なことになってしまうでしょう。
 私は建築の専門家であるが、これは素人が見ても明らかに出鱈目と分かるお粗末な内容だ。コンクリートが崩落した山陽新幹線のトンネルにしても阪神大震災で壊れた高速道路の高架橋にせよ、一年前に建設した建造物のコンクリートが崩壊したという訳ではない。高度経済成長の時期に造られた物であり、区間にもよるが、建設後数十年が経過している。当時横行した手抜き工事が最近の事故の原因となっているのだ。建設工事の責任者は三十代以上が中心となっている。そうすると、山陽新幹線トンネルや阪神大震災で倒壊した高架橋の建設工事責任者は西澤氏と同じ年代あるいは上の年代という事になる。阪神大震災で高架橋が倒壊した事や日本各地でコンクリートの崩壊が相次いでいる事は若者の責任ではない。少なくとも今の三十代以下の人たちは、建設当時は子供の頃か生まれていないから罪はない。自分たちの世代のエゴイズムによって、若い世代がつけを払わされて苦しむ事になるのだ。だから、西澤氏の解説は全く的外れと言わざるを得ない。悪質な冗談としか思えないのだが、本気で言っているのであろうか。本来なら、自分たちの世代の過ちを若者に謝るべきなのだが、全く正反対の行動に出ている。何故、毎日新聞ともあろうものがこのような記事を載せたのか全く理解に苦しんでしまう。本当に単純な足し算であり、勘の良い小学生なら見破れるような事柄だ。聞かれた以上は気の利いた答えをしなければならないと思い、知ったかぶって答えたのではないのか。恐らく、半導体の権威による解説という事でろくに検証もせずに掲載したのだろうが、それにしても安易過ぎる。
茨城県東海村で発生した原子力施設の事故に関しては次のようなコメントがある。
 現場で手順を変更するというのは、作業員3人だけでできることではありません。少なくとも、いま自分たちがやっているのがどういうことか分かる人間でなければ、変更などできない。作業員の上の監督者が変更に気付かないなど、あり得ない。あるとすれば、どうかしてますよね。JCOには原子力を扱うという責任感が足りない。
 建設工事現場で現場管理者として勤務してきた私の経験からすると、作業員3人だけで現場の手順を変更する事は十分可能だ。そういう事が本当にあったかどうかについては現場を見ていないから断言はできないが、あったとしても何ら不思議はない。建設工事にしても工業製品の製造にしても何でもそうだが、製造現場で実際に物を作っているのは下請の作業員だし、技術を持っているのは下請け企業だ。手抜きについて所長が気付いていない事は珍しくないし、現場を直接管理している監督者でさえ作業員の手抜きに気付かない事がよくある。私は決して企業を庇っている訳ではないが、手抜きに関しては下の者が勝手にやって、上の者が本当に知らない場合が少なくない。分業化が進んでくると、さらにその傾向が強くなってくる。原子力産業のような巨大プロジェクトになってくるとなおさらそうだ。もちろん、企業には下の者の不正に気付かなかった責任はあるだろう。しかし、毎日新聞がわざわざ西澤氏を指名したのはこんな陳腐な答えを聞きたかったからなのだろうか。事故を起こしたJCOが無責任だとは誰もが思っている事だろう。技術的には素人以下の解説だ。西澤氏は現場を全く分かっていないのではないだろうか。「あり得ない」と断言しておきながら、「あるとすれば」という仮定をもってくるのもおかしい。「あるとすれば、どうかしてますよね」という問いかけに対して私は「あなたの頭の方がどうかしてますよ」と言いたくなる。このように工学部教授には夢想家が少なくない。半導体の権威と言われる彼も例外ではないようだ。むしろ、地位が高い研究者こそ、現場の実態が分かっていない夢想家が多い。そのくせ、やたらと口を出したがる人が少なくない。
 この記事には何故か特攻隊の絵が添えられていて、「我等散りゆく後に“建国”あり」などと書かれている。こうなると完全に技術評論の域を超越した思想の問題であろう。彼は単に軍国主義の時代を懐かしんでいるだけの話ではないのだろうか。最近の毎日新聞は、曽野綾子氏や中西輝政氏など保守派の大物に占拠された感がある。技術評論には右も左もない。右寄りの人の中にも「日本の科学技術は欧米の物真似技術だ」などと低く評価する客観的な判断力の持ち主が少なくない。例え極右であろうと極左であろうと科学技術に対して客観的な判断のできる技術評論家に対して私は敬意を払う。しかし、このように技術評論とかけはなれた右寄りの思想が入り込んでくるとなると問題だ。

唐津一
 東海大学教授の唐津一氏は、日本の製造技術を褒め称える製造業至上主義者の代表的存在だ。この老人はテレビや毎日新聞などに盛んに登場し著作も多い代表的な技術評論家だが、ハードウェア偏重の時代遅れの技術者だ。如何に日本の技術が優れているかをやたらと強調しているが、その内容は眉唾ものが多い。製造業を重視する評論家は日本では非常に多いが、その根拠は極めて薄弱だ。農業だって「物づくり産業」だし、サービス業だって社会にとって必要だ。楽をしたくて消防士になる人は多分いないだろう。製造業重視の姿勢は、単に昔を懐かしんでいるだけだったり、日本メーカーの権益を擁護しているという場合が少なくない。唐津氏は典型的な企業の御用学者でもある。
 これは唐津氏に限らず、あらゆる技術評論家や工学部教授について言えることだが、どんな天才でも専門的な知識を持っている範囲というのは、科学技術全体から見ると極めて狭い範囲だ。例えば、土木工学についても、電子工学についても、医学についても、機械工学についても一流だという人は恐らくいないだろう。例えば、唐津一氏は東急建設が研究している大深度地下の技術についても称賛している。ユーロトンネルや東京湾アクアラインを掘った日本の建設技術についても解説しているが、少なくとも土木・建築の分野に関しては建築工学科出身である私の方が遥かに詳しいだろう。
 唐津氏の言っている事を良く聞いていると小学生程度でも言えるようなレベルの低いことばかりであり、実際には現場をよく知らない評論家とも言われている。しかし、新聞や雑誌などのメディアは有り難がって、彼に意見を聞いている。これは話の内容が優れているからではなく、東京大学工学部卒業という高学歴と大学工学部教授という立派な肩書きによるものだろう。
 唐津氏による非常に奇妙な主張の一つとしてアメリカの対日貿易赤字が発生する原因についての解説が有る。「日米とも一人当たり四百ドルずつ買っている」として、渡部昇一氏との共著である「アメリカの“皆の衆”に告ぐ」(致知出版)の中で次のような奇妙な説明をしている。
貿易相手国から一年間に国民一人当たりいくら買っているかは、相手国からの輸入額を人口で割ることで計算できます。アメリカの日本からの輸入額を人口で割ると、四百十七ドルになります。同様に、日本のアメリカからの輸入額を人口で割ると、四百四十五ドルです。アメリカ人ひとりが日本から四百十七ドルずつ買い、日本人ひとりもアメリカから四百四十五ドルずつ買っている、ということになります。
 日本もアメリカも相手から同じ額だけ買っている。つまり、一人当たりでは均衡がとれているのです。
 ただ、アメリカの人口は約二億五千万人弱で、日本は一億二千万人余です。アメリカの人口は日本のほぼ倍で、約一億二千万人おおいのです。この人口差に四百ドルを掛けた額、約五百億ドルがアメリカの対日赤字になっているというわけです。
 五百億ドルの対日赤字は不均衡だから、これをゼロにもっていって日米経済の均衡を図るというなら、日本人ひとりがいまの倍のアメリカ製品を買わなければならない、ということになります。
 この説明は一見もっともらしいのだが、この理屈が成り立つには大きな前提が必要となる。それは、「日本とアメリカの貿易は日米間のみで一対一の取引をし、日本の消費者は全ての製品をアメリカから買い、アメリカの消費者は全ての製品を日本から買う」という事だ。どう考えても、これは極めて不自然な話だ。貿易は二国間だけで行っているわけではないし、日本の消費者は国産製品も買うし、アメリカ製品以外の輸入品も買う。それはアメリカにしても同じ事が言える。唐津氏の説明が正しいとすると、二国間の貿易収支は人口の多い国の方が常に赤字になってしまう事になる。これは全くおかしな話だ。
 事故と故障に対する認識にも疑問がある。これも「アメリカの“皆の衆”に告ぐ」の中で次のような記述がある。
 よく新聞に、「××原子力発電で事故発生」といった記事が載ります。放射能が漏れて汚染が漏れて汚染が広がり、被害が出たのか、と思ってしまいます。だが、よく読んでみると、一部の部品が破損して運転が止まったといった類です。これは事故とはいいません。こういうのは故障というのです。事故と故障の区別がついていないのです。
 原子力発電でのトラブルに対する新聞の報道が大袈裟かどうかはとにかくとして、この認識は素人くさいと思う。必ずしも故障が事故よりましとは限らないのだ。原子力発電内で人が滑って転んで骨折しても事故と言えない事も無い。原子力発電の極めて重要な部分が故障しても、たまたま、事故に繋がらない事もあり得る。 車のブレーキが故障で全く動作しなくても、事故にならない場合もある。逆に、車が軽く電柱を擦ったとしても、一応、事故という言い方ができる。この場合、結果的には後者の方が被害は大きい事になるが、どちらがより深刻かと言うと、前者の方だろう。新聞の原子力発電報道が大袈裟かどうかはとにかくとして、事故と故障の違いにこだわるのは大して意味の無いような気もする。
 ハードウェアにやたらとこだわるのもこの人の癖だ。工業製品の耐久性と生産性が高まった結果、需要が減り、供給過剰に陥っている。脱工業化は先進国として当然の流れで、義務と言っても過言ではない。唐津氏が製造業にこだわっているのは、感覚の古さと工学部教授でありメーカーと関係の深い自分の権益を守るためではないのか。このような古い感覚の人が多いために、日本ではソフト化に遅れてしまい、情報化産業などは致命的に遅れをとってしまった。理工系の学生が製造業を離れて金融業界になびく事を嘆いているが、製造業の健全な発展のためには金融業界に科学技術に詳しい優秀な技術者が行く事が必須であり、むしろ、金融業界に積極的に理工系の学生を送り込むべきなのだ。
 唐津氏は日本の技術の優秀さを絶賛しているが、そもそも、日本の技術の優秀さというのは、「世界最大の橋を造った」、「世界最速の列車」、「精度が極めて高い」といった数値的に分かり易い特徴が多い。数字的に見ると極めて優秀な印象を受けるが果たしてそのような技術が必要なのかと疑問に思うようなものも少なくない。例えば人が殆ど通らないような所に巨大橋をかける。それだけの金があるのなら、普通はハブ空港の建設に投資するものだ。日本の技術を見ていると「消費者のニーズを完全に無視した技術」、「技術のための技術」といった感じがする。技術者の自己満足に過ぎないものが多い。日本製品は数字的には優秀に見えるかもしれないが、実用性では発展途上国と大して変わらないというのが現状だ。

石原慎太郎
 日本の製造業や科学技術をやたらと褒め称える文化人の中で代表的な存在が、現在、東京都知事を務めている作家の石原慎太郎氏だ。彼はベストセラーとなった「『NO』と言える日本」シリーズなどをはじめとして、著作やテレビで如何に日本の技術が優秀であるかを説明して得意になっている。
 日本の科学技術に対する石原氏の偏った評価が、単に素人の無知によるものなのか、あるいはメーカーやゼネコンなどとの利権によるものなのかについて、私は確信を持てない。彼の発言は素人くさい感じもするし、政治的手腕はお世辞にも優秀と言えないから、全く裏は無く単純に本心を語っているとしても不思議は無い。
 しかし、彼が運輸大臣の時にリニアモーターカーの実験線を山梨に誘致しているのだが、その事に対して自民党の重鎮だった金丸信氏から「石原君ありがとう」と礼を言われている。山梨は金丸信氏のお膝元であった。利権とは関係なくたまたまリニア実験線が山梨に誘致されただけという可能性もあるが、裏に利権が絡んでいたとしても何ら不思議は無い。
 或いは無知と利権の両方が絡んでいるという可能性もある。いずれにせよ、日本にとって好ましくない事だ。
 日本の科学技術に対する石原氏の過大評価が勘違いによるものなのか利権によるものなのか、はっきりしないが、ここでは彼の勘違いによるものと仮定して話を進めていく。
 石原氏の勘違いについては既に多くの著名人から指摘を受けている。自由党の党首である小沢一郎氏も石原氏の科学技術に対する評価について否定的な考えを持っているようだ。小沢氏は思想的には石原氏に負けないくらいのタカ派だ。しかし、技術評論については右も左もないので小沢氏の思想や信条についてここでは一切コメントしない。小沢氏と石原氏はテレビ朝日系のテレビ番組の「サンデープロジェクト」で対談し、日本の科学技術のあり方について論争になった。小沢氏は「日本の技術は基礎技術の分野で遅れている」などと物真似中心の日本の技術の欠点を指摘した。それに対して石原氏は日本の応用技術の素晴らしさを絶賛し、「必ずしも基礎技術が優れている必要は無く、応用技術であろうと貢献できれば良い」というような事を自信に満ちた強い調子で答えた。小沢氏は石原氏の主張に不満気であった。彼の表情からすると「日本が今のような物真似技術を続けているようでは駄目だ」と内心思っているように見えた。しかし、小沢氏は石原氏の気迫に押されてしまったようだ。私の評価では小沢氏の意見の方が絶対に正しいと思う。しかし、小沢氏は石原氏の輝かしい経歴や年齢などに遠慮したのかもしれないが、あまり強い態度をとらず簡単に沈黙してしまった。
 評論家の堀紘一氏との討論でも同じ様な場面があった。テレビ朝日の「朝まで生テレビ」だったと思うが、石原氏が「日本の技術があれば、世界最高の戦闘機を作るのは簡単だ」というような主張をした。それに対して堀紘一氏は「馬鹿な事を言う奴だ」というような反応を示した。堀氏は石原氏に対してはっきりと馬鹿とは言わなかったが、口の動きからして「ばか」と言いかけたのを押しとどめたように私には見えた。彼も石原氏の主張するような技術評価に対して懐疑的であるようだ。
 確かに日本が他の技術開発を全て放棄して戦闘機の開発に対して徹底的に力を注げば、世界最強の戦闘機を作るのは不可能ではないかもしれない。しかし、そんな事をして何の意味があるのだろうか。戦闘機の性能は最近あまり変わっていない。これは今以上に優秀な戦闘機があまり必要では無くなっている事が大きな理由の一つだと思われる。ミサイルが主流の時代になってくると、戦闘機は単なるミサイルの発射台に過ぎないという意見もある。もちろん、戦闘機の性能が優秀であるに越した事はないだろう。しかし、戦闘機の価格はどんどん高くなっている。戦闘機は質だけでなくある程度の数を揃える事も必要だ。あまり優秀な物を作っても値段が高過ぎるのでは、購入してくれる国はなかなか無いだろう。アメリカだって、徹底的に質だけにこだわれば、F15を遥かに凌ぐ戦闘機を作る事は恐らく可能だろう。戦闘機というのは単に高性能であれば良いというものではない。生産性が重要になる。太平洋戦争でのアメリカの戦闘機は第二次世界大戦で最優秀の戦闘機と言われたP51マスタングの直線的な翼に見られるように、日本の零戦と比べると一般的に生産性が高い形状になっていた。P51の翼を最適の形状にしていれば、更に優秀な性能を持つ戦闘機にする事ができたと思われる。しかし、そうすると生産数が落ちるので、そうしなかったのだろう。
「『NO』と言える日本」(光文社)などに見られる石原慎太郎氏の論理には経済摩擦をはじめとする欧米の日本に対するクレームを全て白人の人種差別意識とひがみとして片付けてしまう単純さがある。運輸大臣や環境庁長官をはじめとする政府の要職を勤めてきた人物としては、あまりに甘えた態度だ。石原氏の科学技術に対する評論に対しては左翼文化人よりむしろ保守派の人からの批判が強いように思われる。意外に右翼からの批判が強いのが実態だ。白人に対する強硬な態度は劣等感の現れに過ぎないと見抜いている右翼文化人もいる。
 石原氏は外形標準課税の導入で評判になった。しかし、経済の専門家の間では石原氏の提唱する外形標準課税を高く評価する人は一人も見当たらない。石原氏は科学技術や経済に関しては全くの素人である事は明白だ。

長谷川慶太郎
 長谷川慶太郎氏は、経済の予想が当たらないと評判の評論家だ。出鱈目を言っている割には知名度が高く、一流の評論家というふうに思われている。彼の著書も良く売れているようだ。彼の存在は、日本での評論家に対する評価が如何にいい加減であるかを如実に示していると言えよう。
 彼の著作「世紀が見えた 1996年 長谷川慶太郎の世界はこう変わる」(徳間書店)に次のような記述がある。
 阪神大震災で、従来工法の日本建築は地震に極めて弱いことが立証された。重い瓦屋根は頭でっかちで、直下型地震の震動に耐えられなかった。プレハブ工法の家屋は、地震の直接の被害がほとんどなかった。
 もう一つの違いは、メンテナンス。本格的な日本建築ほど、大工が絶えず補修し続けることを前提にしている。そういう手間をかけないと、外から見てなんともなくても、根太が腐るとか白蟻に食われたとかの被害を防げない。プレハブ工法は、部材の工場生産の段階でそういうことへの対策を講じているから、いわばメンテナンス・フリー。人件費の高い日本で、この差は大きい。
 プレハブ住宅ではほとんど補修の必要がない。だから忙しいのは外装のペンキを塗り替える塗装工と配管の補修をする配管工だけ。これは住宅の概念を大きく変えてしまった。住宅もテレビや自動車並みになった。
 実は鉄筋コンクリートのビルもそうだということが、逆に、今度の地震で分かった。
 壊れたビルのぜんぶが修理できる。二度と使えないと思われたビルが、実はぜんぶ直して元通りに使える。建て替える必要などない。
 そんな技術が日本にあることを、震災が起こるまで誰も知らなかった。
 そんな技術が日本にあることを誰も知らなかったのは当たり前なのだ。そもそも、そんな技術などどこにも存在しないのだから。阪神大震災で山陽新幹線や阪神高速道路の高架橋が横倒しになったりスラブが落下したしたりした例が多数あったが、補修工事の中には落下したスラブをそのまま再使用しているものもあった。落下したスラブは当然、大きな衝撃を受けている筈だ。耐久性が大きく低下している可能性が大いにある。関係者の間では、「落下したスラブを使うのは問題があるのではないか」という疑問を唱える人が少なくない。これは専門家で無くても、なんとなく危ないというのは直感的に理解できるのではないかと思う。私も建築が専門分野の技術評論家だが、阪神大震災後に行われた建造物の補修作業を見ていると、実にいい加減だなという印象を受けた。
 そもそも、阪神大震災で多くの建造物が大きな被害を受けたのは、手抜き工事や欠陥工事によるところが大きい。手抜き工事や欠陥工事の恐るべき実態が阪神大震災後に明らかになった。その一年前にロサンゼルスで地震が発生し、高速道路が落下するなどの大きな被害を受けている。このとき、日本の建設関係者たちは、日本ではこのようなことはあり得ないと断言し、アメリカの建設工事や行政が如何にお粗末であるかを強調していた。しかし、それは全くの出鱈目であった。長谷川氏は、それでもまだ、建設業者の言う説明を全面的に信じるというのだろうか。如何にも典型的な企業の御用学者が書いた感じのする文章だ。
 従来工法の日本建築とプレハブ住宅との性能の対比についても、プレハブ住宅の宣伝と言われても仕方がないような内容だ。確かに建築の専門家である私の感覚からしても従来工法の日本建築は地震に弱いような気はする。何故、従来工法の木造建築が地震に弱かったのかというと、開口部が多いからだ。高温多湿な日本では、開口部が少ないと、部屋中カビだらけになってしまう可能性がある。北海道や東北のような寒冷地は別として一般的に、居住性では日本建築、耐震性では欧米の木造住宅の方が良いという事になる。居住性と耐震性を簡単に比較する事はできない。だから、単純にプレハブが良いとは言えない。ただ、今の時代、エアコンが普及しているから、南国で北欧式の住宅を建てたとしても、居住性についても特に問題は無いかもしれないが。
 建築の専門家でも無いのに知ったかぶっているという事が明らかな文章だ。彼もまた日本の技術をやたらと褒め称えて、詳しく知っているようなふりをしているが、他の技術に対しても大体こんなものだ。
 他の例としては、長谷川氏は巨大橋の建設技術を「日本だけにしかない技術」として褒め称えている。しかし、四国と本州の間に大して人が通らないにも関わらず、なぜ、三本も橋が必要なのかという疑問を持つ人は少なくない。この事については後で詳しく説明するが、長谷川氏は技術だけに気を取られていて、費用対効果を完全に見落としている。

船井幸雄
 船井総合研究所の会長である船井幸雄氏もまた唐津一氏などと共に製造業至上主義でハードウェア偏重の時代遅れの論客の一人だ。オカルトがかっているところが彼の特徴でもある。
 船井氏は次の様に金融業や情報産業を虚業と決め付けるような発言をしている。
 今のアメリカの好景気は、実態をともなったものではなく、見せかけのものである。アメリカは金融戦略と情報戦略で無理矢理に世界から金を集め、好景気を演出しているといってよい。だから、アメリカの好景気は長続きしないと思う
 どうしてアメリカの好景気が長続きしないかというと、情報や金融というのは、いわば、虚業だからだ。虚業は、実業があってこそ成り立つ。もし実業のほうが倒れてしまえば、いくら金融のシステムが好調であっても、経済は破綻してしまうのである
 この点、アメリカの実業は、以前から叫ばれているように、産業の空洞化が進行していて、気になる状態である。だから、バブリーなアメリカ経済はいつ潰れてもおかしくない状態にあると断言できるわけだ。
 私はアメリカが素晴らしいとも正義だとも思わないが、必ずしもアメリカが金融戦略と情報戦略で無理矢理に世界から金を集めたとは思わない。金融や情報の分野でアメリカが世界を制したのは、それらの分野にアメリカが積極的に力を注いで優秀な技術を擁していたという事が大きな理由の一つだ。その点は素直に認めなければならない。コンピュータ・ソフトの性能にしてもソフトウェアに対する社会の受け入れ態勢にしても日本などよりよほど優れているのは紛れも無い事実だ。多少の押し付けはあったかもしれないが、インターネットをはじめとしてアメリカの規格や製品は便利で優秀だから、ユーザーが自主的に選んでいるような場合も決して少なくない。コンピュータのパワーユーザーとしては国産のソフトに適当なものがないので、優秀なアメリカ製品を使わざるを得ない場合が少なくない。
 また、情報や金融が虚業などというのはとんでもない発言だ。これらについては後でまた詳しく説明するが、情報産業も金融業も立派な産業であり、社会にとって絶対に必要な産業だ。むしろ、製造業に偏重した産業構造から、これらの産業に対して積極的にシフトすべきなのだ。産業というのは互いに支えあっている。どちらがより重要か比較しても意味が無い。製造業もサービス業も社会にとって必要な産業だからだ。「空洞化」という表現には情報産業や金融業が実体の無い虚業で、製造業が社会にとって有益な実業であるという事が前提としてある訳だ。従って、この前提が間違いである事から、製造業を放棄した状態を空洞化と呼ぶのは間違っている事になる。
 彼は日本の製造業が国際的に高い水準にあることについて、次のように民族としての製造能力の高さが理由であるというような説明をしている。
 資本というのは、いちばん効率的に拡大をはかれる方法を選ぶが、その資本の意志からいえば、日本は物を作らせたら世界最高水準ともいえるくらい優秀な民族である。つまり、日本は、世界でも稀なほど極めて優秀な生産工場なのである。
 しかし、この優秀な生産工場には、マネジメントや金融が下手で、発展を邪魔している。
 似たような事を唐津一教授も言っているが、私は日本人が製造業を得意とする民族だとは全く思わない。昔から日本の工業は世界のトップレベルにあった訳ではない。今から僅か半世紀ほど前には、日本製品は粗悪品の代名詞であった。日本製品が高品質と言われるようになったのは歴史的に見るとごく最近の事である。製造業が優秀でマネジメントや金融が下手な理由は、単に日本人が製造業を重視して金融を軽視してきたからに過ぎない。製造業だけに力を注いでいれば、ものづくりが得意になるに決まっている。大して自慢にならないし、科学技術に民族主義が入り込むのは危険な傾向だ。
 韓国や台湾をはじめとするアジア諸国は実用的には日本製品の品質と大差ないレベルで、工業製品を生産することができる。船井氏の意見は単なる思い上がりに過ぎない。

第四章 太平洋戦争の教訓
自軍に甘い評価
 太平洋戦争中に旧日本軍によってなされた戦果発表の中には事実と大きくかけ離れたいい加減なものが少なくなかった。大本営発表の中には意図的に戦果を誇張し損失を過小評価する例も少なくなかった。しかし、発表の中には故意ではないが戦果が過大に報告された例もあった。激戦の中では、正確に戦果や損失を確認するのはとても難しいことなので、実際の戦果や損失とかけはなれた数値になりがちなのだ。
 日本軍に限らず、多くの国の軍隊で戦果が実際より過大に報告される事がしばしばあったようだ。アメリカ軍では戦闘機パイロットからの戦果報告は、実際に敵機に与えた損失より遥かに大きいという事がよくあったようだ。この中には、搭乗員が自分の手柄を強調するために嘘をついた例があるかもしれないが、必ずしもそういう不純な理由だけではなかったようだ。戦闘機の行動は通常編隊を組んで、チームワークで行われる。敵機が複数の味方機の攻撃によって被弾して墜落したような場合については、自分が撃墜したと思い込んでしまうような事も少なからず存在したと思われる。撃墜した敵機を重複して数えてしまったために、報告された撃墜数が実際の戦果を遥かに上回ってしまった可能性がある。これに対してアメリカ軍は写真銃を使用して戦果を確認するなどの対策を立てた。
 太平洋戦争における日本軍による戦果誤認の典型的な例として、台湾沖航空作戦がある。日本海軍はこの作戦の主な戦果を「空母十一隻撃沈と戦艦二隻撃沈」などと発表している。これ以外にもアメリカの空母や戦艦が多数撃破された事になっていた。これが本当なら戦争の大勢を逆転する可能性すらある物凄い大戦果だった。しかし、実際にアメリカ海軍がこの作戦で受けた損失は空母、駆逐艦が被弾した程度の軽微なものに過ぎなかった。私が台湾沖航空作戦に関する文献を調べた限りでは、日本海軍は最初の頃は発表した戦果が本当であったと信じ込んでいたようだ。何故、このような事実とあまりにもかけ離れた戦果が信じ込まれてしまったのか、今となっては理由が明らかではない。アメリカの艦艇がカムフラージュのために煙幕を張りながら航行していたのが、日本海軍のパイロットにとっては敵の船舶が被弾した事によって発生した火災による煙に見えたのかもしれない。あるいは、戦果を確認した日本海軍のパイロットが未熟なために見間違えたのかもしれない。
 台湾沖航空戦に投入された901航空隊はそもそも空襲部隊ではなく、対潜哨戒専門部隊として訓練されてきた部隊だそうだ。したがって水上部隊への空襲が出来ないのは当たり前という指摘もある。
 いずれにせよ、お粗末極まりない大失態であった。
 日本軍に対して、ドイツ空軍の戦果確認は自軍に対して極めて厳しかったようだ。先にアメリカ空軍の例を述べたように、空中戦の戦果というのは報告された撃墜数が実際に敵機に与えた損失を上回りがちだ。しかし、ドイツ空軍については、むしろ、実際に撃墜した敵機の数がパイロットから報告された撃墜数を上回ってさえいたようだ。このようにドイツ空軍では敵機の撃墜数は極めて厳格に審査されていた。
 日本軍とドイツ軍の戦果に対する確認システムを比較した場合、間違いなくドイツ軍の方が優秀だった。誰だってそうだろうが、自国の戦果に対しては過大に、損失に対しては過少に評価したがるものだ。自国の劣勢を認めたくないのが人情というものだ。だから、つい自国に対して甘い評価を下しがちだ。こうあって欲しいという願望が無意識のうちに戦果報告に影響してしまったのかもしれない。上官としては悪い報告を喜ばないのは当然の事だ。しかし、自国の戦果を過大に、損失を過少に評価する事は全く自国のためにならない。日本軍の上層部は、自分に都合の悪い報告を嫌って握りつぶし、都合の良い報告だけを採用した。そう思いたいというだけの事だった。日本人の自国に甘い評価が、アジア・太平洋戦争に敗れた大きな要因だ。
 このように、得てして人間は自分に都合よく考えたがるものだ。時として冷静さを失い、客観的な判断力を失ってしまう。特に日本人はその傾向が強い。さらに現在のような経済的に八方ふさがりの状態では東京都知事の石原慎太郎氏に見られるような八方やぶれの意見が通りやすい。最近の日本の経済や技術評論についても、戦前と同じような悪い癖がしばしば見受けられる。唐津一氏や長谷川慶太郎氏をはじめとする御用学者系の技術評論家の中には、「日本の技術は世界の中でも傑出しているから必ず日本経済は復活する」などと日本の製造業の圧倒的優位をやたらと強調している。書店でもその手の本は山と積まれており、その存在は目立っている。日本人としては当然の事ながら、それを信じたいという願望が働く。もちろん、私だって例外ではない。日本の経済が壊滅するような事態に陥ると、私のように海外居住経験の無い者は困ってしまう。
 自分に都合よく考えたいという気持ちはよく分かるが、太平洋戦争での日本軍の大失敗を思い出して、あくまで客観的に日本の科学技術の状況を判断する事が必要だ。

戦艦大和
 莫大な国家予算と長い年月をかけて建造された世界最強の戦艦でありながら大した活躍もせずに沈没した戦艦大和は、日本の技術のあり方を示す格好の例と言える。
 大和は日本の建艦技術の粋を集めて建造された当時世界の最先端を行く高性能の戦艦だった。排水量約七万トンと口径四六センチの主砲は世界最大であったし、もし沈没していなければ今でも世界屈指の巨大戦艦という事になる。いくつもの防水区画に区切られているため浸水しても簡単に沈まない上に、極めて高い復元力を有するなど、極めて沈みにくい構造の軍艦であった。工作精度も極めて高く、接合部にも様々な工夫が凝らされた。細部に渡り、高度な技術と工夫が盛り込まれていた。また、それまでの日本海軍の軍艦と比べて居住性も悪くなかった。このような世界の海軍史上最大の戦艦である大和と戦って勝てる軍艦などない筈だった。
 確かに大和は戦艦としては非常に高度な性能を有していた。しかし、航空機が進歩してくると、戦艦は海戦の主力の座を奪われていった。概念が古かったのだ。如何に大和の口径四六センチ砲の射程が長いといっても飛行機の行動半径にはかなわない。もちろん、移動速度も飛行機の方が遥かに速い。第二次世界大戦の頃になると航空機の戦艦に対する優位は決定的となっていた。ヨーロッパ戦線ではドイツが誇る最新鋭の戦艦を撃沈する際に、イギリスの旧式な複葉の攻撃機が活躍するという場面すらあった。大和の建造費用で航空機二千機を作る事が出来たと言われている。戦艦を造るくらいなら、その金で旧式の複葉機を造った方がまだましだったかもしれない。
 戦艦大和は、日本の技術を象徴する典型的な例だ。「遂に欧米を追い越し、世界最高の技術を持った」と思っていたら、何の意味も無い過去の遺物のような技術であった。日本では致命的に概念が古い技術が多い。例えば、巨大トンネルや巨大橋の建設技術などがそうだ。現在のように航空機や高速フェリーが発達した時代には、巨大トンネルや巨大橋の建設技術を保持する事は致命的に概念が古い。
 大艦巨砲主義が間違いであった事は、今日では多くの人が知っている。昭和の軍人の思考能力については右寄りの人でさえ、悪し様に非難する事が少なくない。しかし、我々は航空機より戦艦を重視した旧日本海軍の誤りについて笑う事はできない。我々は結果を知っているから、「大艦巨砲主義は間違いだった」と言えるのだ。現在の日本の技術については、戦艦大和より遥かに愚かと思われるものもたくさんある。
 確かに、大艦巨砲主義は結果的に間違ってはいたが、必ずしも海軍の首脳部を責められない事情がある。当時の航空機は欠点が多く全面的な信頼の置ける兵器ではなかった。今でこそ爆弾は殆ど命中するようになっているが、当時の航空機から投下した爆弾は命中率が極めて低かった。今でもそうだが、飛行機は天候に左右されやすい。特に当時はプロペラ機だったので、悪天候に弱いという不利な条件があった。航空機を夜間に使う事も非常に困難であった。飛行機は陸上の基地に着陸する事でさえ難しい。まして、揺れる航空母艦の狭い飛行甲板上に着陸する事は至難の業だ。航空母艦は構造上、戦艦に比べて脆い船に成り易い。ミッドウェー海戦では、甲板上に爆弾を受けただけで大型空母が使用不能に陥ってしまった。更に航空母艦には飛行甲板があるため、対空火器をあまり置けない構造になっている。
 更に、肝心な事は日米開戦の時期だ。当時、航空機は目覚しく進歩していた。もし、アメリカとの開戦が十年早ければ、海戦は戦艦中心になっていた可能性もある。当時の状況では、いつ日米間の戦争が起きていてもおかしくない状態だった。そのような状態では、将来性はあっても全面的な信頼を置けない兵器である飛行機を主力兵器とする事には、ためらいがあっただろう。
 このような理由で、当時の海軍が航空機優先に切り替える事に二の足を踏んだのは必ずしも愚かな判断とは言えない。米英にしても航空機優先主義になったのは日本との戦争に突入した後の事だ。だから、大艦巨砲主義に対する日本と米英の意識のずれはせいぜい四年でしかない事になる。
 巨大橋にせよスーパーコンピュータにせよ、大して必要の無いハードウェアの開発に力を入れているのは戦艦大和の建造と似ていなくも無い。欧米諸国は人工知能をはじめとするソフトウェアの分野に力を入れている。概念の古い分野で一人勝ちしたところであまり自慢にはならない。
(北方ジャーナル2000年4月号より一部引用)

零式艦上戦闘機
 アジア・太平洋戦争で日本海軍の主力艦上戦闘機として大活躍した零式艦上戦闘機もまた戦艦大和と共に日本の技術と経済のあり方を象徴する格好の例と言える。ただ、零式艦上戦闘機が大和の場合と根本的に違う点がある。大和が海戦で殆ど活躍しなかったのに対して、零式艦上戦闘機は日中戦争や太平洋戦争初期には目覚しい活躍をした点が大きく違っている。
 零戦は、プロペラの恒速可変ピッチ、空気抵抗を減らすための沈頭鋲、アルミニウム、亜鉛、マグネシウム系の合金である超々ジュラルミン、全金属製の機体、尾輪まで完全引き込み脚にするなど様々な先端技術が随所に使われた。軽量化するために徹底的な工夫が盛り込まれた。桁に幾つもの細かい穴を開けるなど極限まで徹底的に軽量化が図られた。それによって抜群に小回りが利く戦闘機ができあがった。また、航続距離の長さも群を抜いていて、当時の戦闘機で零戦より航続距離の長い戦闘機はアメリカ陸軍のP51マスタングくらいのものだった。当時としては非常に高性能な戦闘機だった。
 その反面、防弾鋼板が施されていないなど防御が致命的に弱かった。高空での性能が悪いのも大きな欠点だった。
 零戦には大きく分けて二つの問題点がある。
 一つは大和と同様に概念が古かった事だ。これは日本の技術を象徴している。零戦の特徴を一言で言うと徹底的に軽量化を図った小回りの利く究極の格闘戦闘機であるという事だ。古い時代には巴戦に勝てるような小回りの利く戦闘機が好まれていた。そのため、戦闘機は単葉化されるのが爆撃機より遅れた。これは複葉機の方が小回りが利くからだ。しかし、第二次世界大戦の頃になってくると戦闘機が大型化し、高速で強力な武装を持った戦闘機による一撃離脱方式に次第に変わられるようになってくる。一対一で敵の後ろにまわる巴戦をした場合には零戦はほぼ無敵だった。しかし、強力な武装を有する敵戦闘機が上空から高速で接近し攻撃を仕掛けると直ちに急降下して逃げる戦法をとるようになると、零戦は容易に敵機を撃墜する事は出来なくなった。また、沈頭鋲の採用など細かい工夫はなされていたが、ジェットエンジンのような画期的な発明は何一つ無かった。恒速可変ピッチや光学照準器にしても外国の技術に頼っている。独創性に欠けるが改良を得意とする現代日本の技術のあり方と良く似ている。
 もう一つの問題点は初期の頃は驚異的に大活躍したが、後期になってくると著しく評価が凋落した事だ。これは日本の経済を象徴している。ほぼ同じ年代に現れたイギリスのスピットファイアやドイツのメッサーシュミットBf109といった戦闘機は大戦の間を通して第一線級の戦闘機として活躍し続けた。これには二つの理由が考えられる。零戦はもともと致命的な欠陥を備えた戦闘機であり、それが戦争後半に露呈したという事だ。最も大きな欠陥は防弾鋼板が殆ど施されていなかった点だ。火災事故に対して防弾を施すようになると、運動性能や航続距離が著しく落ちてしまい、凡作とまで称される始末だった。発展性が無かったもう一つの理由は零戦が空冷式エンジンを搭載したスマートな戦闘機であった事だ。スピットファイアやBf109は液冷のエンジンを搭載している。液冷だとエンジンが大型化しても前の方に伸びていくので、機首が長くなる程度で機体の構造はさほど変わらないし、空気の抵抗も増大しない。しかし、空冷エンジンの場合は星型なので、馬力を増やすということは、直径が大きくなるという事だ。アメリカのP47サンダーボルトのような空冷式エンジンを搭載していても太目の戦闘機なら、余裕はあるかもしれない。しかし、零戦は一切の無駄を削ぎとった細身の戦闘機であった。もちろん、エンジンが同じならスマートな方が一般に高性能だ。初期の頃はそれで良かった。しかし、エンジンを大型化するとなると根本的に機体の設計を変えなければならない場合も出てくる。そうなると、いっそ別の戦闘機を設計した方が合理的だったかもしれない。「零戦は改造はされたが、改良はされなかった」と言われている。零戦を設計した堀越二郎技師は大馬力エンジンを搭載した敵の大型戦闘機の登場を見て、「我、あやまてり」と小型エンジンを選んだ事を後悔したそうだ。しかし、エンジンの大型化を見込み、大き目の機体に設計していたら恐らく初期のような目覚しい活躍は無かっただろう。
 その点は日本経済と良く似ている。年功序列、終身雇用制度は、年齢構成がピラミッド型で右肩上がりの経済においては極めて合理的なシステムであった。しかし、高齢化、低成長時代に入ってくると、全く合理性に欠けるシステムと言っても過言ではない。これは零戦と状況が良く似ている。日本式経営はいずれ行き詰まるという事が予測はされていた。しかし、初期の零戦のように大成功してしまったので、変革に着手するのが遅れてしまった。
 初期の頃は海軍の方が陸軍の戦闘機より優秀だった。しかし、後半になってくると陸軍は海軍を凌ぐ優秀な戦闘機を開発するようになった。海軍は零戦という優秀な戦闘機があったために戦闘機の開発を怠ったようだ。零戦は「成功は失敗のもと」という諺の典型のような例と言える。
 日本軍の問題点として大艦巨砲主義や格闘性能重視の戦闘機に見られるように個々の兵器の概念が古かったという事については大和や零戦の例をあげて説明した。それ以外の他の大きな問題点としては戦艦や戦闘機などをはじめとする兵器の運用が下手であったという点があげられる。
 日本は物量でアメリカに負けたように思われているが、アメリカ軍は太平洋戦争初期の質、量ともに劣勢の状態でも善戦している。太平洋戦争初期のアメリカ軍の戦闘機は性能的には日本軍機より劣っていたが、巧みな運用によって日本軍と互角に戦い、戦力の準備が整うまでの時間稼ぎの役割を十分に果たしている。
  運用によって見違えるように働きが変わった典型がアメリカ陸軍戦闘機のP38ライトニングだ。P38は「双頭の悪魔」と呼ばれる特異な形状が特徴だ。ターボチャージャーを搭載しており、高空性能が優れていた。この戦闘機が太平洋戦線に登場した頃は、零戦と対戦して低空で格闘戦に持ち込まれるとなすすべなく容易に撃墜された。そのため初期の頃は「ぺろ八」などと呼ばれて零戦のパイロットから馬鹿にされていた。しかし、高速であり高空性能と急降下性能が優秀で武装が強力であるという特長を生かし、上空から急降下し一撃離脱する戦法をとりはじめると、零戦にとって容易に撃墜する事のできない手強い相手となった。
 大和が殆ど役に立たなかった事は既に説明した。それでは戦艦が無用の長物だったかというと必ずしもそうではない。ミッドウェー海戦を例に説明しよう。
 戦艦から陸上に対する艦砲射撃というのは凄まじい威力がある。大和からミッドウェー島に向かって艦砲射撃を敢行していれば空母の艦載機による地上攻撃の負担は減っていただろう。敵艦隊の出現により機動部隊は魚雷と爆弾の換装に大忙しだった。艦隊と戦う時は攻撃機の武器は魚雷が主力となるが、地上攻撃には爆弾が使われる。陸上攻撃の一部を大和などの戦艦をはじめとする砲艦にやらせていればかなり効果があったのではないかと思われる。
 また、既に説明した通り、戦艦は防御能力が高く、対空砲火の威力は凄まじい。だから、大和のような巨大戦艦を空母の盾にしていれば、アメリカ海軍の攻撃機は容易に日本の空母に近づけなかっただろう。戦艦を空母の前面に配置していれば、かなり効果はあったのではないだろうか。しかし、ミッドウェー海戦では戦艦大和は山本五十六長官を載せて、機動部隊の後方にいた。これが間違いだった。大和の建造計画時には世界的に大艦巨砲主義が支配していたのだから、大和を造った事自体は責めても仕方がない。戦艦を空母の補助艦艇として活用していれば、それなりの活躍はした筈だ。
 また、直接戦闘と関係ないものを軽視するのが日本軍の特徴だった。
 アメリカ海軍の空母搭載機のうち三分の一が偵察機だったそうだ。ミッドウェー海戦では巡洋艦「利根」に搭載された利根三号機が不調で発進が遅れた。利根三号機の担当する範囲に敵の空母がいた訳だが、これを単なる不運で済ませて良いのだろうか。当時の航空機、特に日本機の場合は故障が多かった。当然、こういう事態が発生する事は十分予想出来た筈だ。アメリカのように索敵に十分力をいれていれば、このようなミスが起きる可能性は低かっただろう。
 日米間における兵器の運用方法の差を象徴しているのがマリアナ沖海戦だ。この時の日本海軍が保有する艦上攻撃機の性能は航続距離をはじめとして数値的にはアメリカの航空機を凌駕しているように思われた。敵の射程外から攻撃する「アウトレンジ作戦」によって、圧勝するという確信を日本海軍は持っていた。しかし、実際に対戦してみると「マリアナの七面鳥撃ち」と言われるように日本海軍の航空機は敵戦闘機から逃げまわるのが精一杯であり、惨敗に終わってしまった。これはアメリカのレーダーとVT信管の運用によるところが大きい。レーダーで敵航空機を補足し、戦闘機によって効果的に迎撃した。また、VT信管でそれまで航空機にとって大した脅威でなかった対空砲火の威力を劇的に高めた。レーダーにしてもVT信管にしても間接的な兵器だ。このように日米間には、ハード重視とソフト重視という違いが見られた。航空機の性能では日本側が圧倒的に有利な筈だったのに、運用の差で完敗してしまった。これもまた戦闘と直接関係ないものを軽視するという日本軍の癖が表れている。
 日本海軍はレーダーを売り込みに来た人物に対して、「そんなものを使ったら、提灯を持って相手に居場所を教えるようなものじゃないか」と笑いものにしたというような逸話を読んだ記憶がある。日本海軍の言う事にも一理ある。確かに電波兵器は相手にこちらの存在を教える事になり兼ねない「両刃の剣」的な性格はある。しかし、第二次世界大戦でレーダーが大活躍した現実を見ると、やはり海軍の判断は間違いだったと言わざるを得ない。
 この事は現代の日本でも同じような事が言える。日本の工業製品の品質は高い。自動車は十年前と比べると性能的には目覚しい進歩を遂げている。しかし、自動車を単に目的地まで移動するための道具と考えるなら、十年前と比べて殆ど進歩していないとも言える。目的地に着く時間は殆ど変わっていないし、むしろ、渋滞がひどくなり、以前より不便になった事例も少なくない。いくら車が優れていても、交通システムという運用するソフトが整備されていなければ、交通の便は良くならないだろう。
 また、石原慎太郎氏や唐津一氏などによって如何に日本の工業製品の故障率が低いかが強調される事が多い。しかし、例えばOA機器などの場合は故障率が多少高くても運用によって殆ど支障の無いレベルにまでトラブルを減らす事が可能だ。例えば、オフィスでプリンターを使う場合について考える。個々のプリンターの故障率が一割だとする。二台あって二台とも故障する確率は一%、三台あって三台とも故障する確率は千分の一にも減ってしまう。ネットワークを構築してうまく運用すれば、ハードが多少劣っていてもソフト面で補う事が可能だ。
 そういった運用面に関して日本は欧米と比べてあまりうまくない。

成功は失敗のもと
 太平洋戦争における日本海軍のあり方は、「成功は失敗のもと」という諺の典型的な例と言えるのではないだろうか。
 日本海軍の主力艦上戦闘機であった零式艦上戦闘機が「成功は失敗のもと」の見本である事については既に説明した。ここでは零戦が「成功は失敗のもと」であった事について簡単に説明する。零戦は軽量で抜群に小回りのきく格闘戦闘機として登場した初期の頃は大活躍した。そのために大型で武装が強力な高速戦闘機による一撃離脱戦法という世界の流れについていくのが遅れてしまった。零戦とほぼ同年代の旧日本陸軍一式戦闘機である「隼」は零戦に比べて性能がぱっとしない戦闘機だった。しかし、陸軍は三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」などの優秀な後継戦闘機の開発を積極的に進めていった。初期の頃の零戦は活躍があまりにも目覚しかったために、日本海軍は零戦の後継機の開発に遅れてしまったようだ。
 日本海軍が大艦巨砲主義に見られるような大型の砲艦を海戦の主力とする考えにこだわったのは、日露戦争の日本海海戦で日本海軍が大勝利した事が尾を引いているという面があるようだ。東郷平八郎提督は日本などより遥かに手強いと考えられていた強敵ロシアを相手に日本を大勝利に導いた救国の英雄という見方が一般的だ。東郷提督のような英雄に関する記述を積極的に教科書に載せるべきだというような意見も聞かれた。しかし、東郷提督の功の部分は盛んに強調されているが、負の部分についてはあまり知られていない。年功序列的な色彩の強かった旧日本海軍では、東郷平八郎提督のような偉大な重鎮が現役を退いた後も、海軍の方針にやたらと口を出すような事が少なくなかったようだ。日本海軍が大艦巨砲主義から航空機中心主義に移行するのが遅れた理由は、東郷氏が航空機による戦い方を邪道なものとして嫌った事も一因となっているようだ。東郷氏が飛行機を嫌ったのは必ずしも戦略や戦術といった理由によるものではなく、単に自分が現役の頃の大成功体験を懐かしんでいたという情緒的な面が少なからずあったようだ。
 このような事例は、上下関係が厳しい日本企業ではよく見られる事だ。日本電気のパソコン戦略を例に説明しよう。かつて日本国内ではPC98シリーズが圧倒的なシェアを誇っていた。NECのPC98シリーズの大ヒットは、日本電気を世界的な電気メーカーに躍進させる大きな原動力となった。PC98が国内シェアを圧倒した理由は、OSとしていち早くマイクロソフト社のMS―DOSを採用した事とハードで日本語処理をするために日本語処理能力が優れていた事などだった。MS―DOSを採用した事については先見の明があったと言えるかもしれない。互換性が乏しくパソコンの性能が貧弱だった時代にはPC98が圧倒的優位を占める事ができた。
 しかし、WINODOWSの時代になってくるとPC98は互換性でも日本語処理能力でも優位は無くなってしまった。今日ではIBM互換機が国外のみならず、日本国内でも主流になっている。日本電気の若手社員の中には、PC98シリーズからIBM互換機への移行を唱えていた社員は少なくなかったようだ。しかし、PC98シリーズを日本の標準パソコンとして育て上げてきた立役者たちが社内の重鎮としてIBM互換機への移行を邪魔してきた。彼らの持つPC98に対する愛着が、他社に遅れをとる要因となってしまった。会社としては長年の功労者に対する遠慮があり、あまり強い事は言えなかったのだろう。もっと早くからパソコンをIBM互換機路線に切り替えていれば、NECはIBM互換機でも国内シェアで他社を圧倒していたかもしれないと言われていた。ハイテク調査会社のデータクエストによると一九九九年のNECのシェアは二二%で二位の富士通の二一・五%とは僅か〇・五%の差に過ぎない。かつてNEC一社でシェアの五十%以上を占め、エプソンのPC98互換機を含めるとシェアの大半がPC98互換機であった事を考えると、今でも一応首位とはいえ、もはやパソコンのリーディング・カンパニーとは言えないかもしれない。それでもNECは未だにパソコンのシェアで首位を守る方針のようだ。GATEWAY2000やデル・コンピュータなどをはじめとする通信販売のパソコンメーカーが著しく実績を伸ばす中で、NECのシェアが更に低下するのは必至であろう事は素人でも容易に予想できる。NECの経営者に質問して確認した訳ではないが、やはり、PC98に対する愛着を未だに捨てきれないのだろう。
 国全体や国際社会として考えると、もっと状況は深刻だ。明治以降の近代日本では製造システムや教育体制が他のアジア諸国より早く整備されていった。そのため、今の産業構造や教育を改革する事にはあまり熱心ではない。何も無い国では、新しい概念に対する抵抗があまり無い場合が少なくない。終戦直後の日本では、主要な大都市が焼け野原になったからこそ、最新の設備や製造技術への移行がスムーズにいったという面もある。ソフトウェアの開発技術に関しては中国やインドの方が日本より上だと言われている。日本では優秀な製造技術があるために製造業にこだわってしまい、ソフトウェアへの移行に遅れている。下手に過去の蓄積があるとそれを捨てきれずに何をやっても中途半端になってしまう可能性がある。
 教育に関しても、日本はアジアの中で校舎は整備されている方だ。それに対して他のアジア諸国の中には校舎も満足にないような国もある。そういう国ではインターネット教育の導入に対する抵抗があまりない。そのため日本よりむしろインターネット教育が進んでいるような国も少なくない。それに対して日本では、「インターネット教育は人格を破壊する」などという間抜けた意見が教師から聞かれる。かつては日本の教育の優秀性は非常に高く評価されてきた。しかし、これもまた、過去の蓄積と自信があるために、インターネット教育のような新しいシステムに対する抵抗意識が生じている。
 これからの時代は、どれだけ過去の高度な技術や教育システムの蓄積を捨てきれるかという事が大きな課題となる。

第五章 ワンセット主義
宇宙開発事業
 H―Uロケット打ち上げの失敗に対して大手新聞は厳しく批評した。各紙の見出しは「撤退も考慮を 失敗の宇宙開発事業団に総額九千三百億円の税金」、「打ち上げコスト欧米の二―三倍」、「宇宙の旅道険し 割高ロケット次々失敗…開発事業団の塁損一兆八千億円」などとあって、宇宙開発事業団の宇宙開発は、莫大な税金をつぎ込んだにも関わらず割高で失敗ばかり続けて、撤退も考慮されるべきだという論調になっている。私はこれらの意見に対して全くその通りだと思っている。
 しかし、これらの報道に対して、加藤康宏科学技術事務次官は「米国の予算は日本の十倍、欧州も倍以上で、打ち上げ数が極端に少ない割に技術的に成果を上げている」と反論している。「予算が欧米と比べて少ないから、十分な成果が上がらない」という言い訳は通用しない。予算が少ないという事を失敗した時の言い訳にしているに過ぎない。
 日本のロケット技術がかつて高い成功率を誇ってきたにも関わらず、立て続けに失敗したのは何故か。これに対する答えは2002年1月28日の毎日新聞の朝刊の発信箱の中で科学環境部の瀬川至郎氏によって次の様に解説されている。
 日本のロケットはかつて高い信頼性を世界に誇ってきた。ところが、98年と99年にH2ロケットの打ち上げに連続失敗し、「成功神話は地に落ちた」といわれる。私は違う意見だ。日本のロケット技術はもともと、そんなところだ。
 家電や自動車の大量生産では、日本は確かに故障の少ない高品質の製品を作ってきた。しかし、H2やその改良型のH2Aロケットは、最先端技術を結集した「実験機」だ。量産に向かないし、飛ばしてみないとわからない部分が残る。
「地上でできる限りの試験はするが、それも限度がある」。宇宙開発事業団のロケット開発に長く携わってきた柴藤羊二・特任参事は率直に話す。100%の成功はあり得ない。現段階では約90%か。10回に1回は失敗する。
 ではかつての日本はなぜ、成功を重ねる事ができたか。理由は簡単だ。H2より前は米国のデルタロケットの技術に頼っていた。「デルタの失敗経験の上にいたから失敗しなかった」と柴藤さん。米国の失敗にただ乗りしていたわけだ。純国産のH2ロケット以降、自前の失敗経験が必要な立場になった。
 宇宙開発自体が必ずしも悪いとは思わないが、日本の技術開発の問題点は中途半端で物まね技術である事だ。日本ではあらゆる科学技術の分野の研究開発に手を出しており、研究開発費が分散している事が問題だ。H―Uロケット、原子力、リニアモーターカー、科学技術庁による短距離離着陸機「飛鳥」の開発などをはじめとして非常に広範な分野の研究開発に取り組んでいる。宇宙開発以外の研究開発をやめて、宇宙開発だけに集中的に取り組むというのなら、私は反対しない。日本の科学技術政策の特徴は、「全ての分野に関する技術を備えていなければならない」という発想に基づいている点だ。このように「国内に全ての技術を保有しなければならない」という考え方は、堺屋太一氏によるとワンセット主義というそうだ。
 日本のロケットはコストが非常に高い。これは少量生産しているからだ。最近の自動車業界の再編に見られるように、製造業というのは、規模のメリットというものがある。ロールス・ロイスのように少量生産するのとトヨタのように大量生産するのとでは一台当たりの製造コストが大きく違ってくる。ロケットは単に高性能であれば良いというものではない。高価な物だから、いくらでも金を出すという訳にはいかない。
 日本人がいくら優秀か知らないが、全ての分野でトップになる事は不可能だ。世界で二位、三位の分野をたくさん作るより、どれか一つの分野だけでも一位になった方が遥かに効率的で利益が大きい。「全ての技術を有していなければいけない」という強迫観念に囚われている人が少なくないようだが、現在のような国際化社会で全ての物を自国で調達しようと思ってもとても無理だ。そうなると鎖国でもするしかない。何かを輸出だけして、何も輸入しないという事になると貿易摩擦が生じてしまう。
 技術さえ持っていれば安全だというものではない。そもそも日本では製造業のために農業が完全に犠牲になっている。農業が無くても一向に構わないというのだろうか。それなら、半導体や航空機などの技術を放棄したっていいようなものだ。ロケットの技術にしたところで、世界の頂点に立つ技術が見当たらず、結局は欧米の技術に頼らざるを得ないのが現状だ。このように先端部分が欠けている状況に対して、「台形のようだ」と話す専門家もいる。
 科学者や経済界の著名人の中には、ワンセット主義に対して懐疑的な人が少なくない。ワンセット主義に無理があるという事は少し勘のいい人なら容易に気付くような事だ。例えば、経済企画庁長官で作家の堺屋太一氏がその代表だ。
 多くの分野に科学技術対策費が分散されているのは結局、単なる研究者の失業対策に過ぎないのではないのか。私自身、技術者として建築現場のOA化に関与してきたので、関係者の立場としては「全く成果をあげていません」などと言いづらいという事は良く分かる。まして、国家的プロジェクトの場合はリニアモーターカーの数十兆円のように莫大な税金をつぎ込んでいる。関係者としては、多額の税金を使っておいて、「研究は全て無駄でした」などとは口が裂けても言えないだろう。個々の分野に注がれる研究費は必ずしも欧米より多くは無いが、全体としてみると、日本の研究開発費は決して少なくはない。日本の研究者が恵まれていない訳では決してないのだ。
 ワンセット主義には賛否両論があり極端に意見が分かれているが、ワンセット主義の放棄は世界の趨勢であり、存続は物理的に不可能だ。医者としても音楽家としても野球選手としても弁護士としても一流になろうとしても無理というものだろう。「原子力もロケットも半導体も巨大橋建設技術もバイオテクノロジーの技術も有している。日本の技術は広範だ」という話を素人が聞けば誇らしく思うかもしれない。しかし、如何に日本人が優秀な民族かしらないが、全ての先端技術を国内に保有しようなどという考えは思い上がりに過ぎない。ワンセット主義の存続は諦めざるを得ない。

テクノポリス列島
 テクノポリスは高度技術集積都市とも言われるが、通産省が推進している都市づくりだ。ハイテク企業や研究所や大学など産・官・学が一体化したハイテク都市づくりを目指す。
 テクノポリスの建設は日本各地で計画されている。北海道の恵庭市、千歳市、苫小牧市などの道央テクノポリス。青森地域テクノポリス開発。大分県宇佐市、杵築市などの県北国東テクノポリス、広島県呉市などの広島中央テクノポリスなど日本各地にテクノポリスの建設計画が立てられている。
 しかし、日本で建設あるいは計画されたテクノポリスには順調に運営されていない事例が少なくない。と言うより、日本国内でテクノポリスの運営が成功した例は、私が見た限りでは一つも見当たらない。テクノポリスの建設に失敗した典型的な例が大阪府の泉佐野市にある泉佐野コスモポリスだ。泉佐野コスモポリスは六二〇億円の負債を抱えて、活動を停止してしまった。関西空港の玄関口である泉佐野市にハイテク産業を誘致し、アメリカにあるシリコン・バレーのような先進工業都市を建設しようという計画だったが、見事に失敗している。テクノポリスの建設予定地はゴーストタウンと化してしまった。この事は巨大な公共事業の失敗例として盛んに紹介されてきた。荒野に巨大な建造物が孤立しているという異様な光景を写した写真が週刊誌などで盛んに掲載された。泉佐野コスモポリスの建設が失敗した事も一因となり、大阪府は巨額の赤字を抱えて、財政再建団体に転落してしまった。
 地方自治体としては地元の経済を活性化させるために地元をテクノポリスにしたいという願望は強い。恐らく、どこの自治体でも地元をテクノポリスにしたいという願望は持っているだろう。
 テクノポリスというのはどこか一箇所に施設や人を集中して、ある程度規模の大きなものにする必要がある。最近の自動車業界の世界的な再編に見られるように、研究開発や製造業というのは数のメリットというものがある。一般に規模が大きいほど効率が高くなるという傾向がある。自動車を年間百台作るより一万台作る方が当然の事ながら効率は高くなる。数が多すぎた日本の自動車メーカーは殆どが他社の系列に編入されていった。少量生産でロボットなどの先端機器を導入しても採算が合わない事が多いし、研究開発費の負担も大きくなる。テクノポリスについても集積度を高めた方が効率的と言える。
 しかし、日本の地方自治体が目論んでいるテクノポリス計画の大きな問題点としては、各地方自治体が勝手に独自の計画を練り上げている場合が少なくないために、テクノポリスが日本各地に細切れに分散してしまっているという点だ。世界的にみてテクノポリスとして成功しているのはアメリカのシリコン・バレーくらいしかないのではないか。今や工業製品は発展途上国でも先進国と大して違いのないレベルの物を作れるようになっている。工場の生産性も著しく向上したために、工業製品は供給過剰状態になっている。物余り状態の中で工業製品の需要自体も減っているし、物を作ってもなかなか売れない状態になっている。少ないパイの奪い合いという状態だ。そのような状況で、日本中にテクノポリスを分散させるのは愚の骨頂だ。
 最近、地方分権の必要性が盛んに唱えられている。地方に権限を委譲しようという動きが見られる。地方分権自体が悪いとは思わないが、大きな勘違いをしている人も少なからず存在するようだ。テクノポリスの建設を地方自治体が勝手に計画するというのは単なる地域エゴに過ぎない。石原慎太郎東京都知事のように中央政府や高級官僚を相手に喧嘩するのが格好良いと思っている人が少なからず存在するのは困ったものだ。テクノポリスやハブ空港建設のような巨大プロジェクトを実施する場合は、どこの県や都市に何を建設するかは国全体として考えるべき事だ。自分の自治体に勝手に巨大な空港を建設しておいて、「こんなに素晴らしい空港を造ったのだから、ハブ空港にしてくれなければ経済が破綻して困る」などと言われても困る。テクノポリスなんて、日本にせいぜい二つか三つあれば十分だ。テクノポリスの建設は日本中で実施されている無駄な公共事業の典型であろう。自民党が得意とする利益誘導型政策の一つだ。それによってゼネコンは潤うだろうが、施設は殆ど活用されずに遊んでいる。その金は税金から引き出されている。これ以上無秩序にテクノポリスの建設が進むと地方自治体だけでなく国家の崩壊に繋がり兼ねない。
 テクノポリスに対するこだわりは、テクノポリスという言葉の格好良さという面もあるのではないだろうか。私はちっとも格好良いとは思わないし、しつこいようだが、技術は他人に自慢するためにある訳ではない。「技術のための技術」など必要ない。下らないプライドのために、次の世代につけを残さないようにしなければならない。
 先進諸国では脱工業化社会に向かいつつある。これ以上のテクノポリスはもはや必要ないのではないか。少なくとも新規にテクノポリスを建設する事は控えるべきだ。

多過ぎる工学部
 ワンセット主義にしてもテクノポリスにしてもそうだが、金や人や物が分散してしまっている事が問題となっている。これは大学の工学部などの研究機関についても同じような事が言える。
 よく日本の大学など研究機関の関係者から如何に自分たちの施設や機材が貧弱であるかという事が強調される事が少なくない。その典型的な例として、雨漏りのする施設があげられる事がよくある。そういう話を聞くと、如何に日本の行政がケチであり、研究者が非常に冷遇されているかのような印象を受けてしまう。しかし、私は日本の研究者に対してあまり同情する気は無い。確かに個々の研究機関や研究者に対する投資は欧米と比べて多いとは言えないかもしれない。しかし、国全体の合計として考えてみると日本の研究開発関連の投資は先進国と比べても必ずしも少ないとは言えない。
 そもそも、研究開発関連費というのはどこまでを範疇に入れるのかというのが非常に難しい。これは研究開発に限った事ではないかもしれない。防衛費についても同じ事が言えるかもしれない。例えば、警備員の給料であるとか、施設の清掃費であるとか、そういった費用も一応研究開発費と考えられる。
 そうすると、研究施設や研究者が細切れになっている場合には無駄な投資が多くなる。どんな小さな施設だろうと玄関やトイレは必ず一箇所は必要になるし、管理者も付けなければならない。設備機器にしてもそうだが、個々の大学に同じ様な装置を置いているのは無駄な話だ。日本の研究機関の場合、研究用の機器や実験に使用する材料の購入費などのように直接的に研究開発に関連した費用以外の出費が多くなっている。
 雨漏りがするとか設備機器が貧弱であるから研究が満足にいかないというのは、研究者の言い訳に過ぎないのではないか。それならば、機器や建物が立派なら研究は必ず成功するのだろうか。むしろ、立派な施設を与えられた場合には失敗した場合の言い訳がきかないので、嫌だと思っている研究者が存在するのではないのだろうか。
 結局、大学や研究者が多過ぎるから、雨漏りがする施設が出てくる事になってしまうのだろう。研究機関を統合していけば、機器や施設の重複を防ぐ事が出来るし、無駄な出費をせずに済む。そうすれば教授などのポストが大幅に減ってしまうだろうが、それはそれで仕方ない事だ。
 成果が見込まれる分野に絞って十分な投資をして、無駄な出費と研究者の姑息な言い訳を無くすように改善していかなければならない。
 また、工学部の研究室が多過ぎるという事が工学部教授の質だけでなく、講師や学生の人格にも悪影響を与えているように思われる。工学部教授の全てがそうだとは言わないが、まるで企業の手先のような御用学者が少なからず見受けられる。やたらと企業に媚びる人物が少なくない。何故そうなるかと言うと、工学部教授は掃いて捨てるほどいるので、メーカーやゼネコンなどの企業に対して弱い立場にあるという事が大きな理由の一つだ。大手メーカーやゼネコンにしてみれば、工学部教授など幾らでも選ぶ事のできる存在に過ぎない。飲酒を強要するなどの企業の悪い因習や労働基準法を無視した長時間労働など劣悪な労働条件に対して学生を順応させようとする愚かな教授すら存在する。
 北海道工業大学の建築工学科助教授と話していて呆れた事がある。私はリニアモーターカーの開発に対して、「単に速度だけなら従来の車輪の列車でも既に時速五百キロを突破しているものもあります。いくら速度が出ても騒音が大きいから実際には時速五百キロ以上の高速走行はできません。そんなものに三十兆円を使うなんて税金の無駄遣いだ。単に速度世界一を競って、技術者のお遊びになっています。オリンピックのような感覚では困ります」と主張した。するとその助教授は、「いいんだ。オリンピックでいいんだ。楽しいじゃないか」と答えた。研究の成果などどうでも良くて、自分の保身が大切なのだろう。「いくら金を無駄に使っても、自分の金でなければ一向に構わない」と思っているようだ。このように社会性に欠けた人物が助教授なのだから困ったものだ。
 欧米の大学だと、特許料の収入などにより自力で十分運営していける大学が少なくない。それに対して、日本では、授業料収入と国や企業からの援助に頼っている大学が殆どだ。工学部の研究は金がかかる。これでは工学部教授は企業に対して頭が上がらないのは当然だ。これは国家にとって由々しき問題である。原子力発電や建造物の安全性をやたらと強調する工学部教授が少なくないが、彼らは必ずしも中立の立場で発言している訳ではない。
 工学部については量から質に転換する必要がある。

縦割り行政
 これまでに説明してきた通り、日本では科学技術に関する多くの分野の研究開発に金をつぎ込んでいて、人材や金が細切れになってしまっている。その上に、日本特有の縦割り行政によって、さらに同じ分野の中でさえ研究開発に関する人材や金が細切れになっているような事例がしばしば見受けられる。ただでさえ、無駄な研究開発が多過ぎるのに、その上、同じ分野で金の奪い合いになっているという馬鹿馬鹿しい国は先進国の中で私が知っている限りでは日本だけだ。
 その典型的な例が宇宙開発事業だ。日本製のロケットは外国のロケットと比べてコストが高いと言われている。日本で宇宙開発を行っている主な組織として、科学技術庁の宇宙開発事業団、文部省の宇宙科学研究所などがあげられる。一つの国内で複数の組織が宇宙開発を担当するなどという話はあまり聞いた事がない。そのような事をしている国は恐らく、日本くらいのものだろう。その事が、日本製のロケットのコストが欧米と比べて遥かに高い理由の一つとなっている。
 しかも、文部省も宇宙開発事業団も、それぞれがロケットの打ち上げに失敗している。こんな間抜けたやり方をしていたのでは、ロケットの打ち上げに失敗しても、むしろ当然と考えるべきなのかもしれない。
 この事は誰がどう考えても明らかにおかしいと思うだろう。ロケットに関する全くの素人だって、間違いだという事が容易に分かりそうなものだ。現に多くの一般人がロケット開発のあり方を批判しているし、的確な批判が多い。誰が見ても明らかにおかしなシステムを専門家が変えようとしないのは何故なのか、疑問に思う人もいるだろう。その事について、私なりの解説をしようと思う。
 私もかつてゼネコンで業務用のコンピュータ・プログラムの研究開発に長年関わってきた経験のある技術者であるから、研究開発担当者の思っている事は大体想像がつく。研究開発の効率化を図るという事は、国民全体としてみれば間違いなく良い事であろうと思われる。しかし、研究開発に携わる人たちにとってみれば、それは必ずしも良い事とは言えない。むしろ、自分の所属する組織を統合化される事によって、従来与えられていた仕事からあぶれてしまう人たちが大勢出てくるかもしれない。失業まではいかないにしても、転勤や地位の降格という事になる可能性は高い。研究機関の統合化を進められると自分の職や地位を失う可能性があり、関係者にとっては死活問題になりかねない。
 例えば、宇宙開発の組織を科学技術庁の宇宙開発事業団一本に絞ったとすると、科学技術庁の担当者にとってみれば非常に有り難い事だろう。このように研究開発に関わる個々の関係者について見ると、研究開発の組織を統合した方が得をする場合も出てくる。しかし、研究開発組織の統合を進めていった場合に余剰人員として職を失う人や他の組織の傘下に組み込まれて待遇や地位が低くなるような人たちも数多く発生する可能性が高い。地位、収入、勤務地などの安定を考えると、内部の人間が積極的に研究開発機関の統合を図ろうとする意欲は大抵の場合、高くはならない。
 上層部や組織のあり方に対しておかしいと感じる構成員がいたとしても、自己保身を考えると、異議はなかなか唱えられないものだ。特に閉鎖的な日本の社会では、上司や所属する組織に対して異議を唱える事は非常に難しい事だ。
 また、外部の人間についても、このような奇妙で無駄の多いシステムに対して、あまり強く異議は唱えない傾向がある。日本人は左右ともに権威に弱い傾向がある。
 私は民営化を絶賛し、何でも民営化すれば良いと主張するタイプの評論家ではない。最近、「官僚的な官僚批判」が左右を問わず良く見受けられるが、単純に役所や官僚を責めて役所の仕事や国営企業を民営化すれば社会が良くなるというものでは決してない。経営の悪化からフランスのルノーに買収された日産自動車などは「官僚より官僚的な組織」と言われてきたし、民間企業でも官僚的な組織はたくさんある。役所に限らず、大きな組織では形式主義的になりがちなのだ。
 しかし、ロケット開発をはじめとする巨大な研究開発については、役人のあまりのお粗末さに対して苦言を呈さざるを得ない。技術評論家としては、莫大な税金を無駄にされて黙っている訳にはいかない。
 こんな事は技術評論以前の問題であるし、あまりにも陳腐な話なので私としては馬鹿馬鹿しくて書きたくないのだが、やはりこの事は非常に重要な事なので、無視する訳にはいかなかった。
 日米のソフトウェアに対する取り組みの違いを示す例としてTRONとWINDOWSがある。TRONやWINDOWSはOS(基本ソフト)という種類のコンピュータ・ソフトであり、TRONは一九八四年に東京大学の坂村健教授が提唱した国産のOSだ。ご存知の人も多いだろうが、WINDOWSはアメリカのマイクロソフト社によって開発された。現在、パソコンのOSとしてはWINDOWSが圧倒的に多い。WINDOWS互換機以外のパソコンは殆どがマッキントッシュ互換機だ。マッキントッシュもまたアメリカ製だ。
 WINDOWSはパソコンだけで無く、ワークステーションの分野でも有力な存在になりつつある。ワークステーション用の代表的なOSとしてはUNIXがある。これもまた、アメリカ産だ。
 アプリケーションソフトでもアメリカ製品が多くの分野で日本製品を圧倒している。MS―EXCELをはじめとして表計算ソフトは圧倒的にアメリカ製が多いし、比較的日本勢が健闘していた日本語ワープロの分野でさえ、最近はマイクロソフト社のMS―WORDが次第に勢力を伸ばし、主力になりつつある。かつて日本を代表するワープロソフトだった「一太郎」はMS―WORDに対して苦戦を強いられている。
 二〇〇〇年六月十七日の毎日新聞には、TRONはアメリカ政府の圧力によって普及が妨げられたかのような記述がある。WINDOWSについては「販売戦略で勝った製品だ」という事が盛んに言われる。TRONを開発した技術者からは「性能ではWINDOWSに負けていないのに」と悔しがる人もいる。しかし、TRONがWINDOWSに負けた理由については、必ずしもアメリカやマイクロソフト社が自分たちの製品を強引に押し付けたというだけでは済まない部分がある。開発を進めた技術者にも日本の社会にも大きな問題があった。
 TRONは東京大学の坂村教授が中心となって開発が進められた。私はかなり以前からTRONの存在を知っていたが、TRONが世界標準のOSになりそうな気というのは全くしなかった。日本の技術者には変な癖がある。その全てをあげていると長くなるので、ここではその中の一例について具体的に説明する。日本ではこういう研究をするのは理工系の技術者がやるものだという思い込みを持っている人が少なくないようだ。しかし、実際には、ソフトの開発には理系も文型も関係ない。開発者を理工系の技術者に限定するのは飛行機で言うと片肺飛行をしているようなものだ。この他にも、性別、国籍、年齢などによる上下関係にこだわるなど自ら開発スタッフの選定につまらない制約をしている事例が少なからず存在する。人口も多く、開発体制がオープンなアメリカにとても勝てそうな気はしない。
 そもそも、TRONには日本語処理や文化をやたらと強調する国粋主義的な側面が感じられる。この理屈だと、アメリカのOSはアメリカ製、フランスのOSはフランス製という閉鎖的なシステムになってしまう。情報の国際化という概念にそぐわないような感じがする。また、通産省が後押しする事にも問題があるように思う。アメリカは「義務教育にTRONを導入するのは政府による市場介入だ」としてスーパー301条の対象としているが、この主張には一理ある。ユーザーが自由に選べるようにしなければ、建設業界の談合と同じような事がコンピュータの世界でも起きてしまう。
 また、日本ではOSを理解しようとする社会的な土壌が出来ていなかった。今でこそ、情報通信産業や人工知能のようなコンピュータ・ソフトの開発に積極的に力を入れるべきだという意見を述べる人は珍しくない。しかし、一九八〇年代にはコンピュータ・ソフトの重要性を正しく理解している人は本当に少なかった。私は建設会社の現場監督からプログラマーに転職しようとした事がある。その時、周囲の人達は猛反対したものだった。「そんな訳の分からない業界に行ったら、悲惨な事になる」と決め付けている人が多かった。少し前まではコンピュータ・ソフトの開発者は社会の落ちこぼれのように思われていた。
 コンピュータ・ソフトは金を出して買うものという認識が持たれるようになったのは最近の事だ。以前はコンピュータ・ソフトというのはコンピュータの付属品であるという程度の認識しかなされていなかった。それはソフトウェアというものが分かりづらいという事が一つの大きな理由ではないかと思われる。ハードの場合は数値を比較する事によって製品の優劣を決めやすい。しかし、ソフトの場合は必ずしも数字だけで優劣が決められない場合が少なくない。初期の頃は、高度な構造計算用ソフトの場合は速さ、データベースの場合は処理できる件数、など速さや容量といった数値で優劣がほぼ決まるような場合もあった。しかし、現在では処理速度や容量は飛躍的に向上し、そういった能力が必ずしも優劣を決める有効な指標とは言えなくなっている。例えば、ワープロソフトの場合は使い易さが重要なポイントだ。しかし、使い易さ測定器がある訳ではないので、単純な比較はできない。特にOSの場合は優劣の比較が難しい。OSというのは工事現場で言うと監督のようなものだ。現場監督が如何に優秀であろうと、作業員の質が悪いと良い建物を造る事は難しい。OSが優秀でも、それに対応する優秀なアプリケーションソフトが揃っていないと意味が無い。
 このようにOSというのは素人にとって概念が分かり難かった。そのために日本ではOSの開発が遅れてしまった。アメリカがソフトを独占してしまったのは、決して、自分たちの標準を力で押し付けたというだけではない。アメリカの社会全体としてソフトウェアの重要性に対する先見の明があったという事を認めざるを得ない。

飛び級制の欠如
 科学技術に関する激しい国際競争に勝ち抜く上で、独創性のある優秀な人材が欠かせない。今まで、教育者や経営者は「天才はいらない。協調性があればいい」としてきた。これは一見立派に聞こえるが、実はちっともそうではない無責任な台詞だ。つまり、今まで日本は欧米の独創的な研究を物真似してきた。もっと悪く言えば、泥棒してきたとさえ言える。「天才はいらない」というのは「天才などいても金儲けに繋がらない。それより物真似して儲けよう」という発想の裏返しに過ぎない。
 飛び級制の導入は今まで何度も提唱されてきたが、その度に猛烈な反発が沸き上がった。飛び級制については何か勘違いしている人が多いように思う。
 反対派の意見の代表的なものとしては、「飛び級制は人格形成上好ましくない」とか「落ちこぼれを放置するのか」というのがある。「飛び級制は一部の特権階級のために成績が低い生徒を犠牲にするシステム」という考え方は大きな誤解だ。
 飛び級制がない国は世界中で日本くらいだ。千葉大学で一年飛び入学という制度があるが、これでは実質的には無いようなものだ。どこの国でも学力によってクラス分けはしている。外国では飛び級制と落第によって分けているし、日本では偏差値によって区切っている。上級の学校になってくると、どうしてもある程度の選別は必要になってくる。偏差値については極めて評判が悪い。「学力だけが人間の価値ではない」という意見もある。しかし、現実問題として、同じクラスに微分積分が出来る子と割り算も出来ない子が混在しているのでは授業にならないだろう。
 だから、飛び級制や偏差値など成績によって分類する事自体が悪いわけでは決して無い。一人の教師が数学などの学力差が付きやすい教科を大勢の生徒に教えるシステムに問題がある。教育の理想的な姿はマン・ツー・マン教育だ。しかし、それは教師の数や教育費という事を考えると不可能だ。現実を考えると学力による選別はやむを得ない。
 成績によって分けない事が成績の低い生徒にとって幸せなのかというと決してそうではあるまい。微分積分が出来る子と割り算が出来ない子が同じクラスにいれば、割り算の出来ない子は苛めの対象になる可能性がある。
 苛め以前の問題として、そういう状況で落ちこぼれを無くす事ができるのかという事がある。成績の悪い子が勉強を覚えずに学校を卒業するという事は本人にとっても不幸でしかない。もし、数学なんて社会生活を送る上で必要ないのなら、教えなければいい。
 出来の良い子を飛び級させるというのは、飛び級出来る学力の無い子にとっても良い事だ。どんどん、飛び級させる事で、教師の負担が減る。生徒が減った分、一般の生徒に対して丁寧に教える事が出来る。出来の良い子が退屈な思いをせずに済むだけでなく、成績の良くない子も今までより面倒を見てもらえるようになるので一石二鳥だ。
「飛び級が人格を破壊する」という説についても、何故そうなるのかさっぱり分からない。これは終身雇用と年功序列に守られてきた連中が若者に地位を奪われるのではないかという脅威によるものではないのか。十歳でも大人と話が合う子もいるだろうし、三十歳でも小学生並みの意識しか持たない人もいるだろう。何故、年齢を揃える必要があるのだろう。
 飛び級制というと国家主義的な側面があるのではないかと疑う人もいるのではないか。確かにそういう面もあるだろう。しかし、私の国家主義は、東京都知事の石原慎太郎氏や漫画家の小林よしのり氏のように「弱者はくたばれ」というような思想とは全く逆だ。老人や障害者などの社会的負担は大きい。その人たちを富士の樹海に捨てる訳にはいかないだろう。社会的弱者を支えるには莫大な金が必要だ。その金を、天才的な人たちに稼いでもらえば良いのだ。
 また、飛び級制は経済的な社会的弱者の救済にも役立つ。今の日本では原則として二十二歳にならなければ大学を卒業できない。これは貧乏人にとって極めて過酷な制度だ。成績優秀なのに大学に行けないというのは不公平だ。そういう人たちに優先的に飛び級の権利を与えてはどうだろうか。
 飛び級制を導入せざるを得ない決定的な要因として、留学生や帰国子女が増えているという事がある。欧米では十歳の大学生というのが珍しくない。日本では成績優秀でも一部の例を除いて十八歳にならないと大学に入れない。これだと成績優秀者は日本の大学を嫌って、欧米の大学に飛び級で入学する事を選択する人が出てくる可能性がある。現にそういう例はある。「日本には日本の教育があるから、アメリカに合わせる必要はない」という人もいる。しかし、今の国際化社会では外国に行くのは自由なのだから、天才を大事にしないという態度では、鎖国でもしない限り、優秀な頭脳の海外流出は避けられない。

第六章 必要ない技術
SST
 二〇〇〇年七月二五日にパリ郊外でエールフランスの超音速旅客機コンコルドの墜落事故が発生し、百三十人が死亡するという大きな被害を出した。
 イギリスとフランスによって共同開発されたコンコルドは初飛行から三十年以上も重大な事故を起こしていない。その事がコンコルドに対する安全神話を生んでいた。しかし、パリ郊外で起きたコンコルドの墜落事故により超音速旅客機に対する見方は世界中で大きく変わってきそうな雰囲気がある。
 コンコルドの最大の特長は何と言っても、速さだ。それが目的なのだから、当然ではあるが。通常の旅客機は最新鋭の大型ジェット旅客機であろうと音速以下の速度で飛行している。戦闘機でさえ巡航中や低空では音速以下で飛ぶ事が多く、常に超音速で飛んでいる訳ではないし、アフターバーナーを使わなければマッハ二を越す事は難しい。コンコルドは戦闘機の最高速度並みの速度を出す事が可能なのだ。旅客機の中でコンコルドの速さはずば抜けている。
 しかし、当然ながら速度を徹底的に追求した結果、多くの事を犠牲にしている。アメリカのボーイング社の旅客機B七四七とコンコルドの性能を比較してみよう。コンコルドの定員はB七四七の約四分の一程度で、使用燃料は約七倍で、航続距離は大西洋がようやく渡れる程度の六千二百キロしかない。このようにコンコルドは通常の大型旅客機と比べると極めて不経済な乗り物だ。更に騒音が大きいという大きな欠点がある。いずれも速度最優先設計のつけとでも言うべき欠点だ。
 コンコルドに関する技術は一見進んでいるように見えて、実は概念が古臭いというのが実態だ。確かにコンコルドの設計や製造に関する技術自体は非常に高いレベルの技術によるものだ。しかし、設計思想が時代遅れという指摘が専門家からなされているし、多くの新聞でコンコルドに対して否定的な見解が示されている。現在は大量に効率的な輸送をしようという考え方が主流になっている。経済性や環境への影響という点で致命的な欠陥がある。省エネルギー、環境問題が重視される現代社会と逆行する乗り物だ。
 この事は日本の技術の有り方と良く似ているような気もする。速さにこだわった一つの理由としては、「速いのが格好いい」という幼稚な技術ナショナリズムがあったのではないかと思われる。フランスが誇る高速の乗り物には、コンコルド以外にも車輪の列車として世界最高速度を記録したTGVという超高速列車がある。第一章で既に述べたように、フランス人はフランスの車を世界一と思っている人が少なくないようだ。このように国家の誇りを賭けて単純に速度を追求したという面は恐らくあるのだろう。
 現在、石川島播磨重工業やアメリカのゼネラル・エレクトリック、イギリスのロールス・ロイスなどをはじめとする日本とアメリカとヨーロッパの航空機メーカーやエンジンメーカーが共同で次世代超音速旅客機に関する研究を進めている。
 コンコルドの墜落事故が次世代超音速旅客機(SST)の開発に与える影響が大きいのではないかという見方に対して、通産省は「(コンコルドの)墜落によって影響を受けることはない」、石川島播磨重工業の伊藤源嗣専務は「{今回の事故を起こしたのは}大西洋を渡るのがやっとの古い世代の旅客機」とあまり意に介していないようなコメントをしている。逆に、この事故をきっかけにコンコルドの引退を早め、次世代SSTの共同開発を急ぐべきだという意見もあるようだ。
 しかし、欧米のメーカーが次世代SSTに対して示す態度は冷ややかなようだ。アメリカのボーイング社のフィル・コンディット会長兼最高経営責任者(CEO)は「技術的には可能だが経済性が無い。当社は開発する考えは無い」と語っている。もともと、コンコルドは経済性を後回しにして開発されたものだ。コンコルドより遥かに速いSSTが出現したとして、一体誰が買うというのだろうか。需要の無い物を作っても意味が無い。
 例え、SST開発が無駄だとしても、石川島播磨重工業をはじめとするメーカーにとっては有り難い話であろう。国家が金を出してくれて、貴重な航空機製造技術の蓄積にもなる。通産省をはじめとする官僚や学者にとっても莫大な金をかけた研究はさぞかしやりがいのある仕事であろう。SSTの開発については、メーカーが全て自分の金を使って独自に研究開発を進めるのなら文句は言わないが、貴重な税金を使ってまでやる仕事とはとても思えない。

巨大土木建造物
 日本には世界最大のトンネルである青函トンネルや世界最大の吊り橋である明石海峡大橋をはじめとする巨大な橋やトンネルが多い。その中でも代表的な建造物が明石海峡大橋と青函トンネルだ。
 世界最大の吊り橋とされている明石海峡大橋の全長は約四キロメートルだ。この長さ自体は橋の長さとしては大した事はない。デンマークとスウェーデンを橋と海底トンネルでつなぐ「エーレンスリンク」の長さは全長約十六キロメートルだ。橋八キロ、人工島四キロ、海底トンネル部分が四キロという構成だ。長さだけを見ると橋の部分だけで、明石海峡大橋の二倍もあるという事になる。しかし、技術的な困難さという点では明石海峡大橋の方が格上であるというのが専門家の見方だ。明石海峡大橋の特筆すべき点はスパンが約二キロメートルという長さがあるという点だ。橋に働く最大曲げ応力はスパンの二乗に比例する。世界第二位のイギリスのハンバー橋のスパンが約1・4キロメートルだが、スパンの二乗という事で考えると明石海峡大橋はハンバー橋の約1・5倍ではなく、約二倍近くの規模の橋という事ができる。スパンが十倍になれば、最大曲げ応力は百倍という事になる。普通の高速道路や鉄道などの高架橋を見れば分かるが、スパンは百メートルにも満たないものが殆どだ。もし、明石海峡大橋を吊り橋ではなく桁橋として造っていれば、橋桁の強度は通常の高架橋の数百あるいは数千倍もの強度が必要という事になる。そのため、東京タワー並みの高さがある支柱によって支えられる吊り橋という構造を採用する事になった。
 また、青森と函館間を結ぶ青函トンネルは世界最大級のトンネルであり、これに匹敵する規模のトンネルは英仏海峡を海底で結ぶユーロトンネルだけだ。トンネルの場合もまた、土砂運搬の労力はトンネルの長さに単純に比例せず、長いトンネルほど単位長さあたりの土砂運搬の労力が大きくなる。
 明石海峡大橋の例で説明した通り、これらの巨大土木建造物を造るのが如何に技術と手間と金がかかるかが分かって頂けただろうと思う。これら外国の土木建造物を凌駕する世界最大規模の建造物を建設した日本の技術については国内からは賞賛の声が盛んに上がっている。しかし、こんな技術があっても何の自慢にもならないのが実態なのだ。
 そもそも、橋やトンネルというのは何のためにあるのかという事が完全に忘れ去られている。そこを人や車や鉄道などが通れるようにするという事が目的なのだ。従って、南極や北極のように人が殆どいないところに明石海峡大橋や青函トンネルを造っても全く意味が無い。肝心なのは需要だ。ギネスブックに載せて喜ぶために橋を建設する訳ではなかろう。橋やトンネルが長くなるほど通行量が増えるかというとむしろ、逆だ。東京の神田川に架けられたせいぜい数十メートルの橋と本州四国連絡橋では、恐らく前者の方が遥かに役立っているだろう。費用対効果という事を考えると、超大橋や巨大トンネルは壮大な無駄をしている事になる。極端な例をあげると東京・ロサンゼルス間に橋を架けたとして使う人がいるだろうか。恐らく使わないだろう。
 巨大橋や巨大トンネルの建設技術が国内に無くても一向に困らない。巨大橋や巨大トンネルを建設する場合は、外国の建設会社に発注すれば良い。そういう姿勢はちっとも安易ではない。そもそも、世界中捜しても通行が激しい巨大都市が海峡を挟んで向かい合っているという例は非常に少ない。例えば、東京と横浜が東京湾で隔てられていれば、巨大橋を架けても採算は合うかもしれない。しかし、そんな例はドーバー海峡によって隔てられているロンドンとパリくらいしかない。イギリスとフランス間にユーロトンネルが開通しているが、赤字で苦しんでいる。だから、当然、青森と函館というローカルな都市を結んだ青函トンネルは赤字だし、明石海峡大橋は赤字海峡大橋と言われている。今後、海外で巨大橋や巨大トンネルの建設が行われる事は殆どないだろう。国鉄OBで交通評論家の角本良平氏は、「洞爺丸事件(一九五四年に悪天候により青函連絡船の洞爺丸で千四百三十人もの犠牲者を出した)当時の五四年に欲しかった道具を八八年に提供したのでは、間に合わないのは当たり前だ。無駄な赤字が増えるなら今からでもトンネルにふたをしたほうがいい」とコメントしている。
 また、橋やトンネルは二点間を局地的に結ぶだけの施設だ。空港だとそこから世界中を結ぶ事ができる。羽田空港を拡張するのが良いか悪いかここでは述べないが、羽田空港を整備すれば、東京都民だけでなく北海道や九州をはじめとする多くの県民が恩恵を受ける事になる。日本の空港が貧弱すぎるのは必ずしも土地が狭いという事だけが理由ではない。海外の例をみると人口密度の高い国でもオランダのように立派な空港を持っている例は少なくない。
 東京湾を結ぶ東京湾アクアラインなどは一mに一億円の建設費がかかったとされている。これも当然のごとく、利用者数が予定数を遥かに下回っており、赤字になる事は確実だ。いくら立派な施設とは言え、兆単位の金をかけてまで作るようなものでもあるまい。大体あんなところを通る人が一体どれだけいるというのか。素人でも無駄な事業という事が容易に想像がつきそうなものだ。
 大手ゼネコンの大林組が進めている未来構想としては、火星居住計画、一五〇階建ての超高層ビル、空中都市構想、日韓連絡トンネル構想などがある。火星居住計画と空中都市構想はとにかくとして、一五〇階建ての超高層ビルは今すぐにでも建設可能だし、日韓連絡トンネル建設についても技術的には決して不可能ではない。しかし、日韓連絡トンネルを建設したところで一体誰がそんなものを使うというのだろうか。費用対効果を考えた場合に赤字になる事は素人でも容易に想像がつきそうなものだ。
 巨大橋や巨大トンネルの建設技術は行き場所を失ったゼネコンや技術者たちのお遊びに過ぎない。巨大橋や巨大トンネルの建設の是非を問う事は、もはや技術以前の問題だ。いくら立派な橋を造る技術があっても、要らない物は要らないのだ。

スーパーコンピュータ
 日本ではスーパーコンピュータの開発には官民あげて力を入れている。この分野で、日本は非常に高い国際競争力を持っている。競争力で日本に勝る国はアメリカくらいのものだ。富士通やNECや日立製作所をはじめとする日本のコンピュータメーカーは世界屈指の性能を持つスーパーコンピュータを製造している。日本製のスーパーコンピュータが高性能である事を誇らしく思っている人が多いのではないだろうか。スーパーコンピュータというと、その言葉の響きからして如何にも高度な先端技術の象徴のように感じられるだろう。
 スーパーコンピュータは研究開発、軍事、天気予報など幅広い分野で活躍している。しかし、実はスーパーコンピュータの製造技術というのは戦争や科学技術などの国際競争をする上で、保有していなくても全く困らないようなものなのだ。また、この分野での技術力が高いという事も大して自慢にもならないようなものなのだ。
 パソコンをはじめとする工業製品の性能は目覚しく向上している。しかし、実用性という面では、見かけの数字ほど進歩していない場合が少なくない。分かり易い例として、時計の場合について説明しよう。十年間で一秒狂う時計と百年間で一秒狂う時計とでは、数値的に見ると一対十の性能差があるという事になる。しかし、日常生活で使う限りにおいては、どちらの時計も実用性で殆ど差は無いと言っても構わない。現在では、一万円の時計だろうと十万円の時計だろうと実用的な性能では殆ど大差ないという状況になっている。最近の高級腕時計の宣伝には誤差が記述されていない事が多い。時計の性能が殆ど極限に達してしまった現在では、誤差というのは以前ほど大きな意味はもたなくなってきた。
 今のパソコンは一昔前のスーパーコンピュータ並みの性能がある。相当高度な計算にでも使わない限り、高価で重くて巨大で置き場所に困るようなスーパーコンピュータなど使う必要は無くなりつつある。そのため、スーパーコンピュータをどうしても使わなければならない仕事は、かなり限定されてきている。従って、軍事目的のコンピュータのような極僅かでも敵より早く計算する必要のある分野以外では、スーパーコンピュータの使い道は次第に無くなってくるだろう。この傾向はかなり前からダウンサイジングとして、注目されていた。かつてコンピュータと言えばIBMが圧倒的だったが、IBMに以前ほどの圧倒的な強さが無くなったのはワークステーションやパソコンに人気が移っていった事が大きな原因の一つだ。今では企業の基幹システムとしてのコンピュータの主力はメーンフレームから、「サーバー」と呼ばれるネットワーク用コンピュータへ移行している。
 メーンフレーム(汎用機)をユーザーが使用する際に問題となる主な点は大きく分けて二つある。一つは価格が高いという事だ。一台の価格が億単位にもなる汎用機の費用はユーザーにとって大きな負担だ。物によっては数千億円になる場合もある。大企業といえども、決して小さな負担ではない。
 もう一つは、ソフトウェアなどに対する互換性の問題だ。汎用機では、「汎用」という名が付いているにも関わらずソフトウェアの互換性が乏しく、アプリケーションソフト(応用ソフト)が少ない。この事もユーザーが汎用機を敬遠する大きな理由だ。汎用機で使われる代表的なソフトウェアは、科学技術用としてはFORTRAN、事務用としてはCOBOLがあった。これらのソフトウェア言語は今ではあまり人気が無く、移植性の高いC言語などに人気が移行している。
 スーパーコンピュータの技術がなければ外国から法外な値段で買わされたり国防上の問題が発生したりする事を心配する人がいるかもしれないが、そのような心配なら無用だ。一台のパソコンでは処理が困難あるいは不可能であるような非常に高度な計算をする場合ですら、スーパーコンピュータを使う必要性はなくなりつつある。パソコンをたくさんつないでいけば、処理能力を高度化させる事が可能だ。原理的にはパソコンのCPU(中央演算装置)を繋いでゆけば、スーパーコンピュータを凌ぐ性能を引き出す事は可能だ。現にそうしている例もある。技術的には何ら難しい事ではない。ネットワーク技術が進歩した現在ではちょっと器用な人なら簡単に出来るような事であり、天才的な頭脳は必要ない。スーパーコンピュータがなくても大量のパソコンによって代用する事が可能だ。
 このように、スーパーコンピュータの技術が国内に存在しないからといって外国の技術に頼らなければならないという心配は全くない。もちろん、スーパーコンピュータ並みの性能をパソコンによって引き出そうとする場合には、使用するパソコンの価格の合計は性能的にそれに匹敵するスーパーコンピュータの価格を上回る事になるだろう。だから、スーパーコンピュータがあっても決して無駄ではないし、それなりの存在意義はある。
 しかし、スーパーコンピュータの技術を完全に放棄したとしても科学技術の国際競争をする上で一向に困らないのだ。巨大橋の建設技術のような全く意味の無い技術とは話が違ってくるが、国内に技術が無ければ外国から買えば済むというだけの話だ。国産の技術を放棄して、アメリカから買った方が遥かに低コストで済むとすれば、輸入した方が良い。
 今の時代、ハードウェアなどただの入れ物に過ぎない。搭載する個々の半導体の集積度などの性能が劣っていたとしても、原理的には沢山つないでいけば高性能のスーパーコンピュータを作る事が出来る。だから、発展途上国の技術でも金と手間さえかければ理論的には世界最速のコンピュータを作る事は決して不可能ではない。技術が低い国や企業がスーパーコンピュータを製造すれば製造コストや重量や容積が途方も無く大きくなってしまうかもしれないし、維持コストも高い物になってしまう可能性が高い。商品としては売れないかもしれない。しかし、採算を全く度外視してひたすら高性能を追求すれば世界最速のコンピュータを作る事はさほど難しい事ではない。ギネスブックに載せるつもりであるのならとにかく、売れない物を作っても意味が無いから作っていないだけの話だ。
 以上のような理由から、大して必要のないスーパーコンピュータの開発に力を入れるより、人工知能をはじめとするソフトウェアの分野に力を注いだ方が得策だ。

第七章 脱工業化
需要と供給の逆転
 技術評論家として有名な東海大学の唐津一教授は平成不況を招いた原因はマスコミにもあるとして、著書「アメリカの“皆の衆”に告ぐ」(致知出版)の中で次のような説明をしている。
 新聞もテレビもこぞって、不況不況と盛んにあおり立てました。あれだけ危機感をあおられたら、心理的に萎縮するのは当然です。経済のメカニズムは心理的作用が実に大きく、そこが経済の面白いところなのですが、心理的な萎縮が個人消費を動かなくし、不況感を深くしたことはいなめません。
 しかし、今日の深刻な不況を招いた原因として、消費者の心理的な萎縮というのはあまり関係ないように思われる。日本経済の将来に不安があろうとなかろうと、消費者は必要があれば物を買うし、必要性が無ければ物を買わないだろう。
 例えば、タバコのような嗜好品の場合は買わなくても生きていく事ができるのだが、食料品のような生活必需品は不況だからあるいは貧乏だからといって買わないという訳にはいかない。不況になったら高価な肉や果物はあまり売れないというような傾向はあるかもしれないが、食料品の売れる量自体は景気とあまり関係ないような気もする。エンゲル係数という数字をご存知の方は多いだろうが、低所得者ほど収入に占める食料費の負担が大きくなる傾向がある。収入が十倍になったからといって、通常は十倍食べる訳ではない。
 工業製品の需要が減っているのは、日本経済の将来に対する不安が少しは関係しているかもしれない。しかし、工業製品の需要が減った事のもっと大きな理由としては、日本の消費者にとってもう欲しい物があまり無くなったという事が大きいと考えられる。現在の日本が深刻な不況であるという意識が工業製品の大幅な需要減を生んだのではなく、工業製品の需要が減少した事が今日の不況を招いていると考えるべきではないだろうか。工業製品の消費についても食料品の場合ほどには顕著でないにせよ、エンゲル係数と似たような傾向が出てくる。
 例えば、電気掃除機を購入する場合について考えてみよう。ある家庭で平均的な家庭と比べて十倍の収入があったからといって、掃除機に一般家庭の十倍の金をかけるという人はあまりいないのではないだろうか。いくら高性能の掃除機でも家庭用で数十万円するような電気掃除機は見た事がない。実際に調べた訳ではないが、恐らく低収入者の方が収入に占める掃除機の購入費用の負担が大きいものと思われる。
 自動車について考えると、一度購入したらカーマニアか車が大破でもしない限り、数年間は同じ車に乗り続ける場合が多い。また、普通は自動車のオーナーは一人が一台を所有するのが一般的で、一人で何台も自家用車を持っている人は少ない。車の耐久性や道路の舗装率が高まった事により、車の寿命は著しく延びている。外国では何十年も前に製造されたと思われるような車をよく見かけるが、大事に乗れば、数十年に渡って使う事も可能だ。景気が完全に回復し、日本経済に安心感が戻ってきたとしても、車を購入したばかりの人は、簡単には新しい車を買おうとは思わないだろう。
 終戦直後の復興期には、日本の国土が焼け野原となり物が極端に欠乏していた。また、朝鮮戦争やベトナム戦争などの特需によるものなど、かつては工業製品の需要は幾らでもあるという時期があり、作ればいくらでも売れる状態だった。注文に対して製造が追いつかないという時期があった。しかし、日本の経済が焼け野原の状態から復興し、冷戦も終了すると、工業製品は消費者にほぼ行き渡ってしまった。道路も橋も必要な施設の建設が一通り行われた状態だ。
 また、工業製品の生産性は厳しい競争と生産者によるたゆまぬ努力のために著しく向上している。しかも、東南アジアや中国や韓国や南米をはじめとして発展途上国や中進国が工業製品の生産に続々と参入している。その性能は日本製と比べて実用性では大差ないレベルにまで向上している。
 こうして、工業製品の需要と供給の関係は今や完全に逆転してしまった。その結果、今日では物余り現象が見られるようになっていった。これは当然の帰結であり、消費者の心理状態がどうだろうと、物はあまり売れない状態である事は致し方ない事だ。製造業や建設業以外の分野での需要を増やしていく必要がある。
 今日の不況は新聞やテレビが煽った事によって生じたものではなく、旧式な日本の社会構造に原因があって生じたものだ。「日本には優秀な製造業があるから、大丈夫だ。製造業が健在な限り日本の経済は必ず復活する」と触れ回っていれば、自然に日本の経済が復活するという訳では決してないのだ。

ハードウェア至上主義
 日本では、ソフトウェアよりハードウェアを重視する傾向がある。大学の工学部教授の中には、「ソフトウェアよりハードウェアの方が重要だ。ソフトウェアはハードウェアが無ければ動かない。ハードウェアが基本だ。ヴァーチャル・リアリティーなどにうつつを抜かしていてはいけない」などと言って、ハードウェアの方がソフトウェアより重要だと決め付ける人が少なくない。
 近年、工業製品の優劣に対する判定が難しくなる傾向がある。これは、工業製品の性能が著しく高まり、性能的には、ほぼ需要の限界に達してしまったからだ。例えば、パソコンの性能は著しく向上している。CPUのクロック数やハードディスクの容量などの数値は指数関数的に増大している。では、性能に比例して、パソコンを使った仕事の能率や成果も向上したかというと必ずしもそうではない。どのような事に使うかによっても違ってくるが、ワープロや表計算ソフトのようなシステムを使う限りは、例え機械の性能が倍になったとしても、業務能率が著しく上がったという実感が殆ど沸かない場合が多い。
 自動車の性能も著しく向上している。十年前に生産された車と今の車とでは、性能的には大きな差がある。しかし、車を単に移動手段の道具であると考える人にとっては、十年前の車も今の車も大差ないと感じるかもしれない。車の最高速度がいくら上がったところで、日本では時速百キロメートル以上で走行してはいけない事になっているから、法律を忠実に守る人は性能の向上を実感できないだろう。むしろ、安くて高性能な車が簡単に手に入るようになったため、道路に車があふれ、却って移動しにくくなった場合も少なくない。
 このように、工業製品の性能に関しては、実用的にはどれも大差が無いという状況になりつつある。日本と韓国の工業製品を比較すると数値的には、大きな差があるように見えても、実際には殆ど差が無いというような事例も少なくない。
 製品が故障した場合についても、故障率の差が数字ほど大きな意味を持たなくなってくるだろう。例えば、韓国製のパソコンが百年に一度、日本製が千年に一度の割合で故障する場合について考える。故障率からすると韓国製は日本製の十倍という事になるが、実用性からすると両者には殆ど差が無い。従って、軍事用の工業製品のように極限まで性能を追求される物を除いては、実用的な差は縮まる傾向がある。
 本来、ハードとソフトのどちらが重要かという事は簡単に決められないし、あまり意味が無い。どちらも社会にとって必要なのであって、比較する事自体がおかしい。「医者と大工とどちらが社会にとって重要か」と聞かれても、異質なものだから比較のしようがない。日本では、「頭と体とどちらが大切か」というような無意味で馬鹿げた比較をする人が多い。最近の自動車や電機製品はコンピュータを搭載している物が多い。コンピュータにはソフトウェアが必要だ。
 ハイテク機器で発生する故障や欠陥については、ソフトウェアの欠陥によるものかハードウェアの欠陥によるものなのか原因の特定が難しい場合が少なくない。例えば、オートマチック車の暴走事故は、搭載したコンピュータのトラブルが原因である場合が少なくない。コンピュータのハードウェアに欠陥があろうとコンピュータのプログラムに欠陥があろうと、ユーザーにとっては欠陥車である事に変わりはない。仮にプログラムに欠陥があって、そのプログラムがソフトウェア会社に外注して作成させたものだったとしても、メーカーの責任は免れない。ハイテクを使った冷蔵庫や自動車のトラブルについては、ユーザーがマイクロソフトやIBMの社員だろうとソフトとハードのどちらに問題があるのか見抜く事は難しい。このようにソフトウェアとハードウェアを分けて考えるのはあまり意味が無い。
 ソフトウェアが重要であるにも関わらず、これまで日本で軽視されてきた原因は、ハードウェアは形があるから優劣や概念が分かり易いのに対し、ソフトウェアは形が無いから重要性や優劣や概念が分かり難いためだ。単に分かり易さだけで評価されている。
 コンピュータ・ソフトの場合、数値的に明確な性能の基準が無い場合が多い。初期の頃は、コンピュータの計算速度が遅かったので、計算時間が短いのが良いプログラムと考えられていた時期もあった。しかし、最近では、コンピュータの性能は格段に向上しているので、一般的な用途に使う場合には、待ち時間はさほど気にならなくなった。そうなると使い易さが重要になってくる。しかし、使い易さというのは主観的な面が多いので、優劣の判定が難しい。
 素人にも分かり易い分野の代表が製造業だ。ロケットやリニアモーターカーなど形のある物は、科学的に高度な知識が無くても、なんとなく理解できる場合が多い。例えば、日本のリニアモーターカーの場合、超伝導という難しい理論を応用している。その原理が理解できなかったとしても、非常に高速な列車であるという事が小学生でも直感的に理解できるだろう。明石海峡大橋の場合、世界一大きな吊り橋であるという非常に分かり易い特徴を持っている。
 それに対して、例えば、ファジー理論の場合、理屈を説明されても素人には分かりにくい。素人には、ファジー洗濯機のような具体的な形となって現れることにより、ようやく意味が理解できるようになる。
 研究開発費の配分を担当する役人は、必ずしも科学や技術について詳しく理解している人物が就任するとは限らない。かつて「主婦の感覚」を強調していた科学技術庁長官がいたが、科学技術に関して全くの素人が科学技術庁長官を担当する事例も少なからず存在する。そのため、社会にとって有益であり重要性の高い分野より、単に見た目が分かり易い分野に研究開発費が重点的に配分される傾向がある。
 以上のような理由で、ソフトウェアに対する知識の乏しい素人は、ハードウェアの品質に注目しがちだ。その事が、製造業を得意としている日本の技術に対する評価が高くなりがちという結果に繋がっている。

他の産業との関わり
 既に何度も述べた通り日本の技術者の中には文科系より理工系、金融業や情報通信産業より製造業を重視する人が少なからず存在する。日本人の中には、製造業こそが産業の基本あるいは国家の根幹であると絶対に信じて疑わないような人がしばしば見受けられる。そもそも、なぜ製造業が産業の基本でなければいけないのかという疑問はある。恐らく、形があるものを作る産業であるという事で、やっている事が分かり易いというだけの事なのだろう。仮に製造業があらゆる産業の中で最も重要な産業であるとしても、金融業や流通業などどうでもよいと切り捨てて考える事には大きな無理がある。
 製造業やゼネコンや金融業や流通業などの業界はそれぞれが互いに深く関わりあっている。実際に日本の製造業を支えているのはトヨタ自動車や松下電器のような大手メーカーではなく、下請けの中小企業だ。物づくりの技術も発明も実際に担っているのは零細な中小企業が大半なのだ。大手メーカーやゼネコンは、いわば商社のようなものと考える事すらできる。
 物作りや技術開発には金がかかる。トヨタ自動車の場合はトヨタ銀行などと呼ばれているくらいで、その資金力は豊富だ。トヨタ自動車のような大手メーカーだと自分の力だけで、ある程度の資金は調達する事が可能な企業もある。しかし、日本の多くの中小メーカーは資金力に乏しい場合が圧倒的に多いので、操業資金の援助を銀行などをはじめとする金融機関に頼らざるを得ない。ところが、銀行をはじめとする日本の金融機関はメーカーの将来性や技術力や優秀な人材の有無など企業の中身を見て融資先を決めるのではなくて、融資しようとする企業が土地などの担保物件を持っているかどうかを融資の主な基準としているような場合が少なくない。このようなやり方では大手メーカーには気前良く金を貸すが、中小のメーカーに対しては貸し渋る事になりがちだ。先に説明した通り、実際に日本の製造業や建設業を支えているのは下請けの中小企業だ。そういった所に金が回らないのはいかにもまずい。
 日本の銀行が貸してくれないのなら、外国の銀行から借りれば良いと主張する技術評論家もいる。しかし、それだと製造業が稼いだ利益を外国に持っていかれてしまう事になる。非常に安易な考え方だ。そういう事をやっていると結果的には、日本の製造業が実質的に外国資本に支配されてしまう事になる。だから、銀行をはじめとする金融機関が駄目なら自然に製造業も駄目になってしまう。従って、製造業が銀行より大事だという考え方は矛盾している事になる。バブルの頃、理工系の学生がメーカーやゼネコンを敬遠し、銀行に就職する傾向がある事を嘆く声が盛んに聞かれたが、彼らは必ずしも楽をしたくて銀行への就職を選んだ訳ではない。むしろ、理工系の人材を積極的に銀行に送り込んで、見込みのあるメーカーに積極的に融資するような体制にしなければならない。
 金融業をギャンブル産業あるいは虚業のように言う人がいるが、投資をするというのは宝くじを買うのとは根本的に違う。宝くじや馬券を買う事は個々の人にとって損得はあっても社会全体にとってみれば、プラスにならない行為という事ができるかもしれない。しかし、将来性のある産業や社会性の高い団体や個人に対する投資は、立派な行為と言える。と言うより、そのような投資は社会にとって絶対に必要な事だ。
 流通業と製造業の間にも深い関係がある。日本の代表的な生産方式として、トヨタが生み出したカンバン方式がある。これは必要な時に必要最小限の物資を工場などに供給するシステムだ。交通渋滞や事故などのトラブルが発生した時の影響が大きいという欠点はあるが、在庫の無駄を極力減らす事ができる優れたシステムだ。この方式は品質を高めようというより、コストを低減する事に主眼が置かれている。言わば、自動車メーカーと部品メーカーなどのメーカー間による製造現場での流通システムだ。流通や交通が悪ければ、当然の事ながらメーカーの生産活動にも悪影響を与えてしまう。このようにカンバン方式というのは製造システムというよりむしろ流通システムに近い感じもする。それ自体は、製品の品質を高める事とは直接関係ない。
 工業製品は高品質であれば売れるというものではない。CPUの周波数やハードディスクの容量が他社製品の百倍だったとしても、価格が一千万円もするパソコンなら買う人は殆どいないだろう。私が建設工事現場にいた時の経験では、現場管理を担当する技術者は技術的な計算をする場合よりむしろ、金の計算をする事の方が多いくらいだった。
 このように個々の産業をばらばらに見るのではなく、産業全体としてバランスをとって見なければならない。製造業だけが優秀でも何の意味も無い。強いて、製造業と金融業のどちらが大事かを決めるとすれば、それは金融業の方だ。もし、金融機関が、どこのメーカーが優秀な技術を持っているかを正確に見極める事が出来るとすれば、優秀なメーカーを配下に置く事ができる。これからの日本社会では金融業の力を付ける事が肝要だ。

なぜ製造業が基本でなければいけないのか
 日本には製造業が産業の基本であると強く主張する評論家や経営者は少なくない。「ものづくりが産業の基本であり、サービス業は付属品に過ぎない」というような考え方をする人が日本には多いようだ。
 しかし、なぜ製造業が産業の基本でなければならないのだろうか。世界の中には農業国や商業国や観光国として成り立っている国がたくさんある。と言うより、製造業だけで成り立っているという国は殆ど無い。サービス業や農業が産業の中心になっても一向に構わないように思えるのだが。
 まず、サービス業について考えてみよう。自動車や半導体や鉄を作る技術が日本国内に全く無かったとしても、コンピュータ・ソフトを輸出する事によって外貨を稼いで、その金で工業製品を輸入するという手段もある。金融の分野で優秀な技術を保有して外国企業と提携するという手段も考えられる。自国で生産していない工業製品がなければ、輸入すればよいだけの話だ。
「サービス業より製造業の方が基本的な産業だから大切なのだ」という理屈からすると、農業は製造業よりもさらに基本的な産業という事になる筈で、矛盾した論理だ。人間は車やテレビなど無くても多少不便になるだけで生きていく事はできる。しかし、食糧がなければ人間は生きていく事ができない。日本が農業国であっても一向に構わない筈だ。そもそも「ものづくり産業が大切だ」というのなら、農業だってものづくり産業だ。しかも、最も人間の生活にとって基本的な食糧という製品を作る産業である。日本は主要先進国中で最も食糧自給率が低いが、農業を軽視している理由の一つには「農業は高度な頭脳を必要としない低レベルの肉体労働だ」という農業蔑視思想が根底にあるのではないだろうか。製造業には優秀な頭脳を必要とする最も高度で知的な産業というイメージがあるようだ。それに対して、「農業は馬鹿でもできる」というイメージを持っている人が多いのではないだろうか。実際には製造業というのは多くの場合、経験や体力が重視される単純労働に過ぎないのだが。特に製造現場ではその傾向が強い。
 製造業が大事とされているのは、単にメーカーの経営者やメーカーの御用評論家など製造業界で生きている人の都合に過ぎないのではないか。工業製品の中にはそんなものが無くても生きていけるような物がたくさんある。ゴルフのクラブやウォークマンなど生きていく上で無くたって全く困らないような製品だ。メーカーの経営者やメーカーの御用学者たちが自分たちの利益を考えて、「製造業が基本だ」と言っているだけの話だろう。
 このように製造業というのは実は最も中途半端な産業であるというのが実態なのだ。製造業は発展途上型の過渡的な産業であり、必ずしも最も高度な先端産業とは言えない。先進国と工業国は全く別のものだ。より高度な産業に移行する必要があるという事であれば、コンピュータ・ソフトの開発をはじめとするサービス業に移行すべきだ。逆により基本的な産業を重視すべきだというのなら、農業に重点を置くべきだ。「製造業が産業の基本である」という考え方は全くの出鱈目だ。
 日本人が製造業に対して強いこだわりを持っている事には様々な理由がありそうだ。その一つとして過去の栄光を懐かしんでいるという面があるのではないだろうか。中高年の経営者や労働者の中には製造業とともに歩んできた人が少なくない。戦後の日本経済は製造業によって大きく躍進してきた。GNPが世界第二位になったのは製造業をはじめとする工業のおかげだ。その栄光を忘れられないのではなだろうか。中高年にとって製造業は言わば青春の思い出でもある。経済大国と呼ばれるまでに日本を躍進させた産業を疎かにしてはいけないという意識が強いようだ。かつて社会の発展に大きく貢献したとしても、今役立っていなければ意味がない。いつまでも過去の功績と思い出を誇らしげに語られても困るのだ。
 戦後の日本は国土が焼け野原になり、貧しかったので、工業製品の需要は幾らでもあった。そういう時代には製造業が基本と考える事は至極当然だったのかもしれない。しかし、今では物はあり余っている。瀬戸内海の小島である豊島に年間五百万台の廃車が山積みにされ、毒ガスを発生している状況だ。日本はかつての花形産業だった石炭産業を放棄してしまったが、これは石油時代の到来を迎えてやむを得ない選択だった。製造業についても同様に、古いものから順に切り捨てていかざるを得ないだろう。そうしなければ、国家の崩壊に繋がりかねない。

ヴァーチャル・リアリティー ヴァーチャル・リアリティー

農業
 日本の食料自給率は四割程度に過ぎないと言われている。食料安保の必要性については真剣に考える必要がある。異常気象などにより世界的な食糧危機が発生して、十分な量の食料を輸入する事が不可能になる場合もあり得る。現在のように、食料自給率が極めて低い状態では非常に危険だ。
「製造業で稼いだ金で食料を買えばいい。農業など無くても構わない」と思っている人がいるかもしれないが、とても安易な考えだ。「日本の製造技術が無ければ、世界の工場が止まってしまう。だから外国は必ず日本の工業製品を買ってくれる」という意見もあるが、それは日本人の思い上がりに過ぎない。仮に日本の製造技術がそこまで優秀であるとしても、工業製品は人間が生きていくために絶対必要な物ではない。
 メーカーの経営者や技術者の中には、製品の品質が優秀で価格が安ければ必ず売れるという確固たる信念を持っている人が少なくない。しかし、このような考え方は何の根拠もない幼稚で独善的な考え方だ。「工業製品の品質が優秀なら必ず買ってやる」とクリントン大統領が約束した訳ではない。必ずしも、外国が一定量を買ってくれるとは限らない。
 日本人が最善の方法だと思い込んでいる加工貿易という方法は、極めて危ない均衡の上に成り立っている。 加工貿易が成り立つためには、まず、工業資源の輸入が間違い無く継続される事が前提だ。中東からの石油などの燃料、オーストラリアからの鉄鉱石やボーキサイトなどの原料といった資源のうち、どれか一つでも入ってこない物があったとしても加工貿易の成立は困難になる。これら全ての工業資源について安定した供給を受けられるかどうかは、日本の技術力の優劣とはあまり関係ない。中東ではいつ戦争が起きるかわからないし、将来、資源が枯渇する可能性もある。食料、資源、燃料などの供給が全て安定して受けられるという保証は何もない。将来、食糧危機や戦争や資源枯渇などのトラブルが起こり、食料、資源、燃料などのうちどれかの輸入が順調に行かなくなる可能性がある。
 加工貿易が成り立つためのもう一つの条件は、製品が確実に売れるという事だ。工業製品が売れるかどうかは、単に性能や価格やサービスの優劣だけで決まる訳ではない。品質が優秀であるという事は、製品が売れるための必要最低条件に過ぎない。「品質が悪ければ売れない」という事は言えるかもしれないが、「品質が良ければ絶対売れる」という事は断言できない。いくら品質が良くても、必要性が無ければ売れないし、相手が金を持っていなければ買ってもらえない。又、相手国の市場が閉鎖的な場合も製品が売れない事がある。発展途上国は市場が閉鎖的である国が多く、特に工業製品に対して閉鎖的な国が多い。
 飢えで苦しんでいる人たちは、車やテレビなどの工業製品を欲しがるだろうか。そういう人たちにとって、工業製品など贅沢品に過ぎない。そんな物に目もくれず、水や食料を求めるだろう。金を十分持っている人でも、車や電機製品などは毎日、買い換える必要がある製品ではない。最近の自動車は耐久性が非常に高くなっている。耐久性が高いという事は品質の重要な要素であるが、耐久性が高まることによって、全体としてますます車は売れなくなる傾向がある。良い物をたくさん作る事によって、工業製品はますます売れ難い状況になっている。
 それに対して食料は生きていくために絶対必要な物だ。供給過剰になる事はあっても、需要が全く無くなる事はない。ハイテクだの技術立国といった言葉の聞こえはいいかもしれないが、そんな事のために国民が飢えで苦しむような状態に陥っては意味がない。
 しかし、農業関係者の側にも甘えは見られる。今の農政を見ていると、共産党にせよ社民党にせよ自民党農林族にせよ、農民の票が欲しいために米などの農産物輸入自由化に反対しているような印象を受ける。農民にしても、「食料自給率の低下を防ぐ」、「食の安全を守る」、「伝統文化を守る」、「環境保全や景観の保護」といった大義名分を掲げて輸入自由化に反対しているが、とってつけたような理由ばかりで、競争力の無さを他の理由でごまかしているようにしか思えない。
「食料自給率の低下を防ぐ」、「食の安全を守る」、「伝統文化を守る」、「環境保全や景観の保護」といった事はそれぞれ全く別の話しだ。
「輸入食品の安全性に不安がある」というのなら、税関で厳しくチェックすれば済む話しだ。検査体制がしっかりしていれば、税関を通す輸入食品の方が、むしろ安全なのではないだろうか。輸入食品が危険とすれば、国産食品の検査体制にだって欠陥がある可能性が出てくる。これは根底に、「日本製品は優秀」とか、「日本人は真面目で不正をしない」という思い上がりがあるのではないか。
「伝統文化を守る」といっていたら、製造業にせよ映画産業にせよ全て文化という事になってしまう。そうなると鎖国という事になってしまう。
「環境や景観の保護」という言い訳も非常に苦しい。そもそも、農業というのは環境保全どころか、環境破壊産業なのだ。製造業よりましかもしれないが、その影響は決して無視できるものではない。「水田はダムに匹敵する効果がある」などと言われているが、そもそも、ダム自体が無駄な物とされているのだから、全く理にかなっていない説明だ。仮に環境保全や景観の保護という効果があったとしても、それは本来の目的ではない。別途、金を出した方が効果的ではないのか。
 農産物の輸入自由化に反対する政治家にせよ農民にせよ、単に利権で動いているようにしか見えない。「瑞穂の国」とかいう訳のわからない説明をする人もいるが、「コメは伝統文化だというセンチメンタルな部分」は切り捨てて、市場開放していかなければならないだろう。
 日本の農業政策に対する最大の疑問は全国で画一的に行われているという事だ。特に米作については大きな疑問がある。米は本来、熱帯性作物だ。中国の雲南省、インド北部、東南アジアあたりが原産地と考えられている。いずれも高温多湿な地域だ。北海道や東北といった寒冷地が多い日本には必ずしも最適な作物とは言えない。 農産物は地域に適した物を栽培すべきだ。
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