前方後円墳
前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)は、日本における古墳の一形式。平面が円形と方形の墳丘を組み合わせた形状は、日本独特の特徴であり、出現期より規模の大きさを特徴としている。墳形については、現在では円形墳丘墓の通路部分が発達し墳丘と一体化したものであると考えられている。前方後円墳は日本列島の広範囲に分布しており、北は岩手県奥州市から南は鹿児島県にまで及んでいる。近年の研究により、古代伽耶が存在した朝鮮半島西南部でも存在が確認されている。
仁徳天皇陵 5世紀
箸墓古墳
3世紀の前方後円墳で、今現在世界で最も古い前方後円墳と確定している。
先日の発掘により、この古墳の周囲にさらに古い前方後円墳が存在する
可能性が出てきた。
日本の前方後円墳は3〜5世紀
韓国の前方後円墳は5〜6世紀
朝鮮半島に現存する前方後円墳
海南長鼓山古墳
朝鮮半島の前方後円墳のうち最南端に位置する。全長は約77mで、石室には
ベンガラが塗られているが、これは朝鮮半島にはない葬制で、倭の影響と
考えられる。築造時期は5世紀第4四半期〜6世紀第1四半期
月松里造山古墳
月松里造山古墳は、6世紀初頭の築造と推測される。副葬品として
百済土器・馬具・武器などとともに、ゴホウラの貝釧(青銅製の錨で
破損部分を修復)・仿製鏡などが出土している。
ゴホウラや鏡は倭からもたらされたもので、とくに、それまでの韓半島では
ゴホウラなど貝製の装身具は威信財ではなかったことから、埋葬者が
倭人であった可能性が高い。築造時期は5世紀後半。
舞妓山古墳
チャラボン古墳
月桂洞古墳
光州月桂洞古墳 1号墳
5世紀後半構築。2号墳も同様、周溝をもち、これらも周辺地域の首長墓とは
系譜を異にし、突如この地に築造された。また前方後円墳のほか、隣接して
同時期の円墳が築造されている。
現在、花瓶した韓国人により破壊され、姿を見ることはできないw
朝鮮半島における前方後円墳の分布図
任那地域に集中して前方後円墳が残っている。
現在までに全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。
「韓国の前方後円墳は倭人の墳墓」
【新刊】朴天秀著『新しく書く古代韓日交渉史』(社会評論)
韓日古代史を探る両国の考古学・歴史学者たちの視角は、大部分が自国中心的だ。西暦4世紀中盤、百済・近肖古王代に日本へ伝わった七支刀がよい例だ。全く同じ銘文を巡り、韓国の学者は「倭王に下賜したもの」と読み、日本の学者は「倭王に捧げたもの」と解釈している。
慶北大と大阪大で考古学を専攻した慶北大の朴天秀教授(考古学)がこの本で見せている態度は、「辺境人」あるいは「灰色人」といったものだ。彼は、最大限客観的な姿勢で遺物と遺跡を探る。彼は、百済の先進文物が倭に伝播し文化水準を高めたのだとしても、6世紀前半に倭の軍事勢力が栄山江流域で活動していたという事実も認定する。とはいえ、倭が韓半島(朝鮮半島)南部の一部を支配したという「任那日本府説」を支持することもない。この本の第6章「栄山江流域の前方後円墳を通して見た百済と倭」は、同書に一貫する著者の論拠を際立たせている。前方後円墳とは、上から見る時、前は四角形で後は丸く見える、鍵穴の形をした巨大古墳のことを言う。日本では4-6世紀に集中的に出現するが、韓国では主に栄山江流域で6世紀前半に現れ、すぐに消える。この墳墓を巡り、任那日本府説を立証する遺跡だという主張が日本から起こったのは言うまでもない。しかし韓国国内の考古学会では、「ある地域で前方後円墳が出たが、(日本の学者が喜ぶかと心配で)埋め直した」という噂もあった。
著者は、前方後円墳の形態で見る時、倭人の墳墓だという事実を認定する。しかし墳墓から出土した百済の威勢品は、百済に服属した「倭系官僚」だという事実をあぶり出す。遺物や遺跡、そして歴史書などを総合すれば、こういう話になる。西暦475年、百済はソウルを高句麗に奪われた後、韓半島南部に南下した。その過程で、栄山江流域最大の土着勢力が居着いていた全羅南道羅州潘南面地域は土着勢力を首長に据えて「間接支配」し、その外郭は前方後円墳を作った倭系軍事勢力を利用し「直接支配」した、というものだ。しかし、538年に熊津(現在の公州)から泗沘(現在の扶余)への遷都と栄山江流域の直接支配、そして倭系官僚の本土帰還や「百済化」により、前方後円墳は消えた。
慎亨浚(シン・ヒョンジュン)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版