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(new) 今後の勉強のため、教えてください。 名前: 榊原幸助 [2008/10/23,07:28:03] No.1791 返信
「脳幹論」
を肯定できる方限定でお答えください。
脳幹論を肯定できますか?できるなら、その理由とともに教えてください。

私は脳幹論は否定させていただきます。

理由は脳幹論実践者であるエディ氏は、
1:自身のHPをアイアンメイデンオフィシャルと偽り、楽曲等を違法にDLさせている
2:HPで女性とのコラージュ画像を作成し、公開している。
3:この掲示板に自身のHPのURLを貼り付け、そこで脅迫恫喝をしている。
4:自分に都合の悪い(答えられない)質問は答える必要は無いと無視しし、現実逃避をする。

また、もう一人の実践者である管理人氏も
1:自分に都合の悪い明らかに同一IPではない書き込みを、
同一IPによる連投行為と偽り一斉削除。

2:”どなたでもハンドルネームで発言できます。”
と銘打っておきながら
自身の考えに賛同する者の書き込みは、連投しても問題なし。
反対するものの考えは、一斉削除。

3:反対ではなく疑問を投げかける、極めて理論的な書き込みも削除。


上記を見る限り、脳幹論実践者は嘘、捏造、現実逃避を繰り返すだけで
効果は無いと思います。


>> (new) 脳幹論者は嘘をつく? 名前: こいこい改め小杉光治 [2008/10/23,07:35:09] No.1793
榊原幸助さま、簡潔に纏めてくださってありがとうございます。

不等な理由から嘘つき管理人に削除された書き込みを復活させておきました。


整理 名前: 管理人 [2008/10/23,04:01:59] No.1790 返信
同一人による多数ハンドルネームと書込み

が発生し 荒し行為と判断しましたので

掲示板の整理(削除及び調整)を行いました。
>> (new) 尊重すると言うのは嘘ですか? 名前: こいこい改め小杉光治 [2008/10/23,07:31:42] No.1792
snailさんの書き込みに何故答えないのですか?
あとIPアドレスが同じなどと嘘と付き事実を捏造するのはどうしてですか?
「脳幹論」を実践すると嘘つきに成るのですか?
実名を公表しているのだから以上三つの質問及び、snailさんの質問にお答えください。


整理 名前: 管理人 [2008/10/22,04:16:05] No.1738 返信

同一人による多数ハンドルネーム使用と

かきこみが発生 荒し行為と判断いたし

ましたので 掲示板の整理(削除及び調

整)を行いました。


>>嘘つくな、管理人 名前: 本籍地が岐阜県可児市の弘光 [2008/10/22,19:25:16] No.1744

IPが明らかに違うはずなのに同一人物の自演ですか?
まあ、管理人しかIPわからないので自作自演と言うことはできるけど
それはただの逃げだよね。
あなたみたいな、自分が不利になると逃げ出す大人は表面上だけの友達と
傷を舐め合っててください。

最後にエディがベトナム戦争に関わりが無いのは年齢を見れば明らか
なのに、嘘をつくのは犠牲者(精神的なものも含む)に対して失礼です。

>>無題 名前: こいこい [2008/10/22,19:56:22] No.1745

 ○ 実名やメールアドレスがある方の発言は、最大限尊重します。
とあるので実名を曝します。

これが「脳幹論」実践者の姿だ。 名前: こいこい [2008/10/22,01:26:58] No.1723 返信
「脳幹論」が正当な論であるならば、それを実践した人は良俗に反する行為や発言は行わないはずですよね?
エディーさんは「脳幹論」に従って実践しておられるわけですが、このようなご自身が婦人警官を抱いている合成写真を作ってネット上で公開したり、アイアンメイデンの楽曲の権利侵害及びオフィシャルサイトの詐称等数々の異常な行動をなさって居ます。
また >>ですが実際は戦後のベトナムに、米軍の仕事として赴きました。 >>穴掘りと装具開発のためです。 とかきながら、

>ちなみに開発した装具とはどんなものですか?
>エディーさんはどの時点で装具開発と蛸壺掘りを為さっていたのですか? の質問には答えようともしません。
これはベトナム戦争が終わったのは1975年だけどアメリカ軍の撤退は1973年の3月に終わってるし南ベトナムに居残ってたアメリカの軍事顧問団も1976年の南北ベトナム統一前に全て帰国しててその後1995年まではベトナムとアメリカの国交はないという事実から推察するにエディーさんの証言は嘘のうたがいが濃厚です。

つまり「脳幹論」を実践してもこのような異常行動が見られると言う事です。これはすなわち「脳幹論」が間違っていると言う実例であり、証明でもあります。

エディ氏合成写真館
://sports.geocities.jp/kasumi_cycle/top/70.jpg
://4chan.jp/image/48a03fd8baaa0_3_org.jpg
://sports.geocities.jp/kasumi_cycle/top/53.jpg
://sports.geocities.jp/kasumi_cycle/top/80.jpg
://hidebbs.net/20/k_c_keitai/bbs/2007/07/16/16524081ca.jpg

管理人さんはIPアドレスの違いが分かるはずなのになぜ一人がハンドルネームを変えて荒らしていると嘘の情報を書き込むのですか?それも「脳幹論」を実践した成果ですか?

>>無題 名前: こいこい改め小杉光治 [2008/10/22,19:57:10] No.1746

私の本名は小杉光治です。

>>無題 名前: エディ [2008/10/22,20:57:34] No.1751

どうして現実から逃げ惑うのでしょうか?
://hidebbs.net/bbs/k_c_1?

管理人さま、IP公開の上、書き込み禁止にしてはいかがでしょうか?
○○のdionといえば、かつて不倫云々で淫らな人間関係を暴露されたあの方でしょうし。
2ちゃんねるならともかく、ここはインターネットです。
便利な通信手段です。
子供たちも見ています。やめなさい。

>>無題 名前: 池田弘光 [2008/10/22,20:57:43] No.1752

俺の名前は、池田弘光だ。
エディよ、ベトナム戦争の犠牲者に誤れ。
今でも苦しんでいる帰還兵だっているんだぞ、10歳でアメリカ軍に協力できるわけないだろう。
そんなに、戦争に参加したいならアフガニスタンに行ってタリバンと戦って来い。

>>連投ごめん 名前: 池田弘光 [2008/10/22,21:14:06] No.1756

エディよ、秘匿義務会うのにリアルの友人には話したんですか?

それから、どんな装具作ったの装具の内容だけなら秘匿義務に関係ないし。

それから実年齢で計算すると、ベトナム戦争の時期が10歳ことに対する説明がありませんがどうしてですか?

>>無題 名前: オデ [2008/10/22,21:25:15] No.1757

昨晩より、興味深く拝見させていただいております。
ずい分と乱暴な意見が飛び交っていますね。
エディさん、IP公開してはとのご意見ですがいささか乱暴ではないでしょうか?
確かに荒れがちな掲示板でIPをデフォルト表示にするというのは一つの手だと思いますが
非公開前提で書き込んだ人間に対して懲罰的な公開をするのは紳士的とは思えません。
また、社会的に認知されている組織の掲示板でそのようなことがされるとは到底思えません。
愚かな行為に対して愚かな行為で返す人間というのは、やはり愚かな者だと考えています。

「脳幹論」についてのスレッドですが、エディさんは否定できるなら否定してみてくださいと繰り返してらっしゃいますが
ご自分が何故「脳幹論」を肯定しているかを書かれてはいませんね。
真っ向議論を戦わせるのであれば、まずはご自身の主張を述べられるのが提議者としての最低限の義務ではないでしょうか。
「否定してみてください」連呼する姿はエディさんの嫌悪されているにちゃんねらと何ら変わらないように見えます。
当該スレッドを見る限り、「脳幹論」についての議論は始まってすらいないのではないでしょうか?

最後に、何度も
http://hidebbs.net/bbs/k_c_1?
というURLを張られているので、閲覧してみました。
驚きました。というよりはがっかりしました。
この掲示板で教育について語られている方と同一人物とはとても思えません。
売り言葉に買い言葉なのでしょうが「馬鹿」「キチガキ」という発言。
アオリ、オドシの繰り返し。
さらに、あの女性の半裸の写真まで掲載されていますね。
エディさんのおっしゃる通り、子供たちも見ているんです。

あなたは教育云々について語る前に、常識というものを勉強しなおすべきです。

>>必要ないからです 名前: エディ [2008/10/22,22:34:39] No.1760

わたしへの質問ではなく、わたしが質問しています。
これでは「戸塚小学校」どころか、幼稚園さえできませんよ。

>>池田弘光さんへ。 名前: エディ [2008/10/22,22:39:25] No.1761


://hidebbs.net/bbs/k_c_1?
任務の内容は言えませんよ。リアルな友人知人には知っている人もいますが。
例えば、民間の運送業者が自衛隊の輸送に関わる場合ですら、秘匿義務があります。
まぁ、上記URLをご覧ください。
今更、引っ込みがつかないのはわかりますが、現実を受け入れる勇気は、
持っていて損は無いとおもいますけど。

このスレッドも無意味ですね。
先生や会長にも見ていただいてはいかがでしょうか?

>>いったい何を言っているんでしょうか? 名前: オデ [2008/10/22,22:59:51] No.1763

あなた馬鹿ですか?

私が先程書いたコメントでは
IP公開について、「脳幹論」のスレッドについては「私の意見」を述べています。
何度も張られているURLについては「私の感想」を述べています。

エディさんはいったい何を言っているのですか?
たちの悪い独り言なら、ご自分の掲示板で好きなだけ書き込んだら良いでしょう。
しかし、ここは多少なりとも「戸塚ヨットスクール」というものに関心を持った人が集まるところです。
会話をする気がないなら、このようなところに来る必要はないでしょう。
私には2歳と5歳の子どもがおりますが、この2人ですらあなたよりもよっぽど会話が成り立ちます。



管理人様
荒し行為による書き込みを整理・削除されたとのことですが
エディ氏の他者の書き込みを無視した意味をなさない書き込みや
決して上品とは言えない、むしろ下品と言える氏のものと思われる掲示板のURLの連投について
どのようにお考えでしょうか?
すくなくとも掲示板URLを含むコメントについては即座に削除するべきではないでしょうか?
これを見過ごすのであれば、管理人様が非常に偏った運営をされてると考えられても止むを得ないと思います。
ここは青少年を受け入れるスクールが運営する掲示板のはずです。

失礼しました。

>>無題 名前: 成る [2008/10/22,23:01:43] No.1764

://hidebbs.net/bbs/k_c_1?

執拗に上記URLへの誘導をされていますが、あんな中身の無いサイトで
嘘を暴きますなんて・・・。

あなたの主張したい事が分かりかねます。

これも脳幹論とやらのなせる業なんですかね?

>>こいこいさん、オデさん、お疲れ様です。 名前: 池田弘光 [2008/10/22,23:01:47] No.1765

1761は前に書いたの消して書き込みなおしでしょ。

>わたしへの質問ではなく、わたしが質問しています。
これでは「戸塚小学校」どころか、幼稚園さえできませんよ。

昨日から質問してるのはこちらです。
こいこいさんのおかげで、エディ氏が嘘つきであることは証明されましたがね。

明日も9:00から仕事なのでもう寝ます。

>>『脳幹論者」は嘘つきの集まりですか? 名前: こいこい改め小杉光治 [2008/10/22,23:10:37] No.1767

「脳幹論」を実践してる管理人はIPが違うにも拘らず一人の物と嘘を書き、エディーさんも「脳幹論」を支持して、おそらくは実践しているのでしょうが、ベトナムで装具を開発し、穴掘りを行ったと言い、アイアンメイデンのオフィシャルサイトを詐称し、楽曲を盗用し、EMIから告訴すると言われていて、挙げ句の果てに会話すら成り立たない様です。
これは「脳幹論」が実践しても何の意味も無い。
もしくは「脳幹論」を実践すると嘘つきで、恥知らずで、泥棒で、滞続言語に成ると言う事を証明しています。
よって「脳幹論」はインチキ論理であると言えます。

>>わたしからの質問でした 名前: エディ [2008/10/22,23:12:44] No.1769

さすがに、あなたでもりかいできる、やさしいぶんしょうにしました。
このすれっどは、おわりました。

>>再び管理人様へ 名前: snail [2008/10/22,23:24:29] No.1771

かなりの早さで削除されたようなので再投稿します。
管理人様、どうか「削除」ではなく「解答」をお願いいたします。
お遊びでこのようなBBSを設けているのであれば話は別ですが、ここを本当の意味で有意義な議論の場にするためには必要なことだと思います。
多くの方がこの掲示板を読んでいるのですから。


お久しぶりです。
最近、このBBSを拝見しており、違和感を感じざるを得ないので書き込ませていただきます。
以前申し上げたように、もうスクールの教育方針や脳幹論自体の是非について言及する気は一切ございません。

さて、このBBSの最近の荒廃の原因はある一人の人物に帰着することは明らかです。
このBBSが彼に対する誹謗中傷で埋まってしまうことは本意ではないと考えます。
したがって、管理人様が今回のような措置を取られたことは当然といえるでしょう。
その一方で、その彼自身はといえば「脳幹論を否定するエビデンスはあるのか?」という質問を「知りません」と一蹴し、その直後に「脳幹論を否定できますか?」と同じ言葉を繰り返す始末です。
これがあなた方のおっしゃる積極的な議論ですか?
さらに、あなたはこいこいさんが提示された「脳幹論を否定するエビデンス」までも一気に削除されました。
あなた御自身が積極的な議論の芽をつんでしまったのです。

管理人様には「単なる誹謗中傷やネチケット違反は削除します」の文言を忠実に履行していただきたいのです。
現状では一方的なものになっているような気がしてなりません。
「脳幹論反対派」のネチケット違反には厳しく、「脳幹論肯定派」のネチケット違反には異常に寛容というのでは示しがつかないでしょう。
管理人様のこのような態度には多くの方々は不満と不信を持っていると思います。
この不均衡を解決する方法は大きく分けて二つあると思いますが、どちらを選択されるかは管理人様の御判断ににお任せいたします。
しかし、少なくとも現在の状況だけは許されないと思い、このたび書き込みをさせていただきました。

このBBSが積極的な議論の場になることを願っています。

>>無題 名前: ちょっとドS [2008/10/22,23:34:07] No.1772

オデさん。こんばんわ。

>エディさんの嫌悪されているにちゃんねら

この一文についてですが、過ちなので訂正させてください。
エディさん本人がかなり年季の入ったちゃねらー(ちゃんねらではありませんよ)ですので、2ちゃんねる全体を嫌悪されてるわけではないのです。
エディさんは個人開設のHPで自身がアクセス禁止措置をされた腹いせに、そのHPを誹謗抽象するためのスレッドを立てたり、他人に成りすまし自分を擁護する発言を繰り返したり(これを自演といいます)と、ここに来るちゃねらーの誰よりも、あの巨大掲示板を活用されている方なんです。
なので、彼はちゃねらー全てを嫌悪しているわけではなく、自分の嘘を見抜き、自らの違法行為を糾弾してくる人たちを恐れているだけなのです。

本当のところを言いますと、2ちゃんねるでさんざん好き勝手、やりたい放題を行った挙句、居場所が無くなってここに逃げ場を求めてやってきたというのが真実と言いましょうか。。。

エディさんは逆さにしても振り回しても、それこそ金太郎飴みたいにどこを切っても、立派なちゃねらーなのです。

>>スレッド削除依頼 名前: エディ [2008/10/22,23:45:54] No.1774

スレッドごと削除が望ましいと思います。
ソネットの方なども、問題を起こしていますし。

>>日の光を見たことの無い者は没した 名前: エディ [2008/10/22,23:54:24] No.1775

://hidebbs.net/bbs/k_c_1?

 エディ 【2008/10/22 11:22:04】[返信][削除]

2ちゃんねるを見捨てた途端、
戸塚ヨットスクールを支援する会(会長・石原慎太郎)
の掲示板へねらーが金魚の糞ばりに入ってきた。
哀れだが、場所を変えても救済しない。

「溺れる者はワラをも掴む」
わたしに救済を求めに来ているのだろうが、
ねらー救済については、
わたしはワラの浮力すら発揮しない。
ねらーは、地下から海底深くへ没していった。
自業自得である。

しっかり読んで、改変して書いただけですね。
やはりスレッドごと削除が最適でしょう。

>>無題 名前: エディ [2008/10/22,23:58:50] No.1776

http://hidebbs.net/bbs/k_c_1?

XXXXのこと 名無しです 【2008/09/11 20:39:34】[返信][編集][削除]

も読みましたね(^O^)

しっかり読んで、改変して書いただけですね。
やはりスレッドごと削除が最適でしょう。

>>最後に 名前: オデ [2008/10/23,00:11:19] No.1777

終わっているのはあなたでしょう。
私より年配の方が、このような体を晒していることが信じられません。
それも堂々と。
あなたの様な人間が、世の中に普通に存在していることに恐怖を覚えます。
はっきり言ってあなたが恐いです。
こちらがおかしくなってしまいそうです。
また、話に一切の進展が無いことに虚しさを感じます。
これ以上時間を無駄にしないためにも、おっしゃる通りに終わりにしましょう。


管理人様
snailさんの書き込みですが、何故削除されたのでしょう?
整然とした、そして理にかなった文章だと読み取れますが。
管理人様の運営方法について疑問を呈してられますが
書き込まれている方々の誰を批判するわけでもなく
この書き込みにより傷つく方もいないと思いますが。
管理人様自信が不快だからと理由であれば、目も当てられません。


ちょっとドSさん
情報ありがとうございます。
「ちゃねらー」と言うのですか。今まで気にもしていませんでしたが以後気をつけます。
私は2ちゃんねるはニューストピックを見るくらいで書き込みはした事がありませんが
なんとなく、状況は想像がつきます。
活発な議論が戦わされていながら、あおり合い・叩きあいも同時進行するところですからね。
2ちゃんねる内でやり合うならお互い様でしょうが、こういう場所で同じことをするというのは
理解に苦しみますね。
ただ、「ちゃねらー」の人達ももこういう人を相手にし続けるのもどうかと思います。
この掲示板もエディ氏を誰も相手にしなければここまで荒れることはなかったのではないでしょうか。
もちろん、好き放題書き綴る氏に対して勘弁ならないという気持ちも理解できます。
ちょっとドSさんが「ちゃねらー」であろうと推察しつつ、失礼なことを申し上げました。
2ちゃんねるで言うところの「スルー」が良いのではないでしょうか。
相手にするだけ無駄な人というのは確かに存在するものです。
例えば、自動車を運転していて無茶な割り込みをされたとします。
確かにムッとしますが全うな人なら相手にしませんよね。
私もこのようなとき、頭の中で「ハイハイ、スルースルー」とつぶやいています。
くだらない事を書いてしまい済みません。
確かに、エディ氏のような人が近所にいたら「スルー」はできませんがね。
ただ、このような人は現実の世界ではおとなしく行儀良く暮らしているのかと思うと恐ろしく感じます。
昨今の理解に苦しむような凶悪事件も、氏の一連の書き込みを読むとさほど不思議ではなく思えてしまいます。
長くなってしまいました。
この辺りで終わらせていただきます。
私はもう、この掲示板を見ることはないと思います。
皆さんも、そろそろ潮時ではないでしょうか?

それでは、失礼いたします。

>>追伸 名前: オデ [2008/10/23,00:12:52] No.1778

私自身が「スルー」できていませんでしたね。
少し、恥ずかしいです。

では

>>無題 名前: くっぴん [2008/10/23,00:13:39] No.1779

石原慎太郎氏曰く、
「脳幹の大切な機能の一つは〜中略〜成長するといった
耐性(こらえ性)を培うということである」
だそうですね。

この文を踏まえて、このスレッドの一連の流れを見れば
エディさん自ら脳幹論を否定する行動をとっているのは
明らかだと思いますが。

>>無題 名前: エディ [2008/10/23,00:17:30] No.1780

スレッド削除依頼 名前: エディ [2008/10/22,23:45:54] No.1774
スレッドごと削除が望ましいと思います。
ソネットの方なども、問題を起こしていますし。
>> 日の光を見たことの無い者は没した 名前: エディ [2008/10/22,23:54:24] No.1775
://hidebbs.net/bbs/k_c_1?

 エディ 【2008/10/22 11:22:04】[返信][削除]

2ちゃんねるを見捨てた途端、
戸塚ヨットスクールを支援する会(会長・石原慎太郎)
の掲示板へねらーが金魚の糞ばりに入ってきた。
哀れだが、場所を変えても救済しない。

「溺れる者はワラをも掴む」
わたしに救済を求めに来ているのだろうが、
ねらー救済については、
わたしはワラの浮力すら発揮しない。
ねらーは、地下から海底深くへ没していった。
自業自得である。

しっかり読んで、改変して書いただけですね。
やはりスレッドごと削除が最適でしょう。

>>無題 名前: エディ [2008/10/23,00:20:10] No.1782

://hidebbs.net/bbs/k_c_1?

XXXXのこと 名無しです 【2008/09/11 20:39:34】[返信][編集][削除]

も読みましたね(^O^)

しっかり読んで、改変して書いただけですね。
やはりスレッドごと削除が最適でしょう。

>>無題 名前: ちょっとドS [2008/10/23,00:25:58] No.1783

エディさん。ここは2ちゃんねるでは無いのですよ。
取り乱しての連投。カコ悪い。

>>無題 名前: エディ [2008/10/23,00:34:19] No.1786

無題 名前: エディ [2008/10/23,00:17:30] No.1780
スレッド削除依頼 名前: エディ [2008/10/22,23:45:54] No.1774
スレッドごと削除が望ましいと思います。
ソネットの方なども、問題を起こしていますし。
>> 日の光を見たことの無い者は没した 名前: エディ [2008/10/22,23:54:24] No.1775
http://hidebbs.net/bbs/k_c_1?

 エディ 【2008/10/22 11:22:04】[返信][削除]

2ちゃんねるを見捨てた途端、
戸塚ヨットスクールを支援する会(会長・石原慎太郎)
の掲示板へねらーが金魚の糞ばりに入ってきた。
哀れだが、場所を変えても救済しない。

「溺れる者はワラをも掴む」
わたしに救済を求めに来ているのだろうが、
ねらー救済については、
わたしはワラの浮力すら発揮しない。
ねらーは、地下から海底深くへ没していった。
自業自得である。

しっかり読んで、改変して書いただけですね。
やはりスレッドごと削除が最適でしょう。

>> 無題 名前: エディ [2008/10/23,00:20:10] No.1782
://hidebbs.net/bbs/k_c_1?

XXXXのこと 名無しです 【2008/09/11 20:39:34】[返信][編集][削除]

も読みましたね(^O^)

しっかり読んで、改変して書いただけですね。

管理人様、やはりスレッドごと削除が最適でしょう。
2ちゃんねらーは去ってください。

>>(new) 悪用しない? 名前: くっぴん [2008/10/23,00:34:35] No.1787

エディさんが度々張られているリンク先の掲示板を見ました。

Re: エディ 【2008/10/22 23:27:15】[削除]

問題ありません。
個人的問題などもわたしは持ち込んでいません。
読んだ通りです。
ベトナム云々も、馬鹿馬鹿しいですよね。
なぜここを読めないのでしょう?
自分の愚かさを認めることが怖いんでしょうね、きっと。

おっしゃる通り、大切な掲示板です。
無関係な投稿を続ける方々には謝罪を求めますよ。

ところで、たかとよしさんが「悪用しない」と宣言してくれるなら、
面白い掲示板の「見方」をお教えしたいのですが、
よろしいでしょうか?
記載されていたアドレスへメールしますが・

これはどういう事でしょう?
まさかホストアドレスを読み取る等の行為を示してはいませんよね。
また"「悪用しない」と宣言してくれるなら"とありますが
逆に言えば悪用も可能という事ですね? それを他人に教えると。
全くとんでも無い脳幹論支持者ですね。

私、非常に気分が悪くなりましたのでこれ以上は書き込む事を控えます。

>>(new) 無題 名前: ちょっとドS [2008/10/23,00:36:44] No.1788

>2ちゃんねらーは去ってください。

何言うてますのん。エディさんがイチバンのチャネラーのくせに。
いけずぅ。



今後の勉強のため、教えてください。 名前: エディ [2008/10/23,00:31:49] No.1785 返信
わたしからの質問です。

「脳幹論」
を否定できる方限定でお答えください。
脳幹論を否定できますか?できるなら、教えてください。


「脳幹論」
を否定している論文を読んだことがありません。
参考にしたいので、もしその存在があるなら、教えてください。

>> 存在は致しますが 名前: 現役教師Tと申します。 [2008/10/23,01:24:23] No.1789
エディ様がご所望のようなので探して参りました。
http://ameblo.jp/madscientist/entry-10019694208.html
他にも複数ございました。

しかし私が発見できたものは、上記サイトと同様に解剖学的な脳幹の定義との差異や石原都知事の誤解を招く発言に端を発したものでした。

なぜ戸塚先生が「脳幹」という言葉にこだわったのかまでは存じませんが、ご自身で見出した理論に既存の言葉(脳幹)を使用したため、その点だけを否定されているようです。

しかしそれ以外でも脳幹論を否定することは可能です。
残念ながら脳幹論に統計学的根拠はなく、その定義も結果からのみ考察された非科学的理論ではあります。
プロセス主義へと移行したい教育論者たちにとっては、魅力のない使い古された理論なのかも知れません。
もしかするとその点から否定する論文もあるかも知れません。
ですが脳幹論の実践結果も事実であり否定はできません。
でも正しいかと問われると、私は持論を展開するつもりはございませんし教育者として正誤の判断は法にゆだねますので、戸塚先生は間違いを犯したとしか言えません。

ペスタロッチやコメニウスが現代の教育における諸問題を想定できたか分かりませんが、学問としての教育と実際の教室とでは依然として大きな隔たりが存在します。
実験的でも効果のあるものにすがりたいと考える教師は、きっとたくさんいるはずです。

話がそれますが、反復学習の件に関するご返答ありがとうございました。
(個人を非難する方々の書き込みに紛れて削除されてしまったようですが。)
そこまで反復学習を追求できれば、動機付けやメタ認知といった現代教育において最善とされる理論をも超越できると思います。
改めてエディ様の発言に感心させられました。


学ばない自由について 名前: ISHI [2008/10/14,17:30:44] No.1619 返信
学ばない自由を持たせるのを批判するのはどうしてですか?
「成績が低くたっていいじゃないか。学校の勉強ができなくても生きていけるさ」というのを批判しているのでしょうか?

統計によると7割以上の親が小学生になるまで英才教育を受けさせているようで学ばない自由を唱えている人は少数派でしょう。
>> 無題 名前: エディ [2008/10/14,21:38:11] No.1620
学ばない自由ですか。
確かに、憲法においては認められて当然な気はしますが、
それ以前に、日本人としての三大義務に反すると思います。
三大義務に明文化されてはいませんが、
積極的に学び、結果として高額納税するのが義務となっていますよね。
(その賛否はここでは論じません)

憲法こそが基本になるとはいえ、それは理想論であり、
義務を真っ当してこその憲法でもあるとも言えるかも(?)しれませんよね。

学ばない自由はあったとしても、現実には即さないと思います。

以上は、ほぼ思いつきで書きました。
今後のわたしの勉強のためにも、様々なご意見をお伺いしたいです。
どうかよろしくお願いいたします。


削除 名前: 管理人 [2008/10/12,05:01:00] No.1595 返信
なじゃ様

ここ数日間のスレッドを拝見しています、 

ー殺人ー を権利として考える人物からの

書き込みを放置するわけにはいきません。

この先は禁じます。

書き込みNO.1510及び1554は返

信文含め削除検討します。



河和の図書館で生徒が勉強する時にインタ

ーネット装置を通じてここを見ています。

書き込まれる方は大人としての手本となる

様に、御願い申し上げます。


拉致 名前: 卒業生相原君の父 [2008/10/09,19:31:48] No.1554 返信
長いので二回に分けて、書き込みします。
今日は前半です。


ナジャさん
書き込みありがとうございます、卒業生相原君の父と申します。
体罰と暴力の違いですが、外見的な面から見れば有形力の行使としてどちらとも区別はつきません。 これはまず間違いありません。
それを起きた事実と関連付けるために、体罰を原因とし(外見は同じですから)、本来有るはずのない基準を、死亡という事実と無理やり関連させて線引きすれば有罪となります。
勘違いしないでいただきたいのは、高裁判決そのものは“体罰を原因”として死亡事故になった等とは一言も言っていません。
この辺を一部マスコミの垂れ流すいい加減な情報に気をつけてくれと私達は言っているわけです。
ではどういった方向で結論を出したのかというなら、スクールの行った指導は体罰の領域を超えた暴力であった認定することによって、体罰そのものに関しては民法に定められた懲戒権の一つとしての存在と意味、有効性を、国ははっきりと肯定したわけです。
まずそれを勘違いなさらないようにお願いします。
裁判は、起きた事実をどう判断するかにより結果がいくらでも変わるきわめて不安定なものであり、スクール裁判においてはスクールの指導を体罰ではなく暴力とするために死亡事故そのものを関連付ける事で暴力だった線引きをし、あとは過失として判決をだすのか、殺人として出すのか? ヨットスクール事件においての裁判所判断はたったそれだけのことでしかありません。
注意:なくなられた生徒の尊厳は別のはなしになります。
まずそれ(国は体罰そのものをきちんと認めているのだという事)をしっかりと頭に入れておいてください。
さて、冒頭に書いたように外見だけではまったく同じに見えるが故に「どう違うのか?」ということが多くの論争になるわけですが、とりあえずこれを簡単に記そうとするなら、やはり”行使する側の心のあり方が違いを生み出す”という言い方以外にはないわですが。
そもそもどこまでが暴力、どこまでが体罰という正確な基準はなく、また他人が分け隔ての基準を作る事はおろか測ることはさらに不可能です。
そこで”もう少し分かりやすくならないだろうか?”と、工夫して現そうとすると「子供利益のために行う暴行を体罰とし子供の利益の為に行わない暴行を暴力という」
という表現になってくるわけですが、正直なところ、そうであり、又そうでない、というのが答えかと思います。
というのは、体罰がその子の誤りを正す目的で行使されたとしても、答えを出すのは常に行使された子供の側であり、仮に、その時点ではとうてい受け入れられない“暴力”だと捕らえていたとしても、後にその意味を理解できる程に精神成長をなした後には“自分にとって利益であった”と理解することは別段珍しい事でなく、またそれは有る程度年齢のいった大人であれば、理屈ぬきで分かり得るものではないかと思います。
何故そうなのか?というのなら、“人”そのものは自分の目で見て、触れて、感じ、学んだことの範囲内でしか思考を展開できず、当然にその範囲内でしか答えを導き出せない生き物である事から来ています。
すなわち“蓄積された”経験と学習を基にして結論を出す(過程において他者の助言があれば、それは学習の範囲に入ります)のが人間、という事です。
さてそうした同じ人間でありなから存在する大人と子供の差は、経験と学習の差そのものであり、人間性の差でもある。
それは生きてきた歳月の違いがもたらすもので、当然のことながら、生きた時間が長いほど絶対的に得られた情報量も多く、一つの事に関してめぐらす思考も豊かで充実しています。
この差が有るからこそ子供を育てていく過程でその子のどこに過ちがあるかを判断させ、叱ることが出来るわけです。
もう少し話を進めましょう、ここまでは叱ることの出来る理由となるものを書きましたが、それではなぜ人は叱るのか?という疑問を晴らさなければならなくなります。
ナジャさんはこれについて深く考えた事があるでしょうか?
実は、これが人そのものが厳しい自然界を生き残って文明を発展させてきた事と大いに関係が有るのですね。
また平和な社会をつくり安らかな生活がおくれるようになったのもすべてこのおかげです。
さて、先に書いた叱るですが、もし叱る事が不必要なものであるなら、その行為そのものが存在しない、すなわち子供はおろか、誰に過ちをみてもまったく何も感じなくなってしまう・・・
注意:叱るのもっとも強い現われが体罰です。
必要だからこそそれが起こるわけですが、その必要はどこからくるのかといえば愛が生み出しています。
愛は誰しもが持ちえるもので、またこれは人間が事を成すためのエネルギーであり、力でもある。
だから様々な形をとりながら大きな力となってこの世全体を動かしているわけですが、一人の人間という器にまで縮小して考えるなら、恋愛からはじまって、子供をそだて、成長させていく為の長い年月を継続させていくことができる物でもあるわけです。
さて人間は、これを強烈に意識し始める時、まるでスタートラインの様な時期が人生の中にあります、それが強烈な愛を意識し求めるようになる思春期であり、これは第二次性徴期とピッたりと重なっています。
折りしも女の子は生理が始まり、男の子は夢精をみて、生殖能力が備わるわけです。
それまでは注がれる愛という形を大いに求めますが、けして積極的なものではありません。
それでは何故に愛を強烈に意識して強く求めるようになる年齢と、生殖能力が活動を開始するのがほぼ同時期になっているのかですが、お分かりでしょうか?
 答えはとても簡単です。
愛というものがただの種族保存本能でしかなく、ゆえに種族を後に残せる身体的な能力が備わった時点でスイッチが入るように働き出すように出来ているからなのですね。
種族保存という本能があるからこそ恋をし、性行動が起き、子供がさずかり、自然に子供を育てている(極端な例でもありますが戦争も全てこの種族保存本能の生み出す人の行動の一つです)、あくまでも一つの動物でしかない人間の自然な姿そのものです。
種族保存は本能ですから、そのエネルギーのほとんどは子孫を正しい方向へ進ませるために使われる。
子供時代は注がれる愛により愛に関して学習しを得ながら基礎を創りあげ、思春期を境に外部へ愛を注ぐように変化するわけです。
*故に反抗期は注がれる愛と注ぐ愛の切り替えの期間であり、行ったり来たりを繰り返すためにきわめて不安定になる。 極当たり前でおかしなことではありません。
さて、切り替わった大人の愛、すなわち注ぐ愛は、種族繁栄の為だけに存在し、これは地球上にそんざいする動物全てに共通した目的、すなわちより強く、より多くを目標として子孫を育てます。
実は叱るという行為の原動力はこの愛、すなわち種族保存本能がもたらしているものであり、故によりよき子孫を残すために注がれるのは当然なわけで、それをスムーズに行うために社会が学校を造ち、勉強させようとするのも、安定した環境を整えようとするのもすべてここに原点があるわけです。
さて、冒頭に書いたように、人は経験と学習で得られた情報の範囲のみで思考する生き物です、
子供は人間であるのは紛れもない事実ですが、人間であるが故に人生をあるけば必ず何かにつきあたり、そして考えます、しかしその考えは先にも書いたように、その子が突き当たるまでの間に持ちえた経験と学習で考える以外には方法はなく、故に考え方も幼く、まちがいも実に多い。
ゆえに大人ははるかに膨大な経験と学習をもって、子供を導くわけですが。
子供はロボットではなくて感情をもった存在であるが故に、大人の導きを拒絶してまったく見当違いの方向へと走り出そうとする事は多々あります。
簡単な例を一つあげてみたいと思います。
子供の不足している経験と学習は、時として自身の目を曇らせ、耳を塞ぐ方向で働き、またそうして行動した結果起きた事実を認めようとしない時があります、
いうなれば自分は正しいとして行動した結果が、その思いとまったく異なる結論になったことを解っていながら、認めようとしない行動をする事があります。
こうした子供の行動はどこにでも、いくらでも、小学校、中学校、果ては高校でもあることで、
これを逃げと私達はいうのですが、
もちろんそのままで良いはず等なく、にごった目と塞いだ耳では、“認めること”から始まる多くの学習、すなわち善悪判断をはじめとする、社会性や人間性が育ちませんから、
その際に大人から発動されるものが教育、そして叱るはその中の一つであり、そのもっとも強いのが体罰という行動なのです。
ちなみに、上記の逃げは他人に責任をなすりつけて自分を退避させる行動そのものであり、これを幼いころにきちんと学ばせてもらえなかった人間が起こす犯罪が毎日メディアを賑わしています
逮捕された彼らが一番初めに語る言葉を良く聴いてみてください、気持ちの悪いほど「こうなったのは全て誰々のせいだ!」という点で共通していますから。
さて、子供(弱者)に対して大人(強者)が力を行使するわけですから、当然にその力は正しい方向で使われねばならず、それは大人にとっても子供にとっても権利です。
日本で乱用されているこの権利という言葉ですが、語源となった言葉はRIGHT(正しい)という言葉です。
権利についてろくに教えていない日本の社会では“権利は何かに基づいて自分の考えを主張するものとして捉えしまっています”しかし、権利はそれが正しいかどうかを単に主張できるだけのことであり、当然に正しいとして受け入れてくれる相手もあれば、拒絶する相手もいます。
権利は個人から社会へ主張できるものでもありますが、まずはその上に社会全体の公益としての権利というものがあり、それが個人の権利を制限する事は当たり前です。
簡単に例を示せば治安等がそれそのものであり、自由だ権利だを主張して、だからとてそれが本来の意味RIGHT(正しい)に沿うものかどうかを十分に吟味せず行動もしくは主張すれば、当然に制限を受けるのはあたりまえであって、故に個人の権利と社会全体の利益としての権利の調整はまず個人が自分の主張する権利が正しいかどうかをきちんと吟味して行われなければならないわけです。
故に拉致したかどうか?ということで、そうした行動をする権利があるかというなら。
その子だけという狭い範囲で物事を考えるのではなくて、その子を取り巻く多くの権利、
をそれぞれつき合わせて何が正しい(権利)なのかを考える思考なくば、
それは自分の思考を他人に押し付けるわがままでしなないわけです。
失明するほどめちゃめちゃ顔を殴られた親が、どうやってその子を説得して戸塚ヨットスクールに自分から進んでいくようにしむけられるのか?
権利という言葉を放つなら、まず具体的で有効な説得方法をここで明かていただき、子供と親の両方の権利を保護してもらわねばなりません。
子供の権利を守るのだといいながら、それでは毎日のように殴られる親の権利をなおざりにしておいて、その理由は「子供がかわいそうだから!」というのでは、どこに権利のもつ本来の意味、すなわち“人として正しい”がどこにあるのだというのでしょうか?
権利の意味をまともに教えなかったこの国は、権利=自分の思いを主張する事。
自由=自分勝手な好き勝手ができる事
になってしまいました。
ナジャさんはどうお考えでしょうか?

>> 卒業生相原君の父 さんへ 名前: ナジャ [2008/10/09,22:17:51] No.1556
卒業生相原君の父さん、はじめまして。

おっしゃる通り、体罰と暴力の違いの基準は難しいと思います。
わたしは体罰の是非ではなく戸塚ヨットの体罰の是非について話をしています。脳幹論や教育論等の学問的な話ではなく、わたしの話すことはすべて戸塚ヨットの行ったことに限定して話させていただいています。ですから、わたしは脳幹論も体罰もそのもの自体としては否定するつもりはありません。

体罰に関してですが、子どもの利益になるかどうかは一つの基準にはなると思います。しかし、その方法も基準になると思います。例えば、犬をけしかけたり電気ショックを与えたり、性的行為を強制する等は結果が生徒の利益になるものであったとしても公共性に耐えうるものではないとわたしは考えますがどうでしょうか。平手打ちではなく、拳骨で殴打する、足蹴にする等の行為は体罰ではなく暴力であるとわたしは考えています。なぜならば、それらの行為によって怪我や死亡等の危険性があることが予測されるか、もしくはそうした恐怖感を子どもに与えるからです。旧日本軍では新兵教育としてこれを体罰と呼ばず鉄拳制裁と呼びました。戸塚ヨットでそのような体罰が行われていたとするならば、生徒の利益に関係なくやはりそれは暴力ではないかとわたしは思います。このように考えなければ親による子供への虐待も、「しつけ」だと解釈することも可能になってしまいます。将来的に子どもの利益になるのかどうかを判断するまで虐待を放置することはできません。また、体罰が直接の原因でショック死したわけではないとは思いますが、体罰を行わずして死亡した子どもは自発的な訓練をするものであったのかどうか、です。体罰によって子どもが訓練を強制されていたとすれば、やはり生徒の死に対する体罰の影響を無視するわけにはいきません。

懲戒権に関しては懲戒権そのものではなく、なぜ法的な権限のない戸塚ヨットがその懲戒権を子どもに対して行使する権利があると言えるのか、ということを考えていただきたいと思うのです。これは拉致の問題にも繋がります。以下、この問題について意見を言わせていただきます。

おそらく、戸塚ヨットが拉致まがいの行為をするのには、それなりの事情があってのことだと思います。暴力をふるう子どもにふるわれる親。家族だけなら良いが、家族以外の人に暴力を行えば警察が介入することになり、家族もまた責任を問われ、肩身の狭い思いをするでしょう。そのような子どもが自らカウンセラーの治療を受けるとは考えられないことだと思います。わたしはこのことを承知した上で戸塚ヨットによる拉致まがいの行為について話しています。

まず、戸塚ヨットにはその家族の不幸に介入しなければならないという義務はありません。その家族が崩壊すれば戸塚ヨットに大きな害が降りかかるということもありません。その家族が悲惨な状態であったとしても、何故に公共施設ではなく会社組織である戸塚ヨットが拉致をする権利を有するのか、ということなのです。

「権利という言葉を放つなら、まず具体的で有効な説得方法をここで明かていただき、子供と親の両方の権利を保護してもらわねばなりません。」

戸塚ヨットは子供の利益のための組織であって親の利益のための組織ではないはずです。また警察組織でもありません。「子どもを救いたい」とおっしゃる以上は親の権利を理由には子どもの権利の制限である拉致を正当化することは立場上できないはずです。また、「有効な説得方法」とのことですが、わたしは、なぜ戸塚ヨットスクールが説得しなければいけないのか、ということを申しあげているのです。

わたしが申し上げていることは責任の問題なのです。事故にしろ事件にしろ、問題が起こった時には戸塚校長では責任が取りきれないということを申し上げているのです。戸塚校長及び戸塚ヨットがどれだけ反省しても服役しても謝罪をしても、マスコミや世間が騒ぎおさまりがつかないのは戸塚校長及び戸塚ヨットではこの問題の責任が取れないということなのです。人間は自己の責任の範囲内において権利を有するのであり、責任のとれない事柄においては権利を有しません。











>> 拉致 名前: 卒業生相原君の父 [2008/10/10,03:31:38] No.1557
返信頂きましたことへの返答は今しばらくお待ち下さい。
他にやらねばならないことがあり、多少気長に待って頂けると
助かります。

とりあえず前半の続きだけはまとめましたので、記載しておきます。

>次に戸塚ヨット事件の場合は結果としては生徒は死亡してしまったため
>体罰は生徒の利益にはならなかった

と有りますが、これは死亡したから体罰は生徒の利益にならなかったこうした語らいは、関連性があるようで関連性はありません。
同時に事件以降、今日に至るまで体罰がスクールの生徒達に多くの恩恵をもたらして来たことは、当時も今も変わりありません。
亡くなられた二人と体罰の結果だけを短絡的に結び付けて結論をいそがれる方が余りにも多くおられますが、
それは二人に限定して考える場合と、その二人を除いて考える二つの考え方があり、私は
この二人がもし今も元気で生きていれば、今頃受けた体罰の意味をきっと理解していただろうと思っています。
事件その物について校長先生はこう言います、体罰の行使方法と量について明らかに自分達に誤りがあったとです。
私は現実にこの言葉を生で何度も聴いています。
多くの人達が思っているのとは全く逆に、戸塚ヨットスクールは自分達の犯した間違いを始めからきちんと認めているのですね。
ではなぜ長い年月にわたって争いとなったのか?
ということになるわけですが、遺族と検察が出してきたのは
“スクールは始めから殺す為に我が子を受け入れた”
と主張したことにあり、殺人を楽しんでいる集団だとして提訴してきたわけです。
そしてそれを正当化するために使われた道具が体罰であり、証拠が死亡事件という展開の仕方でした。 
そのため死亡原因を暴力とすることは、スクールが殺そうとしていたことを関連つけるためにどうしても無ければならなかったものですが、
名古屋高等裁判所の裁判記録の中に一つおかしな記載があります。
なくなられた一人の生徒の死亡原因となった問題となった太ももの出血量。
それに関する鑑定結果の部分がすべて理由もなく全て削られているということ、
裁判ではこれが直接死因となったかどうかが長い期間争われ、それについては専門の
医学鑑定人の書類が提出され、本来ならその詳しい記述と資料が抜け落ちてはならないはずの
ものがすっぽり消えてしまっている・・・・
同時に裁判では最後までそれが死亡の原因となったかに関して明確にされていません。
私にはこうした摩訶不思議な事がこの国の裁判所で事が行われている事そのもののほうが問題ではないかと思います

当時、校長先生には幼い二人のお子さんがいて、それぞれのコーチ達は結婚していましたし、子供のいる人もいた。
しかし校長先生をはじめとしたコーチ達は、一方的な捏造報道により家庭を崩壊させられ失ったわけです。
「はじめから殺すつもりだった!」この言葉を校長先生はじめ誰が受け入れられるでしょうか?
スクールは昔も今もこういっています、もし裁判の中身が過失失致死をめぐる物なら、なんら争う事もなく刑に服していたとです。


最後に体罰はある意味諸刃の剣でもあります、というのは、行使された側にとって、その受けた経験は強烈に残り、しかしながらそれを理解するための未来はそこから始まるのであり、
体罰は、それを受けるまでは経験し得ないものでもあるからです。
人間と犬猫といった動物との決定的な違いは、人であるがゆえに本能的に備えられている社会を形成しようとする本能にもとずく、消化能力の素晴らしさにあり。
それは単にそれが痛みとして感じられることから敵とみなす様な単純思考を超えたもので、それは本能がもたらす「理解を試みる心」であって、これが人間らしさであり、豊かな感情を作り出しています。
大人の体罰は子供からすれば社会と重なって見えます。
孤独が好きだという人はいますが、消して自分を社会の外に追いやろうとはしません。
人はいくら社会を拒もうと試みたとしても出来るものではなく、拒んでいるように見える姿の中に、実は自分の居場所と社会的存在、そして確認をつねに求めているものなのですね。
これは引きこもりの事もたちの苦しみもそうで、彼らの苦しみは、人の持つ本能との戦いの苦しみでもあるわけですから、その苦痛は生半可なものでは有りません。
友達とけんかした、恋人とけんかした、上司とけんかした等など、さまざまないさかいは
生きているならいくらでも経験するものですが。
このときに感じる苦しさはなんなのか? それを深く考えた事があるでしょうか?
一見相手の事だけでもたらされているように思いがちですが、実は相手を通して自分と社会とのすれ違いと重なりつつ存在するものであり、自分にもたらされたそれは社会における自分の居場所の安定性に危機感を覚えるもので、もし自分の感情の高ぶりとそれにより吐き出した言葉なり行動があるなら、それによって社会という存在に及ぼす影響を恐れているというのが、一見表に現れてこない心の内には存在しているのです。
二者間だけの事に思えて、その実、人は自分と社会をしっかりと見ているのですね、いうなれば本能が不安を覚える、それが仲直りしようと試みたり、認められようと努力したりという行動となってあわられる。
これは体罰にも同様の影響を及ぼしており、
体罰は行使した側、行使された側の二者関係だけに留まる物と考えている人がかなりいますが、
現実はそうしたものではなく、行使された側は、上記の社会本能を基にして、自分と相手、自分と自分を取り囲むあらゆる存在、自分の過去において得てきた経験と学習の全てを行使して
“思考させる”ものなのです。
ここで始めに戻りますが、子供は経験と学習の積み重ねにより成長していきます。
人間という動物のもつ種族保存本能という自然のもたらした摂理、それのもっとも突端にある体罰は、動物の正解ではほぼ人間だけに存在する物です。
理由は極簡単、それが有ったとてそこから十分に学ぶことのできる能力を備えているという事、しかしそれを学ばずに大人になることがどれほど危険なことであるか。
お解りになられるかと思います。
>> 気長に待ちます 名前: なじゃ [2008/10/10,19:43:23] No.1558
気長に待ちますので、ゆっくり考えていただければと思います。よろしくお願いします。
>> 親権 名前: 卒業生相原君の父 [2008/10/11,05:35:43] No.1566
ナジャさんへ
何とかまとめることができましたので掲載します。

まず、
>わたしが申し上げていることは責任の問題なのです。
>事故にしろ事件にしろ、問題が起こった時には戸塚校長では
>責任が取りきれないということを申し上げているのです。

「責任の取れない事に権利を有さない」ということですから、そこに権利の語源である“正しい”という言葉を当てはめてみると、責任の取れない事は正しくないという事になります。

そうなると、海難事故が起きる可能性があるから船の建造をやめよう、飛行機は落ちるから飛ばさないほうがいい、自動車は事故を起こすから乗るな。
という事になり、人が亡くなったから、可能性があるから、責任をとれないじゃないかと、だから全部なくしてしまえばよい。

そういったことになります。

ただ、私?の思うところの責任で考えるなら、海難事故がおきるから気象技術を発展させ、沈まない船をめざし、飛行機は何重もの安全装置を施して事故の可能性を限りなく0に近づける、自動車は車の設計からはじまりインフラを整備し、なにより安全教育を徹底する。

進歩と発展をまず第一に考えるわけです。

歴史を紐解いてみるなら、これは何も私だけに限定された事ではなくて、人間が文明をここまで発達させてきた原動力である責任のとり方と完全に一致しています。

これこれしたら責任を取りきれないと人はいいます、ところが人の歴史はとりきれない事の発生と繰り返しだらけであり、そのたびに人は「どうして?」、「何故?」をそこから学び、よりよき社会と文明をここまで創りあげてきた。
いうなれば、“それが人間としての能力”でもあるわけです。

過去に大きな事故を起こしたスクールが、なぜに現在も子供達を立ち直らせ続けているのか?ということを考えるなら、この人間が繰り返してきた歴史に反するものではなく。
偉大なる先人達が歩んできた道のりと同じ事をしているわけで、それは事の重大性と責任を認識すること、そしてそれを原動力として優れた教育方法を探究し続ける姿というかたちで責任という物を取ろうとしています。

ちなみにこうしたスクールの姿は、長い年月を通して多くの人たちに認められ、過去に批判一辺倒だったメールや電話は消失し、現在捜すほうが難しいほど支援する声の中に埋もれています。

もっとも、たまたまスクール事件を知り、情報を捏造だらけのマスコミ報道から得て、にわか知識と正義感気取りで文句をいってくるものは時折居ますが・・・

それがまず一点目、

次に

>例えば、犬をけしかけたり電気ショックを与えたり、
>性的行為を強制する等は結果が生徒の利益になるものであった
>としても公共性に耐えうるものではないとわたしは考えますが
>どうでしょうか。

はい、これは体罰ではなく完全な暴力です。
というか、これを体罰と書いているナジャさんそのものの体罰に関する考え方が私にはよく分からないのですが、
あえて言えるとするなら、こうした事を平気で行なえる人間性その物がすでに異常であり、異常なものを持ってきてスクールと関連つけられながら語られても、こちらとしてはなんら答えようがありません。
もっと違う例をお願いします。

>平手打ちではなく、拳骨で殴打する、足蹴にする等の行為は
>体罰ではなく暴力であるとわたしは考えています。

これについては後ほど詳しく。


>・・・恐怖感をあたえる・・・・
体罰行為そのものは恐怖をその特徴の一つとして始めから持ち得るもので、本来分離して考えることは本来出来ないはずです。

また、行使は、身体に対する有効力ですから、必ずなにがしかの痕は残るし、怪我をすることもあります。
そもそもそれが体罰のはずなのですが・・・

>旧日本軍では新兵教育としてこれを体罰と呼ばず鉄拳制裁と呼び
>ました。
>戸塚ヨットでそのような体罰が行われていたとするならば、
>生徒の利益に関係なくやはりそれは暴力ではないかとわたしは
>思います。

旧日本軍の行っていた物は体罰ではなく鉄拳制裁、すなわち、必要な目的のために行使されたようですが、これはその目的遂行のために、すでに有る人格の上に目的意識を植え付ける為に行われたわけです。
体罰の目的である、人の心そのものを育てるという目的とはまったく違います。
同じ器に載せて話せる物ではありません。

以上が2点目

さらに
>戸塚ヨットは子供の利益のための組織であって親の利益のための組織ではないはずです。>また警察組織でもありません。「子どもを救いたい」とおっしゃる以上は親の権利を理由>には子どもの権利の制限である拉致を正当化することは立場上できないはずです。また、>「有効な説得方法」とのことですが、わたしは、なぜ戸塚ヨットスクールが説得しなけ>ればいけないのか、ということを申しあげているのです。

警察組織と書かれておりますので、一応問題を持つ子供たちをとりまく行政組織を簡単に上げておきます。

代表的なものは次のとおり、

まず警察組織ですが、これは治安の維持を最大の目的としており、本来であれば民事である家庭の教育とはまったく関係ありません。
ただ、問題を起こす子供達と接している事が多いために、相談窓口というものを設けてはいますが、そこで人格育成に関して指導することは許されていません。
あくまでも彼らの職務範囲に留まる物です。
マスコミが何か事件のあるために警察をつるし物にしていますが、彼らの勤勉な働きのおかげでこの国はいまだすばらしい治安を誇っており、
感謝こそされど、マスコミの捏造と利益のために攻撃されるいわれはありません。

児童相談所は虐待をはじめとして、弱者である子供を取り巻くあらゆる弊害から子供達を切り離して保護することがその最大の目的です、教育ではありません。
彼らは法律の制限を厳しく受けながらも懸命に仕事をしています。
多くの人たちが知りえないところで、モンスターペアレントの比ではない異常な親に立ち向かい、あるときは地道に説得し、それ以外に様々な相談をうけたりと、常に子供達の未来の為に戦っているわけです。
ここも何かあればすぐにマスコミがつるし上げて、面白おかしく攻撃をしていますが、私からすれば「がんばってください」と言われこそすれ、つるし上げられるいわれ等ありません。

学校は、子供たち全体の利益(結果的に社会の利益)の為に存在するものであり、教育における全般的な相談をはじめとして全ての子供達に未来の可能性をもたらす場所であり。
本来の使命である学習の相談を超える、家庭問題はすべて教員個人的の責任をもって受け付けてはくれているのが現実です。
学校組織は家庭内にまで立ち入ってはならず、また許されてもいません。
そうした中で心をもつ多くの先生が自らの心で多くの時間を生徒の為に費やしている事は珍しくありません。
これも上の二つと同様にマスコミのおもちゃではありません。

いちおう代表的なものを3つほど上げましたが、そのいずれも本来家庭で行われる教育という面に置ける介入は認められていません。

家庭で親がどうすることも出来なくなった問題を相談する場所というものが、現在の日本には無いわけです。

おそらく公然と行っているのは戸塚ヨットスクールくらいのものだと思います。

さてそんなヨットスクールは、まず子供の利益の為にあり(同時に社会利益としても存在しています)、子供たちの持つ?権利にヨットスクールが制限をかけることがなぜ可能かというなら、親権の委譲が有るからです。

まず親権(親の子供や社会に対する法的権利)は 具体化する形で身上監護権 および 財産管理権のふたつに分かれて存在しています。

スクールはこのうち身上監護権を親から全面的に委譲いただくことで、親と同等の立場に立ち、子供達にとってはもう一つのお父さん・お母さんとして子供達の生活から訓練の一切合財を見ているわけです。

上記の事は親の権利の一つとして違法ではありませんし、その行為に対して他人は意見を述べる事は可能ですが、なんらかの権利主張をする事は一切できません。

というのは、親権のうちで、特に人格育成に関することは多分に排他的であり、それを制限できるのは、国が国家利益として発動する法の定めた条件に合致する必要とそれ相応の手続きを踏まねばなりません。
また発動は私ではおこなえず、公でなければいけません。

ナジャさんがすでに私が書いた事をきちんと読んでいただけているのなら、社会というものが、種族保存の本能をもとにして形作られているという話は記憶にあるかと思います。

種族保存本能はまず具体的な言葉になり、そして文章という形に整えられ、それがさらに細分化することで平和な暮らし(権利の具体化)をもたらしてくれているわけですが。

それの最も象徴的で顕著なものは法であり、その中でも一番解りやすい形として国民の三大義務として、納税、教育、勤労があります。
これは義務でありながら、その本質は個々の国民の権利を守るためにもちえる、個々が集う集合体の共通意思の存続に欠かせない権利ということでもあります。

教育は、誰しも持ちえる種族保存の本能の一つの形でありながら、何故にここで教育を受けさせる義務として唄っているのかですが、権利として文言にするとそれが社会より上に立ってしまうために、義務という形をとることで親が子を育て教育する権利そのものを幅広く明確化しているわけです。

それでは社会(国自体)は何もしないのか?というなら、けしてそのような事は無く、学校制度を充実させ、全ての子供達に対して未来の可能性を与えは育むこと、すなわち、外的環境を整え、社会全体の利益(権利)から見て必要な経験と学習をつませる事は行いますが。
逆に言うならその範囲だけに留まり、家庭の教育その物に対しては親権というものを保護し、最低限必要な場合だけに限定して家庭に介入するに留まっています。

ゆえに親は国が認めた親権(権利)の元に、子供の人間性(人格)そのものを成長させる権利そのものを持っているのですね。
子供の権利を必要に応じて制限する事も含んだ全てが親に任されているわけです。

社会としての制限を例としてあげるならまず成人という概念がありますが、それでは家庭で起こる制限の代表的例みたいなものはないのか?というなら、20歳までは財産管理権を持たないというのがあります。

これは家庭という範囲を超えた外部との財産やり取りを未熟な子供に任せる行為は、他者の権利を侵す可能性が多分に存在するからであり。
なぜなら過ちを犯すのが子供であるからこそ、財産管理権を親に集約させたわけです。

またこれと似たようなものに、窃盗や傷害等の刑法犯罪も親告罪としている事があり、子供が起こす過ちに対する国家の介入を出来るだけ防ぎ、親から子への正当なる教育によって解決することを望み、またこれは同時に、家庭内で親がおこなう可能性のある体罰が違法とならない様ここでも保護しているのです。 

すなわち教育に関しては親が必要と認める子供の自由や権利の剥奪、制限が社会的利益と合致するからであり。
いまだ経験と学習がおぼつかない子供を親の親権と社会的観点からの干渉範囲においてうまく整合させ、調整をはかっているわけです。

社会は、子供が未熟であるほど権利に様々な制限をかけますが、それを年齢の上昇とともに備わってくる人格を信頼しつつ徐々に解き放ち、やがて大人として迎え入れながら制限を解除するように出来ているのですね。

さて、そうして社会が権利として認めている親の親権ですが、体罰という部分にスポットを当ててみるなら、民法における懲戒権として親が実行することを改めて認めています。
その限度というものは“人として許される範囲”であれば、平手打ち、殴打、足で蹴る事も体罰としてみとめられており、別段それを行ったからといっておかしなことではありません。

故に親権を委譲されているスクールが同等の事をしたとしても、それが人として許される範囲であるなら、親と全く同等であり、そこに違法性の入る隙間はありません。

勘違いしている人が多いのですが、学校教育法における体罰制限を一般家庭や戸塚ヨットスクールに当てはめようとするものが居ますが、11条はあくまでも国の施設として原則禁止にしているだけであり、しかしながら教育現場で許される体罰の程度そのものは時代と共に暫時変動をつづけている、きわめて不安定なものです。

こうした教育上必要であるからこそ子供の権利が制限される事に関し、どこにも問題はないのですね。

あと拉致ということですが、過去においてスクールが生徒を家庭まで迎えに行く事は確かにありました。
それについては逮捕監禁という高裁判断があったために現在はそれを行っておりません。
今は全て親のほうで様々な工夫をしてスクールまで連れてきているのが現状です。

よって現在のスクールは拉致とは無縁であり、外部から現在もまだ行っているものとして何かを言われる事は、無いものを基にして話されている事と同様で有り。

お答えの仕様がありません。

さて、私からの質問ですが、自身の勉強という事もありナジャさんが繰り返し使われている子供の権利とはどのようなものを言うのか、できるだけ詳しくできるなら例を具体的に上げてお話いただけると嬉しく思います。

最後に、
>「有効な説得方法」とのことですが、わたしは、なぜ戸塚ヨットスクール
>が説得しなければいけないのか、ということを申しあげているのです。

という部分ですが、説得するのはスクールではなくて、親が子供に対してということです。
親の親権に基づく教育権の正当行使を、さらによりよい物にするために参考意見として伺っております。
拉致という事をいわれておりますので、ぜひ子供の権利とあわせて、すばらしい方法の提示を頂かねばなりません。
これは冒頭に書いたスクールとしての責任の取り方の一つとしてよりよき教育を目指すための大切な学習になります。
少しでも早く引きこもりで苦しむ子供たちを助け出し、人を殴ったり窃盗を繰り返したりする非行の子達その物と、被害を受ける側を守らねばなりませんし、人間形成にとって一番大事な期間を損耗する不登校の子そのものを学校へ戻さねばなりません。

今ではなく、子供たちの未来と素晴らしい人生を歩む権利を何より大切と考える、それが戸塚ヨットスクールですから。
>> 権利 名前: なじゃ [2008/10/11,20:09:18] No.1581
レスありがとうございます。

拝読させていただきましたが、わたしの考えが上手く伝わっていないように思いもどかしさを感じます。わたしの文にも誤解を与えてしまうところがあるかもしれませんので補足を加えながら返信させていただきます。

「そうなると、海難事故が起きる可能性があるから船の建造をやめよう、飛行機は落ちるから飛ばさないほうがいい、自動車は事故を起こすから乗るな。
という事になり、人が亡くなったから、可能性があるから、責任をとれないじゃないかと、だから全部なくしてしまえばよい。」

前回の投稿でわたしは体罰ではなく「戸塚ヨットの体罰」に限定して持論を述べていると言ったことを踏まえて再考していただければと思います。わたしは戸塚ヨットの体罰に問題があったからと言って体罰一般を無くすべきと言っているわけではないのです。また戸塚ヨットの体罰に問題があったからと言って体罰行う全ての機関を無くすべきと言っているのではないのです。事件の当事者である戸塚ヨットが責任をとれば良いのだと思います。しかし、責任はとれません。故に「戸塚ヨットは責任をとれない行為をした故に戸塚ヨットの行為は正しくなかった」と言えるのだと思います。

2点目に関しては、なんとも言えませんので、「これについては後ほど詳しく。」とおっしゃられるたで、それを待って返答させていただこうと思います。

「あと拉致ということですが、過去においてスクールが生徒を家庭まで迎えに行く事は確かにありました。それについては逮捕監禁という高裁判断があったために現在はそれを行っておりません。今は全て親のほうで様々な工夫をしてスクールまで連れてきているのが現状です。」

少し詳しくお尋ねしたいと思います。文章を読む限りでは拉致に関して倫理的な問題があったという自覚から現在拉致行為をやめているのではなく、高裁による法的権力によって致し方なく拉致行為をやめた、と受け取れるのですがどうでしょうか。「身上委譲権」のご意見を読ませていただく限りでは、拉致行為を是としているような印象を持つのですが。ここのところの明確な説明をいただいた上で、再考させていただこうと思います。「拉致」という言葉は大変、不快な言葉であるとは思いますが、他に適当な言葉が思い当たらないためご容赦ください。

「さて、私からの質問ですが、自身の勉強という事もありナジャさんが繰り返し使われている子供の権利とはどのようなものを言うのか、できるだけ詳しくできるなら例を具体的に上げてお話いただけると嬉しく思います。」

rightとは正しさ・人権等の意味を持っています。正義を実行する行為を保障することが人権という意味でしょうか。では正義とは何か?という話になりますが、これは神や仏等の超越した存在持ってこない限り語ることのできないものであると考えています。「種の保存」は正義であるのかどうか。戸塚校長の著書を読みますと、「人類の目的は種の保存であるが、種の保存がなんの目的でなされるのかは分からない」という一文があったような記憶があります。思想的な話になってしまいますが、目的とは実体として存在するのではなく、人間の判断によるものです。事象には目的はなく、人間のみがその事象に対して目的があるかのように感じてしまうだけなのです。種の保存は目的ではなく、適者生存の結果であるとわたしは考えています。したがって、その結果に過ぎないものを目的であると判断するのは人間特有の錯覚であると考えています。このことから、わたしは正しさはそれ自体としては存在しないと考えます。しかしながら、我々は通常、これは正しく、あれは間違っているという倫理観を持っています。それは、我々人間が社会的動物であり、その社会との関係性によって善悪の倫理が形成されるからなのです。このように考えなければ、「正しさ」は独りよがりの正しさになると思います。仮に譲歩して「正しさ」なるものが存在したとして、正しさは正しいというそれだけの理由によってその正しさの実践までも正当化しても良いものなのか、疑問に思います。戸塚ヨットもまた社会の一員です。自ら思う正しさの実践の支柱は「正しさ」であってはならず、社会の一定の合意があって初めて成り立つものであると思います。

では、権利とは何か?ということですが、「例えば自分を害そうとする者に対しては防衛しても良い」こと、これが根本的な権利であり人権です。他国が侵略してこれば自国は軍隊を持って抵抗する権利を持っており、自分を殺害しようとする者に対してはその者を殺害する権利を持っています。それは正しさという基準では計ることのできない人間の本能であると思います。戸塚ヨットが主張する「正しさ」を理由にした権利とは、強者が弱者に対して行使する上記の根本権利の歪曲であり拡大解釈であると考えます。故に、戸塚ヨットは子どもを拉致する権利を有さない、強制的に訓練させる権利を有さないと申し上げています。もし、それでも戸塚ヨットは子どもを拉致する権利を有するとおっしゃるならば、複数で拉致に来た戸塚ヨットのコーチに対し刃物を持って抵抗する権利を子どもは有する、と言わざるを得ません。












>> 無題 名前: 卒業生相原君の父 [2008/10/11,21:39:22] No.1587
ナジャさんへ

>前回の投稿でわたしは体罰ではなく「戸塚ヨットの体罰」に限定して
>持論を述べていると言ったことを踏まえて再考していただければと思
>います。


この辺りは私もナジャさんの個人的な考えとして理解しております。


>責任はとれません。故に「戸塚ヨットは責任をとれない行為をした故に
>戸塚ヨットの行為は正しくなかった」と言えるのだと思います。


これも上記と同様に個人的意見として了解しました。


>高裁による法的権力によって致し方なく拉致行為をやめた、と受け取れ
>るのですがどうでしょうか。


その通りです。


>「身上委譲権」のご意見を読ませていただく限りでは、


身の上委譲権という物は存在しません、あくまでも親権の委譲ということです。
身の上委譲権は人を物と同様にあつかうことになり、こうした表現は日本語としてはなはだおかしな表現となります。
どこかにこうした表現が有るのも知れませんが、スクールには無関係です。

>拉致行為を是としているような印象を持つのですが。ここのところの明
>確な説明をいただいた上で、再考させていただこうと思います。
>「拉致」という言葉は大変、不快な言葉であるとは思いますが、
>他に適当な言葉が思い当たらないためご容赦ください。


拉致という行為は、そこに何らの正当性のかけらはありません、本来この言葉に返信することは、スクールへ入校させる為の一連の行動を拉致と側が認めるようなものですから、
本来なら返答はしたくありません。
ただ、それでは何ら応答にはなりませんので、そのまま飲み込んで返信をしています。
できれば、他の言葉を選んで頂けるとたすかります。


>>「さて、私からの質問ですが、自身の勉強という事もありナジャさんが繰り返し使わ>>れている子供の権利とはどのようなものを言うのか、できるだけ詳しくできるなら例>>を具体的に上げてお話いただけると嬉しく思います。」

>rightとは正しさ・人権等の意味を持っています。正義を実行する行為
>を保障することが人権という意味でしょうか。


違います、正義を実行するのではなく、正義であるかを権利行使する側が常に考え、それが自分の経験や学習により導き出された結論をもとに主張できるだけのことです。
ゆえに正しくなければ認められません。

さらに人権はヒューマンライトすなわち権利に対して、人間として正しいということであり、権利は上記の通りで広義、人権は人という存在に限定した範囲に置いて同じく主張可能なものでしかありません。


>では正義とは何か?という話になりますが、これは神や仏等の超越した
>存在持ってこない限り語ることのできないものであると考えています。


正義とは人間が実行可能なものであり、神や仏などのように象徴的な物とは何らなじむものではありません。
ゆえに社会のあり方や時代により刻々と変化し続ける物であり、社会を平穏かつ安定した状態に保つための力(思考)となるものです。


>「種の保存」は正義であるのかどうか。戸塚校長の著書を読みますと、>「人類の目的は種>の保存であるが、種の保存がなんの目的でなされる
>のかは分からない」という一文があ>ったような記憶があります。


種の保存ではなく種族保存本能です、戸塚校長の書籍、“本能の力”の中ではそれについて明確にかかれています。
人を始め全ての生き物は、本能を基本として生きており、故に自然がもたらした物である
がゆえに正しいということです。


>思想的な話になってしまいますが、目的とは実体として存在するのでは
>なく、人間の判>断によるものです。事象には目的はなく、人間のみが
>その事象に対して目的があるかのように感じてしまうだけなのです。
>種の保存は目的ではなく、適者生存の結果であるとわたしは考えていま
>す。


種の保存という話であれば、その通りです。


>したがって、その結果に過ぎないものを目的であると判断するのは人間
>特有の錯覚であると考えています。


種族保存本能は目的ではありません、あくまでも事実であり。
事実をもとに人間は生きているということです。


>目的ではなく、このことから、わたしは正しさはそれ自体としては存在
>しないと考えます。しかしながら、我々は通常、これは正しく、あれは
>間違っているという倫理観を持っています。それは、我々人間が社会的
>動物であり、その社会との関係性によって善悪
>の倫理が形成されるからなのです。このように考えなければ、「正し
>さは独りよがりの正しさになると思います。


正しさは考えるもので、故に人によりそれぞれ異なります。
ただし、人の心の基本となる部分はすべて本能ですから、それに違う物は、人間の歴史と生存競争で生きてきた存在自体を否定することになるために誤りであるといえるわけです。
倫理観は種族保存の本能が作り上げた社会の共通意識であり、
それはやはり本能が基礎をなしています。


>仮に譲歩して「正しさ」なるものが存在したとして、正しさは正しいと
>いうそれだけの理由によってその正しさの実践までも正当化しても良い
>ものなのか、疑問に思います。


正しさは、正しいが故にただしいわけで、正当化ではなく正しいのです。


>戸塚ヨットもまた社会の一員です。自ら思う正しさの実践の支柱は「正
>しさ」であってはならず、社会の一定の合意があって初めて成り立つも>のであると思います。


スクールの存在は子供たちの明るい未来と素晴らしき人生のためにあります、一定の社会的合意はすでにうけており、故に今日にいたっても多くの支援者と供にそんざいしており,又十分になりたっております。



>では、権利とは何か?ということですが、「例えば自分を害そうとする>者に対しては防衛しても良い」こと、これが根本的な権利であり人権で>す。


まったく違います。
殺害は生存そのものを脅かすことであり、始めから排除し無くさねばならないもので、
正しさを主張する以前の問題です。


>権利は、他国が侵略してこれば自国は軍隊を持って抵抗する権利を持っ>ており、自分を殺害しようとする者に対してはその者を殺害する権利を
>持っています。それは正しさという基準では計ることのできない人間の>本能であると思います。

これも違います、侵略は主権にたいする侵害ですから抵抗するのは当然の事であり、権利という言葉にはなじみません。


>戸塚ヨットが主張する「正しさ」を理由にした権利とは、強者が弱者に>対して行使する上記の根本権利の歪曲であり拡大解釈であると考えま
>す。


これまでナジャさんが書いて頂いたものは、まったく見当違いかつ誤りの多い物で、それを元にして「戸塚ヨットは子どもを拉致する権利を有さない、強制的に訓練させる権利を有さないと申し上げています。」
といわれても、こちらとしてはこれに対して返答する言葉がありません。


>もし、それでも戸塚ヨットは子どもを拉致する権利を有するとおっしゃ>るならば、複数で拉致に来た戸塚ヨットのコーチに対し刃物を持って抵>抗する権利を子どもは有する、と言わざるを得ません。


権利はこれまで何度も話してきたとおり、正しさが無ければなりません。
刃物を振り回す行為は、いくら子供とてそれが相手の生命に重大な影響をもたらすことは容易にわかるものです。
この振り回す行動を取る事が人としての問題であるが故に親はスクールに託して来るわけです。
しかしナジャさんの考えでは、こうした社会的に何ら認められてない事を返信文の中に”権利”として明確に表記されており。

そうなるとナジャさんの権利とは殺人を犯すことも権利ということになります。
私もこれまで返答をしてきましたが、権利に対してそうした考え方をしている人間に対して返信をすることはいかがな物であろうか?と疑問を抱かざるを得ません。

これは論議以前の問題であって、この掲示板の管理人さんがどう判断するかわかりませんが、以前、自殺を明確に肯定した人間をここから排除した前例があることから、おそらく同じ対処がされる可能性があるかと思いますので、あらかじめお伝えしておきます。





>> 無題 名前: なじゃ [2008/10/11,23:01:41] No.1590
そうなるとナジャさんの権利とは殺人を犯すことも権利ということになります。私もこれまで返答をしてきましたが、権利に対してそうした考え方をしている人間に対して返信をすることはいかがな物であろうか?と疑問を抱かざるを得ません。これは論議以前の問題であって、この掲示板の管理人さんがどう判断するかわかりませんが、以前、自殺を明確に肯定した人間をここから排除した前例があることから、おそらく同じ対処がされる可能性があるかと思いますので、あらかじめお伝えしておきます。

残念ですがそのようなご感想をお持ちならば、ここで議論を終えたいと思います。ありがとうございました。


無題 名前: なじゃ [2008/10/06,20:24:40] No.1510 返信
 体罰と暴力の違いとは?子供利益のために行う暴行を体罰とし子供の利益の為に行わない暴行を暴力というのが戸塚校長先生の考えでよろしいでしょうか。そこから、戸塚ヨットの事件は子供の利益のために行った体罰が結果として死を招いてしまったために、事件ではなく事故であると。しかし、この論法で考えていくと、新聞を賑わす児童虐待も虐待を起こす親が「しつけ」と思って暴行を加えていた場合には虐待ではなくしつけになり、暴行の結果死に至った場合には事故という解釈になってしまうと思うのですがどうでしょうか。また、体罰を心の底から嘘偽りなく子供の利益のために行ったのかどうか。それは体罰を行う人の心の中のことなので客観的に立証することは困難ではないかと思います。また、戸塚ヨット事件の場合は結果としては生徒は死亡してしまったため体罰は生徒の利益にはならなかったことは、体罰賛成反対以前に誰しもが認める事実だと思います。生徒の利益になったかどうかの結果のみを基準に考えると、体罰する人の思いがどのようなものであろうと、この事件は体罰ではなく暴力であったということになると思います。そこで、「子供の利益」とは体罰を行う人の「心の中の思い」のことであるのか、それとも思いとは関係なく「結果」のことであるのか、お答を頂けるとありがたいです。

>> どなたに問うておられますか? 名前: エディ [2008/10/06,23:03:57] No.1514
なじゃさんはどなたへ問うているんですか?
誰も答えないでしょうね。こんな様では。
世間の言葉では、無様といいます。
しかも、「心」とは、どこに存在するのかも示されてもいませんね。

客観的に立証することは困難なのに裁いてしまったことについてはどうお考えなんでしょうか?
(裁きの結果は、わたしには異論はありませんがね)

なぜ、お答えを頂けるとありがたいのですか?
あなたは教育者ですか?
「子供の利益」???
あなたの自己主張なだけでしょ。
この親記事は、普通にスルーのままだと思いますね。
>> 無題 名前: なじゃ [2008/10/07,00:10:11] No.1516
なじゃさんはどなたへ問うているんですか?
誰も答えないでしょうね。こんな様では。
世間の言葉では、無様といいます。
しかも、「心」とは、どこに存在するのかも示されてもいませんね。

子どもの利益の為に行う暴行が体罰であるとしても、子どもの為であるのかどうか他人には知る由もないので、この視点から事件が体罰であったのか暴力であったのか論じることは不毛だと言っています。

客観的に立証することは困難なのに裁いてしまったことについてはどうお考えなんでしょうか?
(裁きの結果は、わたしには異論はありませんがね)

裁判に関してはここでは論じておりません。

なぜ、お答えを頂けるとありがたいのですか?

今の教育のあり方に疑問を持つとともに、戸塚ヨットのスクールの体罰が暴力ではなく体罰であることを認めるにしても、それは暴力性の強い体罰であるとわたしは思うからです。亡くなられた方が複数おられるのは事実です。では、10人、20人、いや100人、200人と死亡者がでた時、その被害の数を前にして、それでも体罰による事故死であると言い切ることができますか?勿論、意図的な殺意がない以上は事故死であると言えなくもありませんが、それは屁理屈に近い理屈になるでしょう。100人というのはあくまでも例えとして極端に言ったまでですが、わたしが言いたいことは亡くなられた方の「数」は、戸塚ヨットの行ってきたことが体罰であるのか暴力であるのかの基準に大きな影響を及ぼすものであると感じております。戸塚ヨットの社会的貢献は認めますが、その貢献の大きさに共感する故に、もしくは現在の教育に反感を持つゆえに、被害者の悲劇が陰になってしまうようなことがあってはならないとは思っています。

わたしの考えにレスする義務は誰にもありませんので、関心がなければ無視していただいて構いません。
>> 返答です 名前: エディ [2008/10/07,01:05:58] No.1518
先生の理論、教育で、尊い命が失われた事実は消えません。
と同時に、現在の「普通」とされる教育で殺害された生徒さんの数を、
本当に正確に掴んでいますか?
報道されている件数、期間の長さ、繰り返される事件・・・。
そして、報道されない事件事故もとても多いんですよ。

(以上は、過去のわたしの書き込みより)

>被害者の悲劇が陰になってしまうようなことがあってはならないとは思っています。
#これには共感します。
誰しも、そう思っているでしょう。「被害者」は、出してはなりません。
サイトも支援する会さんの掲示板も、もっと読んでみるべきでしょう。
返答ありがとうございました。
>> 「体罰と暴力」と「包丁と刀 名前: アラン [2008/10/07,07:45:00] No.1522
なじゃさん
> 「子供の利益」とは体罰を行う人の「心の中の思い」のことであるのか、
  それとも思いとは関係なく「結果」のことであるのか、お答を頂けるとありがたいです。

質問のピントがぼけているような気がします
スクールにおける体罰はどのようなときに与えられたか を考えるべきです
私自身実際見たわけでないのですが理解してはいます

スクールの目的は、困難に立ち向かい、我慢し、乗り越えたときに自然とわき起こる達成感幸福感を本人が
味わえる様にすること・・・ それが子供の利益だと思います。
スクールの教官達は子供の困難に立ち向かう姿勢をみて判断します、逃げの心が無いかどうかです
楽をしようとしたり逃げようとしたりすればそこで体罰となって身に降りかかるわけです

昔から宗教的に教育するときに 「バチがあたる」とか「誰も見ていないが神様は見ている」とか
言いましたが 同じ効果があると思います

前にも言いましたが体罰は道具です 使い方に問題があるのです
クルマと同じように・・・ 
クルマという便利な乗り物で1年に1万人ほどの人が亡くなっていると聞きます
そして「事故」も0にすることは出来無いことも理解できます。
>> エディさんへ質問 名前: アラン [2008/10/07,07:55:45] No.1523
>現在の「普通」とされる教育で殺害された生徒さんの数を、
> 本当に正確に掴んでいますか?

私は全く知りません
殺害されたということは 殺人か傷害致死ですね
そういうのがニュースにならない訳がないと思いますが
事実を正確に掴んでおられるのですね>エディさん
内容を具体的に教えてください

> 報道されている件数、期間の長さ、繰り返される事件・・・。
> そして、報道されない事件事故もとても多いんですよ。

報道されない事件事故 がどうしてエディさんが知っているのですか?
あなたの文章から 推測すると エディさんが加害者本人としか思えません
具体的に根拠を示して否定してください
よろしくお願いします。
>> 無題 名前: こいこい [2008/10/07,08:08:57] No.1524
エディーさんは元報道関係でディレクターをやっていたので、そう云う情報に長けているんですよ。
>> アランさん 名前: たかとよし [2008/10/07,11:17:19] No.1525
横やりですが。

報道されない事件事故の存在なんて・・・

本当にたま〜に交通事故の報道がありますが、あれが交通事故の全てだと思っていますか?

毎日毎日事件や事故で亡くなったり大怪我をする方は居ます。
その全ての人の状況を報道されていると思っている事の方が不思議です。

先日私の家の近所でナイフで刺され財布を奪われた事件がありましたが、
近所の人の話で知った程度で報道などには一切載っていません。
数年前、バイク盗難を阻止しようと私の父が事件に巻き込まれましたが、
鉄パイプで頭を殴られ一時意識不明の重体でしたが、これも報道など一切無いですよ。

「犯罪白書」という語彙でインターネット検索をかけてみてください。
どの年代の統計であっても大抵〈第5編〉で犯罪被害者の数値が公開されています。
毎年5万人に迫る勢いで事件事故は「警察に認知」されています。
この件数分を、報道各社は全て報道していると思いますか?
貴方が報道によって見聞きする事件事故の全てを合わした数字と一致しますか?

過失致傷や致死、殺人を含み、尚且つ交通被害者は排除した数値です。
また、この統計は犯罪として「警察が認知した」件数です。
単独の事故と判断されるとこの統計には載りません。
例えば真実がどうあれ階段で転倒し死亡した児童を検分し、
単独でのつまずき事故だと判断すれば、この統計には載りません。
私が通っていた高校では、クラブ活動中に熱中症で倒れ、
今でも手が思うように動かせなくなった友人が居ますが、
こんなのも別に報道になんてされていませんし、きっと犯罪白書の統計にも載っていませんよ。

「そういうのが報道されない訳が無い」と思い込むのは個人の勝手なのですが、
実際は一日は24時間という関係で、全てを報道するのは物理的に不可能です。
ましてや報道機関は基本的に商業施設ですから、世間の興味や関心が高い事件が発生すると、
その限られた報道出来る時間内において、目一杯一つの事件を扱います。
公園の回転遊具の事故なんて、報道過多になった一時期に集中して起きている訳でもありませんし、
エレベーターの停止事故なんてのも同じで、今でもどこかで起こっていますよ。
報道されない事があるなんて、立証するまでもない事です。
>> たかとよしさん やれやれ 名前: アラン [2008/10/07,12:25:02] No.1529
> 先生の理論、教育で、尊い命が失われた事実は消えません。
> と同時に、現在の「普通」とされる教育で殺害された生徒さんの数を、
> 本当に正確に掴んでいますか?
> 報道されている件数、期間の長さ、繰り返される事件・・・。
> そして、報道されない事件事故もとても多いんですよ。

元の文章です
ここから
「現在の「普通」とされる教育で殺害された生徒さんの数」について問うているのですよ
読み取れませんでしたか?  

ピントはずれの長文をありがとう ご苦労様
>> アランさん。 名前: たかとよし [2008/10/07,14:27:20] No.1533
そうですか。

ならば質問の意図がハッキリしませんし、無意味です。
○年にはどこそこの誰がどういった経緯でどうなったか。
その例を公共の場に挙げる為にはその一つ一つに当事者や関係者の承諾が必要です。
個人を特定出来ないように報告したとすれば具体性に欠けますし、
貴方の欲しておられる事に対して根拠を示す事にもならないでしょう。
公共に配信する事で責任が圧し掛かる上、万が一関係者である個人に影響があれば、
それこそ大変な状況になります。
そうした責務を背負いアランさんに回答する必然性が皆無です。
ま、その辺りの言及はここまでにして。

では、客観的な統計資料に基いてみますね。
独立行政法人日本スポーツ振興センターによる災害救済給付の状況による統計調査の資料に寄りますと、
突然死(心臓系や中枢神経系など様々な要因による突然の死亡)による死者は保育所から高等学校までの合計で、
平成19年度では41名。
頭部外傷では9名。
溺死は5名。
溺死以外の窒息死では6名。
内臓損傷では3名。
熱中症では4名。
全身打撲では5名の生徒が亡くなっています。
発生状況別で言えば、
各教科(道徳・保育を含む)の時間内にて発生した死亡人数は16名。
特別活動(クラブ活動の事かと思われます)では11名。
課外指導では20名、休憩時間では15名、通学・通園時では12名の園児児童生徒が亡くなっています。
負傷に関しては件数が大幅に増えて、総合計すると平成19年度だけで発生件数は121万2857件にも上ります。
障害(不随などの重篤な後遺症の事かと思われます)の発生状況も同じく平成19年度だけで497件に上ります。
原因などの特定は個人の特定に繋がりますし、客観的統計では公開されておりませんが、
義務教育諸学校、高等学校、高等専門学校、幼稚園及び保育所の管理下における事故の統計を知る上では、
この統計数値で十分かと思われます。
いかがでしょう、少しはアランさんの理解が進んだのでは無いでしょうか。
>> 迷惑千万 名前: アラン [2008/10/07,14:41:59] No.1536
たかとよしさん

1.教育で殺害された生徒についての問いです
 (殺害という言葉の定義が必要ですか?)

2.あなたに問うているのではない

以上 ご退場ください (訂正謝罪は受け付けますがね)
>> アランさん。 名前: たかとよし [2008/10/07,14:59:29] No.1537
そうですか。

ただアランさんは事実をお知りになりたい故の質問と勝手に推察していました。
差し出がましく失礼な行為をしてしまい、大変申し訳なく思っています。
この場をお借りいたしまして謝罪させて頂きます。
>> なじゃさん。 名前: たかとよし [2008/10/07,15:15:37] No.1538
アランさんへの返信の中にありました統計資料は、
児童生徒等総数の96%が加入している災害共済における統計資料ですので、
かなり実数に近い形で統計が取られていると考えられます。
年間ベースで言えば減少傾向ですが、18年度の統計資料を見ても、有意な差が見られません。
もっと過去の統計をグラフで読めば、減少傾向ではある、といった僅かな差が見受けられますが。
また、この統計においてもさすがに死亡となれば全数報告がなされていると推察されますが、
軽微な外傷等によって原因を特定出来ないような後遺症や経過の悪化などの要因により、
陰に隠れている数字も少数でありながらもまだ存在していると思われます。

現在1800万人近く居る児童生徒等総数に対して、
多い少ないという確率論で済ませても良いのかどうかは、
個々の価値観や考え方で変わってくるでしょうが、
確率論で言えば幼小中高通じて亡くなる確率は0.01%未満です。

殺害と言うとその言葉の定義上方向性が決まってしまいます。
死亡事故と位置付け、スクールの事件と対比させるのであれば、
私はどちらがより良いとは言えません。
理想論ですがこれは皆無であるという事がこの場に置いて正解なのでしょう。

しかし溺死が年間を通じて大体平均して毎年5名存在している事が個人的にとてもビックリしています。
スクールの活動上とても配慮を有する場面と照らし合わせてみることも可能な死因で、
1年のうちたった夏の2,3ヶ月の教育課程の中で、これだけの被害は私には少ないとは言えません。
これはエディさんの存在から得た情報であり、とても感謝しています。
この一点だけを抽出しても、現在の教育現場において普通とされる指導方法に
改善の要素があるのでは無いかと個人的には思います。
>> 無題 名前: なじゃ [2008/10/07,22:07:50] No.1539
みなさんレスありがとうございます。
レスしていただいた方一人一人に返答をすることが礼儀だとは思いますが、時間的な余裕もなく、レスしていただいた全員の方に返答させていただきたいと思います。それ故、焦点が絞れずピンボケした自論になってしまうかもしれませんが、不十分だと思われたところは指摘していただければと思います。

まず、わたしは「体罰」の是非ではなく、「戸塚ヨットスクールの体罰」について話していることを御承知ください。また、戸塚ヨットが反省しているとか反省していないとか、戸塚校長の脳幹論が正しいのか間違っているのか、体罰は正しいのか間違っているのか、現代の学校教育と戸塚の教育のどちらが正しいのか、ということをテーマに話してはいません。わたしが戸塚ヨットを批判したとしても、それは学校教育の方が優れているということを言っているわけではありません。このことをご理解していただかないと、わたしの真意は曲げられて受け取られてしまうのではないかと不安になります。

 訓練によって生徒が亡くなったことは事実です。そして、一人ではなく複数亡くなっていること、わたしはここに焦点を当てています。生徒の延べ人数と事件が公になるまでの期間、そして死亡した生徒の数を考慮すると、戸塚ヨットの訓練による死亡率はやはり他のヨットスクールに比べて相当に高いのではないでしょうか。それとも、やはり他のヨットスクールでも同じ確率で死亡事故が起きているものでしょうか。

 わたしはこの辺りの情報には詳しくありませんのでいい加減なことは言えないのですが、ただ、何故に戸塚ヨットの場合には事件性を感じるのかと言いますと、本人の意志を無視しての拉致まがいの行為による過酷な訓練であるからだと思うのです。決して低いとは言えない死亡率があることをあらかじめ知っておきながら、かつ本人の意志に反して過酷な訓練を課し、死亡事故へと至らせてしまう。その責任を服役や損害賠償、反省、謝罪で済ますことが道義として認められるものでしょうか。

戸塚ヨットの立場に立てば、それほどの過酷な訓練をしなければ子どもは立ち直ることができないと考えるかと思います。現実問題としてわたしは戸塚ヨットの言い分には共感しますし、戸塚ヨットの訓練は正しいことではないが困難な現実に対するやむを得ない行為であると感じています。子どもの意志を無視して拉致し強制的に過酷な訓練を課す権利は誰にもありません。権利は誰にもないが誰かがやらなければ解決できない禁じ手であることは理解できます。しかし、禁じ手である以上は、どのような理由があろうとも罪であり、結果が良ければ罪も消えるとはわたしには思えないのです。ですから、あえてその罪を犯す者には、その判断を誤り、人を死に至らしめた際には、過酷な制裁と自己の処決があってしかるべきだと思うのです。服役、損害賠償、反省、謝罪で責任のとれるものではありません。道義として考えれば、自分の生命を断ち切らなければならない、スクールの生命を断ち切らなければならない、そのぐらいの責任と覚悟が課せられるものであり、その覚悟と責任を負うことができないのならば、他者の自由をいかなる理由があろうとも奪ってはならないと、わたしは考えています。




>> アランさんへ 名前: エディ [2008/10/07,23:08:25] No.1540
「こいこい」という2ちゃんねらーはスルーで。

さて・・・
>私は全く知りません
#知る機会を得ようと努力してみてください。殺人も傷害致死も含め。
裏を取るためには、部屋から出て自分の脚で稼がなければなりませんが、
なんとか耐えてください。

>エディさんが加害者本人としか思えません
#あなたの知能が低いんです。本能も弱ってます。
なぜ、コラムを読まないんですか?
なぜ、掲示板の過去の書き込みを読まないんですか?

結論です。
人は、変われるんです。頑張ってください。

>> たかとよしさん 名前: アラン [2008/10/08,07:05:58] No.1545
> 差し出がましく失礼な行為をしてしまい、大変申し訳なく思っています。
> この場をお借りいたしまして謝罪させて頂きます。

了解しました
事故と殺害の間には 大きな隔たりがあると思っていたのですが・・・
同義だとしている方がいるとは思いませんでした
それとも事故と殺害の間にグレーゾーンがあるような事件に身をつまされるような
経験をしてらっしゃったのかもしれませんね
>> たかとよし さんへ 名前: エディ [2008/10/09,00:38:15] No.1549
説得力、そして迫力のあるレポートをお書きになりますね。
素晴らしいことです。
あなたは、素晴らしい方です。

そういった柔軟で賢くもある方を相手に、
経験も不足していると自覚のある個を持ってして、
たかとよし さんをもし論破できたら・・・
などと妄想逞しくしているだけですよ。
いまだに先生のコラムすら読んでいないんですよ!
驚きですよね。
さっさと読んでいただき無茶な書き込みは止め、
教育について建設的な議論ができるよう、希望します。

それまでは、このスレッドは事実上ストップでしょう。
クールダウンなんかじゃありません。
いまだにコースに合わせたアップすらしていない人をスタートラインで待つ、
という状況です。
>> なじゃさん。 名前: たかとよし [2008/10/09,11:42:00] No.1551
まず貴方を揶揄したり非難したりする意図は無い事を申し添えて。

前提としておられる貴方の違和感の根底にあるのは、無理解から来ています。
一度だけでもいいので、スクールの活動を見学なされてみれば、
かなり違和感が解消される事でしょう。
貴方の中にある違和感の前提である光景と、現実に目の前で行われている光景は、
きっとかなりの差があるかと思われます。

通常の教育方法では手の施しようの無い凶暴で性悪な、
又は普通の人ではとても扱い辛い変わった子供達が寄せ集められ、
屈強で強面の教師を前に、お互い睨みながら一触即発状態のなか、
教師は威圧をもって生徒に精神的束縛し、少しでも歯向かおうものなら実力行使も厭わず抑え付けていて、
もし少しでも生徒に対する監視の目を緩めたら、即刻脱走を試みるような緊迫した空気の中、
尋常では耐え難い過酷な訓練を強要し、苦痛と悶絶の中で涙を流し生徒達は悟りを開いていく。
舞台の天気はそうですね、シトシトと一日中降り続く重い雨の日がよく似合います。
背景は暗く澱んだ景色、鬱蒼と木々が立ち込める密林だとか。
もちろんその向こうにあるのは乗り越える事など出来そうも無い高いコンクリート塀。
塀の上には無茶苦茶に絡まった有刺鉄線がペアになってる感じですか。
雨の降る音と汚い怒号と、かすかに聞こえるすすり泣く声だけがその場の効果音。

極端にデフォルメしましたが、概ねそれに順ずる想像が先に立っておられるかと思います。
私もそんな想像を以ってすれば、そこに犯罪性が無いなどとどうして言えましょうか。

現実問題を思案し、ご自身の知恵と叡智を活躍させたいのであれば、
やはり貴方ご自身が現実を見聞きし、その中で目一杯の思慮をする事が一番大事であると、
私はそう思います。
>> 無題 名前: なじゃ [2008/10/09,19:13:00] No.1553
返信ありがとうございます。

ただ、わたしはイメージではなく単純に死亡した生徒の「数」と戸塚ヨットが子どもに拉致まがいの行為を行ったうえで体罰を加える権利がどうしてあるのか、ということを言っています。同じ施設で短期間のうちに死亡事故が何度も起きれば、戸塚ヨットでなくても事件として取り上げられるでしょう。一人だけなら事故です。しかし3人亡くなれば事故では済ますことはできないしょう。どのヨットスクールでもそのぐらい短期間のうちに頻繁に死亡事故が出ているというのでしょうか?戸塚ヨットがいくら「子どもを救いたい」と思っても、家に押しかけてきて力ずくでスクールの施設まで連れていかれる子どもからはどのように映るのか、ということなのです。もう一度、言いますが、どうして公的機関ではない第三者の戸塚ヨットがそれを行う権利があると言えるのか、ということなのです。「通常の教育方法では手の施しようの無い凶暴で性悪な、又は普通の人ではとても扱い辛い変わった子供達」ではないなら、なおさらだと思います。




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