2回目の議論は、少人数学級です。08年9月にOECD(経済協力開発機構)がまとめた「図表で見る教育08」によると、日本の公財政教育支出の対GDP(国内総生産)比は3・4%。フランスの5・6%、米国の4・8%に比べ、大きな差があり、調査対象28カ国中、最下位となっています。
文部科学省は7月、公財政教育支出をOECD平均並みにする数値目標を教育振興基本計画に盛り込もうとしましたが、「日本は少子化が進んでいるため、1人当たりの教育予算は英米など主要国とほぼ変わらない」との財務省の反対などで見送られました。でも、教育への公費支出が小さいため各家庭の負担が重くなり、少子化につながっているとは考えられないでしょうか? 同じ調査によると、日本の教育費全体に対する私費負担の割合は31・4%と、加盟国中第3位の水準に達しています。
日本の小学校の1クラスは平均28・3人と、OECD平均21・5人より30%以上大きく、加盟国中、下から2番目です。中学の33・3人はOECDの24・0人を39%上回っています。この数値は全国平均で、東京都内では小学校の54%、中学校の78%が31人以上の学級となっています。
広島大大学院の山崎博敏教授(教育学)の調査では、理想的な1クラスの児童生徒数について、21~25人と答える小・中学校教員が多数を占めました。全国学力テストで2年連続トップとなった秋田県は、01年度から小学校1、2年と中学1年の3学年で30人前後の少人数学級を導入したのが功を奏したのではないかと自己評価しています。
一方、少人数学級にはコストがかかります。鹿児島県の教員人件費は30人学級の導入で、05年度の2・8億円から、06、07年度は5・9億円になりました。しかし、教員を雇ったり、校舎を増設したりすることは、即座の景気対策になるし、子どもたちという、私たち国民の最大の資産への投資にもなるはずです。国の定める学級人数規定の上限を現在の40人から25人に改めるよう提案します。コメントお待ちしています。(かつま・かずよ=経済評論家)
「25人学級」にはおおむね賛成です。うちの子は現在4年生ですが、1、2年生のころは40人学級でパートの「アシスタント教諭」がつき、3年生からは35人学級になりました。1、2年生の時は教室がぎちぎちで、冬にストーブを出すと本当に参観日に親の入るすき間もないくらいだったのが、3年生になって「ああ、余裕がある!」とまず教室の「開放感」の違いに感動しました。
25人学級にしたからといって「学力向上」が見込めるかどうかはわかりませんが、参観に行っても授業が成り立っていないことが多く、立ち歩く子や問題のある子に担任の先生が振り回されて、他の子はほったらかしになっていることが当たり前にあります。「昔は40人も50人もいて大丈夫だった」とおっしゃる方は、今の授業風景を見に行っていただきたいです。
もちろん、授業に集中できない子が多いのは家庭教育の問題もあると思いますが、これだけ世の中が変化している中、学校だけは「1対40」の一斉授業で、私が子供だったころと「やり方」がほとんど変わっていません。子供が退屈で座ってられないのも無理ないように感じます。
なので、25人学級だけでなく、「授業スタイル」そのものを考え直す必要があると思いますし、「先生の質」の向上は緊急の課題だと思います。
あと、私はボランティアで学校の図書室のお手伝いに行っているのですが、図書費がまったく足りず、ブッカー代をけちる結果、新しい本も1年でぼろぼろになります。コンピュータ化もされておらず、専任の司書教諭もおらず、学級運営等で忙しい先生たちはまったく管理していない状態です。耐震補強の必要な校舎はぼろぼろで、「私の時代より退化している」と思えるぐらい環境が悪いです。
とにかく学校現場には「お金」と「人手」が足りないと感じます。
結論から言えば、どちらかといえば反対です。科学的な根拠があるわけではありませんが。
25名学級にすれば、メリットは沢山あると思います。ただし、それは教員の側にとってのメリットだと思います。成績管理などの作業量は、人数が少なければ楽ですし、児童生徒の様子を把握することも容易でしょう(多人数だからといってできないわけではありませんが)。私も、義務教育ではありませんが教員をしているので、人数が少なければ楽だというのは実感できます。
ただ、小中学生の間は、ある程度人数がいた方がいいように思います。その中に、仲のいい人、仲のよくない人、あまり話したことがない人、など色々な関係の人がいた方がいいと思います。
グループで作業などをするときに、仲のよくない人、あまり話したことがない人とも一緒に作業をすることで、自分の主張をどう通すか、相手の主張にどう譲歩するか、共通の話題がない人とどうやって話をするか、など、人とのつきあいの仕方を学んで行くことができるように思うのです。
少人数学級でみんな仲良しというのは、ほほえましい光景かもしれませんが、なあなあの人間関係になってしまうようにも思います。仲良くない人とも関係を持たねばならない環境というものを、児童生徒にはあえて用意しなければいけないように思います。そのためには40名ぐらいで、「あんまり話したことがないんだよね」という子がいるくらいの規模の方がいいと思います(孤立する児童生徒のフォローは当然必要ですが、それはまた別の問題です)。
私の意見は「どちらかといえば反対」です。
他国に比べ日本の教育に対する公費支出が少ないこと、1クラスの人数が多いことを挙げていますが、それらのデータが悪いこととは思えません。かつての高度経済成長、経済大国を作り上げた世代はそういう環境で学校教育を受けた人達です。問題は学校教育の環境ではなく、家庭の環境です。
教育への予算を増やした場合、増額分が子供のために使われるとは考えにくいです。無駄な研修、無駄な施設へと流れていく可能性が高いと思います。
また、家庭における教育費の負担は専ら学習塾への支出でしょう。公費を増やしたところで家庭への負担は大して減るとは思えません。
学級人数については、規定を変更した場合、教委等の上部組織はまず規定に沿うことを優先します。つまり“量”を確保するために“質”を後回しにしかねないということです。多くの教育熱心な教師はともかく、一部のそうではない教師がさらに増える危険性を持っています。
25人学級は、生徒1人1人に目が行き届き、きめ細かい指導ができるといいます。
私の一番の懸念は、そういった指導を学校側に一任して、親としての責任を果たさない人が増えるのではないかということです。
学校では最低限の基礎知識と集団行動を学ぶ場だと思っています。
個性を伸ばしたり、感性を養ったり、コミュニケーション能力をつけたり、悩みを解決したりといったことは家庭や教室外ですることです。学力に関しても周りより劣っている部分を補うのは家庭です。
そういった家庭で育んでいくものを学校任せにしてしまう制度になるのではないかと思います。
現在、大学院生のものです(教育とは全く無関係の分野です)。どちらかといえば反対です。
なぜかといえば、「25人や30人などの少人数学級にすれば学力が向上する」、というのがあまり納得できないからです。
たとえば極端な例として、児童生徒を2,3人の少人数に分け、実力別に教育を行うのであれば、少人数教育は成果を発揮するでしょう。
しかし25人や30人という少人数教育では、その人数の中に、優秀な子からそうでない子まで、様々な児童生徒が含まれることになります。そのような状況で、40人近い児童生徒に授業を行う場合と比べて、「一人一人に対して質の高い授業」というのができるのでしょうか?
対案としましては、先生方の技術向上、研修などでは対応できないのか、と思っています。さらに新卒の先生や、リタイアした先生に、副担任についてもらい、授業についていけていない子のケアなどを手伝ってもらってはいかがでしょうか?
「25人学級」について、だいたい賛成である。
理由
①日本の教育低下がいわれて久しいが、その原因の一つに教師 が、クラスの子ども一人一人にじっくり手をかける余裕がないことがあげられるので。
現在の子ども達は、少子化の影響で、ほとんど家では「王子さま」「王女さま」状態であり、かなり自己中心的で集団性にかける。一人一人の個性を伸ばし、学力向上のためにも40人学級では難しいと考えられる。
②日本の公教育において国が負担している額をもう少しアップすることにより、個人の負担が軽減し、少子化に歯止めがかかる可能性があるから。
子どもを持ちたいと思っている人は潜在的にかなり多く、経済的に許されるのであれば、3人以上を望んでいる。しかし、現実は、子ども1人を大学まで進学させた場合、生活費も込みで1000万近くの費用が必要であり、仕方なく1人、2人で子どもを断念している親も多い。中でも個人が負担する教育費は、少子化にもかかわらず年々増加している。1学級の人数が今より減少すれば、学校の授業についていけない子が減り、学習塾や家庭教師などの教育費の負担が軽減し、少子化に歯止めがかかるという期待ができる。
以上の点などで40人学級を減らすことには、基本的に賛成である。しかし、上限を25人にしてしまうと例えば1学年が26人の場合1クラス13人になってしまうので、まずは30人か35人学級を導入しても、今の40人学級よりは、学級活動運営は楽になり、子ども達の学力向上も期待できるのでは?
また、40人学級でも例えば1クラスの担任を2人にするなど複数担任制を導入する、特に学力差のある算数などの教科は、学力習熟度別の授業をする、など25人学級以外でも公教育の国の負担を増やし、学力を向上させるシステムは考えられる。
そういった点も考慮し、私の今回の感想としては、「ほぼ賛成」である。
単純に25人学級にするという案には反対です。一学級あたりの人数を減らせば、質の高い教育を与えられるのでしょうか? また、金を掛ければいいのでしょうか?
自分は小・中・高と40人以上の学級の時代を経験しました。しかもまともに授業に参加した記憶はありません。授業にならないのです。多分こういう状態を新聞等では「学級崩壊」というのだと思います。
でも面白い結果が出ています。高校卒業後の進路について結果を見ると大学受験に関して言えば自分達の世代の方が結果が良かったのです。
私もそうですが、早々に学校に見切りをつけ自分で考えて行動していた人間は結果を出しているのです。
日本の将来をどういう人材に任すべきなのか、まず、この事について議論しなければなりません。そして、本当に日本(世界)が必要とする人材は教育現場だけで、育てられるものではないと思います。
「ゆとり世代」の高3と中1の娘の母です。子供たちにも「25人学級ってどう思う?」と聞いてみたので、ふたりの意見と、みなさんのご意見も参考にさせて頂いて、25人学級にだいたい賛成です。授業の質の向上に大変有効だと思われるからです。
高3の娘は、小学生の高学年で電卓で計算をした年代です。
今までずっと公立の40人学級でした。現在地方の県立の進学校に通っていますが、「中学と高校の勉強に差があり過ぎて大変!!」と言ってます。そんな娘は、市立の中学にいるころは真面目に定期テストに取り組み、ほぼ学年10位以内でした。塾にも週3回以上通っていて、夜11時半まで勉強してました。しかし、現在毎月受けてる模試は、E判定ばかりです。本人いわく、「覚えられない」そうです。
中1の娘は、オタクです。パソコンやアイドルに夢中です。塾は、なだめすかしてやっと週1回の英会話に行ってますが、それも休みがちです。それでも辞めないのは、「ハンナモンタナ」や「アリエルラビィーン」が好きだからです。昨年の学力テストは、基礎より応用の方が出来たという、変わった子です。上の娘は、「25人学級賛成!」と即答。下の娘は、「ウザイ」と一言。
40人学級でも、低学年は補助の先生がいたり、算数は10人前後です。学校も少ない予算で、出来る限りの指導をしてくれていると感じています。けれど、5年振りに上の娘の通っていた下の娘の中学校に行ってびっくりしました。「ここテストに出るよ!」と先生が授業中に行ってもクラスの半分が、メモすら取らないそうです。テストの平均点も低く、50点前後です。「出来る子と出来ない子の差が非常に激しくて、真ん中がいない」と、ある先生がおっしゃってました。けれど、知らないおばさん(私)にも元気よくあいさつしてくれる、いい子ばかりです。
姉妹でもこんなに違う子供たちを見てて、「先生も大変だなぁ」と常々思います。勝間さんがおっしゃるように、教育にお金をかけてほしいです。「わかる授業」「楽しい授業」は、質の高い先生に教わってこそだと思います。「予備校の先生の授業の方がわかりやすい、もっと早く予備校に行ってればよかった」と、部活を引退し、6月から予備校に通い始めた上の娘は言いましたが、「学校が予備校以上にわかり易い授業をやってくれれば効率的なのに」と、私は思いました。
親の世代は年金もほとんどもらえず、大学費用で約2千万使い、貯金もなく、自分たちの生活でいっぱいいっぱいです。子供たちには、知識と教養を積んで、日本の経済を潤して、その下の世代まで幸せな世界が訪れるように頑張ってもらいたいです。
何人という数字で決めるべき事ではあるまい、と考えるが。上限の人数を何人とするなら、とりあえず40人でしょう。
現在、私の子供の小学校のクラスの人数は15人である。特に、少ないらしいが。だからといってきめ細やかな教育がなされているとは想像もできない。それは、学校、教師の姿勢などや、教育に関わる自治体組織などの問題であるように感じるのだが……。
子供のクラスは当初20名であったと思うが、転校による転出が続き、先のような異常な人数である。さまざまな友達や同僚に巡り会う機会が少なくなろうし、また集団的な立ち振る舞いを身に付けさせるには少なかろうと考える。いろいろな個性を尊重しつつも、リーダーの創出からリーダーの指示に適応し行動し、リーダーの改選など在民主権の基礎を教えてあげるには、多すぎると感じる人数の方がまとまりにくくよいであろうと考える。人が多ければなかなかうまい事行かない、という現実は振り返れば社会人になった自身に良い教訓を残しているように思い出される。
校舎経費の件にも触れてあるが、不要であろう。資源のない日本国において残された資源は創造的資源、学力であろうし、これに資本投入しなければ未来はない。インド並みに10桁、100桁の九九でも強制させねば世界に置いて行かれよう。更には塾通いせねば、まともに学力が身に付けられない公立学校の問題の方が優先されやしまいか? 指導要領に沿った事以上も以下もやろうとしない情熱のない者たちが週休二日制を選択し、教員という職業を工場勤務的な職業に自ら落とし、評価すら得られない惨状へと成り下がった。この問題の方が先であろう?なぜ人数にこだわるのか?
新聞にもオンブズマンが機能してはじめてまともな方向へ行くように、これについても部外者の者による指導が必要である。公認会計士もその存在意義は同義であろう。何にせよ、薩摩、長州の志のない残り者たちによる明治以後、こんな世の中になったのである。
国家予算の占める教育費の割合を増やすことには賛成です。
ですが、学級を少人数にすれば、成績が良くなるという議論は少々的外れと感じております。むしろ、少人数制からくる教員雇用の増加からの競争率低下により、教員レベルの低下が起こるのではないかと考えます。
日本は諸外国と違い少人数学級を行ってこなかった経緯がありますが、学力レベルは最近になるまで低下してきたわけではありません。
また、私は東京の大学院を修了していますが、自分自身の学力に何が影響を及ぼしたかというと、教諭の人間性と、専門の科目を教えるテクニックが成熟していたか否かだったと考えています。
概して子どもの頃、何かの科目に対して苦手意識が芽生えるのは教員との相性があったと思います。そして、その苦手意識を払拭してくれたのも、また教員の力でありました。まるで他人のせいですが、少年期とはウェンディな性質を持っているものです。
ここ最近の学力レベルの低下は、競争の低下とともに、教員の力の平均値が下がっている事に起因しているのではないでしょうか。
私は、国家予算の占める教育費の割合を増やし、そのお金を、教員の給与に当てるべきと考えます。
教員という職業を魅力的にしなければ、優秀な人材が教育に集まりません。世の中で何千万も稼ぐような人は、決して教員になりたいと考えないのです。
それこそ勝間さんのような優秀な人材をそばにした子供たちは、それに引っ張られる形で優秀になると思うのです。
教員のレベルを上げなければならない、といった視点からみて、教員のレベルの低下を招きかねない少人数学級には、賛成しかねます。
中学校の教員になって30年近くなります。45人学級も経験しましたが、生徒たちの手のかかりようは今と比較になりません。少人数の話をすると、自分たちの頃は60人いたといわれる方々が必ずいらしゃいます。それでは、洗濯板で洗濯した時代があったんだから、洗濯機なんて使わないという方は存在しますか? 着替える回数が増え、汚れの種類が増え、生活様式の変化により時間に追われる現代の生活に、洗濯板で手洗いはないでしょう!?
教育もそれと同じです。時代とともに状況が変わったのです。さまざまな個性で様々な事情の生徒に対応するには25人でも多いくらいです。平均を出せば中学校は33・3人だそうですが、ぎりぎり40人の背面黒板まで一杯の生徒(教室は50年前と同じ広さに随分体格のよくなった生徒と、広くなった机があってあふれんばかり)の学級も多く存在するのです。数字で見ると、33人も40人も変わりないとお思いの方もいらっしゃるでしょう。しかし、一人の子育てにも手を焼く親が多い中で、それが7人いたらどうでしょう?数字ではなく一人一人の人間を見ている私たちには、生徒数が少なければもっと手をかけ目をかけてあげられるのに・・・と思う子が目の前にいるんです。
OECDの調査で子どもたちの学習成績が落ちたとあれだけ大騒ぎされたのに、今回の教育費最下位という報道はさほど注目されていません。環境を整えてやることなく、ただ子どもたちを競争に追い立てるだけの教育に、残念ながら未来はないと思います。欧米に比べ足りないことは他にもたくさんありますが、まずは25人学級が実現すれば、できることは増えていきます。勝間さんの意見に大賛成です。
現在、塾で教えている者です。
私個人の感想を書くと、1クラスの人数は少ない方がやりやすいですね。多く見積もって10人前後が、授業をしていて支障がないと思います。とはいえ、たとえ20人を超えたとしても同じことを要求されますが。
ところで、学校教育においては、これまで1学級40人前後。この人数を削減する動きは昔からあったとは思います。しかし、実際に動き始めたのはごく最近だったように思いますが、詳細を知っている方ご教授ください。
その点で疑問が一つ。戦後の学校教育は、40人という人数で進んでいったのですが、だからといって日本が衰退したとは思えません。高度経済成長を支えたのは、そういった学校制度の中で学んだ人々であることも事実。この点はどのように考えられるのでしょうか。教育と経済は無関係なのでしょうか?だとしたら教育制度そのものが無意味となってしまうのですが。
国の定める学級人数規定の上限を現在の40人から25人に改める案(以下、25人クラス上限化)に賛成であり、その導入を祈願して、以下3点を考察する。
1. 具体的な採用方法
国の定める学級人数規定の上限を現在の40人から25人に改める(以下、25人クラス上限化)を導入するためには、現制度下では大幅な教員採用が必要となる。採用に関しては、以下の導入が必要であると考える。
1-1. 優秀な社会人経験者を優先的に採用する
1-2. 優秀な社会人経験者が教員免許を持っていない場合は、1年や数カ月で教員免許が取れる制度を作る(優秀な社会人は勉強のスピードが速いため。)
1-3. 優秀な社会人経験者を判定する基準は、政府や役所関連団体ではなく、世界で活躍する日本人の教授やその他識者・ビジネスパーソン等で構成した組織で作成する
2. 25人クラス上限化を導入しない時のデメリット
メリットがあるだけではアクションは生まれない。しなければデメリットがあるという段階ではじめてアクションが生まれる。という観点から上記を含む25人クラス上限化制度を導入しない場合のデメリットを考える。
2-1. フラット化した世界で日本は負け続ける
2-2. 多くの国民の所得が雀の涙になる
2-3. 自殺者が更に増える
本当に上記のようになるかどうかを説明する必要については今後の課題として考えていく。
3. 25人クラスの義務化を導入した際の役所のメリット
3-1. 25人クラスの義務化の導入は、国民の大部分の賛成が容易に得られる内容のため票の獲得や役所の信用回復になる
3-2. 国力の増強が見込まれるため、税収が増える
3-3. 税収が増えるため国際貢献が世界に対してできる
私はいわゆる「丙午」と同学年になります。23区内の小学校でも他学年より1クラス少なく、転校先の茨城の小学校でも同様で私の学年のみ1クラス(42人)でした。
30〜5人用の広さの教室に42人。ミッチミチです。
授業中に先生が教室後方へ移動するのも一苦労。ロッカーも足りませんでした。今思うとかなり能力の高い(失礼ながら)先生で42人をキチンと把握して下さる方でした。それでも、目が届かないとお思いだったのでしょう。
翌年、(これは違反なんでしょうけど時効ですよね)卒業生の判子を使い生徒を水増しして2クラスに分けました。
算数では理解度の高い生徒とそうでない生徒を分け(能力別のハシリだと思います)その単元がわかっている生徒はドリル等で自主学習。いまいちわからない生徒は先生の授業を受ける…といった授業が行われました。
先生同士が大変仲がよかったこともあり、人数が必要なサッカーとかソフトボールなどの授業は合同で行っていました。
長男は小学校時代6年間34人の単学級でした。(長女は22人2クラス)
人数的には申し分なく先生の目が届かないということも少なかったです。単学級の場合長男たちには起こりませんでしたが、いじめがあった時に「クラス替え」という手段がとれないのが悩みのようです。
どちらも経験した私、また子供たちの様子を見ると、1クラスの人数は25〜30人ほどが適していると思います。
先生の能力(テストの点が高いと適正が高い訳ではないですから)にも差がある訳ですから、少人数学級にしてどの子にも目が届くようになるといいと思います。
また、週に1回くらい学年授業とかで大人数でやる授業(体育とかゲーム)があればもっといいですよね。
教育に関して今最も問題になっているのは、学習意欲の低下ではないでしょうか。その原因の一つとして考えられるのは、幼少時から自ら勉強することを選択する機会が与えられていないことです。日本の学校では、今も一斉授業が基本ですから、授業中に静かに先生の話を聴いている子供が良い子供と言われます。一方、一斉授業に対置されるのは個別授業です。フィンランドではこれが基本で、前者はほとんど見られないと聞きます。子供達は、その中で学ぶことの意味を徐々に学習していくことができます。日本式の教育では、その機会が無いということです。
個別授業では、生徒は自らの意思で学習するので、必然的に少人数クラスであることが要求されます。25人でも不十分で、20人以下であることが望まれます。それでも教師は、荒馬を乗りこなすような力量が必要ですから、教員への研修を十分にしないと、少人数クラスの利点を生かすことはできません。
つまり、現在の授業形態をそのままにして、人数だけを少なくしたのでは、その利点を十分生かすことができません。それだけではなく、教師の強権的な影響が強まり、別の弊害が生じる恐れさえあります。一斉授業から個別授業へのパラダイムシフトが是非とも必要です。
(以上の論考は、「特別支援教育」の在り方とも関係するのですが、また機会がありましたら投稿します。)
国民総生産比で教育費が少ないとのことですが、総生産から海外投資家等への支払い等を差し引いた実際に使える費用での比率で比較してほしいです。
実際に学校に行かれたことがありますか?教員数は決して少なくありませんが、授業に十分な時間を割いているかと言えば、これも否です。人が増え組織が大きくなるに従って管理業務が指数関数的に増えるのが、わが国の仕事の仕組みです。従って、この体制で少人数化を図るために教員数を増やしても、教育の内容は変わらないと言えます。
現状の体制の最大の欠点は、平等至上主義であるために、生徒個々人の特性(学科の得意不得意など)を考慮せずに、枠からはみ出ないようにしていることです。勢い、学習を塾に頼り、学校では教師に迷惑が掛からないように気遣いします。この状況で教員数が更に増えることで教育上のメリットはありません。生徒は、学校と塾と二重に教師を持ち、見合った支出を各家庭は既に行っています。
都会では少子化による事実上の少人数学級が進んでいます。フランスなどの教育に見られるように、生徒の自主性を重視するのでなく、現状の均一な集合教育方法を変えないまま教師数が増えることは、監視が行き届きすぎて、個性的な生徒が浮いてしまいます。私が小学生の頃は1クラス60人を越えるものでした。グループがいくつも出来て、個性が強くても仲間外れにならないものです。ところが、わが子らが通った学校では2グループと学校や教師が問題児と称するアウトローの構成でした。教師と違った感想や考えを持っただけで、専ら排除の力が働きます。学校に居場所を見つけられない生徒が増えているのは、なし崩し的に到達した少人数学級の弊害であると思います。
小集団活動で掌握可能な人数はおよそ10人ぐらいと言われています。少人数学級の目的がきめ細かい指導を目的と考えるなら、なお25人でも大人数と言わざるを得ないと思います。
少人数学級には賛成です。
しかし、クロストークの問題提起は必要性の理由が明確でない印象です。少子化対策なのですか、景気対策ですか、学力向上狙いですか?
私は、学力向上とともに、多くの子供に目が届くこと、学級崩壊を予防すること等を考えると、30人以上よりは25人程度の方が教育効果が高いであろうと単純に考えます。
学力としては平凡以下の我が家の3人の子供たちは、埋没しないようにとの考えで、上から順に少人数の私学(高校、中学)に入れており、それなりに少人数で良かったと考えています。
結論としては、クロストークの提言に賛成なのですが、あるテーマに基づく議論をするにあたり、根拠のない通念に基づく議論は危険だと思います。提言の中で明確な根拠を示してほしい項目を次に掲げます。
・教育への公費支出が小さいために各家庭の負担が重くなり、 少子化につながっているという根拠はあるのか?
・小中学校教員の多数が理想的な1クラスの児童生徒数が21 ~25人と考える具体的な理由は何か?
・全国学力テストで2年連続でトップとなった秋田県の30人 前後の少人数学級というのは、全国平均の小学校28.3 人、中学校33.3人と有意な差があるのか?
・鹿児島県の教員人件費が、30人学級の導入で2倍以上にな ったのは何故か?1学級の生徒数を1~2割減少させるだけ で、教員人件費が本当に2倍以上になるならば、どの自治体 も少人数学級の導入にはちゅうちょするだろう。
私は、教育への公費支出はもっと引き上げるべきだと思っています。その理由は、クロストークの提言とは異なり、次のとおりです。
・親の所得にかかわらず、優秀な子供が高い格付けの学校で教育を受け、経済的に恵まれる状況を作ることは、我が国の将来に有益なことである。
・学校同士の競争を促進し、より多様性のある教育環境を作るには、消費者である生徒(学生)とその保護者の選択に委ねるべきであり、授業料の差などの要素が真の競争を阻害しないようにすべきである。
・私立と公立の授業料の差をなくすためには、公立学校をなくし、学校(大学)を選択する個々の生徒(学生)に直接補助すべきである。
もうひとつ、少子化対策も重要な問題です。この点では、1学級の児童生徒数、つまりは高校以下、にこだわるクロストークの問題提起は的外れであると考えます。
すなわち、教育費が少子化に及ぼす悪影響は、主に大学以上において顕著であると考えるからです。
大学と呼ぶことのできる大学のみ存立させ、そのような大学に入学できる学生の授業料は全額免除し、卒業後は社会の役にたってもらい、逆に大学に入学できない子供の未来も保証する。そのような社会を作らない限り、我が国の力は衰えていくばかりだと考えます。そのような社会は、少なくとも、現在のアメリカ的な価値観に基づく社会とは異質なものだと思います。
私はいわゆるゼロ免課程ながら教育学部におり、おかげでフレネ教育という教育方法に接することができたのですが、『フレネ教育 子どものしごと』(青木書店)では確かに、25人を境にして教育の質が変わる、とあります。25人を超えると教育ではなく工場で、子ども一人ひとりの興味関心に対応できなくなるというのです。
私は単に少人数にするだけではダメで、戦前の国の強制力、戦後の出世や安定や世間の目といった、学習に向かわせる様々な力がなくなった以上、「自主的に」といわれてはじめて自主的にやるようなヤワな自主性でなく、本物の自主性でもって学ぶようにしないとダメで、それには少なくとも小学校では、教師主導で学習が進む形を変える必要があると思っています。そのためには、学習環境を整えたうえで子どもの興味関心に訴える形にしないといけないでしょう。でなければ、子どもたちが探求や試行錯誤をいつまで経ってもできないままです。国は卒業要件を定め資金援助をする程度の関与でいいのではないでしょうか。
別にこの点さえクリアされていれば、フレネ教育でなくても何でもいいでしょうけれど(シュタイナーはこの点ダメ)、いずれにしても25人以上だと、従来の一斉型授業でやらざるを得ないことでしょう。それでは、今までのように無気力で周囲に流されるだけの大人が量産され続けるだろう、と卒業後15年ほど教育とは全く関係ない業界にいた私は思います。
日本ではなぜか少人数学級論議が進みません。もうじれったくてしかたありません。このままでは日本の人材育成は先細り、お隣中国、そして先進国との国際競争には互していけません。
先生方の真の「教育のしごと」活動をしっかり支えなければなりません。子供とふれあう時間をしっかり作れること、学習指導の個別指導をしっかり保障すること。現実は雑用に追われてその本業が手抜きしないといけないのが実情です。
反対の人の意見は子供の成長過程の変化で、いかに日常の指導は困難か理解していません。教師の仕事をスリム化して、雑用から解放し、真の人間教育、学習指導ができる条件整備のため、先生方を増やし、教育環境の条件整備をしっかりやることです。少人数学級は西欧でも一般化していますが必ず効果があります。財政が苦しいからこそ、将来の日本を担う子供たちに優先的に投資をして、活路を開くという将来展望が必要です。
また小学校に専任科目の教師を配置することも是非やって欲しい事です。すべての科目を教えているなどと話すと、中国の学生も驚いています。主要科目は専門を修めた教師を配置する、この提言を是非お願いします。勝間さんしっかりたのみます。
勤務37年目の小学校の教師です。
現在の1クラス40人学級では多すぎます。訳ありの時以外では30人以下のクラスを担任したことはありません。
実は、私は経済面から少人数学級を考えたことはありませんでした。人件費が増えることを考えると、今の日本の教育行政では実現しないだろうと悲観的です。将来の日本を担う「人資源」を育てる意識が行政には欠けていると、日々感じているからです。紙面で国民への提案だけでなく、行政をつかさどる方々への提言を、ぜひともお願いします。
少人数学級は大賛成ですが、「だいたい賛成」にさせていただきました。定員を25人にすると、生徒が26人になった場合、1クラス13人となります。教科学習ならば効果は大きいのですが、体育やクラス活動では20人はほしいなと思うこともあります。とりあえず30人クラスとし、学習内容によって分割少人数授業ができる(教師は増える)方法をさぐりたい。
現実問題としては、まず30人、せめて35人。悲しい現実!
基本的には賛成です。
教員に余裕を持たせ、クラスの「質」を向上させるという意味では意味があると思います。
ただ、「学力向上」と25人学級とのつながりが明確ではありません。
>少人数学級を導入したのが功を奏したのではないかと、、
少人数にするとなぜ学力が向上するのでしょうか。
少人数ならではの授業の仕方?生徒一人一人に学習効果を確認しやすい?生徒と教師の距離が短くなり、生徒の態度が変わる?
もう少し、なぜ学力向上したかを深掘りして、それが少人数宇学級でしか達成できないならば賛成です。
逆に言えば、40クラスを維持しながら25人学級の効果を導入できない物でしょうか。ホームルームは40人で、各学科によって人数を変えるとか(例えば体育は40人、理科は20人とか、それぞれの学科で効果的な人数を振り分ける))。
そのためにも、人数と学力向上の間の因果関係をもっと明確にすべきと思います。
そのうえで対処法を決める方が良いかと思います。お金を掛けたいのはどの分野でも同じであり、もっとも効率的な手段を探すべきです。
単に「25人学級」という形ではなく、その裏にある効果を明確にし、それをもっと磨き上げた形で適用すべきと思います。
教育費が高いから、少子化につながるというご意見は強く共感します。我が家でも教育費のことを考え、次の子供はあきらめています。