まず、セルバンテスの「ドン・キホーテ」。良く知られているのは、童話作家フロリアンによって編纂された、風変わりでこっけいな自称騎士の物語と、その人物を強靭な画力で描いたギュスタヴ・ドレの挿絵だろうと思う。要するに、風車を巨人の群れと決め付け、無謀に突進して弾かれる、例のあのご老人だ。しかし改めて原作を読んでみると、こと後編においては、そうした簡単な感想を跳ね除けてしまう力感と複雑さを持っている。ある日突然遍歴の騎士に変身したドン・キホーテことアロンソ・キハーノは、狂人であるどころか、 突出したモラリストであり、また自己の内面に戦うべき相手を見出していた、つまり自分として生きることに、最後の最後ギリギリ寸前まで諦めなかった、勇敢な人物であることを知る。

次に、コルロディ「ピノキオの冒険」。ドン・キホーテと対比させると分かるのだが、これは道徳の教科書のように見せかけた、まるっきり狂気の話だ。嘘をつくと鼻が伸びる事、樫の木でできている事、それ以外においては、私の知るいわゆるピノキオの象とはまるで違った。とにかく意地が悪い。主人公ピノキオの意地が悪いのではない、作者コルロディの童話と言うメディアに対する底意地の悪さが、文面から滲み出ているのだ。ピノキオは無知ゆえに他者を傷つけ殺し、自分もひどい目に遭う。しかしすぐに犯した罪を忘れる(黒ウサギが棺桶を持って部屋に入ってきた時などは30秒ほどで)。この「物忘れ」こそがピノキオのキャラクターである。

もっとも古いものとしてはイソップ。しかしそのメジャーな印象とは裏腹に、ギリシャのアイソーポスの寓話は、物語と言うよりは口承伝承の寄せ集めと言う印象が強く、当時の人々のイメージシンボルを理解する資料の一つに埋もれてしまった。中世以前の道徳はことわざのように単純で面白いが、動植物の動きの一つをとっても、やはり自分の頭の中に付着している象(イメージ)が遠すぎると、なかなか心に響きにくいものである。

童心にはイソップと同じような位置付けだったグリム、アンデルセンについては、読み返してみるや、驚嘆の連続だった。開いた口が塞がらないとはまさにこの事である。私自身の側に、子供の読み物に対して意地悪な読み解き方をしてやろうという目論みがあったためかもしれないが、その残虐性、その突拍子の無さ、何より文章の美しさ、全てにおいて打ちのめされた。アンデルセンは、日本語に訳されてなお、力を失わない言葉の強さ、思い切りの良さに、文章を書く楽しみを再発見することができた。グリムは、物語を終えて日常に帰る際の、最後のちょっとした一文(子供向けの絵本などでは削られてしまう)が新鮮で、これは使える、などとつい貧乏性が涌き出てしまった。

それらより半世紀ほど後の、オスカー・ワイルド(代表作「幸福な王子」など)には、キリスト教と言う信仰に対する作者の様々な、時に矛盾した想いが感じられた。これは同時代の芸術家がみな一様に感じていたことかもしれないが、科学的な現実と真善美によってなる信仰とのギャップが、それまでの価値観を少し不安にさせていたのかもしれない。

「知恵文学(hokmar)」の一つに数えられるゲーテの大作「ファウスト」については、研究者でもない私に語るべきものはない。しかしながら悪魔と冒険する魅力的な作劇や宗教的視点を超えた人間の美しさを、純粋に楽しんだ。正直を言うと、中盤から後半にかけては、イメージシンボルの膨大さについていけない部分も多々あったのだが、とは言え、黒澤明の映画「生きる」がそのオマージュであるように、きわめて骨太で、宗教観を超越する物語である事は間違いのないところだろう。

さて、こうしたメルヘンや文学と言った、キリスト教の価値観における物語をまばらに並べてみると、自分と言うものの生きる指標、価値観が、作劇におけるテーマとして必須だという事にいっそう深刻に、喉元に切っ先を突きつけられたかのように、わかる。自覚的な思想宗教を持たない私が、創作、ゲームを製作するにあたって、一体何を語ればよいのか、それは非常に難しい課題である。良い物語とはたぶん、体験とその克己からなるものだと思う。とすれば、コンテンツ制作においてもっとも大切な作劇とは、作家彼自身の人生経験だという事になる。ここで起こる矛盾は、作っていると体験できず、逆に体験が強烈だと創作できない(かもしれない)と言う事である。いや矛盾はないのだ。「生きないと作れない」が真実なのである。ただその実践が困難だという話に過ぎない。

私は何度も同じテーマにチャレンジする。そのたびに何か少し作風が変わるような感触もある。今回もこうして作り上げてみて、また何かが変わった。それは例えば、自分と言う個人以上に価値観が散漫になっている現場スタッフワークにおける、シンボルの重要性。明確な旗印を提示できず、創作を共有できない歯がゆさ、苛立ち。そして最終最後に、共有し、作品の完成をも共有できた達成感。また別の例としては、「売れる」「売れない」と言う視点ないしユーザー的他者の介在を一切排したこと。これも新しい体験だった。その上、メルヘンと言う素材自体が時代に即しているなどという勝算もない。美少女もなければ、都市伝承もない。だからこの作品がメジャーになる事は(またしても)無いだろうと思う。しかし、デジタルと言うきわめて特異な制約を持つ表現の中で、その上なんのリターンもないにも関わらず、これほど愛情を込めて作られた物もまた稀有だと思う。

ゲームは自己表現ではない。ゲームを内包しゲームを超えた、次の「ある何か」に、自己表現の灯がぼんやりと示されているに過ぎない。こうした不安の日々を、力技で切り開いていく原動力を与えてくれた偉大な文学の先人達には、言葉に代えられない感謝の念を抱くばかりである。