第3章 インターネット契約の個別具体性と事実的契約関係理論

第1節 伝統的な契約理論とインターネット上の取引
1 従来においては、取引関係を法律的側面から考察する場合の法技術としては、契約(又は法律行為)という概念が用いられてきた。すなわち、契約によって取引の当事者の間に法律関係が発生する根拠として、法律関係の発生を欲した当事者の意思に求められてきたのである。さて、インターネットなどを利用することになる高度情報化社会においても、取引関係を契約としてとらえ、当事者の意思に取引当事者間の法律関係の発生の根拠を求めることができるか。
2 確かに、インターネットによる取引は、機械を使用してなすものである。この点では、ジュースの自動販売機やATMなどといった機械を通じた場合と共通する。
 しかし、自動販売機やATMなどと共通する点は、機械を使用するという点だけであると言ってよい。インターネットを通じた取引は、パーソナルコンピュータ等のマウスやキーボード等を操作して主として文字という言葉として、時には画像や音声としてなされるのである。パーソナルコンピュータやインターネットの利用の仕方として、わずかであるが、現在でもテレビ電話としての使い方があるし、また、この使い方が今後普及するかもしれない。そうすると、単にボタンを押すだけの自動販売機の場合などとは同列に考えることはできず、むしろ、対面取引や、手紙などの書面を通じた取引に近いものと考えるべきではないだろうか。そうすると、インターネット上の取引はその表示方法・内容ともに個別具体性を有すると考えるべきである。
 したがって、その個別具体性から考えて、インターネット等を利用する高度情報化社会の取引関係もまた、伝統的な私法上の法技術である契約としてとらえるべきであり、当事者の意思に取引当事者間の法律関係の発生の根拠を求めることができると解する。そして、インターネットの取引は従来の民法の議論を前提に考えるべきであると考える。
3 私はこのように、インターネット等のネットワークを利用した取引は個別具体性を有すると解している。これに対して、ネットワークを利用した取引関係は画一的なものであるとする説もあるが(注11)、とるべきではない。
 確かに、インターネット上の取引においては、あらかじめ取引の一方当事者が定めた取引内容に他方当事者が同意し、ただ数量などをキーボードやマウスなどで入力する余地があるのみであるかである。このことからすれば、インターネット上の取引は画一的であるかのようである。
 しかし、実際の取引においては、一方当事者が用意した取引内容にはオプションをつけていたりすることが多く、大体において多様な選択肢を用意している。また、インターネット取引の場合、確かに、その取引内容はすでに一方当事者が用意している場合が多いが、それについて相談・質問は電子メールで受け付けることができるようになっていることがほとんどである。電子メールの場合には、その表示は文字である。さらに、近時のWWWは、多機能化しており、ただ単に項目選択や数字の入力をするだけではなく、音声や画像などを入力することもできることがある。将来的には、テレビ電話に近い利用方法が多く取り入れられるかもしれない。
 このように考えると、一見画一化されているかのようなインターネットの取引も、表示行為を含め、実は個別具体性を有するものであると考えられる。
4 ここで、具体的なインターネット取引の一つの例として、日本ゲートウェイ2000株式会社(パーソナルコンピュータ直販メーカーのひとつ、以下ゲートウェイと略す)のインターネットによる直販システムを見てみる(注12)
 パーソナルコンピュータは、CPU(中央演算装置)で処理速度、メインメモリで処理容量、ハードディスクでデータ等の記憶容量がほぼ決まり、これらが基本的なパーソナルコンピュータの基本的な性能が決まる。もちろん、パーソナルコンピュータの性能を上げようとすれば、その価格は高くなる。また、パーソナルコンピュータは、多様な機能を備えることが可能な機械である。パーソナルコンピュータにどのような機能をつけるか(例えば、CD−ROMドライブを取り付けるか否か、音源を取り付けるかどうか、パーソナルコンピュータと電話回線をつなぐ機械であるモデムを内蔵させるか否か、等々)によっても、パーソナルコンピュータの価格は変化してくる。
 ゲートウェイは、これらのパーソナルコンピュータの仕様を購入者の相談と注文に応じてあつらえて販売している。まず、購入者によりゲートウェイから購入するパーソナルコンピュータは異なっていることから、商品に関して個別具体性を有することはわかると思う。つぎに、購入者の相談・注文によりあつらえて販売する点からして、その取引は民法の典型契約でいうとどの契約であるか、すなわち売買(民法555条)なのか、請負(民法632条)なのかは考えなければならないところである。また、その目的物は特定物なのか、不特定物なのかは考える余地がありそうである。さらに、その目的物は1個の物と考えるべきなのか、数個の物と考えるべきなのか、数個の物と考える場合、主物と従物の関係にあるのかどうかなど、考える場面はいくつも出てくるであろう。そうすると、取引内容を解釈するにもそれぞれの取引に着目する必要があるのである。この点でも、インターネットによる取引は決して画一的ではなく、個別具体性を有するものであると考える。



第2節 事実的契約関係理論とネットワーク取引についての多数説
 前記のように、私は、インターネット取引のようなネットワーク取引は、その契約内容、表示行為ともに個別具体性を有すると論じた。これに対して、ネットワーク取引の場合は、表示行為については定形性・画一性を有すると解するのが多数説であるが、この多数説においても、ネットワーク取引に事実的契約関係理論を導入すべきではないと解している(注13)。すなわち、ネットワーク取引に事実的契約関係理論を導入すべきかどうかについては、多くの者は、事実的契約関係理論はいちおう成り立ちうる議論であるが、ネットワーク取引の表示行為が類型的であるからといって、取引内容が類型的であるとは言えなく、ここに事実的契約関係理論を導入すべきではないとしている。


第3節 事実的契約関係理論は成り立つ議論か
 ネットワーク取引に事実的契約関係理論が導入できないと考えられるとしても、一般論として、事実的契約関係理論が成り立つ議論であるかは、理論の成立の背景の考察をあわせて検討しなければならないものと考える。なぜならば、事実的契約関係理論が、取引の定型性から意思主義の排斥を含む理論であるからである。

第1款 事実的契約関係理論とは
 伝統的理論に従えば、契約関係は、その成立・内容とも当事者の意思によって決定される。
 ところが、生産技術の進歩、産業構造の変化、大規模化により、市場取引は大量かつ定型的なものになる。そこでは、契約の締結と内容の決定は、個別の折衝によってなされるのではなく、大量取引を定型的に行うために企業が一方的に定めた普通契約条款に消費者が無条件に従わざるを得なくなっているのが実情である。そして、企業は消費者に対して生活必需品・サービスを提供する社会的義務を負い、消費者は給付を事実上受け取っているにすぎないかのようである。
 そこで、このように大量かつ定型的に提供される給付を利用する関係(社会定型的関係)が成立するには、給付の提供とそれを受領するという事実があれば足り、伝統的な契約理論における当事者の意思表示は要件とならないとする見解が展開されており、この見解を事実的契約関係理論という。この理論は、通常において当意者の合意を要件として成立する契約関係は、今日の取引社会では、社会定型的な事実の存在によっても認められるべきであるとする。そこでは、当事者が契約を締結する旨の意思表示をしたかどうかを問題にする必要はなく、さらには当事者が契約締結を拒否する意思を表示していた場合であっても、社会定型的事実が存在していると認められる限り、当事者間に契約上の法律関係が存在するものとされる。また、行為無能力や、意思表示の瑕疵・欠缺も契約関係の効力に直接影響を及ぼさないとされる(注14)

第2款 ハウプトの立論(注15)
 このような事実的契約関係理論は、1941年にドイツのギュンター・ハウプトによって最初に提唱された。ハウプトは、当事者の合意が存在しない場合であっても、一定の事実関係が存在するときには、契約が成立している場合と同様の契約法上の効果が認められるべきであるとした。そして、事実的契約関係が認められる事例として、社会的接触、共同関係への事実的加入、社会的給付義務という3つの類型を示した。
 社会的接触については、3つの事例があげられている。まず第1に、契約締結上の過失といわれるもので、当事者がまだ契約締結の意思表示をしていない場合であっても、契約締結のために当事者間に社会的接触という事実関係が認められるときは、その段階で生じた損害について契約責任が課せられるとする。第2に、好意同乗について、好意同乗者が運転者の責任を排除または制限する意思表示をしていない場合であっても、好意同乗という事実から責任制限の効果が導かれるとする。第3に、賃貸借期間満了後の目的物の利用関係について、事実的契約関係として説明する。
 共同関係への事実的加入の例として、組合契約や労働契約が無効または取り消された場合に、現実に活動してきた組合またはすでに提供された労働について、過去になされた行為は有効なものとして処理されるべきであるとする。
 社会的給付義務の例として、ガス・電気の供給や、バス・電車の利用など公共的事業においては、供給者は社会的給付義務を負っているので、需要者が給付を求める事実上の請求(利用)をすれば、その旨の意思表示が存在せず、あるいは意思表示に瑕疵が存在していても、事実的契約関係が成立するとする。

第3款 ラーレンツによる理論的展開
 ハウプトの事実的契約関係理論は、ラーレンツによって支持されたが、ラーレンツは、ハウプトがあげる3類型すべてに事実的契約関係の成立を認めるわけではなく、第3の社会的給付義務に基づく事実的契約関係のみを承認する。また、ラーレンツは、どのようにして、事実上提供された給付を事実上利用したことによる契約的法律関係の成立が、私たちの私法の基本的な考えに合わせ、法体系に並べるか、として、事実的契約関係理論と既存の法体系との整合性を考えている。そして、現代の大量取引においては、とりわけ公共交通機関による輸送においては、しばしば同種の給付がなされ、事実上利用することによって給付を受ける者は、契約の存在を論ずるまでもなく(すなわち、明示にあるいは暗黙に給付内容や価格の合意をしているかに関わらず)、給付を期待するから、そのような給付は、意思表示の合致がない場合であっても、利用者に社会定型的な意義を認識する能力が備わっている限り、利用者には契約があるのと同様の債権関係が認められ、(一般的な、あるいは料金表にしたがった)支払いをなす義務を負う、とする(注16)

第4款 いわゆる駐車場事件
 さらに、いわゆる駐車場事件において、ドイツの判例は、事実的契約関係理論を採用した(注17)
 駐車場事件の事案は、次の通りである。白線および「監視付き有料駐車場」の標識が施された駐車場を管理する原告会社が、駐車の際自己の車の監視と駐車料の支払いを拒絶する旨を原告会社の整理人に明示しつつ頻繁に駐車した被告に対して、駐車料相当額の支払を不当利得(予備的に、不法行為)を援用して訴求したというものである。
 BGHは、「特別な標識のある駐車区域を監視時間中に駐車のため利用する者は、すでに当該行為をしたことにより、駐車料金表に則った代償支払い義務のある契約上の法律関係を生じさせる。それと異なるその者の内心的態度は、駐車しようとする自動車運転者から駐車のはじめに原告の整理員に対し表示されていたとしても表示されていたとしても顧慮されない」と判示した。
 この判決により、事実的契約関係理論がドイツでは一時期判例として定着した。

第5款 ドイツにおける事実的契約関係理論のその後
 しかしその後、ドイツにおいては事実的契約関係理論に対し否定的な見解が多数を占める。
 ドイツにおける事実的契約関係理論の主唱者であるラーレンツの理論は、はじめから、ハウプトと異なり、私的自治を否定するものではなく、むしろ私的自治を前提とするものである。さらに、その当のラーレンツさえ、1989年に出版された民法総則の教科書の第7版で、事実的契約関係理論を放棄するに至っている(注18)
 また、判例も、事実的契約関係理論を撤収するようになる(注19)

第6款 日本における事実的契約関係理論
 日本においてはどうであろうか。日本では、1957年にドイツの事実的契約関係理論が紹介され(注20)、以降、民法の学界では好意的な見解が多く見られる。日本において事実的契約関係理論を認める学説のほとんどは、ラーレンツと同様に、ハウプトの類型のうち第3の社会的給付義務に基づく場合にのみ事実的契約関係を認める。
 日本において事実的契約関係理論を認める学説は、次のようにいう。すなわち、大量・有償給付を利用する定型的な行為(社会類型的行為)は、承諾として、契約を成立させるが、意思表示とは異なる性質を持っており(給付を利用するか否かは利用者の意思に委ねられるという意味で私的自治の枠内の現象ではあるが)、そこに事実上の効果意思は存しないにもかかわらず、それによって給付者との間に契約関係が形成されるのは、社会類型的な行為をする者はそれによって(内容の公正を前提として)法的拘束(反対給付への義務づけ)を受ける、という法的確信が現代社会に確立していることによるから、「行為に矛盾する異議」(たとえば、料金の支払を拒絶する旨を整理員に表明して駐車する)は考慮されず、それが認められないからといって錯誤無効を主張することも許されないし、また、行為能力の規定の適用もないと考えられる(ただし、自分の行為の社会類型的な意味を理解する低い程度の意思能力は必要)とする(注21)

第7款 事実的契約関係理論の妥当性
1 まず、伝統的意思表示理論では不都合で、事実的契約関係論でなければならないとする場面はあるのであろうか。すなわち、事実的契約関係理論が妥当するとされる場面において、伝統的な意思表示理論による妥当な解決ができないのであろうか。
 前述のドイツの駐車場事件の事案は、事実的契約関係理論が妥当するとされている典型的な事案であるが、事実的契約関係理論を用いなくても、不当利得や不法行為によって処理可能な事案であるといえる。また、事実的契約関係理論が妥当するとされる他の場合であっても、信義誠実の原則などの一般条項を持ち出す等すれば、従来の意思表示理論に基づいた解決が可能であろう(注22)
 そうすると、伝統的意思表示理論でなく、事実的契約関係理論を使わなければ妥当な解決がはかれないという場面は考えにくい。
2 また、事実的契約関係理論がでてきた背景を再び考え直す必要がある。
 たしかに、社会定型的な大量取引において、個別の利用者の意思を考慮していたのでは取引の円滑を欠くことになりそうである。それに、公益的な企業においては、利用関係の内容も定まっており、行為無能力者が利用契約上の義務を負ったとしても特に不利な立場に立つことはない、として、行為無能力者の保護は不要であると考えることにも理由がありそうである。
 しかし、社会定型的関係において伝統的な意思理論の適用を制限・排斥しようとすることの意味を考えてみると、大量取引を効率的に行おうとする企業の便宜を利用者(消費者)の利益に優先させようとすることである。そうすると、「人間をして機械の奴隷たらしめることを肯定する危険をはらんで」いるといえる(注23)
 現代においては、大企業の一方的な市場支配に左右されがちな消費者の復権を目指して、消費者の知る権利・選択する権利の確立が叫ばれ、消費者の自己決定権を回復するために、法律行為論の再評価が試みられている。そう考えると、個人の意思に基礎をおく伝統的意思表示理論に基づくべきであろう(注24)
3 以上により、私は、事実的契約関係理論はそもそも成り立つ議論ではないものと考える。



第4節 事実的契約関係理論とインターネット取引についての私見
 事実的契約関係理論が出て来た背景には、近代市民法が意思主義を前提としているのに対して、現代の大量取引の定型性を理由として、大幅な修正をせまったということが上げられる。事実的契約関係理論は、意思にかかわりなく、意思のある場合の関係と同様の関係を成立させるという点で大幅に意思主義を変更している。
 しかし、インターネット取引は、大量取引でありながら、その表示方法および取引内容に個別具体性を有するようにすることを可能とするものであり、実際にも個別具体性を有するものである。そのような個別具体的な取引を考える上では、当事者の意思が重要な要素となってくる。
 また、高度情報化社会は、情報を知った者が勝つ社会であり、取引当事者の合理的意思を知る可能性は大きくなっている。そうすると、事実的契約関係理論のいうところの「行為に関する異議は考慮されない」とすべきではなく、むしろ、そのような意思を考慮に入れた上で、契約関係などを検討すべきである。
 したがって、事実的契約関係理論の理論的背景である大量取引の定型性が、インターネット取引においてはその背景を失っており、意思主義の大幅な変更は意味のないものとなっていると考える。また、取引当事者の合理的意思は可能な限り考慮すべきであると考える。
 以上により、私は、(1)第1節で検討したとおり、ネットワーク取引は表示行為も含めて個別具体性を有するものであるから、たとえ事実的契約関係理論が成り立つ理論であることを前提としてもここに当該理論を導入することは場違いであるし、また、(2)第3節で検討したとおり、事実的契約関係理論はそもそも成り立つ理論ではないから、当該理論をネットワーク取引に導入することはできないと考える。

目次

第1章 序−高度情報化社会とは− 第2章 インターネットと取引 第3章 インターネット取引の個別具体性と事実的契約関係理論 第4章 インターネット取引における契約の成立時期 第5章 契約の成立過程 第6章 契約の履行過程 第7章 インターネット取引と消費者保護 第8章 終章 まとめ

 参考文献 あとがき