真・日本史




真実の証言





ここでは過去の色々な人物の発言や証言と、その発言について感じた事を掲載いたします。











No.12   平成14年9月29日

東京裁判における証言(通州事件について)


萱嶋高 元陸軍中将の証言

城内は実に凄惨な物で到る処、無残な日本居留民の死体が横たわっておりまして、殆ど全部の死体には首に縄がつけられてありました。頑是なき子供の死体や婦人の虐殺死体は殆ど見るに堪えませんでした。


旭軒とか云う飲食店を見ました。そこには40から17,8歳までの女7,8人は皆強姦され射殺されておりました。そのうち4,5名は陰部を銃剣で突刺されていました。


錦水楼という旅館は凄惨でありました。同所は危険を感じた在通州日本人が集まった場所でありましたものの如く、大量虐殺を受けております。女主人や女中は数珠繋ぎにされ、手足を縛られたまま強姦され遂に斬首されたという事でした。


次に(錦水楼の)帳場配膳室に入りました。ここに男一人、女二人が横倒れとなり、或いはうつぶし或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようでありました。


私は一年前に行った事のあるカフェーにへ行きました。一つのボックスの中に素っ裸の女の死体がありました。これは縄で絞殺されておりました。カフェーの裏に日本人の家があり、そこに二人の親子が惨殺されておりました。子供は手の指を揃えて切断されておりました。


南城門の近くに日本人の商店があり、そこの主人らしき者が引っ張り出されて殺された死体が路上に放置されていました。これは腹部の骨が露出し、内臓が散乱しておりました。


桜井文雄 元陸軍少佐の証言

まず、守備隊の東門を出ますと、殆ど数軒間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっているのを目撃し、一同悲憤の極みに達しました。「日本人は居ないか」と連呼しながら各戸毎に調査してまいりますと、鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等がそこかしこから続々這い出てきました。


某飲食店内には一家ことごとく皆、首と両手を切断惨殺されているのを目撃しました。旭軒という飲食店に入りますと、そこに居りました7,8名の女は強姦刺殺されておりまして陰部にほうきを押し込んである者、口中に土砂を埋めてある者、腹部を縦に断ち割ってある者等、全く見るに堪えませんでした。
昨年転職してから仕事を家に持ち帰ることが多くなり更新が滞ってしまったが、1年が過ぎてようやく自分なりのペースがつかめてきた。ということで久々の更新。


今年の8月15日は昨年に比べれば大分静かだった。昨年は小泉首相の靖国参拝問題で大揺れに揺れていたが、今年は騒ぎになる前にさっさと参拝を済ませてしまった。本当に情けない。


一方メディアに目を移すと、終戦の特別番組はNHKでやっていたくらいで、こちらもおとなし目だった。しかし、そんな中、黙って見過ごす事のできない様なグロテスクな番組があった。言うまでも無いがその番組とはニュースステーションである。よりによって8月15日に強力な反日プロパガンダを垂れ流した。



1937年の南京戦に参加した日本軍兵士102人の証言をまとめたという本が出版され、その証言を収めたVTRが一切の検証も成されないままにお茶の間に流されたのだ。この本を作ったのは「南京大虐殺60カ年全国連絡会」なる極左反日団体である。左のリンクを辿ってもらえば御理解いただけると思うが、ここまで偏ったイデオロギーを持った特定団体の片棒を担ぐ事になんら躊躇をおぼえない番組スタッフには驚かされる。


先日もNEWS23で南京戦の特集を組んでいたが、こちらも中国側の言い分を一方的に垂れ流しただけだった。この連中は日本が悪かったとなれば無条件で飛びつき、裏も取らないままに報道する。逆に日本が被った被害などは一切取り合わず隠ぺいさえ平然と行う。現在日本を震撼させている北朝鮮の拉致問題を見れば分かるだろう。拉致に薄々気付いていたにも拘らず北や総連に騒がれることを恐れ見て見ぬ振りを通してきたではないか。ここぞとばかりに外務省を批判しているが、彼らにそんな資格などありはしない。


そこで、今回はこの連中が死んでも取り上げないであろう通州事件の被害を記させてもらった。通州事件とは盧溝橋事件から三週間後(南京戦の5ヶ月前)、北京の東方に位置する通州で、日本人居留民約220人が中国保安隊に虐殺された事件だ。ここに記すのも忍びない程に酷い内容だが日本人に対して実際に行われた行為として決して忘れてはならない。



そして当時の日本軍はこれら自国民に対する被害の後も武力行使に踏み切らず、対話による解決(No10参照)を目指していたということも再度強調したい。










No.11  平成13年1月9日

トレヴェニアン 「シブミ」より


8月12日に中国側は日本総領事館と商社の電話線を切断した。その翌日、13日の金曜日に、中国軍第八十八師団が北停車場に到着して、租界から外に通じる道路をすべて遮断した。それは、ごく少数の日本軍と自分たちの間の緩衝用にできるだけ多くの一般市民を閉じ込めておくのが狙いであった。8月14日にアメリカ製ノースロップ機に乗った中国軍パイロットが上海を盲爆した。


高性能爆弾の一弾がパレス・ホテルの屋根を貫いた。ベつの一弾がカフェ・ホテルの表の路上で爆発した。729名が死に、861名が負傷した。31分後にべつの中国機が女性と子供の避難所になっていた大世界娯楽センターを爆撃した。1012名が死に、1007名が負傷した。
前回、前々回と日中戦争拡大の経緯を記してきた。その中で日本が戦争を起したのではなく戦争に巻き込まれたんだというジャーナリストの証言を2つ紹介した。その証言に共通しているのは、中国側が外国権益を巻き込んだ形で、国際問題を巻き起こし、それによって日本を戦争に引きずり込んだという主張だった。


では、その「外国権益を巻き込んだ形で、国際問題を巻き起こした」というのは一体どの様な事だったのか?それを物語るのが上段に記した物だ。実はこの文章、
「シブミ」という小説の一部なのだが、明星大学教授の小堀桂一郎氏が検証したところ、書かれている名称、事柄、死傷者数は極めて史実に忠実である事が確認されている。中国は戦争を拡大する為に、たとえそれが自国民であろうと、ためらう事無くその頭上に爆弾を落としたのだった。


前回紹介した大山中尉虐殺事件が発生したのが8月9日。その後も日本側は慎重に対応し、8月12日に至っても岡本上海総領事の提案で停戦協定共同委員会において
「日華双方とも互いに相手より攻撃を受けない限り戦端を開かない旨、日華委員より双方の司令官に申し入れる」との決議を行っている。


しかし、その決議も空しく翌日8月13日午後4時54分、9個の地雷炸裂を合図に中国の攻撃がはじまった。この時点で日本の兵力はわずか4千人。それに対して中国兵は配備された者に限っても3万人に達していた。この兵力差を見れば日本が中国を侵略するどころか、在留邦人を守るのさえおぼつかない非常に危機的な状況だった事が分かる。


日本政府がこの状況をみて正式に上海派兵を閣議決定したのは8月13日の午前9時。翌8月14日、上段に紹介した中国側の自国民、外国権益に対する見境のない空爆で収拾のつかない状況に追い込まれ、8月15日を境に本格的な戦争に発展していった。その2日後になってようやく
「従来とり来たれる不拡大方針を放棄し、戦時態勢上、必要なる諸般の準備対策を講ずる」という閣議決定が決議されたというのが実情だった。


しかし現在の歴史書や百科事典など見ると、蘆溝橋事件までは偶発的に起こったと書かれている事が多いが、第二次上海事変になると殆ど全てと言って良いほどに日本の侵略行為として書かれている。この様にとんでもないウソが堂々と立派な書物に書かれているというのが日本の現状だ。


話は変わるが、昨年アメリカにおいて
「欺瞞の日」という本が発表された。この本は、状況証拠からほぼ間違いないと思われていた、「アメリカは経済封鎖により日本を戦争に追い込んだ」「ルーズベルトは真珠湾攻撃を事前に知っていた」という、いわゆる「ルーズベルト陰謀説」を、600点近い米国公文書を使って見事に証明しているという。邦訳本が発売されれば日本でも話題になるだろう。


今日においても日々「侵略戦争」として糾弾され続けている日中戦争・日米戦争。事あるごとに蒸し返され、そのたびに謝罪が繰り返されている。しかし、どちらの戦争をとっても残された史料を
「普通」に調べ、「当たり前」解釈すれば、相手から仕掛けられた戦争であった事は明白なのだ。その事実を日本人の多くが共有できる日が来るのは一体いつになるのだろう。









No.10  平成12年12月11日

クロード・ファレール 「支那紀行」より


日本軍は驚嘆すべき冷静さを持していた。彼等は最も優秀なローマの警官の教える所を実行したのである。彼等は自動車にも死骸(大山勇夫海軍中尉と斎藤一等水兵)にも決して手を触れなかった。彼等は上海の支那人の市長及び英仏米の官憲を招致した。待つ間もなくその人々はやって来た。人々は事件の検証を行った。


中国兵が虐殺されて、百歩以上の距離の所に横たわっていた。しかし、その実地検証は、なんの異議もはさまれることなく、次のような事実を確認した。すなわち、この男は可愛そうにその同僚(中国兵)から自動拳銃によって、背後から、射撃されたのであって、その後、その日本人暗殺に対して争闘のような色彩を与える位置にひいて行かれたのであった。


前回は、日中戦争勃発の経緯を見ていたジャーナリストの証言と、盧溝橋事件以降、戦渦拡大の流れを時系列で記してきた。それらを見る限り、紛争の始まりから、事態の悪化まで、ほとんど中国側がその原因を作ってきたという事がわかると思う。


それを決定付けるのが上の証言だ。これは、前回紹介したエドアール・エルセイ特派員の証言にも出てくる、八月九日に起こった中国兵による大山勇夫海軍中尉と斎藤一等水兵虐殺事件の内容を詳しく報じたものだ。


この虐殺事件が起こった八月九日は、盧溝橋事件以降の日本と中国の紛争を終息する為に設けられた和平交渉の当日だった。この交渉で日本側が用意していた和平案は次の様な物だ。


・塘沽停戦協定その他華北に関する軍事協定は一切解消。

・冀東防共自治政府、
冀察政務委員会を解消し国民政府が行政を行う。

・支那駐屯軍の兵力を今事変前に戻す。

・満州を承認あるいは満州を今後問題としないとの約束。

・日中防共協定

・上海停戦協定の解消

・日本機自由飛行の解消

・日中経済提携の促進


簡単に言うと、満州だけ認めてくれれば満州事変以降発生した中国における日本の権益はすべて白紙に戻す。そして共同で共産勢力防止にあたり、経済面では両国の貿易を促進しよう、という内容だ。


中国側が塘沽停戦協定で実質満州を認めていた事を考えれば、中国に対する新たな要求はなにも無い上に、日本の数ある権益を放棄するという現在の常識からは信じられない「破格」の条件だ。


これだけ見ても当時の日本が中国を侵略する意図が全く無かった事がわかる。直前に220人以上の在留邦人を虐殺された(通州事件)にも関わらず、これだけの譲歩案を用意し和平交渉に臨むところだったのだ。しかし中国側が用意していたのは、和平交渉をつぶす為に日本兵を虐殺するという策略だった。


上段の証言を簡単に説明すると、事件現場の検証を上海市長及び英仏米の官憲が行った結果、死んでいた中国兵は、大山中尉と争ったように見せかける為、仲間である中国兵に銃殺された後に現場に放置されたと「何の異議も無く」確認されたというのである。


つまり、日本側(大山中尉)が先に中国兵を狙撃してきた為に、やむおえず反撃したという中国側の主張が偽装工作だと判明したのだ。日本はこの事件を機に泥沼の戦争に引きずり込まれていったのだった。前稿で紹介した2人のジャーナリストの証言が
それを証明している。日中戦争は決して日本が望んで起こしたものではなかったのだ。








No.9  平成12年12月3日

パリグランゴアール特派員エドアール・エルセイの「支那事変観たまま」より


八月九日には日本の海軍士官が、虹橋飛行場の支那番兵に殺害された不幸な事件が起った。日本の士官も注意すればよかったと言えない事もないが、しかし支那側の計画的だった事はなんとしても否定出来ない。南京政府が少なくも十五日前から上海に戦火を挙げる決意のあった事は疑うべくもない。


その目的は、日本の一部を南支に引裂くことばかりにあったのではなく、日本軍を中立地帯の近くに引寄せて、いや応無しに国際間題を頻発させようという腹だった。かくして頻々たる事件の発生と誤解により、西洋の世論を誘発しようという魂胆なのだ。これは蒋介石自身が同意したことで、いささか得意げでもあったことだ。十月末に南京で会った時、僕は蒋介石に向ってこんなことを言ってみた。



特派員 「あの手は実にうまい、上海は日本の足に刺さった刺みたい
      なものですからね、抜いてしまはない内は動きがとれないわ
      けでしょう。」


蒋介石 「そうだろう、まあうまくいった積りだがな。」


という彼の答えだった。当初は日本の政府も軍部も交戦を回避していた。上海攻略を危険視していたのだ。




ニューヨーク・タイムズ アーベント特派員の記事


「日本は第一次上海事変を繰り返すを好まず、忍耐、隠忍もって極力事態の悪化を防止せんと努めたるも、支那における外国権益を渦中に引き込むを画策したる支那人によりて、文字通り戦争に押し込まれた。」

新しい歴史教科書をつくる会の白表紙本が検定中にもかかわらずやり玉に上がっている。あらゆる偏見を排除し、公正に選考する為に非公開とされているはずの歴史教科書の内容が白日の下にさらされ、驚くべき事にその内容が韓国や中国にまでも知れ渡っている。


そして、例によって「歴史的事実を隠してはならない」「侵略戦争としての歴史を尊重しなければならない」と日本政府に圧力をかけてきている。つまり、「日中戦争は日本の侵略戦争であり、そこで日本軍は残虐行為の限りを尽くし中国の人民を苦しめた。その事実を歴史教科書にきちんと書け。」と要求してきているのだ。


中国のこの歴史認識は現在の日本のあらゆる新聞、テレビでも当然の事として語られているし、一般の国民から政治家まで殆どの日本人が持っている歴史認識といっていい。しかし、実際に当時の状況を詳しく調べてみると、その認識が如何に事実とかけ離れているかがわかる。それを物語るのが上に記した証言だ。


この証言は、日中戦争で本格的な戦闘に発展するきっかけとなった「第二次上海事変」勃発の推移を現地で取材していたパリ・グランゴアール紙特派員エドアール・エルセイ氏とニューヨークタイムズ特派員アーベント氏が当時の状況を見て報じたものだ。双方ともに当時の日本軍が如何に中国との戦争に消極的で、事態の収拾に努めていたかを伝えている。


この証言で重要なのは、当事国以外の異なるふたつのメディアが、当時の状況を見て全く同じ見解(中国側が事態を悪化させ、戦争を拡大した)での報道をしているという事だ。この事が報道内容の信頼性の高さを示している。意外に思う方も多いと思うが盧溝橋事件以降、日本と中国の局地的な争いが本格的な戦争に発展した原因の殆どは中国側によるものなのだ。


昭和12年7月 8日 中国側からの発砲がきっかけで盧溝橋事件勃発。

昭和12年7月11日 現地停戦協定により一旦終息。

昭和12年7月13日 中国兵により狙撃された日本兵4人死亡。

昭和12年7月14日 中国兵の襲撃により日本兵1人死亡。

昭和12年7月20日 盧溝橋城の中国兵より日本兵に対し一斉射撃。

昭和12年7月25日 電線を修理していた通信部隊及びその援護部隊
           が中国兵の攻撃に遭う。
(廊坊事件)

昭和12年7月26日 北京広安門通過中の日本兵が城壁上の中国兵よ
           り一斉射撃を受ける。
(広安門事件)

昭和12年7月29日 3千人の中国保安隊が220人以上の在留邦人
           を虐殺する。
(通州事件)


停戦協定を結んだにもかかわらず、中国側はこれら事件を次々に巻き起こしたのだった。これだけでも開戦の口実に十分足るにも関わらず、日本は外交交渉での解決を目指した。そして、中国側に最大限譲歩した和平案を用意し、上海において中国側との和平交渉に望むところだった。以下は次回・・








No.8  平成12年11月16日

倉使節団「米欧回覧実記」より


スイスを視察して

「外国侵入の防御は、国中みなふるって死力を尽くすこと、火を防ぐがごとし、家家にみな兵を講じ、一銃一戎衣(戦時中の衣)を備えざるなし、隣国より侵略のあったときは、国民みな兵となり、婦人は軍糧を弁し、けが人を助け、人々死に至るも、他国よりその権利を屈せらるるを恥じ、故にその国、小なりといえども、大国の間にあって、強兵の誉れ高く、他国よりあえて之を屈するなし」





日本への帰路でアジア諸国を見て


「弱の肉は、強の食。欧州人の遠洋航海により、熱帯の弱国、みなその争い喰うところとなりて、その豊かな産物を、欧州本国に輸入す。その始めスペイン、ポルトガル、及びオランダの三国、まずその利益をもっぱらにせしに、土人を遇する暴慢残酷にして、いやしくも得るにありしをもって、反乱をしばしば生じた為、英国人はそのてつを避け、寛容を旨とし、先んずるに教育をもってし、招撫柔遠の方法をもって、今日の繁栄をいたせり」

民主党の水島広子議員が、テレビの生放送中に日本は非武装中立を目指すべきだと発言した。さらに、もし外国に攻められた場合には抵抗して死人を出すよりは、すぐに降伏して相手国と話し合いをもち、国際世論に訴えていけば良いと主張した。


国民の生命と財産を守るべき国会議員の、余りにも無責任な発言に強い怒りを覚え、黒岩祐治氏のBBSでこの発言に対する批判的な意見を書き込んだ。その投稿の最後は次の様な内容で締めくくった。


「明治の時代に、こういう政治家がいなくて良かった。もし当時、この様な考えが主流だったら、この日本という国は確実に地球上から消えていたでしょうね。」


すると、水島議員の支持者(というより、その内容からして関係者だと思う)から水島議員を擁護する投稿があり、私の発言は、

「明治時代に戦争をしようという考えの無かった人がいた方が、もっと日本は平和な歴史を辿っていたと思いますよ。」

と批判された。


そこで、水島議員の非武装中立発言と、その支持者による上に挙げた意見を考える上で参考になる証言を上段に記した。岩倉使節団の一員である久米邦武の著書
「米欧回覧実記」に記されていた物である。


まず、水島議員の非武装中立発言に関して。よく知られているようにスイスは永世中立国だ。永世中立国などというと、戦争とは無縁で平和を目指している国と思われがちだが、実際は国民皆兵制をとり、いったん有事が発生すれば一般市民が兵士として国防にあたるという、より戦争が身近に感じられる体制をとっている。


上段に記した米欧回覧実記の記述を見ても、1900年初頭ですでにその体制が取られ、自国の独立が失われる危機に対しては、命を賭して敢然と戦うスイス国民の気概を称賛している。使節一団も、あの時代に独立を保つ為には何をしなければならないかを改めて垣間見た思いだったろう。


あたりまえの事だが、中立を守る為には武力は必要不可欠なのだ。何故なら、水島議員の言うように即座に降伏するという事は、その国の領土にされるという事だ。その国の領土になれば、新たな戦争の拠点に利用される事も十分に考えられる。その時点ですでに中立は成り立たないのだ。その事が水島議員は分かっていない。


水島議員は日本が攻められる事などあり得ないと考えているらしいが、政治家というものは考え得るあらゆる事態を想定しなければならない。事が起こってから「想定外のことで・・・」では済まないのだ。
所詮はGHQの占領政策に洗脳された欠陥議員と言わざるを得ない。


水島議員支持者からの「明治時代に戦争をしようという考えの無かった人がいた方が、もっと日本は平和な歴史を辿っていたと思いますよ。」という反論は歴史に対する無知としか言い様がない。当時は言うまでもなく欧米列強がアジア・アフリカを植民地として統治し搾取と残虐行為にあけくれていた時代だ。上段に記したように米欧回覧実記にも、アジア諸国の惨状が書かれている。


その様な時代背景の中で、もし日本が軍事力を持たずにいたとすれば、他のアジア・アフリカ諸国同様、簡単に欧米列強の植民地にされていた事だろう。仮にそうなっていたとすれば、現代の日本のような自由、平和、安全は享受できなかったはずだ。日本という国が無くなっていたかも知れないというのも決して大げさな意見ではない。


明治維新を含め、日本の近代化を突き動かしてきた原動力は、いかに日本が列強の植民地にならないか、白人の奴隷にならないかという事、この一点に尽きる。
我々の先人達が苦悩に苦悩を重ね多くの血を流して守ってきた日本の独立。有色人種としては唯一それを達成してきた。その孤独で熾烈な戦いの歴史を、単に「軍国主義」「帝国主義」という言葉で片付けるだけでは、本当の歴史は見えてこない。








No.7  平成12年11月1日

ピーターフレミング執筆 「北京籠城」 より


「日本軍を指揮した柴五郎中佐は、籠城中どの士官よりも有能で経験が豊かであったばかりか、誰からも好かれ尊敬された。当時日本人と付き合う欧米人は殆どいなかったが、この籠城事件を通じてその考えが変わった。


日本人の姿が模範生として、皆の目に映った。日本人の勇気、信頼性、明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも、間接的にも、一言の非難を浴びていないのは、日本人だけである。」






ロンドンタイムス社説より(掲載年月日不明)


籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ。」


今の世の中、かつての日本軍と言えば「残虐非道」「レイプ魔」「極悪」「略奪魔」というイメージが完全に出来上がってしまっている。歴史教科書でも、テレビでも、新聞でもそう言っているんだから当然の結果だ。


しかし、実際の日本軍は、当時のあらゆる軍隊の中でも、最も規律正しく、違法行為も少なかったというのが実情だったのだ。当時は、日本人のような有色人種は蛮族として蔑視されていた時代だ。その様な状況の中で一番最後に近代国家の仲間入りを果たしたのが日本だった。


それ故、当時の指導者達は日本人が決して野蛮で未開の民族などではないという事を、白人達になんとしても示し、認めてもらわなければならなかった。それを証明する為に、国際法というものを、それはそれは律儀に守っていたのが当時の日本軍だった。それを物語る証言は数多くある。


上に記したのは
1899年に起こった北清事変(義和団の乱)の際に現地を取材していたピーターフレミング氏の証言と、同じく現地取材していたモリソン北京特派員の報告を受けて書かれたロンドンタイムズの社説だ。どちらもこれ以上ないほどの表現で日本軍の勇敢さ・規律の正しさを賞賛している。


北清事変とは、当時11カ国の在留民が暮らしていた北京の公使館区域を、義和団と清国軍が包囲し攻撃した為、英・米・露・独・仏・伊・オーストリア・日本の8カ国の連合軍が、籠城していた人達を助ける為に起きた争乱である。結果は連合国側が勝利し制圧した。


その際占領地では、各国の軍が略奪行為を行ったという。特に酷かったのはロシア軍と清国軍!の敗残兵士で、混乱に乗じての略奪・残虐行為は手がつけられなかった。イギリスのタイムズ紙の記者は「ロシアは価値ある物は全て包装し、ラベルを貼りつけた。」と報告している。イギリス軍でさえも略奪を行い、その品物を公使館の中でオークションにかけていたという。


そんな中、日本軍だけが略奪行為、残虐行為を行わなかった。その為、日本軍の分担地域は安全だという噂が広がり、大勢の北京市民が日本の分担地域に逃げ込んできたのだった。


更に、日本軍に接収されていれば他国の軍隊に略奪されないという事で、多くの民家やテントには日の丸が掲げられていた。日本軍にしてみれば接収などしていない民家に日の丸が掲げられては日本の信用に関わるという事で、日の丸をみだりに掲げないようにという通達を出したほどだった。


証言にも出てくる柴五郎は北京落城後、現地の治安維持を担当し、略奪等違法行為をはたらいた連合国兵士は即座に逮捕して、それぞれの軍にどんどん突き出したという。その柴五郎の帰国が決まった時、北京市民はこぞって別れを惜しんだという。



これら数々の事実が上段の証言につながっているのである。








No.6  平成12年10月26日

東條英機の妻、勝子宛て遺書


四十年の長き幸福なりし夫婦生活を回顧し、ずいぶん苦労もかけたが、お前のお陰で東條家の基礎も建ち、子供達も、一人も欠けることなく皆揃って心身ともに育ってくれ、自分としては何ら心置きなく逝き得るを喜ぶ。


その間、生活の如何なる断面を取っても、お前とともに後悔するところなきを信じ得るに幸せである。この点お前に深く感謝する。


お前はくれぐれも身体を大切にし、子供達の後援となり、立派に生き抜き、天寿を全うし、然る後来たれ。自分は冥土において静かに待っている。異なる世界に独り生き残る辛さは察する。




東條英機の妻、勝子への手紙

・・・・前略・・・・

三人の子供の洋服を先日裁縫屋に仕立てを注文していた所、本日出来上がって持って来たゆえ、送付する。余り立派ではないが子供に普段着を着せて飛び跳ねるには良かろう。

具合の悪いところは適当に補修してくれ。少し短いように思うかも知れぬが、西洋人の子供はツンツルテンに着るのである故、短いのである。

なお、最近歓楽場に行った所、お前に丁度良いショールが目に付いたゆえ、一つ買い求めておいたのを同封する。少し日本のものに比し幅が狭いように様に感ずるが、狭くて用に立たぬようだったら光枝(長女)の大きくなるまで保存して置いたら良かろう。

段々夏にもなり色々病気が例年の通り流行する頃となる故一段用心して健康に保全せられる事を祈っている。

東條について最後にもう一つ。続けざまに東條英機について書いてきた。その理由は、これまでも書いてきたように、戦後一人歩きしてきた東条の悪人としてのイメージが、余りにも残酷なものに感じられたからだ。日本の為に誠心誠意尽くしたつもりの東條にしてみれば、現在のイメージをもし知る事が出来たなら、これほど辛い事はないだろう。


当然、戦争により被害を受けた方、家族を亡くした方、従軍した兵士達の中には、当時の責任者として許せないと言う人達がいても不思議ではない。あの時代を生きた方々が大東亜戦争をどう捉えるかは、それぞれの置かれた立場で異なるからだ。


しかし、現代を生きる我々は、もっと客観的に彼を知る必要があるのではないだろうか。そこで最後に東條の人間性を表す文章を載せてみた。


上段の文章は、やはり獄中で書かれた、妻宛ての遺書である。妻や家族を思う気持ちがにじみ出た愛情あふれる内容だ。これだけだと「遺書という特別な文章だからこういう内容になっただけ」と思われる方もいるだろうから、下段の文章も載せてみた。


この下段の文章は東條が駐在武官として3年間ドイツに滞在していた間に、妻との間で交わされた手紙のほんの一節だ。この3年の間に妻と交わされた手紙は、東條から妻へ144通、妻から東條へは159通にものぼる。これだけ見ても東條が如何に家族思いの人間だったかが伺い知れる。


東條は決して狂信的な軍国主義者でもファシストでも無かったのだ。敗戦当時は、多くの人達がその事を十分わかっていた。その証拠に東條家の仏壇に参った人間の芳名録には、政界、財界、官界のあらゆる分野の名の通った人達ばかりか、侵略されたと言われていたはずの、アジア諸国の著名人や指導者達の名前が、ずらりと並んでいるそうである。







No.5  平成12年10月21日

東条英機の獄中手記より


「世界大戦が勃発するには歴史的に根深い原因があるのであり、戦争責任を一方にかぶせ、国際法上、外交上の開戦責任を論じても戦争の本質的原因を究明する事はできない。本質的原因究明は謙虚に歴史的に反省し、根深い歴史的矛盾まで掘り下げなければ正しく把握できない。」


「連合国による極東裁判が清明公正にして謙虚な自己反省を欠けば勝てば官軍、力が正義という過ちを犯すだけであって百害あって一利なしである。」


「B級犯罪と言われる国際法規や慣習を犯した行為、C級犯罪と呼ぶ人道に対する残虐行為を裁くのであれば、敗戦国だけでなく戦勝国側の人間も同様に裁かれなければならない。また、A級犯罪である政治的犯罪は国と国との政治的立場や、信念の対立によるもので、これを律する客観的な法基準は存在しない。」


「欧米が人道、人権、自由、平等、法の支配を唱えていた19世紀は、アジア人にとって欧米によるアジア奴隷化の世紀ではなかったか。」


「欧米が資本主義と自由経済によって文明と繁栄を享受したといっても、その影には、植民地としての地位を強いられ愚民政策によって民族意識を抑圧されたアジア、アフリカの十数億人の有色人種の隷属があったことを忘れてはならない。」


「正義、人道やキリスト教精神とは逆に、あらゆる武力征服、残虐非道、黒人奴隷、苦力の売買、アヘン戦争や南ア戦争の暴挙、インドでの略奪と暴挙を行ったのは欧米である。」


「第一次世界大戦後のベルサイユ平和会議で日本代表が、人種平等の原則を唱えた時、英、米、豪の代表が、それを抹殺した経緯を思い出してみよ。」


「アメリカは中立国であったにも関わらず、交戦国(中国)の一方だけに多大な援助をし、他方(日本)を苦しめても経済手段である限り、中立であると主張し、日本に対して資産凍結、経済断交、禁輸などを行った。」


「大東亜戦争の根本原因は歴史的矛盾の累積ではあるが、最たる原因は世界経済の構造変化によって起こった世界恐慌の中で、持てる国が経済的国家主義による資源封鎖の経済戦略を行った為に、持たざる国が窮地に追い込まれ、資源確保を実力でせざるを得なかった事にある。」


引き続き東條英機について。上に記したのは、巣鴨プリズンに収容されてから処刑されるまでの間に獄中で書かれた物で、 「近代日本の国際的地位より見たる大東亜戦争の責任」という主題で、 「第一次大戦以来の国際関係における欧米列強の矛盾行為」という副題がついていた手記の中からの抜粋である。


これを見ると、東條が実に客観的な形で、当時の世界状況と大東亜戦争の原因、東京裁判の問題点を認識していた事が分かる。面白い事に、現在日本で起こっている、歴史認識を見直そうと活動している方々の主張とほとんど同じ内容である。


ここに挙げた物も、見る人によってはやはり言い訳、責任転嫁と受け取るだろうが、当時の日本人のメンタリティーとしては、「言い訳」は恥じであり、潔くない態度だったはずだ。実際、東條は家族に宛てて、世間に対して絶対に言い訳はするなと言い残している。


そんな東條が、言い訳の為に手記など残すとは思えない。手記の内容は、東條が信念を持って信じていた事だろう。そして後世になんとしても伝えたかった事だったのだろう。大東亜戦争の意義については歴史の批判を待つと言い残して処刑された東條。ようやくその時がやってきた。








No.4  平成12年10月19日

東條英機の遺書より


英米諸国人に告ぐ

今や諸君は勝者たり、我は敗者たり。この深刻なる事実は、もとよりこれを認むるにやぶさかならず。然れども諸君の勝利は、力の勝利にして、正理公道の勝利にあらず。余は今ここに諸君に向けてその事実を列挙するにいとまあらず。


我らはただ微力の為に正理公道を蹂躙せらるるに至りたるを痛嘆するのみ。いかに戦争は手段を選ばずと言えども原子爆弾を使用して、むこの老若男女、十幾万を一時におう殺するを敢てするが如きに至りては、余りにも暴虐非道と言わざるを得ず。


もし這般の挙にして底止する所なくんば、世界は更に第三、第四、第五の世界戦争を惹起、人類を絶滅するに至らざれば止まざるべし。諸君すべからく一大猛省し、自ら顧みて天地の大道に対し恥ずる所なきを努めよ。


日本同胞国民諸君

大東亜戦争は彼より挑発せられたるものにして、我は国家生存、国民の自衛の為、やむを得ず起ちたるのみ。世界の公論が戦争責任者を追求せんと欲せば、その責任者は我にあらずして彼に在り。不幸我は力足らずして彼に輸したるも正理公義は厳として我に存し、動かすべからず。力の強弱は決して正邪善悪の標準となすべきものにあらず。

・・・・中略・・・・


諸君、自暴自棄するなく喪神落胆するなく、皇国の運命を確信し、精進努力をもってこの一大困難を克服し、もって天日復明の時を待たれん事を。


この東条英機の遺書は、敗戦直後の自殺未遂前に残されたものである。古い言葉使いだけに分かりづらいが、大体の意味は理解いただけると思う。日米開戦時の首相であり、東京裁判でA級戦犯とされた東條は、すべての責任を背負って処刑された。


戦後、ヒトラーと並ぶ極悪人という認識が定着してしまっているだけに、この遺書を見たほとんどの人間は、戦争犯罪人の身勝手な言い訳と切り捨てるだろう。しかし実際の東條は、最大の国難時に思いがけず首相に指名されて以来、昭和天皇の意思に従い、日米開戦を回避する為に懸命に対米交渉を続けていたのである。


首相に指名された時、足が震えて何が何だか分からなくなったという東條の心情は、現代を生きる我々には誰一人理解できないだろう。


考えてみれば、個々の問題点は有ったにせよ日本の為(つまり現代の我々の為)に命を賭けて戦い、敗れ、処刑された人間の魂の叫びともいえる遺書を読んで、身勝手な言い訳としか捉える事ができない、その事の方が異常と言えないだろうか。その精神構造が如何に生まれてきたかと言えば、言うまでもなくGHQの占領政策によるものだろう。

「諸悪の根源は日本の軍国主義・帝国主義であり、日本国民はその被害者である。」

というマインドコントロールは、日本人の精神を腐らせたばかりか、連合国側の数々の戦争犯罪、更には過去500年に亘り白人帝国主義が行ってきた非道行為を隠ぺいする役割も果たしている。その事実に日本人は早く気付かなければならない。特にマスコミに携わる人間の洗脳状態はひどい物がある。それゆえに、歴史に関する捏造、歪曲、思い込み報道が日々繰り返されている。そのおかげで
どれだけの国益が損なわれてきた事か








No.3  平成12年10月3日

サンフランシスコ・ブレチン付け報告より


今、わが国を訪れた日本女性達は、上流階級を代表する女性たちであり、勿論結婚もしていない。しとやかで、上品な立ち振る舞いの為、彼女達はアメリカ人の間にたくさんの友人を得た。


彼女達と親交を結んだアメリカ人女性はみな、日本女性がみなとても魅力的だと明言している。彼女達はとても活発でキビキビしているが、その物腰は人に頼らぬ堂々としたものである。



もう一つ、戦前の日本における女性蔑視・女性受難史観について。

上の証言は、岩倉使節団 に同行した女子留学生に対して、当時のアメリカ人が持った感想である。まず注目したいのは、明治の初期に、日本の進路を見つけるべく行われた空前絶後の大研修旅行に、少人数ながら、きちんと女性を同行させているところである。


この女性たちは、単にお飾りとして連れて行ったのではなく、これからの世の中は、女性にも教育が必要になってくるという明確な意識の基に同行させている。この時期に、そのような意識がすでに存在したという事実には着目すべきである。


証言の内容を見ると、初めての海外で堂々と立ち振る舞っていた日本女性の様子が語られている。当時の日本女性が差別され、虐げられていたとして、ここで語られている様な人格が形成され得るのか?当時日本は開国直後であり、日本の女性が海外に行く事はまず無かった時代である。当然同行した5人の女性は、はじめての海外訪問になる。


閉ざされた日本で育った女性の立ち振る舞が、初めての海外で称賛されたと言う事実 (同様に日本男性の毅然とした態度、礼儀作法も称賛された。)を見ると、当時の日本の慣習・伝統・教育には、海外でも十分通用しうる人格形成が自然に行われるだけの要素が多分に含まれていたといえる。その後の日本の発展がそれを証明している。


残念な事に、現代人は、それら過去の膨大な蓄積を捨て去ってしまった。国を動かす政治家までが、他国に迎合する事で、あるいは単に英語をしゃべれるようになる事だけで国際人が育ちグローバル化が達成できると勘違いしてはいないだろうか?








No.2  平成12年9月18日


ペリー提督の遠征航海の報告書より


日本の社会には、他の東洋諸国に勝る日本人の特質がある。それは、女性が伴侶として認められていて、単なる奴隷として待遇されていない事である。


キリスト教の影響下にある諸国におけるのと同様とまでは言えないが、日本の母、妻、娘は、中国の女性のように家畜でも奴隷でもなく、トルコのハーレムの女性のように、浮気な淫楽の為に買い入れられたのとも違う。


一夫多妻制が存在しないと言う事実は、日本人が他の東洋諸国の内で、最も道徳的で洗練されているという事を現している。日本婦人の容姿はどちらかと言えば美しく、立ち振る舞いは、大いに活発であり自主的である。


それは彼女らが比較的高い尊敬を受けている為に生じている。友人同士、家族同士の交際には、女性も加わるのであり、互いの訪問、お茶会は合衆国と同じように日本でも盛んに行われている。・・・・・後略



先日、松嶋奈々子が主演した、テレビ史上初の3夜連続2時間半のドラマが放映され、かなりの視聴率を稼ぎ話題になった。タイトルは確か「百年の物語」だったかな?私は、その第一話 (大正時代編)を見ました。内容は、時代の流れに翻弄された女性の生涯を描いたような内容だった。


ドラマ自体は、それほど面白いとも思わなかったし、何よりも当時の日本女性がいかに差別され、虐げられていたかと言うのを前面に押し出し、それを説明する為に無理やり付けたようなセリフまわしが鼻について非常に嫌な感じがした。


本当のところは、明治生まれのおばあちゃんあたりに聞いてみないと分からないが、現在の価値基準で、当時の女性が差別され虐げられていたと決め付けるのは、かえってその時代を生きてきた女性に対して失礼な気がするが、どうだろうか。


という事で、日本を開国させたペリー提督の証言を載せてみた。ペリーの見た江戸末期の日本女性の一般的な姿が、他国との比較を交えながら、分かりやすく説明されている。これを見ると、当時の女性が、家庭や地域社会の中で、それなりの尊敬を受けながら生活を送っていた様子が想像できる。


ペリーのこの証言が、当時の状況をすべて物語っているとは言う気は無いが、やはり、戦前の日本における女性蔑視・女性受難の暗黒史観というのも、疑ってみる必要が無いだろうか?









No.1  平成12年9月10日

1871年 サンフランシスコにおいての伊藤博文の演説


今日、わが日本国政府及び日本国民が熱望している事は、欧米文明の最高点に達する事であります。この目的の為に、わが国では陸海軍、学校、教育制度について欧米方式を採用しており、貿易についても頓に盛んになり、文明の知識はとうとうと流入しつつあります。


しかも、わが国における進歩は物質文明だけではありません。国民の精神進歩は、さらに 著しいものがあります。数百年来の封建制度は一個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず1年の内に撤廃されました。


この様な大改革を、世界の歴史において、いずれの国が戦争なくして成し遂げたでありましょう。この驚くべき成果は、わが政府と国民との協力によって達せられたものであり、この一事を見てもわが国の精神的進歩が物質的進歩を凌駕するものである事がお分かりでしょう。



わが使節の最大の目的は、文明のあらゆる側面を勉強する事であります。貴国は科学技術により、先祖が数年を要した事を数日の間に成し遂げる事が出来たでありましょう。わが国も、文明の知識を取り入れ急速に発展する事を切望するものであります。


わが国旗にある赤い丸は、今まさに洋上に昇らんとする太陽を象徴し、わが国が欧米文明の中原に向けて躍進する印であります。



この演説は、明治4年の11月から1年9ヶ月をかけて欧米14カ国を視察した、「岩倉使節団」の一員として同行していた伊藤博文が、最初の訪問国であるアメリカでの歓迎レセプションで行ったスピーチである。伊藤博文といえば、後に大日本帝国憲法をつくり、初代内閣総理大臣となった訳だが、その彼が若干31歳の時に通訳を介する事無く英語で行ったものである。


明治維新を成し遂げ、この国の行く末を模索していた若き日の伊藤は、この日本という国を背負い、発展させていくぞという、熱き情熱と使命感に満ち満ちていたのだろう。堂々たるスピーチである。このスピーチの後は、しばらく拍手が鳴り止まなかったという。


一方、昨今の日本の外交に目を転じて見ると、目を覆いたくなる様な状況が続いている。細川総理、村山総理時代から顕著になった「謝罪外交」。最近ではそこからさらに進んで、「屈辱外交」・「土下座外交」などと揶揄される始末である。特に中国・韓国を相手にした時の、日本政府の弱腰な対応を見るとホントに情けなくなってくる。


今の政治家たちに当時の政治家の気概があったらと感じずにはいられない。








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