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寺田屋「鳥羽伏見の戦いで焼失後に再建」 京都市が修正

2008年9月25日21時31分

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写真旅館として営業している現在の寺田屋=京都市伏見区

写真寺田屋の柱にある「弾痕」=京都市伏見区

写真寺田屋の柱の「刀痕」=京都市伏見区

 坂本龍馬(1835〜67)ゆかりの場所として知られる京都市伏見区の旅館「寺田屋」について、京都市は25日、「1597(慶長2)年建設」としていた市の観光情報ホームページの説明を「鳥羽伏見の戦い(1868年、慶応4年)で焼失後に再建」と修正すると発表した。専門家の間では以前から再建説が強かったが、現在の寺田屋は観光客らに「幕末当時のまま」と説明していた。

 寺田屋は、定宿にしていた龍馬が幕吏に襲われ危うく難を逃れた事件(1866年、慶応2年)や、薩摩藩急進派の有馬新七らを島津久光が派遣した藩士が討った寺田屋騒動(1862年、文久2年)の舞台になった。

 現在は、1976年から建物を所有する会社が旅館として営業。400円で見学もでき、龍馬関係の資料を展示するほか、柱の穴や傷について龍馬が襲われた時の「弾痕」や「刀痕」と説明している。今月初め、週刊誌が展示内容を疑問視する記事を載せ、建物の由来をめぐって論議が改めて浮かんだ。

 そこで、京都市歴史資料館が調べたところ、鳥羽伏見の戦いを伝える瓦版に周辺一帯の焼失を示す図があったほか、明治時代の寺田屋関係者が残した文書にも「家屋諸共焼失シ」といった記述があった。現在の建物の東隣にある明治時代の碑にも「寺田屋の遺址(い・し)に建てた」とあり、鳥羽伏見の戦いで焼けたと結論づけた。

 市は寺田屋に適切な対応を求めた。寺田屋を所有する「冨信」の津幡学社長は、展示内容は以前の運営者から受け継いだものとしたうえで「過去の経緯と市の調査結果を精査し、わかりやすい説明ができるようにしたい」としている。

 幕末・明治維新の史料を展示する霊山歴史館(同市東山区)の木村幸比古学芸課長は「明治に再建された建物なのは間違いない。ロマンはロマンとして残し、史実はしっかり説明して、地域の観光につなげていくべきだ」と話す。(山村哲史)

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