事情があって孫を保育園に送り迎えすることになり、地域の保育事情のあまりの悪さに驚いた。子どもを保育園に預けられないばかりに、きちんと働けない母親がたくさんいる。母親から自己実現の機会を奪うに等しい。入園を待つ待機児童をなくすことは、21世紀のデモクラシーの課題である。
今年の夏はわたしにとって高3の夏とおなじほどたいへんな夏だった。理由は孫の保育園への送り迎え。
暑い盛りの2週間ほど、毎日毎日、送り迎えで汗だくになった。その前後もかなり長い間、ある日は迎え、ある日は送り、そしてある日は夕ご飯の準備と、まるで育児休業をとったお父さんのような日々だった。
たまたま事情があって、いま娘はひとりで子育てしながら働いている。夫は単身赴任中だ。昨年12月に2人目を出産したのだが、出産のため昨年6月から、わが家に同居することになった。
とにかく、である。声を大にして言いたい。2人目が生まれてからの子育ては、本当に、本当に、本当に、本当にたいへんだ。上の子は第1反抗期まっ盛りで、下の子はかたときも目を離せない。短くても2、3年間は盆と正月がいっしょに来たような状態に追い込まれる。あなた1人で育てなさいといわれたら、どんな気丈な女性だって絶望的な気持ちになるだろう。
というわけで、わたしも娘のために、まもなく60歳になる老骨にむち打って子育て支援にいそしんでいるというわけなのである。
さて同居がはじまってまもなく、わたしはこの国の保育事情の悪さにおどろいた。0歳児はまだしも、2歳児や3歳児はなかなか入園できない。途中から転入してきた場合、保育園に預けることは絶望的なくらい困難なのだ。ということは子育てしながら働いている若い親はうっかり転居もできないということだ。さらにいえば、出産する月が早いか遅いかによって、保育園に入れるか入れないかが左右されるのだ。
娘も今年の4月になるまでは子どもを預けることができなかった。というか一時保育しかなかった。したがって本格的な仕事もできなかった。一時保育ではちゃんとした働き方はできない。職業人としてこれからという矢先に、小さな子どもがいるばかりに思うように働くことができない。わたしは歯ぎしりするような気持ちで悶々とした。おじいちゃんであるわたしがそうだったのだから、まして娘はどんな気持ちだったかと思う。
子どもを保育園に預けることができないばかりに、きちんと働けない母親がたくさんいる。どんな思いだろうかと想像すると、本当に気の毒である。同情を禁じえない。
大げさに聞こえるかもしれないが、待機児童をなくすことは21世紀のデモクラシーの課題である。だれにも働く権利がある。働くことは自己実現の機会を手にするということである。デモクラシーとはすべての人に自己実現の機会を提供することだ。だから子どもがいるという理由で自己実現の機会を過度に制約してはならない。
ましていまのような格差社会では正規雇用で働くのとそうでないのとで、天と地ほども差がある。子どもがいるばかりに働き方が制約されるということは、自己実現の機会が奪われるばかりか、貧困を余儀なくされるということを意味する。ひとり親家庭のばあいは特にそうだ。だから、待機児童をなくすことは、何をおいても真っ先に達成しなければならない最優先課題なのだ。
さっき「この国の」といったが、そう言うのは言い過ぎかもしれない。待機児童の事情は地域によってものすごく違うからだ。「この地域の」と言い直すべきだろう。わたしが住んでいるのは練馬区である。練馬区は待機児童が多いことでは23区のなかでもワースト3に入る。いまも200人以上の子どもが保育園にはいることができなくて待機している。
最近やっと、区は保育園の増設に本腰を入れるようになったが、なにしろこの財政難である。民間委託が有力な手段となるわけだが、これもひとつボタンを掛け違えると、こじれることが少なくない。
公立保育園の民営化というと、しばしば反対する声を聞く。自分の子どもを預けている保育園が民営になると突然いわれたら、そりゃあ、親は不安だろう。しかし公立が優れていて民間が劣るかといえば、そんなことはない。それは偏見である。素晴らしい理念のもとに経営をおこなっている私立の保育園はいくらでもある。最近はNPO法人をつくって保育に取り組んでいる人びともいる。行政はそういう高いこころざしを持つ事業者をどんどん育てていくべきなのだ。そして一刻も早く待機児童をなくすように全力を尽くすべきなのである。
仕事と子育ての両立を実現することは、21世紀のデモクラシーにとって喫緊の課題である。
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