V 近世社会の発達
2 近世の政治的変化
3 朝鮮初期の対外関係
日本及び東南アジアとの関係
 朝鮮王朝は明と女真ばかりでなく、日本と東南アジア地域とも人的、物的交流を活発に行なった。高麗末期以来、倭冠の侵略がやまなかったので、朝鮮はこれを追い払うために水軍を強化し、性能のすぐれた兵船を大量に建造し、火薬武器を改良して国防を固めた。こうして世宗時代には200余隻の艦隊を動員して、倭冠の巣窟である対馬島の討伐もした。朝鮮の国力と国防力が急速にに強化され、一方では日本内の政治的混乱が収拾されて、倭寇の侵略は目立たって少なくなった。

 倭寇を操った日本の封建領主たちは掠奪が難しくなると、交易を懇請してきた。朝鮮はこれを契機にいわゆる交隣政策を用いて癸亥約条を結び、制限付きの朝貢貿易を許した。こうして日本の歳遣船が往来して交易が行われた。

 交易は富山浦(釜山)、濟浦(昌原郡)、塩浦(蔚山)の三浦で行なわれたが、彼らは主に米、木綿、麻、書籍、工芸品などをもって行き、その代わり銅、硫黄、香料、薬剤などをもって来た。

 また、朝鮮初期には琉球、サイゴン、ジャワ等の東南アジア諸国からも使臣と土地の産物を送って来て、朝鮮の文物を輸入して行った。とくに、琉球との文物交流が比較的頻繁に行なわれた。朝鮮初期の交易によって、朝鮮の先進的な文物は、日本及び東南アジア諸国に多くの影響を与えた。


4 倭乱と胡乱
壬辰倭乱の勃発
 16世紀に入って社会的混乱がさらに加わり、国防力が次第に弱体化して、中宗の代には三浦倭乱をはじめとして倭冠の騒乱が絶えず生じた。これに対して政府は備辺司を設置し、李珂の10万養兵説の主張もあったが、全般的には積極的な対策は講じられなかった。

 このころ日本では豊臣秀吉によって長期間にわたった戦国時代の混乱が収拾されていた。豊臣は国内政権の安定のために、不平勢力の関心を外に集めると同時に自らの征服欲を満足させるために朝鮮と明に対する侵略を準備した。

[絵:釜山鎮殉節図]

 1592年4月、倭軍が侵略を開始した。倭軍が侵略してきて、釜山鎮と東萊城では鄭撥と宋象賢が奮戦したが、ついに陥落されてしまった。倭軍は.三つに分かれて漢陽をめざして北上した。これに対して忠州で申石立が背水の陣を布いて戦ったが、武器と戦略の不備で敗れた。

壬辰倭乱海戦図
[図:壬辰倭乱海戦図]

 朝鮮朝廷は倭軍を避けて義州へ避難し、倭軍は漢陽を占領して北上をつづけ、平壌と威鏡道地方まで侵入した。


水軍の勝利
 陸地では情勢は不利だったが、慶尚道、全羅道の海岸警備を担当した水軍は、倭軍の兵站支援を受け持った日本水軍の侵略を阻止した。

 倭軍の侵入の1年前に、全羅左水使に赴任した李舜臣は、倭軍の侵入に備えて板屋船と亀甲船をつくり、戦艦と武器を整備し、水軍を訓練し、軍糧米を貯蔵した。

 彼は倭軍が釜山に上陸すると、80余隻の船をひきいて玉浦で最初の勝利をおさめた。つづいて、泗川、唐浦、唐項浦等でも大勝した。ついに閑山島の大勝で南海の制海権を掌握し、穀倉地帯の全羅道地方を守り、倭軍の水陸併進作戦を挫折させた。


義兵の抗争
官軍と義兵の活動
[図:官軍と義兵の活動]
 倭乱が生じると、全国各地で義兵が立って倭軍とたたかった。義兵は郷土の地理に精通し、郷土の条件にあった戦術と武器で倭軍に大きな打撃を与えた。

 郭再祐、趙憲、高敬命、鄭文孚らがひきいる大小の義兵部隊の活躍は大きな成果をおさめた。義兵の輝かしい戦果は、海戦での李舜臣の勝利とともに戦況を変えた。

 戦乱が長期化して倭軍に対する反撃作戦は一層強化されはじめた。すなわち、今まで散発的に立った義兵部隊を整備して官軍に編入することによって、官軍の戦闘能力を大幅に強化、作戦がより組織性を帯びるようになった。


倭乱の克服
 朝鮮政府は、はじめは倭軍の攻勢におされて、宣祖が漢陽を離れて平壌、義州へ避難するなど、守勢を免れることはできなかった。しかし水軍と義兵の勝利で戦況が逆転し、倭軍を撃退するに至った。

 戦争が長期化して朝鮮は明に援軍を要請し、明軍が戦争に参加した。朝・明連合軍は平壌城を回復して倭軍を南に追い出した。このとき権慄は幸州山城で倭軍を大いに打ち破った。

 以後戦争は小康状態に入り、休戦会談が開かれた。しかしおたがいの主張が違って、3年間にわたった会談は決裂し、再び倭軍は侵入してきれた。これ対して朝鮮軍と明軍は倭軍が北上するのを稷稜山で防ぎ、南方へ撃退した。このとき李舜臣は倭軍を嶋梁へ誘導して一大反撃を加え、大勝利をおさめた。

[絵:大砲口]

 陸地と海で再び惨敗を喫した倭軍は、次第に戦意を喪失して敗走しはじめた。朝鮮水軍は逃走する倭船数百隻を露梁の沖でさえぎり、最後の一撃を加えた。李舜臣はこの最後の戦闘で壮烈な戦死をとげた。露梁大勝を最後に7年間にわたった戦乱は終わりを告げた。


倭乱の影響
 倭乱でわれわれが勝利をおさめることができたのは、わが民族がもっていた潜在的力量がすぐれていたためである。つまり、官軍次元のわが国防能力は日本に劣っていたが、全国民的次元の国防能力は日本を凌駕した。わが民族は身分の貴賎や男女老若を問わず、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識をもっていた。こうした精神力が国防能力に作用して倭軍を撃退させることができる力になった。

 一方、倭乱は国内外的に多くの変化をもたらした。まず、国内的には、長い戦争で人口が激減し、農村はたいへん荒廃した。したがって、国家財政の窮乏と食料不足を解決するための対策として空名帳(貧民救済のために富裕者に官位を売り、その代金の証書……訳者)が大量に発給された。また、李夢鶴の乱のような民乱が各地で起こり、土地台帳と戸籍が多く焼失したために、租税、搖役の徴発と身分の区別が混乱した。

 また、国際的には、束アジアの形勢が大きく変化した。朝鮮と明が戦争で疲弊した隙に乗じて北方の女真族が急速に成長した。

 そして東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化財を略奪し、多くの技術者と学者等を拉致していった。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本の文化発展に大きな影響を及ぼした。


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