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フグは世界中の海で獲れる。世界中の人が食べようと思えば食べられる魚だ。 しかし、フグを食べるのは日本人と中国人と朝鮮半島の人と、その他ごく少数の人でしかない。 60億の人類のうち、フグの味を知っているのは1割もいないのではないだろうか。その1割の中でも、もっとも熱心に食べているのが日本人である。フグも摩訶不思議だが、世界中の人に言わせるなら、日本人のほうがもっと摩訶不思議な存在かもしれない。 実際に、知り合いのアメリカ人やフランス人から、日本人はどうしてフグを食べるのですか、不思議な民族ですね、と言われたことが何度もある。 しかし、私に言わせていただくなら、フグの味を知らずに美味論議をすることのほうがはるかに不思議だ。女房一人しか女を知らない男が女論議をするようなものではないか。 フグを食わずに美味を語るなかれ、と言いたい。 最近、私は講談社から、『フグが食いたい!』(プラスアルファ新書)という本を出した。 魚類を研究する専門家でもなく、フグの調理師でもないド素人の私がフグの本を書くなんて厚かましい話かもしれないが、フグの味を世界中の人に知ってもらいたい、というやむにやまれぬ気持ちから書いたものだ。サブタイトルには、 〈死ぬほどうまい至福の食べ方〉 とある。 フグについての薀蓄を傾けているだけではない。実際に、どんなふうに食べればうまく食べられるか。フグの至福の食べ方もくわしく書いてありますよ、とこれは、PRでもあるが、私の老婆心でもある。 せっかくフグを食べながら、あんな食べ方をして、もったいない、あれではフグも浮かばれまい、とそばで見ていて情けなくなるような食べ方をしている人が結構いる。 私もこれまで、フグ料理屋で何度もそんな人を見かけてきたことがある。 その人のためにも情けないし、食われるフグのためにはもっと情けない。 一年に何十遍も食べる機会があるわけじゃないのだから、最高にうまい食べ方をしなくては! と他人事ながら口惜しい思いをせずにはいられなかった。 |
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そこで私なりに一生懸命のアドバイスを、ということで〈死ぬほどうまい至福の食べ方〉というサブタイトルになったのだ。 もちろん、素人の私だけの意見では心もとない、という方もいらっしゃるだろう。 というわけで、全国各地のフグ食い名人たちの意見も紹介した。その、ほんの一部をここにお伝えしよう。 「全国のフグ問屋で、おそらく、うちが一番高値で買っているのではないかな」 と自慢しているフグ問屋が大分県の臼杵うすきにある。一番いいフグを買うから一番高値になるのは当然だ、というのがゴ自慢の理由なのである。 その問屋のご主人の「フグの一番うまい食べ方」は、 「そりゃあ、なんといったって刺身が一番だよ。あまりデカすぎるやつはだめ。1・5sくらいの『二晩生かし』が最高だね」 というものだ。 「二晩生かし」というのは、獲ったフグを舟の中ですぐには絞めず、生簀に入れて2日間生かしておくことだ。 定置網や底引き網など網漁で獲られたフグは、網の中で大暴れするから網から引き上げたときには疲労困憊の極に達している。体力が落ちてしまって身が締まっていない。 背中の血合いのところに赤みが差して、刺身も取りにくい。そんな状態で絞めるのは利口な方法ではない。 2日間、生簀に入れて餌もやり、たっぷり休ませる。そして元気が回復し、身も引き締まったところでさばいて刺身にするのである。 5s以上もある大物になると、2日ではダメで、「三晩生かし」「四晩生かし」しなければならないそうだ。 「なるほど! 二晩生かしか」 と私は大いに納得した。 「生簀にぽかぽか浮いている魚を網ですくって客の目の前で刺身にさばいてみせる料理屋がありますよね。客はこれこそホンモノの活け作りだと喜ぶけれど、生簀に10日も半月も入っていた魚なんて半病人みたいなものですよ。水も汚れているし、餌も悪いし……」 とさる名人から聞かされた言葉を思い出したからだ。 |
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ただし、刺身が一番、と断言するご主人の言葉には必ずしも賛成しなかった。 大分の臼杵では刺身にフグの肝をたっぷりまぶして食うのが名物になっている。これは刺身でなくてはできない芸当で、問屋のご主人が「フグは刺身が一番」というのも無理はないが、大分以外のフグ屋ではフグの肝なんて絶対に出てこないのだから、肝まぶしの刺身が一番、と言われても、これは一般性がない。 フグ料理には唐揚げや天麩羅、塩焼き、味噌汁などもあるが、なんといっても刺身とちり鍋が双璧であろう。 では、フグの美味の一番、ということではどちらに軍配をあげるか。 いや、雑炊を忘れていた。刺身よりも、ちり鍋よりも、雑炊が一番だという人を何人も知っている。 刺身、ちり鍋、雑炊。三つ巴の決戦だ。勝者はどれか。 諸説紛々。そう簡単には軍配をあげられないが、思い切って私の独断的軍配をあげさせてもらう。 ちり鍋が東の正横綱である。刺身は西の横綱。そして雑炊は大関としたい。 ご異論のある向きもあるだろうが、私は断じてこう思う。 ただし、普通のちり鍋ではない。ちょっとした工夫が施されたちり鍋である。これこそ〈死ぬほどうまい至福の食べ方〉である。 どんな工夫なのか。残念ながらそれを完璧に説明するにはかなりの紙幅が必要で、ここでは少し無理だが、要点だけを最後にご説明させていただく。 |
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フグ刺しのほうがちり鍋よりうまいという人が多いことは、私といえども認めざるをえない。 値段だってフグ刺しのほうが高いのだから当然である。高価なものが安いものより「うまい」「楽しい」「面白い」のは市場原理である。 刺身にはトラフグを使い、ちり鍋にはシマフグやサバフグを使う。両者を単純に比較するのはフェアではない。 私が、あるフグ名人に伝授されたのは、 「大皿にたっぷり盛った刺身をポン酢だけで食べきってしまうのは単調すぎるし、もったいない。トラフグの最上のところを使った刺身を鍋に入れて、〈の〉の字、一字、サッと一掬すくいしてポン酢につけて召し上がってごらんなさい」 というものだった。 だが、ちり鍋コースを頼んでも一流料亭では、鍋ははじめのうちは食卓に登場しない。 〈の〉の字を書こうにも書きようがないのである。 だから私は、なじみの店ではわがままを言って、はじめから鍋を持ってきてもらう。鍋が煮え立つまでは、煮こごりやゆびきなどでビールを飲む。 すぐ目前の天下の至味を想像しながら心を静めてビールを飲むこのひとときの楽しさも言い難い。 鍋が煮立ってきたら、鍋の野菜類と刺身を交互につまむ。熱いのと冷たいのとが替わりばんこに喉のどを通過する刺激の強さがたまらない。 刺身を大皿の3分の1か半分近くまで平らげたところで、いよいよ、〈の〉の字のはじまりだ。フグ刺しの大皿に箸を伸ばして、一切れつまみ上げた刺身を鍋にくぐらせる。 鍋の中で、〈の〉の字を書いて、5月の空の燕のように反転したフグの刺身はたちまちわが口中へ。その後を追うように酒が放りこまれる……。 このように書いただけで、もう涎よだれが出てきた。 |
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