言うべきことでも、書くことでもない

 親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方には、
「○○坊は信心獲得していた」「△△は信心決定していたと思う」など、個人名を挙げて「信・不信」を仰ったという記録は何処にも見あたらない。
 なぜだろう。

 他人の信心は、たとえ善知識であってもハッキリ分かるものでないからだろうか。

 それとも、大体分かっていても「○○坊は信心決定していた」「△△は信心獲得した人だった」などと、他人の「信・不信」を言うべきではないからであろうか。

「分からないからか」、「言うべきことではないからか」、いずれにしても全くそのようなお言葉は聞かれない。
 善知識方も仰らなかったそんなことが、日常茶飯事話されているグループがある。
 親鸞学徒なら決して言うべきことではなかろう。

「○○さんは信心獲得していると思う」とか「△△君は信心決定しているから、彼に聞いたら良い」などと安易に言えるのは、親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方でも分かられなかったことがハッキリ分かるとでも思っているのだろう。

 たとえ善知識方が、ほぼ分かっていられても「言うべきことでも、書くべきことでもない」と自覚なされて、あえて仰らなかったとすれば、親鸞学徒は、なおさら使うべき言葉ではないのだ。

 少しは気が引けるのか、「信心決定」や「信心獲得」という重い言葉は避けて、
「あの人は喜んでいる」「あれは目覚めた人」「この人は一味だ」
などと言ってはいるが、グループでの信心獲得の隠語である。

 他人の信心を、「あれは信心獲得している」「これも信心決定している」などと、親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方でも仰らなかったことを平然と言えるのは、人間の判断できる程度の信心だからであろうが、知識から信心を与えられた人を知っている土蔵秘事者らが、「あの人は、われわれと一味だ」と言っているのと類似する、と思われても致しかたないだろう。

関連記事

よくある質問

親鸞会に寄せられるご批判や、意見について参考になる情報を提供します。

財施について

無条件服従について

マインドコントロールについて

作者へのメール