2008-09-08
■[本]ひょっとして
今どき「左翼」を自認する人は、かつてのマルクス的共産主義の理念を旗印そしてあるいはアリバイにした中央指令型計画経済(まともな「計画」なんか実はなかったから「指令経済」なる呼称の方がふさわしい、との塩川伸明先生のご指摘は示唆深いがとりあえず)は、そしてまたユーゴ型自主管理協議体制も、そもそも基本的に駄目である(たまたま運が悪かったとか、努力不足だったとかいうわけではない)という認識は当然に持っていて、ただ社会的公平や弱者支援のための市場への介入や再分配を要求する広義の社会民主主義者なんだと思っていたのだが、違うんでしょうか。
ひょっとしてまだ世間には「社会主義経済は可能だ」と思っている人が残っている、あるいは昔をよく知らない若い世代が出てきたんでしょうか。
しつこいですが
- 作者: コルナイヤーノシュ, Kornai J´anos, 盛田常夫
- 出版社/メーカー: 日本評論社
- 発売日: 2006/06
- メディア: 単行本
- 作者: ヤーノシュコルナイ, Janos Kornai, 佐藤経明
- 出版社/メーカー: 日経
- 発売日: 1992/03
- メディア: 単行本
- 作者: ジョン・E.ローマー, John E. Roemer, 伊藤誠
- 出版社/メーカー: 青木書店
- 発売日: 1997/02
- メディア: 単行本
あたりで学ばれてください。どぎついものは避けましたので。
追記
あえて釣られてみる;
社会民主主義的政策(の中長期的持続)も、ほっときゃ資本主義体制が崩壊するかもという条件の下でないと実現されない→故にこれからは新自由主義一択ですね、わかります
http://b.hatena.ne.jp/kyo_ju/20080908#bookmark-9934152
「誰もそんなことは一言も言ってないのにあんたはアホですか」と言いたいところをこらえて(ないけど)善意にとってみる。
でもその前にやはりこの議論(脊髄反射的ブコメに論を求めてどうする、というのはさておき)が飛躍していることは指摘しておかないといけない。
「社会民主主義的政策(の中長期的持続)も、ほっときゃ資本主義体制が崩壊するかもという条件の下でないと実現されない」から「これからは新自由主義一択」という結論を出すやつは頭がおかしい。このお方の「新自由主義」という言葉が何を指すのかよくわからないが、それがまともなマクロ政策とか社会保障政策の不在を意味するのであれば、まさに「新自由主義一択」こそ「ほっときゃ資本主義体制が崩壊するかもという条件」である。ロシアから共産主義者どもが攻めてくる恐怖よりも、もちろんそれとあいまってではあろうが、大不況下の大量失業、そのもとでの社会不安の恐怖の方が福祉国家の形成にあたって重要なモメントだったに決まっている。
それでもやはり「共産主義の脅威」、「「現存した社会主義」の存在が西側における福祉国家政策の追求にあたって後押しになった」とは広く認められていることは確かだ。本当かどうかについての検証が果たしてどれくらいきちんと行われているのか、と考えるとふと不安になったが、とりあえずそうだとしておく。
しかしもちろんだからといって「「現存した社会主義」のおかげで福祉国家ができました、尊い犠牲に感謝しましょう」などという論法を通すわけにはいかないのは確かである。
だが生温くリベラルで穏健で実務的な社会民主主義者の説得だけでは、福祉国家の実現には足りなかったかもしれない(もちろん福祉国家はリベラルや左翼によってだけではなく、家父長的な保守主義によっても後押しされたとは言えるが)。福祉国家さえも「微温的で姑息な弥縫策」と拒絶するラディカルの脅威が醸し出す不安なしには、福祉国家はよく実現できないかもしれない。
しかしこうなると、こういうことになる――ラディカルな左翼はいないよりはいた方がよいが、あまり強くなられて、権力を握られても困る。反対党として存在し、声をあげ、体制を批判して文句をつけてもらうと助かるが、それ以上の存在になられても困る。
おそらく左翼の有用性は、世論レベルでの異論派にとどまるのではなく、実践レベルでも明確にあるだろう。経済面に限っても、不況期には抵抗勢力たることによって逆説的に不況の悪化を食い止め、あるいは好況期には、営利企業にとっては採算性が低く参入しがたい新ビジネスのインキュベーターとして機能する可能性がある。すなわち社会の後衛ないし前衛としての機能が、左翼には期待できる。しかしそういう新ビジネスは、もし生き延びたならばいずれは営利企業にのっとられるか、あるいは国家によりのっとられるか、なのだろう。
というような話はすでに『「公共性」論』に書いたのだがこうしてみるとかなり岩田昌征先生の影響が強いなおれも。
zames_maki 2008/09/09 03:41 稲葉氏へ
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080904/p2#c
>残念ながら、あなたはあまりにも不勉強です。
いきなりで失礼だがここにコメントさせていただく。私は書いたとおり稲葉氏の本なぞを読んでいないし、今読む気もない(稲葉氏自身の形容なら銭を投げ与える気はない)。しかしこうした質問にまともに答えるのが一般社会でいう専門家の責務というものだろう。それに反しある質問に対し、「この本を読め」ではなんの答えにもならない。それは例えばこういうことだろう。
1:私の友人に専門的知識の議論になると必ず「この本を読め」と言い出す人がいた、しかし自分ではその内容を説明できなかった。それは結局彼がその内容を理解できていなかったからだと、周囲は感じていましたね。
2:ネットでは、その場で説明できなければ負けたことになるのは稲葉氏自身でも経験的に分かっているはずだと思われる。稲葉氏自身のブログの記述からでそう感じている。それを出来ないというのは、それをテーマにしている者(専門家)なら下記の理由でやはり恥ずべきことだろう。
3:稲葉氏は
>そもそも私は社会主義の専門家ではないですから。
とこれは自分のテーマではないと逃げているようにも見えるが、一方
>私などの書いたものは信用できない
>ぼく自身の見解は拙著に述べてあります
と専門家である自分を信用しないネット上の無名者(私)にお怒りなだけでしょうね。しかし、自分の主張は自分で説明するのが責務というものでしょう。
4:私は専門家が自説を講演するのを何回も聞いたことがあるが、そうした場のQ&Aでは時間的理由から非常に短い、簡潔でかつ分かり易い説明が求められる。しかし専門家全てがそういう説明ができる訳ではなく、知っていそうなのに回答できない場合もあります。しかし聴衆からみればその説明が全てであり、そういう説明ができない人は簡単に言えば信用されないということです。現実社会では聴衆は発言者に一応の敬意は払うが実際にはあの人の言うことは「?」となるでしょう。
最後に、もちろん質問に答えるか否かはその方の自由であるのは言うまでもありません。しかしネット上のむき出しのQ&Aでは上記のような事が言えるだろうということです。
shinichiroinaba 2008/09/09 05:36 zames_maki様
お気に触られる点がございましたら申し訳ないことです。
当初の貴兄にご質問につきまして、私自身のとりあえずの解答は、ブログの(それもよそ様の)コメント欄で展開するにはいささか長すぎるものとなりますし、率直に言って常識に属するもの、まさにfaqでございますので、失礼とは存じましたが、そこでリンクしました旧稿のご紹介をもってかえさせていただいた次第です。その程度の分量でも、実際には不十分であるのですが、ないよりはましだし、何より無料で、また図書館にお出かけになる御手間もおかけせずに、極力簡単に私なりのご説明を貴兄にご覧いただけると存じました。
それ以上の手間を、見ず知らずのあなたに、タダで提供しなければいけない義理は、失礼とは存じますが、私にはないと存じますが、少しだけ書いてみましょう。
先ほど「faq」と申し上げましたが、率直に言って、「社会主義計画経済にもまだ可能性は残されている」という見解は、たとえば大規模災害時や戦時のような緊急避難の場合、あるいはごくごく部分的な実験の場合を除き、まったく正当化できません。結論的にいえば今日ではそれはそれは「9・11陰謀説」並みの、あるいは「水からの伝言」なみのトンデモ言説と呼ばざるを得ません。
簡単に骨子のみご紹介いたしますと、百万単位の人を含めた大規模な経済を日常的に長期的に運営していくための手法としては、あまりにも非効率的であり、かつ政治腐敗を日常化し、結果的には市場経済以上の極端な不平等さえも招きかねない、ということは、繰り返しになりますが、専門家の間では、歴史的な経験上も、また理論的にも異論がないところであると存じます。
おおざっぱにいえばその理屈は、人間の知力の有限性(それほど多くの情報を一度に処理しきることはできない)と、利己性(自己の生存をある程度は優先しなければ、そもそも生存していけない)とを前提としたうえで、社会主義計画経済は第一に(1)計画に必要な情報を社会全体から集め、集計し、人々のニーズを適切に満たすような計画を立案することができない、(2)そして第二に、仮にそのような計算ができたところで、それを実行することができない、なぜならばそれは上からの強制以上のものではなく、末端の人々にはそれに従う積極的な利益が往々にしてない――といったものです。
これ以上の明確な論証は、もちろん貴兄がお求めになっているであろう、ブログのコメント欄でのやり取りで提示できるようなものではありませんし、それ以上のまとまった記述を新しく私が書き起こすまでもなく、より進んだ文献をご紹介すれば済む話と存じます。
なお差し出がましいとは存じますが、「ネットでは、その場で説明できなければ負けたことになる」というお考えは、改められた方がよいと存じます。そもそもネットにおける喧嘩というものは、「最後までその場に残って自説に固執した暇人の(自称)勝ち」以上のものではないことがほとんどでしょう。そんなものに興味はありません――と言い切れれば格好良くて、私自身もついついそういう下らない「勝ち負け」に気を取られてしまうのですが、一応頭では理解しております。
それにこれが勝ち負けの問題だとして、そこで賭けられていたのは何でしょうか? そもそもこれはfaqレベルの問題であり、ほとんどニセ科学レベルの議論であり、論点についてはすでにほぼ決着済みであって大筋では論じるべき余地は残っていないのです。ここで私の負けとは、要するにこのほとんど議論の余地ない真実をきちんとあなたにわからせることができなかった、ということです。まあもちろん「啓蒙」を標榜する私にとってそれはひどい敗北、失敗なのでしょうが、あなたにとってはどうでしょうか? それはあなたにとってもまた、ご自身のプライド、勝利の満足感と引き換えに、無知なまま、肝心なことについて致命的な誤解を抱えたままで居続ける、ということを意味するわけです。
あなたはそもそも社会主義の問題について、公的に論じる資格、あなたの見解を公的な場に提示する資格がいまのところはないのです。(私が物理学や分子生物学やプログラム科学や租税法学やその他あれこれについてあれこれ言う資格がないように。ちまたでいう「教科書嫁」とはそういうことです。たとえばあなたも、ここしばらくの日本の教育政策のありよう、現実の政策のことも、現場の実態もろくに知らない「有識者」が、自分たちのそれなりに基調かもしれないが所詮は私的なものにすぎない経験をもとにした放言が「提言」として重んじられる様にあきれたことはないですか?)しかしあなたはその自覚を欠いている。もちろんどうやらそれはあなた一人の問題ではありませんし、あなたのような人々がいまだにたくさんいることに対して、私なども責任の一端を担ってはいるのでしょう。となればあなたがおっしゃるとおり、私なども知識人のはしくれとして責務を果たさねばならないのでしょう。
しかしその責務の中に、あなた個人をきちんと啓蒙して、社会主義についてのよりまともな見解を抱くように説得する、までが入っているのかどうか、あのようなコメントをしておきながら申し訳ない話ですが、少しばかり疑問もわいてまいりました。
と申しますのはどうやらことは「イデオロギー」の問題にかかわっているようだからです。そして「イデオロギー」はそれとそのままイコールというわけではないのですが、イデオロギーにまつわる話は、しばしばその人の信仰と申しますか、根本的な価値観のレベルにかかわってきます。
あなたはおそらくは私の社会主義批判が著しくイデオロギー的であると疑っておられるわけです。それは今回の場合、「人間が基本的に利己的で、共産主義的に助け合うようにはできていない」という私の想定の中に見て取られていると存じます。さてそのような私の想定については、もちろん私にも私なりの見解がございます(ごく簡単には先ほどの「最低限の利己性がないとそもそも生き延びられない」等々)が、このレベルで他人を説得することは全く不可能――とまでは申しませんが、著しく困難であることは承知しておりますので、基本的には私、あきらめております。
もちろん私は全面的相対主義者ではありませんので、良いイデオロギーと悪いイデオロギー、とでも言うべき違いがないことはない――すくなくとも相対的に有害な、多くの人の命を危険にさらし、世の中を乱すイデオロギーもあれば、比較的害の少ないものもある――とは思っていますが、それでも、それがこと信仰、人の根本的な生き方のレベルにまでかかわってくれば、人が自分の生き方を自分で決めること自体はかなり根本的な「善」であると信じますので、よほど有害なイデオロギーに染まっているのでなければ、他人のイデオロギーを、たとえそれが間違っていると思っても、尊重する――正確にはそのイデオロギーをではなく、そのイデオロギーに準じる人の信仰を尊重する――というか敬して遠ざけておきたいものではあります。それじ実際問題として、そういう信仰を変えさせるということはとても困難です。
ですから私は、論争めいたことをする場合にも、基本的には相手を説得するのではなく、論争を通じて相手から何か学んで自分の利益とすることを、そして副次的には、相手にではなくギャラリー、第三者に対して自分の見解を伝えることを主に念頭に置いております。これを失礼と感じる方もおられるかもしれませんが。
そしてもっと失礼なことを申し上げることになってすみませんが、率直に申し上げて、私は貴兄から何か新しいことを学ぶことを、ほとんど期待しておりません。もちろん私は貴兄のことをよく存じ上げているわけではないのですが、貴兄のブログや私に目に入った限りでの書き込みからは、本当に失礼ながら「またか」という程度の感想しか得られませんでしたし、自分の若いころの姿を見せられるような気恥かしささえ時に感じました。それに私ども間の違いがイデオロギー、つまり信仰のレベルのものであるとすれば、どのみち「説得」は期待できないわけですし、私としましては、せめて断片的な知識と、あなたが(そして第三者の皆さんが)ご自身で勉強を始められるためのヒントを提示するくらいしかできない、とあきらめておるわけです。
妄説をしかし誠実に、信仰に基づいて奉じている人を説得することはできない。私どもにできることは、基本的には、その妄説に他の人が足を取られないように警戒を呼び掛けることであろう、というわけです。
shinichiroinaba 2008/09/09 06:06 なお畏友松尾匡さんは社会主義の肯定的可能性に賭ける数少ない経済学者ですが、彼は「現存した社会主義」を「国家資本主義」ととらえています。私見では、果たしてそれは言葉づかいの違い以上のものになっているのか、疑問ですが。
松尾氏の考えるところでは「真の社会主義」はいまだ実現されていません。このような考え方は塩川先生によっては「未練論」と厳しく批判されていますが、それはさておき、松尾氏の考える社会主義は協同組合連合体であり、基本的には一種の市場経済です。ただしその主体がエゴイスティックな営利企業ではなく、協同組合である、というところがポイントです。この議論に対する批判ももちろんんたくさんあるのですが、興味深くはあります。
松尾匡 2008/09/09 10:52 ちょうどたまたまこんなのを書いたところです。
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_80909.html
ちなみにアソシエーションはシステム論としては市場とは別のものですけど、二百年も三百年も先の話をしても仕方がないので(というか語るのは抑圧のモト)、資本主義体制のもとでの部分セクターの話に専ら議論を限っているだけのことです。なお、人間が利害追求的でなくなるという意味でエゴイスティックでなくなることは、未来永劫ないと思っています(利害を語れというのが疎外論)。その点スターリン体制はとんでもないけど、実は見事インセンティブ整合的で、出世による特権と、粛清の厳罰で生産動員する仕組みでした。厳罰はやめようよとなったとたん、うまく機能しなくなったわけです。
エントリーの批判対象がどのようなお考えなのかはわかりませんが、直接見聞きするソ連型派について言えば、40年前には、国有計画経済にした方が効率がよくて生産力も上がり、お腹いっぱい喰えるようになるという主張で、間違っているけど問題意識はとても共感できるのですが、今日ではそんな言説は忘れ去られ、効率追求や生産拡大などやめて、のんびり怠けながら働いて喰っていけるならそれがいいじゃないかという、かえって躍進期よりも停滞のブレジネフ時代の方を評価する議論になっているような気がします。そう言われるとちょっと正直反論につまりますけど。
shinichiroinaba 2008/09/09 11:45 その評価軸のずれ込みの話は何と言うかそれ自体がひどく評価に困る話ですよね。
「社会主義者が剰余価値所得範疇を擁護するなよ!」
うひゃひゃ。しかしあれでしょう、私どものレベルでは資産運用を考える前に、まずは運用して意味があるほどの資産を働いて作るのが先決では。
kyo_ju 2008/09/09 19:02 別の方と応酬が盛り上がっている(いや、これで終わりかな?)と思われるところ恐縮ですが、せっかく当方の「脊髄反射」に言及して戴いたので、ごく簡略に。
私のブックマークコメントがいわゆる「言ってないことを読み取るマン」であることは重々承知しています。「広義の社会民主主義者」以外の左翼は存在すること自体許されない、と読み取れる書きぶりに私としてはかなり違和感を覚えたので、あえて言っていないことまで読み取って書かせて戴いた次第です。
言いたかったことについては、追記を読む限り、稲葉先生にはほぼ正確に読み取っていただけたと考えます。
ただ、計画経済の持続可能性を真剣に検討する立場が「9・11陰謀説や水伝並みのトンデモ」であり、現存した社会主義(指令・統制経済)以外の社会主義的経済の可能性の模索がもっぱら「未練論」であるなら、「ラディカルな左翼」が一定の社会的有用性を持つことを認めるという稲葉先生の所論は、
「明らかなニセ科学(及びそれを信奉する人々)であっても、それによって本やその他の商品が売れて経済が回ったり、人の心が癒されたりするのだから一定の有用性を持つ」
という主張とあまり変わらない気がしますが、その程度の有用性しか認めないということでよろしいのでしょうか。
shinichiroinaba 2008/09/09 22:30 >kyo_juさま
今回はご丁寧に痛み入ります。
やはりここはこちらの言葉が足りなかったというわけでしょうか。
おそらくはkyo_juさんもお認めになるとは存じますが、「ラディカルな左翼」=「計画経済論者」とは思っておりません。今日はむしろそういう人は圧倒的に少数派でしょう。ただその多くの人は全体的な経済体制のマネジメント方式についてそれほど深く考えたことがないため、比較的計画経済論に対してわきが甘いという可能性はありますが、積極的に支持している人は今日ではそんなにいない――というのは希望的観測でしょうか。
かつて岩田昌征先生は計画経済原理を市場経済原理に対する「補完」と位置づけておられましたが、「社会主義の解体」以降の少なくとも一時期はもう少しトーンを弱められ、「批判・批評」という形容を使われたこともあると記憶しております。ぼく自身はあくまでも市場を軸とした上での「補完」でよく、「批判・批評」原理としてのみ「計画」を位置づけるのはちょっと――という気もしているのですが。
とにかくぼくは「ラディカル左翼=計画経済」とは考えておりませんし、またその役目は狭義の宗教的な慰撫にとどまるものとも考えていません。
ぼくがここで何となく想定しているのは、利他性に基づく連帯の可能性に強くコミットし、それに基づいた社会的実践に強く期待する、という態度です。このような態度がかつて労働組合や共済活動を生み育て、あるいはエコロジー運動を生み、更にはまた草創期のインターネットとか今日のフリーソフト運動などをも支えていたのではないか、と考えています。
こうした営為はその初期局面においては、それこそ「市場の失敗」に強くさらされ、とてもじゃないが個人の自助努力や営利企業には任せられず、そうしたビジネスの社会的有用性を強く信じ、手弁当での献身によって初めてある程度のところまでいけるのではないでしょうか。
まあこのようにラディカル左翼を位置づける立場は、なまじの右翼の「左翼死ね!」よりもある意味はるかに失礼な立場なのではありますが。たとえは悪いですが、ハイエナの獲物を横取りして、食べ残しを放り投げるライオンみたいな感じで。
shinichiroinaba 2008/09/10 08:26 >zames_maki様
いま気付いたのですが、イデオロギー論についてはこちらもご覧いただけると幸いです――いえ、あなたを説得したいわけではないですよ。あくまでもご参考までに、ということで。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080618/p1
kyo_ju 2008/09/10 18:58 こちらこそご丁寧にありがとうございます。
全ての財・サービスの生産、流通を中央機関からの指令で行うような「全体的な計画経済体制」を実現可能と考えることが「トンデモ」として否定されることと、左翼の存在可能な位置が穏健に弱者対策を説く社会民主主義者以外にあり得なくなることの間には、確かに一定の距離があるとは思います。その中間に、トンデモならざる「ラディカルな左翼」の経済政策面での居場所が(可能性としては)いくらか広がっているかもしれない、ということになるのでしょう。
また、ラディカルな左翼の思想には全く同意しないが、社会的有用性の点から存在意義を認めるという論じ方は、何も稲葉先生独自の論法というわけではなく、(少なくとも日本では)思想の左寄り、右寄りを問わず広く見られる傾向だと思います。
労働運動や生協運動、その他ボランタリーな組織作りの基盤として期待する立場もそうですし、例えば議会内の共産党や無党派左翼系議員に政治家や官僚の不正に対するチェック機能、調査能力をもっぱら期待するような立場もそうでしょう。
そうした社会的活動家の供給源として以外にも、二大政党制下におけるダウンズ均衡によって穏健社民が中間派の支持を求めてズルズルと右に寄っていき、結果としてより高水準の再配分を求める人々の受け皿がなくなるような状況への抑止力として、政党制の内部にラディカルな左翼政党が一定の勢力を持つ意義を認める立場もあるかもしれません。
ただ、ここで問題になるのが「ラディカルな左翼」の存在に社会的有用性があるとしても、いったい誰がそれを担うのかということです。
異なる社会経済体制への移行の可能性が否定された状況下で、例えば70:30の配分を68:32にするとか、目の前の「弱者」をひとりひとり手助けするとか、そういった活動目的のために、スタハノフ的に献身的に活動する人がどれくらいいるか。そのモチベーションは持続可能なのか。
あるいは、計画経済体制や「アソシエーション」あたりへの素朴な期待を保持する人は存在し続けるでしょうが、せいぜいカルト程度の動員力しか期待できないのではないか、と。
「全体的な計画経済体制」が幻想ないし悪夢でしかないとしても、ラディカルな左翼が奉じるに足る何らかの社会構成原理は(たとえそれが無害なだけのイワシの頭でも)要請されざるを得ないのではないかと愚考する次第です。
ところで、塩川先生の著作は私もそこそこ拝読させていただいておりますが、「未練論」という言葉は、確かE.H.カーの「未練史観」から派生して、「あの時こうしていれば社会主義体制は崩壊しなかったのに」的な論法で現存した社会主義体制の歴史から目を逸らしたり、ひいては「あの体制を社会主義体制と呼んだことがそもそも間違っていた」と過去の自分の認識まで歪めたりするような当時よく見られた態度への批判として使われたものではなかったかと思っていました。
現存した社会主義体制と異なる社会主義的な社会経済体制の検討にまで「未練論」という言葉を浴びせてしまうとすれば、塩川先生にとってもやや不本意な拡大解釈なのではないかと考えるのですが、いかがでしょうか。
逆に岩田先生の著作はこれまでほとんど読んでおりませんでした。機会があれば読ませていただこうと思っております。
kyo_ju 2008/09/10 19:20 あ、「ラディカルな左翼が奉じるに足る何らかの社会構成原理」を稲葉先生は提出する義務がある!などと主張しているわけでも、私が今からそれを語るから刮目して待て、という宣言でもありませんので、その点は念のためお断りしておきますw
通行です 2008/09/10 21:36 ライオンとハイエナ、逆。
shinichiroinaba 2008/09/11 00:43 >kyo_ju様
ご趣旨大変によくわかりました。その辺は私も私なりに悩んでいる問題ではございますが、変に「物分かりの良い」ことを言うことがかえってよくないのかな(今でも十分に悪い意味で「物分かりが良い」のではと恐れております)、と思いまして、あえて突き放した物言いを心がけておるのですが、難しいですね。
「未練論」については貴下の理解が適切だと思いますし、私自身もそのつもりで書いていたのですが、拡大解釈との誤解を与える余地があったのでしょうか? 反省せねばならないところです。
>通行ですさま
かつて動物番組で「実はハイエナこそが精悍なハンターなのであり、のろまなライオンがそれを横取りしているのだ!」とのエピソードを見まして、それがいたく衝撃でした。
kyo_ju 2008/09/11 09:04 「未練論」の件は誤解である旨了解しました。何か他のことが頭にあって、そう読んでしまったのかもしれません。失礼しました。
また、ラディカルな左翼が依拠できるような社会構成原理が「ないと困るだろう」という認識はあってもそれが具体的な像を結ばない以上、幻想を振りまくような「物分かりの良い物言い」をしないというのは、適切な態度なのだろうと思います。
もっとも、稲葉先生の左翼に対する言動にはそれ以上の煽り成分を感じてしまうこともあるのですが、それは「芸風」(ツンデレ?)なのだと思って諦めることにしますw
>知識人さま 2008/09/11 16:27 >あなたはそもそも社会主義の問題について、公的に論じる資格、あなたの見解を公的な場に提示する資格がいまのところはない
ふーん。
リフレ政策に賛同している著名人
リフレ政策に賛同しているブログ・Webサイト
http://wiki.livedoor.jp/reflation/d/%A5%EA%A5%D5%A5%EC%C0%AF%BA%F6%BB%BF%C6%B1%BC%D4%B0%EC%CD%F7