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July 29(Tue), 2008
mask de mikan
照屋証言を巡ってこれ程の論争があったとは驚きました。大変勉強になりました。
それにしても、沖縄に限らず近代史を語ることの困難さは歴史学というより、心理学的な、或いは人間そのものに対する知見をも試されることに繋がるのではないかという思いがします。
うまく説明の出来ませんが、現在の思惑によって過去を利用することはやはりよくない結果になると思います。
自分としては、東アジアになにか途方もない暗い時期が迫っているように感じます。この問題もその大波の前触れではないかと思うのです。纏まりのない感想で済みませんが
みなさまに感謝します。
和田
mask de mikanさん
そのとおりで、過去のことで東アジアの住民が反目を続けるのは悲しいことです。
私は、あなたはもしかして日本主義に凝り固まった人かもしれないと思っていました。
日本主義に凝り固まっていても事実に基づいて論争してくれればいいのですが。
昔の秦郁彦は手法でごまかしていたが、最近の秦はもうろくして曽野綾子などの主張を鵜呑みにしているから間違いを犯すと考えていた。
そうではないようです。
文部省は少し前まで自決と軍にかかる検定の記述を検討する8人の有識者の意見をホームページに載せていました。そこで秦がこんなことを言っています。
以下引用
○安里喜順巡査(『沖縄県警察史』第2巻P.774,他に昭和史研究会報56号)
「村長から頼まれ米軍上陸直前に住民対策を聞くと、赤松は非戦闘員は生きられるだけ生きてくれと述べ、西山へ避難するよう勧告したので、防衛隊員を通じ、村長に伝えた。」
沖縄県警察史該当部分は下記
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/804.html
一部引用すると
「赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。・・・・私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。このような状況の中で私は赤松隊長に会った。 「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それで部落の住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐ部落に引き返した。」
村長から頼まれ米軍上陸直前に住民対策を聞くと、という秦の説明とは異なり安里巡査は一人、独断で赤松に会いに行っている。地理に疎い安里があらかじめ村長から頼まれているなら村長は安里に案内人をつけるはずで、安里が赤松を捜すために山中をさまようエピソードとはならない。面会の日が26日の上陸の前ではなく、1945/3/27夕方であることは、赤松と秦を除いて疑う者はいない。
赤松の証言を2つ示す。まず1968/4/6週刊新潮
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/990.html
「3月26日、米軍が上陸したとき、島民からわれわれの陣地に来たいという申し入れがありました。」
米軍上陸は3/27曽野綾子は「鉄の暴風」の誤った上陸日が2、3 の著作(様相・概要等)に引用されたというが1960年代では山岡詔八等軍に近い著者も3/26を米軍上陸日としている。従ってここでは、上陸後に会談があったと主張しているとみるべきである。ところがこの説明は覆される。
雑誌「潮」1971年11月号での赤松証言
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/767.html
「二十六日夜、大町大佐を渡嘉志久の基地から送り出したあと、私たちは山の反対斜面に本部の移動計画を立て、寝ていると、十時過ぎ、敵情を聞きに部落の係員がやってきた。私が「上陸はたぶん明日だ」と本部の移動を伝えると「では住民は? 往民はどうなるんですか」という。正直な話、二十六日に特攻する覚悟だった私には、住民の処置は頭になかった。そこで「部隊は西山のほうに移るから、住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう」と示唆した。これが軍命令を出し、自決命令を下したと曲解される原因だったかもしれない。しかし、村当局が、部隊の背後に隠れるのが、もっとも上策だと判断したのも、とうぜんだろう。村では、まえまえから集結する計画もあったのではないかと思われるフシもある。」
(阿波連ではなく)渡嘉敷の住民が恩納河原に集結する計画であったことを知ったのは曽野綾子。この証言内容は時期的にも内容的にも「ある神話の背景」に近い。Nio615さんによるとこの文章は曽野綾子が書いたことになり内容が似ているのは当然ということになる。
曽野綾子は「鉄の暴風」の恩納河原と西山盆地の混同を利用し、住民がもともと玉砕場に集結する予定だったという神話を創作した。一連の印象操作の一環である。
結局、秦郁彦の「村長から頼まれ米軍上陸直前に住民対策を聞くと、」との表現は安里証言の正確な引用ではなく、赤松・曽野綾子の表現を合成したものということになる。
もうろくではなく、露骨な自作自演だったのだ。
mask de mikan
和田さん長文のご返事ありがとうございます。
私はこの国を愛する者の一人ですが、決して右派というわけではありません。
ただこの国が、憎悪と殺人の大渦巻に呑みこまれていくのに耐えられない想いを抱くも者です。
私としては、自決命令云々は状況から見てあってもなくても変わらないと考えています。
命令が曲解された可能性は当時の心理状態を考えればあり得るでしょうし、第一、沖縄戦それ自体が人命軽視の戦術思想に立脚して起案されているのでしょうし。
旧軍の戦術テキスト等にも合理的な戦術技法に依る状況の打開より、「精神力の最大の発揚」とか、「犠牲的精神の発揮」等を重視するかのような記述が目立ちます。
これには明治維新の原動力であった薩摩藩の剣技、示現流の剣理である「攻め在って守りなし」が影響しているとの説もあります。
旧軍の攻撃重視、補給軽視の戦術教育が沖縄住民の被害に対する関心を薄くさせる大きな要因になったのでしょうか?
日露戦争後、明治40年に陸大教官だった高橋おとまる少佐執筆のテキスト「初級戦術」には、戦術上の編成単位に補給やその為の機関の概念を持つ必要はなく、各人が携行する食糧自体で補給機関とみなせるとの解説があります。
高級参謀を養成する機関の教育が軍の作戦に直属した補給に関してさえこの調子ですから、その他の住民など視野の外という風潮があったとしても当然でしょう。
住民の集団自決の原因になったのがこうした思考傾向のから来る、誤った指示の連鎖の結果だと考えれば、やはり旧軍の責任はまぬかれないと思わざるえません。
沖縄戦の実相はその視座によって多様な解釈を許すのでしょう。戦争一般についていえることかもしれませんが。
ある人は悲劇を嘆き、ある人はその中で示された勲や勇気を讃え、ある人は現在の虚ろさを忘れる目的でと、向き合う態度は様々です。
ただ過去の死者たちは黙して語るこのない永遠のしじまに立っているのです。
我々の何が可能なのか、どうすれば未来に希望を繋げるのか。
私にはわかりません。
ni0615
>>和田さん
私がアップした資料をご活用くださって有り難うございます。
唐突ですが、赤松自身が執筆に関与した2点の史料公開が待ち望まれます。
1、まずは、曽野が赤松擁護の原典として使った1970年製の「陣中日誌」です。その史料批判は適切に行なわねばなりません。
2、もう一つは1の下敷きになったもので、たぶんそれをそのまま公開したくなかったので、1を皆で編纂した(cf;赤松デビュー週刊新潮記事)ものと思われます。
赤松が1946年に戦後捕虜収容所でしたためた「戦闘記録」です。これは、第一復員省(旧陸軍省)または復員庁に提出され、のちに、「戦史叢書」の「陸軍沖縄作戦」の慶良間作戦の部の下敷きになったものです。
(年次など詳細データはうろ覚えですから鵜呑みにしないでください)
両者とも防衛省にはあるはずです。
1は裁判原告側が証拠提出していますが曽野が用いた切り抜きにとどまるのか、それとも全文なのかは不明です。
2は証拠提出されていません。原告側も被告側も問題にしないのが不思議です。
和田
(渡嘉敷島)集団自決(第1)の真実で
1 安里巡査と赤松は、「住民を捕虜にさせないために軍近くの一箇所に集合させる」ことに意見が一致し、
2 住民は、赤松本部近くで待機し新城(富山)兵事主任が赤松に伺いをたてると赤松は「本部陣地から離れて北の西山盆地に移動せよ」と命令した。
3 本部陣地は地形上、渡嘉敷の住民が避難していた恩納河原に似た山の反対斜面で安全度が高い地域。西山盆地は見晴らしの良い台地上の地形で住民が集結した第1自決場の北には米軍、南には赤松隊が対峙する恰好となった。
4 持ち場を離れて数十名の防衛隊が住民の集結場に行き、住民に手榴弾を配った。
5 第1自決場で集団自決が始まった。
という大筋は動かせないでしょう。
防衛隊を掌握しているのは赤松。それでも赤松の自決命令がない ?
阪神 ni0615さん、陣中日誌も戦闘記録も公開されている文書ではないような気がします。というのは沖縄戦関係資料閲覧室http://www.okinawa-sen.go.jp/ で資料検索してもそれらしいものがみつからないからです。公開していないのか或いは私家版なのかもしれませんね。とりあえず明日あたり恵比寿の防衛省図書室へ行ってぶらぶらのぞき見してきます。
和田
戦闘記録などの問題もありますが、赤松隊によってスパイ視され処刑された住民には旧厚生省援護局から援護金、見舞金のどちらかが支給されているのでしょうか。
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/document2007.html
上記の国会の靖国神社問題資料集によれば、援護金が支給している場合のほとんどは靖国神社が合祀しているが、見舞金が支給されている場合、靖国神社は場合分けして合祀を判断しているようだ。 私は、赤松に処刑された住民は靖国カルトとは180度異なる視点から靖国神社などに合祀されるべきではないと考えるものであるが、実際はどうでしょうか。
何も支給されず、靖国神社に合祀されていない場合、この件に関して政府と靖国神社は戦前の建前と本音を未だ維持しているといえます。援護金か見舞金が支給され、靖国神社が合祀していなければスパイ視され処刑された住民に関して国と靖国神社には考え方に相違があるといえる。
現在、原告は集団死した住民を美化しようとしているが次には処刑された住民を貶めることに力を注ぐはずである。
阪神
ni0615さん、陣中日誌ありました。やはり直接行かないとわからないものですね。海上挺身第3戦隊陣中日誌は2つあり、1つは戦死者名簿付となっています。70年8月15日付けで谷本小次郎の挨拶文がありました。赤松が46年1月に浦賀復員局に提出した戦闘記録は、この陣中日誌巻頭にある赤松が記した「渡嘉敷島戦闘の概要(20年11月)」の事ではないかと思います。これは5頁弱のものでした。それにしてもこの陣中日誌が最初に書かれたのは何年頃なのでしょうね。あと一つ気になる記録がありました。「沖縄作戦 海上挺身第三戦隊記録」です。これは手書きで読み辛いのですが、『本資料は終戦後、海上挺身第三戦隊に配属されていた木村明中尉(戦後死亡)が海上挺身第三戦隊本部要員として(副官的業務担任)記述したものである。(赤松氏談)これを海上挺身第三戦隊長赤松嘉次少佐(53期)が所持しているものである。本記録は当時のメモを基礎として記述されたと思われる。内容は相当正確と認められる。また赤松隊も手を入れたものと思われる。』と複写時の説明文がありました。さらっと見たところ、内容は陣中日誌と同じではなく、もしかしたらこれが陣中日誌の雛形なのかな、と思いました。「当時のメモ」が存在したのかどうかは不明ですが、防衛庁は66年2月14日に借用して66年3月14日に複写しています。週刊新潮68年4月8日号に赤松が登場する2年前ですね。「当時のメモ」があるとすれば、木村明中尉の遺族か赤松の遺族が保存しているかもしれませんね。かなり期待薄ですが。
余談ですが、梅澤元隊長が宮村幸延氏に判子を捺印させた文書や同元隊長が書いた「集団自決の真相」が収められている「昭和20年3月渡嘉敷島及び座間味島における集団自決の真相(渡嘉敷島村駐在所巡査 比嘉喜順)」も見ました。比嘉氏と徳嵩力氏の往復書簡も見られます。
あと玉井喜八氏は渡嘉敷村史編集委員長として90年3月に村史を発行しています。死亡年月は未だに不明です。
阪神
訂正します
×防衛庁は66年2月14日に借用して
○防衛庁は「沖縄作戦 海上挺身第三戦隊記録」を66年2月14日に借用して
阪神 防衛省図書館には非公開資料があります。儀同保氏が書いた資料が非公開でした。同氏著「慶良間戦記」を要約したものだろうと思われます。墨塗りで構わないから公開して欲しいと思いました。
和田
8月5日の投稿について判決と靖国神社資料から結論はわかりました。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20080425164436.pdf
上記の判決を引用する。158〜159ページ
「沖縄県の住民は,沖縄県遺族連合会が懇談会,協議会を開催するなど,集団自決について援護法が適用されるよう強く求め,琉球政府社会局を通して厚生省に陳情する運動を行った。以上の実態調査や要望を踏まえて,厚生省は,昭和32年7月,沖縄戦の戦闘参加者の処理要綱を決定した。この要綱によれば,戦闘参加者の対象者は,?義勇隊,?直接戦闘,?弾薬・食糧・患者等の輸送,?陣地構築,?炊事・救護等の雑役,?食糧供出,?四散部隊への協力,?壕の提供,?職域(県庁職員・報道関係者),?区村長としての協力,?海上脱出者の刳舟輸送,?特殊技術者(鍛冶工・大工等),?馬糧蒐集,?飛行場破壊,?集団自決,?道案内,?遊撃戦協力,?スパイ嫌疑による斬殺,?漁撈勤務,?勤労奉仕作業の20種類に区分され,軍に協力した者が広く戦闘参加者に該当することとされた。」
?にスパイ嫌疑による斬殺が明記されている。
一方、下記靖国神社資料
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/document/2007/200704/0241-0300.pdf
の「243」〈昭和三十三年秋季靖国神社合祀事務等の細部について〉には一の3には「死亡区分は死亡公報に記載のとおり記入すること。・・・・なお、単に「死亡」と記入する場合は死亡事由「○○による射殺」「自決」及び「受傷部位不詳」等と明記すること。」とある。
「○○による射殺」とは、日本軍のスパイ嫌疑による斬殺などを指すと思われる。
このことから、スパイ嫌疑による斬殺について当時の、靖国神社のベクトルは援護法と同一方向を向いており、(年金支給又は合祀をする)同じような措置(同一歩調)をとったといえる。
当時このことにどのようなメッセージが込められ、あるいは受信者にどのような意味があると受け取られたのかを考える必要がある。
さらに、このことは別の項目(A級戦犯合祀)との意味連関、現在の裁判で問われている問題、原告目標の二重性などを問う基礎的事実となる。
阪神
「海上挺身第3戦隊陣中日誌」には山崎先生の2007.12.7日記にあるとおり、本部陣中日誌と第三陣中日誌を元につくられたと書かれていました。防衛省では本部陣中日誌は見当たりませんでした。検索が不十分だったのかもしれませんが・・・
「沖縄作戦 海上挺身第三戦隊記録」と「海上挺身第3戦隊陣中日誌」をさらっと見比べた所、前者には3月28日の村民の死者は「若干」としか書かれていないのに、後者には住民がなだれ込んできただの、200名の死者だの、阿鼻叫喚だのと書かれていました。明らかに後者は70年3月の赤松訪沖騒動に影響された結果書かれていると思いました。前者の記述は8月に投降するまでの経過が書かれていますが、後者より明らかに文字数が少ないです。なぜ赤松は66年2月14日に防衛庁に提出したのでしょうね。この第三戦隊記録は謎めいています。
参考までにマルレ会報も見てみましたが、第1号は1967年4月20日に発行され、会報を順次見てみましたが赤松、梅沢の投稿記事や消息などは書かれていませんでした。マルレ会では積極的に活動していなかったのかもしれませんね。
阪神
1949年発刊の沖縄俘虜記(宮永次雄)に梅沢少佐の話が出ています。表記はU少佐となっています。梅沢少佐の『手をあげて、しかも女を連れて出てきた(投降した)。芋を盗った兵隊を殺せと命じた。』という噂を聞いて激憤した兵士たちに呼び出されて鉄拳の雨となったそうです。鉄の暴風が発刊される前年の登場です。沖縄では将校は別柵に入れられ、軍作業も無く、早めに復員したようですが、これは梅沢氏にとっては不幸だったのではないでしょうか。というのは沖縄の各所の捕虜収容所では1年半の間に活発な文芸活動が芽生え、その過程で人間性を快復していったからです。梅沢氏は沖縄俘虜記295頁〜296頁にも書かれているように、「日本軍隊の残滓(因循と姑息)をむき出しにして、食うために生きるためにあえいできた」のではないでしょうか。
沖縄俘虜記には小録収容所内で三瓶達司によって綴られた「姫百合の塔」が紹介されています。この「姫百合の塔」は、具志の青嶺(三瓶達司)、愛と鮮血の記録(金城和彦)でも紹介されていますが、この3冊の本を読み比べると、人々の間を話が伝わっていく過程で尾鰭背鰭がつくのだという事がよくわかりました。
和田
スパイ嫌疑による斬殺された者について年金支給又は合祀をしたことは、大東亜戦争は聖戦であり、軍は全面的に正しかったという全面聖戦論を部分的に否定し、またそれは国及び靖国神社が対内世論に引きずられ対内的妥協と新たな抱き込みを狙った措置ではあるが民に対して捕虜になることの厳禁を緩めるメッセージとも考えられる。
戦闘協力の20形態のうち集団自決とスパイ嫌疑による斬殺の背景にある共通事項は捕虜の厳禁である。米軍による住民の惨殺という情報操作が両者を招いたのであるが、スパイ嫌疑による斬殺(された者)をも戦闘協力者に含めたことは、軍民は未来永劫、臣民として一体的に戦闘に協力すべしという靖国イデオロギーに亀裂をもたらしかねない論理である。
このようなスパイ容疑惨殺の処理は、軍民一体論理を否定するか、スパイ容疑は行き過ぎ又は事実誤認として新たな一体論を再構築するか靖国信仰の岐路でもあった。
スパイ嫌疑による斬殺された遺族に年金を支給し靖国神社に合祀するという意味は(極小的ではあれ)対内的に軍の行き過ぎを認めており、軍にはいかなる瑕疵もないという立場ではない。
靖国神社のスパイ嫌疑による斬殺処理(合祀)も極めて狭小な部分ではあるが対内的に戦争の聖性を修正している。原告を支援する主流派は、対内的な軍の汚れた部分を消し去り、軍を顕彰するのが目的である。しかし、藤永弁護士のような磯部浅一、景山正治的シャーマン右翼は、それ以上に軍民一体の幻の叙事詩を創作することを目的としている。一審の敗訴に焦る主流派がスパイ容疑者・集団死に手を掛けた民への侮りを強めているのは疑いもない事実。 スパイ惨殺の赤松を擁護する者は現行援護法・靖国の論理を非難しなければならない。しかし、それと同時に軍民一体の幻覚叙事詩創作企図は破綻する。
現行スパイ嫌疑惨殺処理と惨殺者処理は矛盾を孕みつつも、結論として靖国論理の手直しであって否定まで行き着かなかった。なぜなら、スパイ容疑で惨殺した軍人は処罰もされず、靖国神社に合祀されたはずであるから。
この意味で渡嘉敷島の隊長が処罰されるべきであったという「沖縄ノート」の内容は靖国の論理を完全に否定する論理であり、聖戦か否か、官が強要した戦争かどうかなど事態の本質を突くものであった。その論理からみれば、国と靖国神社は靖国論理を否定せず、金と名誉回復 ?により、惨殺された者を買収したに過ぎないと考えることも可能である。
ところで、靖国神社が対内的に止まらず対外的に聖性論を一部修正するとしたらA級戦犯分祠論になる。(分祠もしないとなれば、聖戦論の存在意義が危ぶまれ靖国神社の本質が転換したといえる。靖国神社が存在するかぎり聖戦論は消えないはずで分祠でも論理の一貫性はなくなる。若干だがA級戦犯分祠論でも惨殺者戦犯論に繋がる可能性もある)
結局、靖国神社はA級戦犯を合祀した。その意味は、対内的に大東亜戦争は聖戦であり、軍は全面的に正しかったという立場であり対外的には、日本は大東亜戦争を聖戦として闘い、正しかったが力がなかった、臥薪嘗胆し、おりがくれば、新たな真珠湾・南京などを今度こそ最終的成功裏に実行する用意があるとみられて当然の立場でもある。
惨殺者年金支給はそこまでの射程を孕む問題であるが、とりあえず惨殺者まで戦闘参加者と認定するのであれば、(沖縄本島では島自体慶良間列島より広く、その上住民・島民共に移動した。また、慶良間より軍人の戦史割合は高い。従って住民が惨殺者の氏名を知ること自体むつかしいケースや戦死した軍人に惨殺命令を認定させることはできないケースが多々あったにも関わらずスパイ嫌疑による惨殺を認定し、援護金を支給したと考えられる)自決類型は軍命令などを調査するまでもなく簡単に認定されたはずである。援護金にかかる実質的責任者馬淵氏の言動と渡嘉敷島の公式サイトの数字はそのことを示しているように思われる。
ni0615
阪神さんこんにちは
暫く離れていて申し訳ありません。
>なぜ赤松は66年2月14日に防衛庁に提出したのでしょうね。この第三戦隊記録は謎めいています。
それは、「戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦」の編纂の為だと思います。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1183.html
それに参加でき、戦史叢書の記述が殆ど赤松の証言どおりになったことで、防衛庁「正史」の上で赤松は名誉回復を果たしたと思い、週刊新潮に記事にあるように、第三戦隊戦友会を招集したのだと思います。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/990.html
なお私は友人から、防衛庁史料のコピー3点を送ってもらいましたが積読状態です。おそらく阪神さんが見つけたものなのでしょう。
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1、昭和21年1月9日調整 戦史資料 海上挺進第三戦隊 赤松印
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これは、赤松氏が収容所で書いたメモもとに、引き揚げ船到着の浦賀の引き揚げ援護局(復員省?)にて、復員手続きの一環として、リライト(=調整)したものでしょうか。
3のp41によれば、
・昭和21年1月3日 石川収容所を出発、那覇港より乗船
・1月7日 浦賀港に到着、浦賀引揚援護局に到着、同地にて復員手続きを実施。
・1月10日 引揚援護局において復員業務完了、解散。各自出身地に帰郷す。とあります。
原稿用紙は「東京蔵本ノート納」となっていますね。赤松氏は収容所でこんな実印風のものを持ち歩いていたのでしょうか?曽野本と齟齬のある、3月25日の「沖縄本島転進命令」が目を引きました。
「集団自決」に関する記述が今のところ見つかりません。赤松は本当に知らなかったか隠したかったようです。
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2、沖縄作戦 海上挺進第三戦隊記録(付 人名簿)
元海上挺進第三戦隊長 元陸軍少佐 赤松嘉次
防衛研究所戦史室
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これは、戦史室が戦史叢書編纂中に赤松氏から事情聴取した際の調書ではないでしょうか。本人が書いたものでしょうか? 一見して、独特の速記的クセ字は 1の筆跡とは全く異なります。聴取者が自分のメモを纏めたものではないでしょうか?
市立図書館にある戦史叢書「沖縄方面陸軍作戦」の記述と照らし合わせて解読してみます。
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3、海上挺進第三戦隊陣中日誌 防衛研究所図書館
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これは私の想像では、週刊新潮に書かれている谷本小次郎氏を中心にまとめた昭和45年「陣中日誌」を、防衛研究所図書館が、巻末の二文を追加して復刻タイプ印刷したものではないでしょうか? 前者を持っている方は、照合して異同を確認する必要がありますね。
はち
ni0615さん解説有難うございます。なるほど戦史叢書編纂のための可能性が高そうですね。ちなみに儀同保「慶良間戦記」では戦史叢書について「その記録のとりまとめの目的と、執筆者の立場から明らかなように、日本軍の勇戦敢闘が強調され、失策や住民のことについては殆ど書かれていないし、また個人の名誉特に陸士出身者については、殊更配慮しているように見られる」と書かれています。
また、陣中日誌と第三戦隊記録の異動は全てを確認しておりませんが、曽根一等兵が逃亡した日付(8月初旬)が1日違っていました。もっとも、日付についての記憶違いなどはよくある事ですが・・・
私も時間があれば異動確認をしてみようと思います。
阪神 ↑HN間違えました。阪神です。
キー坊
>ni0615 さん。
>曽野本と齟齬のある、3月25日の「沖縄本島転進命令」が目を引きました。
赤松印のある海上挺進第三戦隊資料の『曽野本と齟齬のある、3月25日の「沖縄本島転進命令」』についてですが、どんな点で齟齬があるのか教えていただければあり難いですが。
ni0615
キー坊さん
質問をうけて
>曽野本と齟齬のある
なんて書いちゃって、自分が不安になりました。
「戦史史料」(s21年調整)を引用します。
五、戦闘状況
1、参加セル主要ナル作戦(戦闘)の概要
(略)
二十五日二十時本島転進に関する左の命令を受領し折から阿嘉島より来島せられたる第18船舶団長大町茂大佐の命ににより遂に転進を決し泛水に着手す。
とありまして、赤松大尉が泛水命令を下したのを後からきた大町大佐が反対した、という曽野本とは、前後が逆で大町大佐の命令内容も泛水命令を妨げたと、命じたでは全く逆です。
またそのあとの記述ですが、泛水完了までの苦労と、泛水したものの転進も、はたまた揚陸も困難になったと記されている点では同じですが、そこには曽野本にあるような「転進をもって出撃に替えるべし」などのことは全然書かれていません。
つまりどういうことかというと昭和21年に書いたものには大町大佐との葛藤など微塵もない。後に70年沖縄にでむいて抗議の声を浴びた赤松は、出撃をビビッタ卑きょう者という指弾をえて、その弁解の為に、自分は出撃を意図していたのに上官の大町大佐が妨げた、という死人に口なし物語を、曽野綾子とともに作り上げたのでしょうか。それとも「戦史史料」のほうが矛盾のない「報告書」として「調整」されたのでしょうか。
理由は想像するに過ぎませんが、大町大佐の登場しかたは、時間軸と命令内容において齟齬があります。
いずれ(たぶん1ヵ月後)全ぷん電子化します。すんません、とろくて。
和田
知念副官の沖縄県史証言より
数少ない出撃中止までの証言。 他の記述と比較が必要。
「3月23日、早朝から始まった空襲は24日、25日と続いて、激しさを増すばかりでした。25日駆逐艦を先頭にして、巡洋艦、潜水艦と二十隻ばかりの米艦が慶良間列島の内海に侵入して来ました。その時基地隊は「出撃準備せよ!」と各中隊に連絡していました。搭乗員は、爆雷を点検したり、給油をしたりして、最後の調整に余念がありません。夜に入って、泛水作業が軍民一体となって行われました。水盃をかわし、基地隊は、重機を構えて泛水も無事終わって、先頭を切る私は、機関銃を抱えて、今か今かと、出撃命令を待っていました。
しかるに、その時、内海に居ったのは、哨戒艇一隻、他には何も見あたりません。このことは、隊長に私が報告しました。止むなく司令部へ敵艦の所在について、指示をあおいでいました。返ってきたものは、「赤松隊は本島に合流せよ」という命令でした。気の早い連中はモーターを回転させて今にも飛び出して行かんばかりです。行く者も、見送る者にも緊張の瞬間でした。折から慶良間列島視察中、阿嘉から渡嘉敷に来ていた大町司令官は、泛水を中止し、すみやかに揚水するよう、命令しました。勇躍出撃しようとしていた隊員たちは、気をそがれて唖然として、いました。二百五十キロ爆雷のついた船艇を海面から引きあげ、レールにのせるだけで隊員たちは精根つきていました。
とうとう、グラマンの飛びかう中に、その秘密兵器の姿をさらけ出してしまったのです。どうにか一部は壕の奥に隠し、揚水できない大多数は、破壊してしまわなければなりません。隊員たちは命令どおり、ピッケル状のもので船艇に穴を開け、海底に沈めてしまいました。
私の部下の結城伍長は、出撃すると言って聞きません。隊長の命令でも聞けないと、まさに跳び出さんとしていました。私は結城の舟に穴を開けました。彼は舟もろともごぼごほ沈んでしまいました。海底で梶を握っている彼をひき上げたのは、やはり私の部下でした。」
注目すべき記述がいくつかあります。
まず、基地隊が「出撃準備せよ」と各中隊に連絡していたとの記述。基地隊の記述が誤りでなければ直接慶良間に米軍が侵攻した場合、戦隊は独断専行(緊急の場合現場の軍部隊には独断専行が認められる。認めなければ時期を失したり、闘わずして全滅することもありうる。)で出撃も可能、出撃時期を探る役割分担が基地隊にあることにならないか。そうすると22日に来島した鈴木大尉(座間味に向かった大町大佐の舟に同乗し渡嘉敷下船。後大町大佐の船艇に同乗し戦死したとされる)は祝いなどでなく20日の天号作戦開始を受けて勤務隊の指導のために来島していることになるのではないか。切羽詰まった状況を祝いに変えたのはやはり嘘の巨塊曽野綾子か。
第2に泛水が終わり、出撃準備が出来さらに揚水さえ終えた後にグラマンの偵察があったことになる。「泛水も無事終わって」との記述と大町大佐の「泛水中止」命令の矛盾を含め出撃中止は唐突に思える。命令系統上、司令部命令を覆す権限が大町大佐にあったかどうか。
結城伍長は9.11のアタのように出撃に前のめりになっていた。結城が隊長の命令と言い大町大佐の名前を挙げていないのは何故か。
手元に「ある神話の背景」持っていないが、知念ではない他の人物が先頭を切りエンジンがかからなかったため出撃できなかったとの記述ではなかったか。知念が先頭との証言が事実ならこれも曽野綾子の嘘。
ni0615
>>知念副官の沖縄県史証言
和田さん、これは何年何月の成立ですか?
キー坊
ni0615さん。
ご説明有難うございます。
3月25日の夜、誰が泛水を命じたかに、曽野本と「戦史史料」(s21年調整)との間に齟齬あるのですね。これは内容的に見過ごせない齟齬でしょうね。
私はこの特攻不出撃場面の曽野綾子の記述に、不自然なものを感じています。22・3日からの米軍の猛攻に島は物凄い破壊をされていて、25日の夜が過ぎれば、翌日更に猛爆が行われる事は必至で、特攻出撃が益々難しくなる情況にあります。こんな情況下で、船舶司令官が自分の面子をつぶされたと立腹して、出撃中止を命令するでしょうか?
和田さんが紹介してくれた「知念副官の沖縄県史証言」は1974年の刊行ですが、この聞き取りは、曽野綾子が沖縄取材をしている時期と重なっていて(大城将保氏談)、この頃知念は「ある神話の背景」を読んでないでしょう。和田さんが引用した知念証言のちょっと前の部分に、私にとっては興味深い証言があります。
「渡嘉敷・座間味・阿嘉で丸く囲んだ内海で全舟艇は250キロの爆雷を抱えて、内海の中心に向かって・・・敵艦に接近し、・・・爆雷を投棄して、60度の方向転回をして、・・・遁走します。その後、4秒で爆発するので搭乗員は助かる算段は、充分にあるわけです。」
つまり、マルレ特攻艇は脱出が想定された攻撃艇で、「必死」の特攻隊ではなかったのです。この事は、梅澤裕も何度も証言している事ですね。
曽野綾子が欺瞞的なのは、この事に付いて、本の中でまったく述べてない事です。執筆前に赤松と打ち合わせて、書かなかったのだと思います。赤松隊は「必死」の覚悟を持った純粋な特攻隊であったと、その精神性を強調したかったからに違いないです。
これは赤松隊が生への執着を持っていて、何かの理由をつけて出撃を取りやめた事を、隠そうしたのではないかの疑惑を生じてます。また、自分らも死ぬ覚悟だったから、住民を処置(処刑)するのになんら抵抗を感じなかった、と捕虜住民処刑の正当化にも使われてます。だが、知念・梅澤証言の存在は頭かくして尻隠さずです。
「戦史史料」(s21年調整)は恵比寿の資料室にあるのでしょうか。それならば見に行きたいと思います。
ni0615
キー坊さん
総合的な考察をする時間がなく、逐語てきなツッコミで御気を悪くしないでください。
> 私はこの特攻不出撃場面の曽野綾子の記述に、不自然なものを感じています。
曽野は小説家として<弱い人格の赤松>と<強い臣民の赤松>を2極に想定し、その間のオシレーションとして物語を創作しています。それは、吉川英治の「新平家物語」のなか平家の公達を描く筆法によく似ています。
(しかし、曽野が吉川と違うことは、洛内洛外の外界(けがい)の庶民、この場合は砲弾の嵐の中で『玉砕』へと右往左往した渡嘉敷の人たちに目を向けなかった、ということです)
ですから、事実を深く検証していけば、曽野が書いた「事実」と称する部分の虚偽性、創作性は必ずや浮き彫りになるはずです。
>この聞き取りは、曽野綾子が沖縄取材をしている時期と重なっていて(大城将保氏談)、この頃知念は「ある神話の背景」を読んでないでしょう。
どうでしょうか? 「ある神話の背景」諸君連載は1971ですから、十分読んでいる可能性はあります。曽野は、諸君を赤松戦友会でう読んでもらい、その意見を1973年の単行本初版で反映し改筆しています。
その「知念証言」も、赤松が週刊新潮で豪語した「新しい歴史記述」の一環であることは間違いありません。勿論、一環ではありますが一貫してないところに、和田さんに突っ込まれる余地があるというわけです。
>つまり、マルレ特攻艇は脱出が想定された攻撃艇で、「必死」の特攻隊ではなかったのです。この事は、梅澤裕も何度も証言している事ですね。
これは海軍の特攻艇「震洋」と本質的に異なることです。「震洋」隊の隊長であった鳥尾さんの文章を読まれると、<性格の弱い公達>であった赤松隊長の姿がより明確になるような気がします。
> これは赤松隊が生への執着を持っていて、何かの理由をつけて出撃を取りやめた事を、隠そうしたのではないかの疑惑を生じてます。
私は、曽野本を読んで、貴方と同様の確信をえました。そうでなければ、田村隆一の「曽野賛辞」は理解できません。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/755.html
和田
曽野綾子の「ある神話の背景」における新たな嘘が発覚しました。
その前に知念証言の時期ですが沖縄県史は10巻、さらに付録も何巻かあった大部なもので企画から完成まで数年がかりの作業を要したことは間違いなく、発行が1975年であっても知念証言が1970年ということもありえましょう。ただ証言箇所に証言の日付はありません。
巻末にあったかどうか未確認です。恐らく沖縄県や編集者に問い合わせないと確認できないと思われます。
さて、知念証言には次のような記載があります。
「赤松隊は百隻の船艇を持ち、三つの中隊に分かれて、おのおの渡嘉志久、阿波連に配備していました。私は本部付の警戒小隊長で、出撃の時は私の船艇が先頭を切ります。私の次に赤松隊長艇、そのあとに三中隊が横に広がつて続き、突撃の態勢にうつると、ぱーっと散兵して、目標に向かうことになっていました。」
後半は極めてまっとうな戦術の王道で海戦でのT字戦法、ガダルカナル島で椰子林と海岸線の細い通路を一列縦隊で突撃し全滅した一木支隊の事例を持ち出すまでもなく、「ある神話の背景」で富野が南から出撃し他はそれに続くような戦法は各個撃破されるので絶対避けるべきものである。
曽野綾子の「ある神話の背景」では南側にいた富野から出撃することになっていたがエンジン不調で後が続かなかったとの記述であった。
渡嘉敷島の地図
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/pdf/jiketsu02.pdf
さて、「ある神話の背景」には、転進命令の目的地が那覇とされている。沖縄本島と渡嘉敷の地図を見ればすぐわかることだが、出撃準備をした渡嘉志久ピーチから南回りは那覇へ遠回り。米軍の後続部隊は南から来ることが予想される。さらに事実として那覇へ帰還しようとした大町等が搭乗する船艇2隻とも渡嘉敷の北、儀志布島附近周りの航路を利用している。転覆し渡嘉敷に生還した一隻は渡嘉敷島東北端附近に漂着したとも書かれている。 地図を見ると渡嘉志久ピーチ500ないし600メートルで湾口が南に偏っていることもない。2中隊のモーターボートの出撃は数列までで可能。一列縦隊は軍理に反する。
知念は原則としても、事実としても先頭は自分だったと証言する。
富野のエンジン不調の記述も曽野と赤松の談合から作られた神話にすぎない。
5,600メートルの遠浅海岸は多数のモーターボートの泊地にはなるが15隻の駆逐艦等が侵入できる海深と面積を備えた場所ではない。米軍が停泊している写真も小船艇ばかり。
つまり、駆逐艦等の侵入は渡嘉志久ピーチではありえず、A高地などに陣取る勤務隊の無線連絡で出撃準備をしたと考えられる。駆逐艦10隻以上監視の目の前で泛水作業が出来るわけがない。 司令部命令があるまでいかなる事態でも出撃できない日本軍ではない。どんな軍隊でも奇襲されれば、命令がなくとも独断専行で反撃できるよう教育している。
知念は法廷証言で「赤松隊長の自決命令があったか」という裁判長の質問に「ありました」と答えたらしい。根が正直なのかもしれない。そうすると「ある神話の背景」で曽野綾子が知念に将校会議のことを尋ねた1971年7月11日の答えも違う見方も出来る。
その時期は、曽野が名古屋での赤松隊との会合を終え「ある神話の背景」の連載を始めようとしていた時期に当たる。 「まだ出来ていない本部壕で将校会議はなかった」という答えは「既に出来ていたA高地壕で将校会議があった」ことと矛盾せず、後者が事実であったとしても知念が嘘をついたことにはならない。さらに元の知念証言を嘘の巨塊、曽野綾子が少々改竄しても不思議はない。ここらへんにも復郭陣地とA高地を混同させようとし続けた曽野綾子の意図があった可能性は消えない。
阪神 ドキュメント映画「それは島」はポレポレ東中野にて11月2日(日)18時10分上映開始です。関係者によるトークもあります。
阪神 梅澤氏が神戸新聞に反撃を開始した85年の7月ですが、86年3月31日発行の「母たちの戦争体験」(沖縄県婦人連合会編)に宮城初枝さんの証言が出ていました。この証言を初枝さんが書いたのは、梅澤氏が神戸新聞に反撃を開始する前なのか後なのかは判然としません。証言には梅澤氏の話は出ておりませんでした。「アメリカーに捕まれば婦女子はさんざん弄ばれたうえに刺殺され、男は道に並べられてローラーの下敷きにされてしまう」という言葉が惨劇の最大の要因と書いています。また、助役が忠魂碑前に集合するように伝令を出したことは書いておらず、「どこから聞こえてきたのか、部落民は全員忠魂碑前に集るようにという命令が伝わってきました。それまで各家族ごとに防空壕にかくれていた人達は、もはや助かる見込みもないし、これで住民が全員集まって玉砕するんだなと、だれ言うともなしに晴れ着に身を包み、ありったけの食事を腹いっぱいに食べて、住民のほとんどが忠魂碑前に出かけました」と書いています。初枝さんが梅澤氏と再開してから5年を過ぎての証言ですが、特定の個人やその遺族に気を使った証言だと思いました。
和田
宮城初枝の謎
「母の遺したもの」で疑問を感じるのは宮里盛秀(祭祀空間を忠魂碑に変えた人物だから軍国主義に染まっている)が梅沢に「若い者は軍に協力させ老人と子供を自決させようと思う」と語ったとされながら(伊江島の例などから若い者とは女も含むと考えられる)年齢的に戦闘可能な伝令の恵達ともども死んでしまい、産業組合壕に居た役場職員の家族57人の中で生き残りはなく、戦闘参加(協力)はなされなかったという事実。
語られたことが事実だとして宮里盛秀が軍の意向を忖度したのか(1)、事前に軍から米軍上陸後玉砕するように言われていたのか(2)問題は残る。
語りと現実行動の齟齬をどう説明するか。その間に村民の多くを忠魂碑前に集結できなかった−島民は四散した−という事実が介在する。
そうすると、とりあえず村民の多くを玉砕させることはむつかしくなったとはいえる。何故自分たちだけが死に急ぎ戦闘に参加しなかったか。
(1)が事実だとすれば、自分たちの強い意向を実現しなかったことになり、やや説明はむつかしい。他の家族を巻き添えにするのを避けたことは説明できても戦闘に協力しなかったことが説明できない。
(2)だとすると、集結失敗を受けて軍の意向を知らない役場職員以外の家族に軍の下部組織のように振る舞い命令することはもう耐えられないという気持ちが芽生えたという線で説明は出来る。一つには、村民全滅を避けるため、他方村民玉砕の軍命令を貫徹できなかった後難を恐れ又は責任をとったという説明は可能。
http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu/nuchigatai47.html
上記引用 宮平春子証言によると「私は私たちの責任しかとれない。皆さんは自由にしてください」。盛秀は説得しようとした。」
宮平春子の証言は60年以上後のもの。賞味期限は過ぎている。
しかし、宮城初枝の「母の遺したもの」も40年後のもの。かって宮城初枝は、自分の意志で雑誌「家の光」に応募し、軍命令があったことを記載していた。
宮城初枝も「母の遺したもの」により、死ぬまで天皇主義者であったことがわかるが、その記載で気になるのは米軍から宮城初枝他数人が島民から憎まれていると知らされ理由がわからないとしていること。「母の遺したもの」は半ば口述記録。島民から憎まれていたことは自分から積極的に語られたことか、(他の者にはけっして語られないが)娘だからこそ(ふと)語られ記録されたことか。
また、初枝にとって憎まれた原因が不明というのは本心だったか、娘でも言えない事実があって隠したのかこれはわからない。
究極の緊急事態だから、ささいな近所とのいさかいではありえない。
座間味島民の証言に宮城初枝他数人が自決しようとしているのを見て自決を奨励しているようで嫌だった、他の者に隠したという内容がある。 憎まれた理由は命にかかわることで食料の必要以上の軍への供出協力か、自決誘導のどちらかと思われる。 自決未遂は多くの島民から隠せたにもかかわらず、それだけで憎しみの対象となるのか。 初枝自身自覚しているかどうかはともかくとして、別の自決誘導発言か、誘導行動をしていた可能性がある。
真相は闇に包まれている。真相と戦後の初枝の軌跡とどう繋がるのか、弟の宮平秀幸の軌跡と比べても答えは出ない。
阪神 宮平秀幸証言で私が気になっているものがあります。それは「米軍は座間味攻撃以前に詳細な地図と11回もの偵察対潜入で、舟艇秘匿壕の位置や日本軍陣地と兵員配置場所など知っていた。偵察隊は潜水艦からユヒナ海岸に上陸、日本軍将校1人もスパイだったと、米軍に保護されたとき通訳が教えてくれた」というものです。詳細な地図は飛行機による撮影であったはずです。しかし本当に23日以前に密かに上陸していたのでしょうか。将校がスパイだったというのも信じられません。沖縄戦開始前にスパイはいたのでしょうか。
ni0615
阪神さん
それは何時のどこでの宮平秀幸証言ですか? それを先ず確認して付記した上で論評をお願いします。なにしろ当該人物は自己撞着性の高い証言者として山崎ブログで紹介された人物ですから。
阪神
ni0615さんリンク漏れ失礼しました。毎日新聞2001.6.21掲載の証言です。
http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/robouta/old/135/index.html
和田
スパイ関係の記事が下記に
http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu7_megumi.html
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1030.html
「母の遺したもの」か、他の証言か、米軍兵士が島民に「おばさん、心配するな」と言ったという話がある。外見は白人だったのかどうかはっきりしない。ヨーロッパ戦線に目途がたった沖縄戦に日系二世兵士を投入、日本語に堪能な兵士も優先されたことは予想がつく。潜水艦に二世兵士がいて不思議はない。
サイト記事は、路傍の石134と合わせ不確かな記事にみえる。
米軍保護下になった住民が日本軍の配置を知らせることもありだろうが、米軍は作戦前にあらゆる方法で情報をかき集めていたはず。米軍先遣隊が持っていた地図がスパイの存在証明とは限らない。
それより、宮平秀幸と梅沢は21世紀になって頻繁に接触し原告サイトの証言をしたと考えられ、梅沢の主張の丸写しの可能性がある。
下記に富村順一の次のような証言がある。
http://wildhorse-depot.seesaa.net/archives/200802-1.html
「そして私が梅沢さんと相談して書いた座間味の看板を見て話しかけてきたのです。私はあんな達筆の看板は書けない。私が頼んで梅沢さんが公園で書いたんです。 私が高島屋の正面玄関の前でそんなことが出来たのは、野村秋介さんのお蔭でもあるんです。野村秋介さんが山口組の南一家のヘンジャンテさんに頼んでくれたんです。東京でも野村秋介さんが、やくざ者に妨害されないように紹介状を書いてくれ、木刀まで貰いました。」
新(反米)右翼が積極的に富村を援助していた。ここには、元在日で自殺した衆議院議員新井将敬が新右翼の援助を受けたのと同じ構図がある。
宮平秀幸は梅沢の紹介で新しい歴史を作る会の面々と知り合うことになったのであろう。
阪神 和田さん、情報有り難うございました。事前の諜報活動についてはアメリカ側で情報公開しているかどうか不明ですが、日本側の陣中日誌に記録されているかどうかも不明です。まだ調べてみる余地がありますね。なお、私が今までに読んだ戦記では、スパイとして捕らわれた住民は知的障害者と思われる人ばかり3人でした。「8月15日の天気図」「サンゴ礁を朱に染めて」によると、44年末から糸満、与那覇他の海岸で不審な照明弾が頻繁に打ち上げられたのでスパイ捜査がされたそうです。結局何も分からなかったそうですが。また、書籍名は失念しましたが、6月上旬に本島南部にて3名の中尉が牛肉缶を配りながら住民を南部へ誘導していたのですが、服装が汚れていないのと、カービン銃を持っていたのでスパイとして処刑されたそうです。サイパンで捕虜になった日本兵だったそうです。この処刑については風聞として「サンゴ礁を朱に染めて」にも書かれています。なんかバカウヨを喜ばすネタになってしまいました。そのうち奴らが引用して住民スパイ視擁護に躍起になりそうですねw。
和田
キー坊さん。
沖縄本島と慶良間の方言は違うかも知れませんが教えて下さい。
東川の読み方はフィジガーになりますか。
フィジガーは第1玉砕鳩いわれた場所。
http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu/nuchigatai09.html
東川は
http://osj.jugem.jp/?eid=28
の2大城良平の証言の中に「自決の日から二日目、私は中隊長の命令で、東川の儀志保近くに住民がまだたくさん居るので、状況を見に行きました。本部の近くに居りました。」とある。
Google地図で渡嘉敷島の北東を動かすと第1自決場とされる北東部から川の表示があり北東の海まで続いている。細い谷川は表示されない可能性を考えるとフィジガーは東川の源流で滝壺があると考えた。ヒガシの読み方もフィジガーに近い。
もしそうであるなら第1自決場は恩納河原の上流そのものではなく、方向が恩納河原の上流に当たるにすぎないことになる。
曽野綾子は第1自決場を歩いている。安里巡査から恩納河原が自決場ではなく、住民が避難した場所であることを教わってもいる。
曽野綾子に陰謀を企む意志がなかったなら、普通の作家のように「恩納河原といわれていた第1自決場はフィジガーであり漢字では東川と表記する」ことになったのではないか。
読者に恩納河原・第1自決場・複郭陣地・御嶽(北山=西山)などの位置関係を知らせず、住民が勝手に恩納河原を上った、御嶽に向かったと事実を曖昧にさせる目的である。事実は、安里巡査と赤松が「住民が捕虜になるのは良くない」という理由でまず、本部陣地近くに住民を集合させた。渡嘉敷村の住民と違い恩納河原に壕を持たない阿波連の一般住民は「恩納河原を上れ、本部陣地近くに集合しろ、(本部陣地と御嶽は近いので)御嶽へ向かえ、北山へ向かえ」と言われていた。
キー坊
和田さん。
どんな企みで曽野綾子が恩納川(原)とフィジガーを取り替えた、と和田さんが仰りたいのかは、自分には良く飲み込めませんが、曽野は自決場を恩納川としていますね。
安里巡査に言われる前から、住民は(前から避難小屋を作ってあった)自決場に、自主的に集まる予定だったと曽野や赤松は言いたいという事でしょうね。
金城武徳の母親の言葉を読めば、慶良間と本島は同じ方言ですね。
僕の所の比謝川(ヒジャガー)は、本来は比嘉川で、比嘉は東を当てる地名もあります。(東恩納=ヒジャウンナ)
おっしゃる東川はフィジガーの可能性十分あります。フィジガーはニシヤマ盆地に流れる川のことだから、「東川の儀志保近くに・・・」とあれば、東川=フィジガーに違いないでしょう。
「鉄の暴風」もそうですが、徳平秀雄の体験記にあるように、恩納河(原)とフィジガーの混同は地元の人間でも有るようです。本人の間違いか、それとも聞き取り者の間違いなのか想像に苦しみますが。
July 26(Sat), 2008 誤字誤読事件
奇異呆
山崎先生は、曽野綾子の初版本はお調べにならなかったんですね。
研究者として「甘い」と言わざるを得ません。
曽野綾子は誤読などしていなかった。と正面から認めたうえで
新たな角度から大江先生擁護する作戦を練りなおしてほしいと思います。
わたしは大江さんのファンですが、山崎先生のその態度に
潔さや男らしさは全く感じられません。
辛口の忠告になりましたが、事実を事実と認めてください。
応援しています。
沖縄人
全くですね。
屁理屈は聞きたくない。
沖縄をネタにして口先のゲームをやっているようにしか見えない。
説得力がない。
キー坊・沖縄人
あれ!
上の二人は何かと思えば、私のHNをもじった悪戯ですね。消えてください。
沖縄人
奇異呆さんはしらないが「沖縄人」は別にもじりではないだろう
勝手に特権意識もっちゃってたらダメよ
沖縄人
奇異呆さんはしらないが「沖縄人」は別にもじりではないぞ
勝手に特権意識もっちゃってたらダメよ
ni0615
>>偽異保クンへ
>山崎先生は、曽野綾子の初版本はお調べにならなかったんですね。研究者として「甘い」と言わざるを得ません。
初版本も誤字はないものの、ワック版と同じ誤読をしているので、ご安心あれ!
tku
>ni0615
>初版本も誤字はないものの、ワック版と同じ誤読をしているので、ご安心あれ!
大江・岩波に全面勝訴の判決を下した大阪地裁深見裁判長ですら、大江が主張する曽野綾子誤読説について、判決文で以下の通り述べている。
『これらの表現のうち「人間としてそれをつぐなうには
あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」との部分について、被告大江は、罪の巨塊とは自決者の死体のことであり、文法的にみて、「巨きい罪の巨塊」が渡嘉敷島の守備隊長を指すと読むことはできない旨供述する。しかしながら、沖縄ノートは、全体として文学的な表現が多用され、被告大江自身「巨塊」という言葉は日本語にはないが造語として使用した旨供述するように、必ずしも文法的な厳密さを一貫させた作品であるとは解されない。
被告大江の供述を踏まえて沖縄ノートを精読すると被告大江の供述するような読み方も理解できないではないが、一般読者が普通の注意と読み方で沖縄ノートの各記述に当たった場合、「あまりにも巨きい罪の巨塊」との表現は、前後の文脈に照らし、渡嘉敷島の守備隊長の犯した罪か、守備隊長自身を指しているとの印象を強く抱く者も存するものと思われる』
和田 判決文を読んだ時から「誤読する者も現れるほどの(むつかしい)表現や文章となっている」という趣旨と考えています。とても曽野綾子の読み方が正読だったという趣旨には取れません。ここの判決文は全体の中ではやさしい文章となっています。
tku
和田さんはそう解釈されますか。
「被告大江の供述を踏まえて・・・・・・読み方も理解できないではないが」
大江氏の供述がなければ、一般読者が普通の注意と読み方で大江氏の供述するような読み方は理解できない。私はそう読みました。つまり裁判における詭弁の可能性もあると。
キー坊
>tkuどの
>一般読者が普通の注意と読み方で大江氏の供述するような読み方は理解できない。私はそう読みました。
おっしゃる事の可能性は十分在ると私も思いますが、裁判長は原告を全面敗訴にしたのですよ。
原告らが大江・岩波を訴えたこの裁判自体を、ナンセンスと看做した事以外の何者でもないという事ではないでしょうか。
tku
>キー坊さん
この裁判はいずれ最高裁まで争うことと思います。
「原告らが大江・岩波を訴えたこの裁判自体を、ナンセンスと看做した」か、どうか判りませんが、大江氏は判決文の誤読説の部分について「私は肯首しません」と述べています。
大江氏は『「かれ」とは渡嘉敷島の守備隊長です。罪の巨塊とは「巨きい数の死体」です。そのまえに立つ「かれ」が「罪の巨塊」だと読み取るのは文法的にムリです』と言います。
その一方で、一般読者が普通の注意と読み方で前後の文脈に照らしてきわめて理解が困難な「巨塊」なる造語を作者の意図通りの読み方を求めます。
ここに大江氏の不誠実さと意図的なものを感じます。
結局誤読説は、大江氏の供述を信じるか否かだと思います。
信じれば曽野綾子氏の誤読となりますし、信じなければ大江氏の詭弁となるでしょう。
キー坊
>tku さん
大江氏の供述を信じようと信じまいと、曽野綾子の誤読は明らかな事でしょう。一般読者に「罪の巨塊」を「死体の山」との読み取りを要求するのは無理だとしても、「罪の巨塊」を赤松隊長本人と読み取る事は、それよりも遥かに無理な事です。
ただ、一字一句検証せずに読み流す読者は、「罪の巨塊」=赤松隊長本人と「誤読」する可能性はあります。多少注意深く読むとすれば、「罪の巨塊」は赤松隊長の責任に因るものと、受け取るのが一般的かもしれません。だが、いずれにしても曽野綾子が「罪の巨塊(魁)」を隊長本人と読んだのは誤りでしかないです。
裁判官がこの訴えをナンセンスと看做しただろう、という私の想像は次の理由からです。
元隊長らが名誉毀損を訴えるのなら、「沖縄ノート」よりも、もっと早期に刊行され「沖縄ノート」の原資料に成り、もっと直接的に彼らの名誉を損ねる記述を為し、今尚出版を続けている書物が沖縄の新聞社に在るはずです。この本と新聞社を訴える方がずっと勝訴の見込みがあるのに、何で大江健三郎と岩波書店でしょうか?何故に沖縄の物書きと出版社を訴えないのかと、通常の感覚を持つ裁判官なら胡散臭く思うはず、と私は思いますね。
tku
>キー坊さん
>「罪の巨塊」を赤松隊長本人と読み取る事は、それよりも遥かに無理な事です。
そうでしょうか。
判決文でも『「あまりにも巨きい罪の巨塊」との表現は、前後の文脈に照らし、渡嘉敷島の守備隊長の犯した罪か、守備隊長自身を指しているとの印象を強く抱く者も存するものと思われる』となっていますが。
キー坊
判決文は「渡嘉敷島の守備隊長の犯した罪か、守備隊長自身を指しているとの印象を強く抱く者も存するものと思われる」となっていますが、別に、裁判官がそういう印象を抱くという事ではないですね。
守備隊長の犯した罪との印象を持つとすれば、それは普通の印象ですが、守備隊長自身を指しているとの印象を持つとすれば、明らかな誤読ですね。曽野綾子は読みは後者でしょう。
渡嘉敷島で多数の住民を自決に追い込んだ事は、「守備隊長の犯した罪」だと私は思ってますが。
tku
>キー坊さん
>別に、裁判官がそういう印象を抱くという事ではないですね。
少なくとも理解は出来るということではないですか。
前段に「一般読者が普通の注意と読み方で沖縄ノートの各記述に当たった場合」とあります。
私は「守備隊長の犯した罪」か「守備隊長自身」を指しているとの印象を強く抱く者です。
キー坊
いかん!ネトウヨの砂地獄にハマッテしまった。
ちょっと失態だった。
和田
「罪の巨塊」は大江が始めて使用した造語。
一方、慣用句として「悪の巨魁」が使われている。ここまでは誰も認めるだろう。
曽野綾子は「罪の巨塊」を「悪の巨魁」に似たニュアンスで理解した。
これは、一部に反対意見があるも「ある神話の背景」の表現からそう解釈するのが自然。
大江がわざわざ造語を使用したのは何故か。大江の説明は一応理解可能。
「罪の巨塊」を「悪の巨魁」に似たニュアンスで理解するのはどうか。
造語としての言語を理解する者は、脳内で累積された文化のどこかを取り出し、当てはめ作業を行うことにより解釈する。
私なら、罪の巨塊ではカーストなど階級・身分社会で賎民を「生を受けた瞬間から汚らわしい」存在とするニュアンス、又はキリスト教の「神の立場から罪を犯しやすい人間」というどちらかのニュアンスを援用し解釈する以外にない。
なぜなら、罪の巨塊を悪の巨魁と同様の意味に解すれば、悪の巨魁での「現実に悪事を積み重ねた」という生々しいニュアンスが消え、サーカスを見ているか化石化したニュアンスしか与えられず、悪人に対する非難の程度は著しく軽減されたものとなる。原告支援サイトは罪の巨塊がまるで悪の巨魁の悪人性を加重したかのように説明するが、理解できない。悪の巨魁の言い換えだと何のための造語か、言い換えか理解不能となる。大江の説明では一応説明になっている。
原告サイトの後出しじゃんけん論は理解できない。私には、原告サイトが後出しじゃんけんで論理を修正しているとしか思えない。
それはともかく、沖縄ノートの名誉毀損性については論者・立場により論点が異なってくる。
原告からすれば、大江は名誉毀損該当性について逃げている、その一環が巨塊誤読説で大江が赤松を罪人呼ばわりしていることを曖昧化する戦略である−ということになる。
被告弁護士からすれば、沖縄ノートは慶良間の集団死を学術的に研究した書物ではなく、赤松に関連する記載は傍論でしかない、そもそも名誉毀損該当性など考える余地もないということになる。
一審裁判官が実質的な審理をするためには、名誉毀損性を認めた上で真実相当性について検討するという二段階の検討が必要。
http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu7_fujioka.html
上記サイトから引用する。
「深見敏正裁判長は、原告側の弁護団や支援者の間で、実は評価が高かった。過去の判決では社会問題について門前払いの判決で逃げずに正面から踏み込んだ判断をしているというのである。」これは正しかった。
もう一つ引用する。
「ただ、本音をいうと、法技術論的な問題から大江被告に対する名誉棄損が成立するかどうかについては微妙な問題があるだろうとは思っていた。」
藤岡は被告弁護士の沖縄ノートにはもともと名誉毀損性無しとの主張が受け入れられるかもしれないと思っていた。 しかし、そうなると原告側は「卑怯な裁判、逃げた裁判」との主張で軍の顕彰に拍車をかけることが出来た。南木などが外堀は埋められたと悔し紛れに言っていても上記サイトの藤岡の狼狽からわかるとおり、「主戦場」で負けたことにショックを隠せないでいるのが事実。
次に判決206pから引用
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20080425164436.pdf
「以上のとおり,原告B及びD大尉が座間味島及び渡嘉敷島の住民に対しそれぞれ本件各書籍にあるような内容の自決命令を出したことを真実と断定できないとしても,これらの事実については合理的資料又は根拠があるといえるから,本件各書籍の各発行時及び本訴口頭弁論終結時において,被告らが前記事実を真実であると信じるについての相当の理由があったものと認められ,被告らによる原告B及びD大尉に対する名誉毀損は成立せず,したがって,その余の点について判断するまでもなく,これを前提とする損害賠償はもとより,本件各書籍の出版等の差止め請求もまた理由がない。」
再度引用 「本件各書籍にあるような内容の自決命令を出したことを真実と断定できないとしても」実は同様の表現が座間味・渡嘉敷の考察でしており、これはまとめの一部である。 殺人罪であっても検察側は構成要件さえクリヤーできれば微細な細部のすべてを証明・説明しきる義務はない。民事ならなおさらのこと。
判決は、原告支援サイドが主張するように「梅沢・赤松が自決命令を出さなかった」などと判示しておらず、「細部まではわからないが、梅沢・赤松は自決命令を出した」と認定しているといえる。
個人的には大江が防御的になりすぎて、靖国を撃たなかったことに不満はある。
しかし、曽野綾子の沖縄と大江に対する復讐心と嘘から裁判へと動き出したのは事実であり、そのことを踏まえれば大江が曽野に一矢報おうとする心情もわからないではない。
和田
要点を整理します。
他人の文章、それも新語・造語を交えた文章の意味を正しく判断するためには、わざわざ造語を使用した動機そのものと、動機を踏まえた意味とニュアンスを読みとり整合的に説明すること、この2つが重要です。
価値判断や批評に感情が入るのはしようがないとして、この2つの事項については、最低限正確に読みとることが必要。 原告応援サイドの論評からはこの2つのことが論理的に伝わってこない、解明されているように思えない。 大江の言い分では(内容の論評はさておき)2つの事項を整合的に説明している。この2つを整合的に説明する論理でない限り、的を外れた周辺の屁理屈、又は感情論にすぎないと結論づける他ない。
徳永弁護士は一審判決で損害賠償請求、出版差し止め請求共に棄却されたにもかかわらず、判決で「隊長命令はなかった」と判示されたのに沖縄ノートが増刷されたのはけしからんと主張し損害賠償請求額を増加させた。一審の認定は3回同じ意味を繰り返しているとおり(鉄の暴風記載どおりの隊長命令があったという判断には躊躇するが、事件の推移などから隊長命令はあったと判断)しているものであり、藤永の無茶な論法では多数の原告弁護士が逃げ出すのも無理はない。
誤読問題でも原告応援団は自分たちの創造を膨らませ、(他人の表現であるにもかかわらず)自分たちの論理を押しつけようとしているようにしか思えない。
私がさらに、二重に原告サイドに想像を膨らますと、沖縄ノート出版時に大江は赤松の家族から告訴されることを考えて名前を出さなかったと思っているのかもしれない。普通に考えれば当時告訴は想定外でしょう。
さらに、大江は現在内心では赤松の命令はなかったと思い軟化している、それにも関わらず謝罪したくないから屁理屈を唱えているとのニュアンスを交えた主張は秦郁彦その他でしばしば見ることができる。
後者もありえません。大江は赤松に自決の責任があると証言し、判決前の集会で大江の赤松は(げんこつとか何とか大江の母の表現を入れて)罰せられるべき存在であるという趣旨の発言をしたとの内容をどこかのサイト(現在不明)で見ています。
客観的にみても被告弁護士が名誉毀損裁判の第一人者ということで、被告が戦術的に弁護士方針に従うことになる(事実関係と共に名誉毀損性も争う)ことを原告サイドの思惑で想像を膨らましているに過ぎません。
もう一度事例を挙げよう。もっと一般的な悪の権化という表現もある。悪の巨魁・悪の権化に比較して罪の巨塊とは悪人非難の程度において柔な表現に思える。あの文脈に限っては悪人の意味で使用していない。
曽野綾子は、国会・書籍等で「個々の赤松隊一人一人と会いました」などと嘘を吹聴した。「切りとられた時間」と「ある神話の背景」の内容は情報操作ネットワークを張り巡らした嘘の塊であることが証明されている。そこで曽野綾子に「嘘の権化」、「嘘の巨魁」の称号を与えようとしてもやや据わりが悪い。罪の語で悪の臨場感が出てこないのは罪が多義的であることも作用している。嘘はまだ悪の前段階で悪より格下にみられやすい。
よって曽野綾子には、「嘘の巨塊」の称号を授けることにする。
July 24(Thu), 2008
●悪質な投稿は、即削除します。
討論以前に他人を見下した慇懃無礼な投稿や、誹謗中傷を狙った怪しい個人情報等の記載されたブログやサイトのリンクを貼り付けた投稿は、「アラシ」と認定し、発見次第に、即、削除する方針ですので、ご承知おきください。したがって、「お前等」と「山田」名義の投稿を「アラシ」と見做して削除しました。今後、類似の書き込みは、ご遠慮ください。ただし、小生(山崎行太郎)の意見や、あるいはコメント欄の他の投稿意見への反対意見の真摯な書き込みは、今までどおり歓迎します。(from-山崎行太郎)
かきくけこ
「will」沖縄特集号にこんな記事が・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
山崎氏は、本当に『沖縄ノート』を熟読したのだろうか。もし「ペテン」「屠殺者」「戦争犯罪者」「アイヒマン」という言葉に反応しなかったのだとしたら、彼のテキスト解読能力には疑問符がつくといわざるをえない。
山崎氏が曽野氏に噛みついている「罪の巨塊」の箇所は、赤松隊長に投げつけられた凄まじい人格非難のごくごく一部でしかないのである。
(中略)ここでは(山崎の)木を見て森を見ない愚かさを指摘しておけば足りるだろう。
曽野氏が書いた文章には「巨魁」と書かれたものはない。山崎氏らが主張した誤読説は、曽野氏の誤読ではなく論者自身の誤読によるものであった。
それにしても、こんな些細でトリビアな発見を「憂うべき保守思想の劣化」(『月刊日本』三月号)と銘打って得意満面で吹聴する山崎氏の精神構造はどうかしている。
山崎氏は保守論壇の心配をする前に自らの劣化に気づくべきだ。
徳永信一 弁護士
「ノーベル賞作家のまやかしのレトリック」より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こういうことをオピニオン雑誌に書く徳永という弁護士こそ、イタイ人ですね。相当、焦っているのでしょうね。裁判の中身の話でも書いてくれればいいのに、山崎先生の中傷とは・・・・・。裁判が原告側にとって、相当にやばくなっているのが、わかりますね。宮平秀幸新証言の話を重視せず、控訴理由書にもあまり詳しくは書かなかったことや、宮平秀幸を証人申請しなかった理由など、知りたいです。
July 22(Tue), 2008 玉井喜八と照屋昇雄
●曽野綾子は、何故、「罪の巨魁(巨塊)」問題について、一言も反論出来ないのか? 図星だからだろう。
曽野綾子は、何故、「罪の巨魁(巨塊)」問題について、一言も反論出来ないのか? 図星だからだろう。この問題について、徳永信一、小林よしのり、池田信夫等は、雑誌編集部の校正ミス、あるいは引用者のミスで済ますつもりようだが、一箇所か、二箇所ならそれで済むだろうが、本人まで、その「気」だったとすれば、そういう「逃げ口」は許されないだろう、ということは、本人が、つまり曽野綾子自身が、一番、よく知っているだろう。曽野綾子が、「罪の巨魁(巨塊)」問題について、一言も触れたくないわけである。それを、雑誌編集部の校正ミス、あるいは引用者のミスと騒ぎ立てるダメ弁護士徳永の所業こそ、自ら「墓穴を掘る」ということだろう。「罪の巨魁(巨塊)」に会いに行く……と曽野綾子は書いているわけで、これまで、編集者の校正ミスと言い逃れることは、いくら曽野綾子といえども、不可能だろう。(from-山崎行太郎)
和田 前記アルキメデスは数学者ピタゴラスの誤りです。ごめんなさい。
幕之内吉雄
初めて投稿します、よろしくお願いします。
ところで、山崎先生はずっと「誤読」問題にこだわっておられると
お見受けしますが、仮に曽野綾子が誤読していたとして、
何がどうなるのでしょう?沖縄に於ける集団自決問題に
どのように関係があるのかさっぱりわからないのです。
わかりやすく説明して頂ければうれしいです。
SI 漫画家風情に文学は理解できないでしょう。頑張って下さい。
かきくけこ
秦郁彦のこの発言には笑ったよ。秦郁彦は終わったね。
↓
・・・・・・・・・・・・・
◇まるで「異界人」の説話◇
「大江裁判」の本人尋問を傍聴して
現代史家 秦 郁彦
大江氏は提訴直後の朝日新聞紙上で
「私自身、証言に立ち…その際、私は中学生たちにもよく理解してもらえる語り方を工夫するつもり」と述べていたが、当日の尋問の相当部分は日本語の語義解説に費やされた。
「ペテンとは」と聞かれて「人をだますことです」とか、「罪の巨塊」とは「英語のミステリーから借用したが、語源は他殺死体のこと。ラテン語では…(聴きとれず)」といったぐあいで、私の知力を総動員しても理解不能に終わった。
─略─
さらに「隊長の持っていたはずの夢想、幻想を、私の想像力をつうじて描く小説の手法」
だとか、曽野氏以下の大江批判はすべて「誤読」に起因する、と言い張ったときには国語の通じない「異界」の人から説話されている気がした。
もしこうした語り口が法廷戦術の一環だとしても、これほど非常識で不誠実、一片の良心も感じとれない長広舌に接した経験は私にはない。
・・・・・・・・・・・・・・・・
いままで、こういう無知蒙昧の馬鹿が保守論壇や保守系雑誌で大きな顔をしていたことが許せないね。
mask de mikan
http://jp.youtube.com/watch?v=2LwDyb_R9tc
これは嘘なのでしょうか?
事実とすれば、大江氏が嘘を書いたことになりませんか?
一方、証言が嘘だとすれば大問題です。
和田
以下、照屋氏の証言は嘘でしょう。
http://tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php?all=133
赤松は、自己の復権に後半生を費やしていました。
その事実を180度変える心境になったとは思われません。曽野綾子と同じ捏造でしょう。
キー坊
照屋昇雄が、援護事務から五十年近く経ったこの時期に暴露発言を行ったのは、作る会などに買収されたからに違いありません。が、この赤松・玉井・照屋らの捏造作業が「嘘」であるのかの断定は、私には出来ません。
事実の可能性も否定できない気がします。28年も渡嘉敷村長を勤めた玉井喜八は曽野綾子の取材にとても協力的に見えます。玉井は赤松への借りが有ったのかもしれません。もちろん、私は赤松に責任が無いと言いたいのではないです。
当時、島の経済は貧窮して村はどんな形でも金は欲しかったのではないでしょうか。赤松はその頃はまだ、自分の復権を望んでない時期だったかもしれないです。この件はいずれまた。
>和田 さん。
古波蔵元村長は、1989・1・13に死去されたそうです。叙勲の話は断っていたそうです。
和田 玉井氏でなくて、古波藏氏が1989/1/13に死去ですか。玉井氏の死亡年月日はご存じないですか。
ni0615
>>キー坊さん
>照屋昇雄が、援護事務から五十年近く経ったこの時期に暴露発言を行ったのは、作る会などに買収されたからに違いありません。が、この赤松・玉井・照屋らの捏造作業が「嘘」であるのかの断定は、私には出来ません。
1、そもそも、私は「照屋証言」として書かれた産経記事に、「いつ」「どこで」が何も記されていないという奇異に、いかに産経記事だからといっても驚かずにはいられませんでした。(・・・かなりダークな嘘っぽいにほい)
2、チャンネル桜が配信している「照屋証言」を見聞しても同様です。(・・・嘘っぽさが涙に散華)
3、ビデオでは「聞き取り調査の記録ノートを持っている」といってますが、証拠提出してません。(・・・ないものを「ある」という常套)
4、「照屋」は昨年12月に産経の阿比留瑠比記者に、偽の「私が命令しました。赤松」文書を作成したのが1956年の正月で、それをもって玉井村長が赤松宅に赴きハンコを貰って、「1月15日の閣議」に「間に合った」とかたったといったそうです。日時年月を明らかにすれば、このように珍慶な御伽噺となってしまったのでした。(・・・曝露馬脚)
5、もし4にいくらかでも信憑性があるとすれば、「照屋」が1954年か55年に、ビデオで語るところの「東京」開催された「資格審査委員会」に参加したおり、「赤松」はじめ各地の「隊長」らが集まっていて、「オキナワビョウの(東大の)茅総長」が「だれでもいいから私が命令した」といってくれる「隊長さんはいませんか」と問うたところ、「第二のふるさとである渡嘉敷のために尽くしましょう」と赤松が応えた、それが2の文書作成のきっかけとなった、という涙と感動の物語がビデオの中で騙られていますが、こりゃあもう時代を15年も進んだり戻ったりするインチキ話だということが明白です。(・・・嘘の決定的段階)
私は、疑問の一部を阿比留瑠比記者にぶつけましたが、彼が完全に逃げたことからも、この一連の「照屋」噺は「嘘」だと断言できます。
(私の最初の問い)
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/525680/allcmt/#C604778
(阿比留瑠比記者の応え)
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/526561/
(私のツッコミ。これ以外にもこのコメ欄にはつづく)
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/526561/allcmt/#C606604
お読みくだされば幸いです。
なお原告側の控訴理由書詳細に、年月入りの「照屋新証言」があるかないかも、「まことしやかな嘘」なのか「嘘も混じった真実」なのか、腑分けする試金石になるかもしれません。
キー坊・沖縄人
>和田さん、
>玉井氏の死亡年月日はご存じないですか。
玉井喜八の死亡年月日はまだ知りません。
が、彼の村長在職期間は 昭和28年12月17日〜昭和60年12月16日であり、32年・8期、最終任期は満期退職したと思われます。それは赤松死去の5年11ヶ月後ですので、赤松死後、まもなく玉井喜八も死んだという事にはならないと思います。
>ni0615さん。
私は皆さんみたいに資料を十分に持ってなく、恥ずかしながら憶測を持って言っているに過ぎないのです。
今の厚生労働省が「捏造文書」の存在を否定しているが故に、裁判官も照屋証言を証拠として採用しなかったと思われます。証言が本当であろうと嘘であろうと、国家権力の側としても、これを認める事は出来なかったという事だと私は思います。
照屋昇雄はこんな事を証言してます。
>厚生省の課長さんかな、なんか、赤松さんがね、村を助けるために十字架を背負いますと、言いよったよということなんです。
証言の通りだとすると、厚生省の役人が赤松に口利きして(説得して)、捏造文書を作ったということですね。
だが、沖縄の南方連絡事務所に赴任した馬淵新冶厚生省事務官の残した文書に依れば、慶良間の集団自決者は、当初から戦闘協力者として看做す方針であった、と宮城晴美の本に乗っています。
それでも、(推測に過ぎませんが)お役所としては、他の自決者(満州など)や爆撃犠牲者との区別化をしなければ成らなかった。そこで、厚生省役人、あるいはもっと上の人脈から、赤松へ自決命令書作成への働き掛けがなされたのではないか、と私は見ています。戦後十年ほどの時点では、赤松は自分の復権をそれほど望んでない心境にあって、大した躊躇は無くそれに応じたと推量しているのです。だが、今回の裁判について、厚生労働省はそんな経緯を公にする訳には行かないから、「捏造文書」の存在を否定したか、あるいはとっくに破棄してたように推測してます。
すべて推測でスミマセンが、曽野綾子が満々たる自信を持って、「ある神話の背景」に乗り出したのは、その辺の事情を良く知っていての事ではないかと思いますが。
和田
キー坊さん
1 下記「渡嘉敷村」公式サイト
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/modules/tinyd01/index.php?id=4
によれば、1984年玉井喜八村長藍綬褒章受賞祝賀会。(12月4日)
1985年座間味毅村長1期就任。(12月17日)となっています。
1980年1月13日赤松死亡。
http://d.hatena.ne.jp/nearly_human/20060829 (赤松シンパの情報)
次に
http://lullaby.cocolog-nifty.com/yokohamaboy/2007/09/post_d180.html
引用ア 「玉井村長さんが死んで、あの人の慰霊をするために真実を明かすときが来たんじゃないかという事で、奥茂治さんたちからもお話があって、正しいものを、後世に伝えなければいけないと思って、もう新聞に叩かれようが何しようが、もう真実を述べてね、いいんじゃないかと思ったんですよ。今まで、隠し通して、僕らももう年だし、いつ死ぬかわからんから、真実をね、もうハッキリしようじゃないかと、僕自身で決めたんですよ。」
引用イ 「赤松隊長が亡くなったら、玉井村長、あの人は、ああも出来ない、こうも出来ないと毎日心労してね 病気して、間もなくして死にましたよ。あの人はこれで死んだんですよ。」
少なくとも1985年12月16日まで玉井村長は生存。玉井と知己だという照屋のイは明白な作り話。
アでは最近玉井村長が死んだ話しになっていて二重に矛盾。正論に掲載されたのは最初の発表からそんなに時間が経過していなかった。
2 旧沖縄県職員で照屋の話しを具体的に肯定した証言者がいない。同じく、渡嘉敷島の職員や旧厚生省の職員もいない。
3 渡嘉敷島だけ集団自決があったのではない。他の自決地域の隊長の自決命令はなくても年金は受給できている。官僚は命令書が必要ということであれば個別の命令書を要求し1地域の命令書があるからといって他の地域の命令書を推定するようなことはない。それどころか、他の地域でその地の隊長等が命令書を頼まれたという話しすらないのである。
4 一般には、週刊誌などの記事に赤松等が反撃したかのような風説が流布しているところ、
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/?cmd=word&word=%E8%B5%A4%E6%9D%BE&type=normal&page=1968%EF%BD%9E1973%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82%E8%80%85%E7%B5%8C%E7%B7%AF
上記の年表によれば、赤松等が復権をめざして活動をしているのが島民その他の見知るところとなり、週刊誌などに報道されたのが事実と思われる。そのような動きに同調したのが曽野綾子であり、玉井村長もその流れに乗ったと思われる。
しかし、勤務隊の元隊員などで赤松に同調する者はほとんどいない。沖縄県史で「軍を悪く言ってはいけない」と語った元防衛隊員もいるが、赤松隊の同窓会に出席した60人のうち渡嘉敷島に渡った者13名であり、「ある神話の背景」・裁判の書証などで赤松寄りの証言をしている者はもう少し減少している。あまり人望がなかったというべきだろう。
5 http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/991.html
1968年頃から赤松は復権に懸命だった。とても罪をかぶるような言動ではない。
さらに、当時玉井村長は「一方、現渡嘉敷村長の玉井喜八氏は「赤松氏はそんなことをいってるのですか」と語り、わたしは戦争当時島にいなかったが、戦記にある通りまさに地獄絵だったといいます。戦後23年もたった現在では島の人々の赤松隊に対する反感も薄れて、すべては戦争が悪かったという気持ちになっており、いまごろになってどうのこうのいってくる赤松氏の態度は逆効果でしょう。いまさら責任をなすり合っても自決した同胞が生き返るわけではないし、二度とむごい戦争を起こさないように努力しあうことが重大です」と多くを語りたがらなかった。」という。
とても、赤松に罪を被ってもらったような雰囲気ではない。
玉井村長は、この後赤松と曽野に説得されて渡嘉敷島の観光を含む繁栄のために赤松に迎合したと考えられる。
照屋証言では赤松は援護金のことを死ぬまで隠し通す意向のように語っているが70年代初頭に曽野綾子に援護金のことを吹き込んだのは赤松隊以外にいない。照屋証言を信じる者は「ある神話の背景」を読んでいるのか疑問である。
6 1月15日の成人の日が祝日になったのはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%97%A5
1948年。
http://www.meti.go.jp/speeches/data_ed/ed00905j.html
にあるように祝日に閣議は開かず前倒しか延期だろう。これはnio615さんの受け売り。
曽野綾子は30年も経ってもう誰も気づかないだろうと「赤松隊の隊員を個別に調査した、古波藏氏に会って安里氏に会った」など盛んに嘘を吹聴した。
三欣会は曽野綾子よりよほど用心深くなかった。
百人斬りでは、秦郁彦でさえ
http://andesfolklore.hp.infoseek.co.jp/intisol/hyakunin2.htm
ネッソス向井・野田(ネッソスはギリシヤ神話でヘラクレスに殺される直前ヘラクレスの妻をだまし、ヘラクレスの死−復讐を遂げることに成功)が自慢話しで据え物斬りを吹聴していることを認めざるを得なかった。口は重宝なものだから何とでも言える。
オウム真理教・朝鮮金王朝・靖国カルトは自作自演が好き。
私は、曽野綾子の嘘の前に照屋氏の玉井村長の狂い死にの話しに照準を合わせた。自作自演する者は過剰に語る。曽野綾子はA高地について1945/03/28一次米軍に占領されたこと、降伏交渉の最初の予定地が米軍勢力範囲になった場所がA高地であったことを記載している。もちろん赤松隊は複廓陣地を確保している。それにもかかわらず堂々と注でA高地とは復郭陣地のことと書くのが沖縄と大江に復讐をもくろむ図々しい曽野綾子。
曽野綾子に自信があったわけではない。敵を欺き善良な人を味方につけるのは我等の正義と思っているだけだ。
ni0615
>>キー肪さん
> そこで、厚生省役人、あるいはもっと上の人脈から、赤松へ自決命令書作成への働き掛けがなされたのではないか、と私は見ています。
もしそうなら、赤松氏のマスコミデビューにこそ、赤松はそれを主張していたでしょう。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/990.html
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/991.html
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/845.html
仰るようなニューアンスがこれらの赤松発言に秘められていたとはとうてい思われません。玉井村長ら戦後の村当局者が赤松氏に何かヒケメを感じていたとすれば、それは、赤松氏が名乗りをあげてから長年たっても島に迎えず(他の元挺進隊員は歓迎しても)、「隊長命令説」への赤松本人の弁明を聴こうとしなかったことに対してではないでしょうか。
---赤松挺進隊の「遺跡」は、昭和39年代の村の観光開発の目玉だったようでも有りますし。(渡嘉敷空港誘致汚職なんてこともあった)
ni0615
(誤)昭和39年代の村の観光開発の目玉
(正)昭和30-40年代の村の観光開発の目玉のひとつ
キー坊
赤松元隊長は1960年代半ば頃から復権に意欲を燃やすようになったと思われますが、沖縄の援護事務関係者が一生懸命だった50年代中ば頃には、まだそうでもなかったのではなかろうかと私は推測し、赤松は、沖縄からの懇願及び本土有力筋からのからの働き掛けによって、隊長命令捏造を了承したのではないかと、推測したのです。
しかし、これは厚労相と沖縄県庁の援護関係部署によって否定的資料が提供されている以上、照屋昇雄証言は「うそ」の可能性が高い事に違いありません。
ただ、私が集団自決関係の情報を目にした場合、どの人物に意識を持って行くかと言えば、やはり曽野綾子です。曽野が「ある神話の背景」でかなり高飛車に沖縄を叩けたのは、自分の上昇意欲もあったでしょうが、特に有効な「使える」情報を持っているからではないかと、これまた私は推測をしたのです。もし、「隊長命令捏造作業」が事実だとすれば、一気に隊長命令を無化できる材料と成ります。曽野にとっては、そのような情報入手は容易な事だったでしょう。赤松自身も提供したでしょうから。
玉井の曽野への取材協力、慰霊祭への赤松招待、戦跡碑共同建立なども、べったりの態度と言ってよいような気がします。68年4月の琉球新報では赤松への疑問を呈してますが、それは渡嘉敷村長という立場からのポーズに過ぎなかったのではと思いました。玉井元村長の赤松嘉次や曽野綾子への態度はとても軍の責任を追及する立場の者の態度とは思えません。「恩」を感じての事ではないかと推測しました。この赤松デビューの時、「捏造」を暴露しなかったのは、まだ、玉井村長への義理・厚生省という大きなお役所からの圧力を感じていたからではないでしょうか?
推測は続きますが、沖縄集団自決に援護法を適用するについて、「隊長命令」を用件としたのは、形式を整える必要性が在ったからではないかと思います。実質は「軍によって追い込まれた戦死」と厚生省は捉えていた事には違いありません。「隊長命令」無くとも援護法適用は、厚生省の既定の方針だった事は宮城晴美の調べなどからも判っています。
だから、当初捏造された「隊長命令」は、お役所に保管されていたが、ある時期に「破棄」されたと推測するのです。
照屋昇雄や、彼を唆して証言させた連中は、「隊長命令」が無かったという決定的証人を出したつもりでしょうが、私は「隊長命令」が在ろうと無かろうと、赤松元隊長の責任は無くなること無いと思っているので、この捏造隊長命令があったほうが、曽野綾子や赤松嘉次のあざとさが露呈されると思うので、在ったとしても構わないと思ったのです。
開き直って、推測ばかりで持論を述べましたが、5・60年も前の事について見解を述べる場合、客観的資料に基づくことはもちろん重要ですが、それのみに基づいて考えを述べる事にも限界がある思いまして・・・。どうも長々と。
山崎行太郎
>>キー坊さん、ni0615さん、和田さん
玉井喜八、照屋昇雄に関する詳しい分析と追求、たいへん面白く読ませていただきました。照屋証言も、「つくる会」の三日間という短期の現地調査、勉強会の時に、「偶然のタイミング」で、「恵隆之介」の紹介という形で、たまたま遭遇した物語ということになっていますね。宮平証言との「偶然の出会い」という遭遇物語と瓜二つです。仕掛け人が同じなのでしょう。玉井喜八村長の怪しい役割と行動も、これでほぼ分かりました。曽野綾子が碑文を書いている理由も、それと関係していますね。以下のキー坊氏の見解に同意します。
>玉井の曽野への取材協力、慰霊祭への赤松招待、戦跡碑共同建立なども、べったりの態度と言ってよいような気がします。
>5・60年も前の事について見解を述べる場合、客観的資料に基づくことはもちろん重要ですが、それのみに基づいて考えを述べる事にも限界がある
和田
キー坊さんは書きました
「曽野が「ある神話の背景」でかなり高飛車に沖縄を叩けたのは、自分の上昇意欲もあったでしょうが、特に有効な「使える」情報を持っているからではないかと、これまた私は推測をしたのです。もし、「隊長命令捏造作業」が事実だとすれば、一気に隊長命令を無化できる材料と成ります。曽野にとっては、そのような情報入手は容易な事だったでしょう。赤松自身も提供したでしょうから。」
現在、照屋氏以外「隊長命令捏造作業」をうらづけられる証人はいない。曽野がどこから情報を入手できますか。当時情報公開は一般化されていません。赤松が56年に厚生省の受領印のある副本を所有していたとでもいうのですか。
曽野綾子は実証的な作家などではありません。「切り取られた時間」と「ある神話の背景」とセットで赤松を賞賛し住民を貶めることを企図している。
「ある神話の背景」では、赤松が上官に未完成の留利加波の船艇壕を放棄しようとの進言が入れられなかったとの記載がある。ところが「ある神話の背景」より早い時期に出版されている「切り取られた時間」では、「堀りかけのところで遅いと言われ、波が高いから場所を移すと言われて、基地隊はむくれたのである。」と記載されている。これは留利加波以外ではない。事実として出撃準備の際、留利加波に中隊はいなかった。当然船艇もなかったはずだ。「ある神話の背景」では事実を曲げてでも、赤松が苦労を背負ったようにみせかけた。 一方「切り取られた時間」で赤松隊と曽野綾子の化身である釣師は渡嘉敷島住民を貶める会話を盛んに発している。
もうひとつだけ。
さまざまな証言を比較検討すると1945/03/27安里巡査と赤松の会談後住民は本部陣地近くに移動させられる。新城(富山)兵事主任が本部陣地に赤松を訪ねたところ「本部陣地外の西山盆地に移動せよ」というのが大筋の事実。 しかし、所有地ではない恩納河原に避難していなかった阿波連の住民などは中継地として恩納河原に上れと言われた者もいた。本部陣地の所在がわからない住民には標高208メートルの北(西)山(御嶽)(方向)へ行けと言われた者もいた。
曽野綾子はこれらの実態を悪用し「切り取られた時間」と「ある神話の背景」において、住民が自決場に自然(勝手)に移動した、軍に一箇所に集められさらに移動させられたというのは事実ではないと搦め手の手法で刷り込まさせている。「切り取られた時間」での釣師と女との会話がそうであり、「ある神話の背景」でただ着いていっただけで事情に疎いA,B,C,Dの婦人を利用して住民は勝手に御嶽に集まり集団自決を招いたと思い込ませることに腐心している。
ふたつの著作での地理描写から本部陣地と第1自決場を踏破したと思われる曽野綾子は、あやふやなまま、結論を出したのではない。
始めから、赤松への好意と住民蔑視(軍賛美が目的)が前提にあり、意図的に、住民が自決場に自然(勝手)に移動した、軍に一箇所に集められさらに移動させられたというのは事実ではないと読者を誘導したのである。
ni0615
キー坊さん、山崎さん
>玉井の曽野への取材協力、慰霊祭への赤松招待、戦跡碑共同建立なども、べったりの態度と言ってよいような気がします。
その記事のライターは、世界日報の鴨野ですね。照屋やそれを演出した連中は、玉井喜八氏についてもいいように脚色してる可能性があります。死人にくちなしです。以前私が指摘したように、鴨野の記事は誰が見てもでたらめだらけです。そのでたらめのなかに、ベッタリの様子が描かれているのですから、眉にツバをつけて読みましょう。
赤松が判を押した「偽造文書」などありっこありません。それは、赤松手記(1)の本人が書いた文面をよめば、そう得心できます。(赤松手記(2)潮70年11月は、文士の代筆だと私は睨んでいますが山崎さんはどう思いますか?)
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/?cmd=word&word=%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%89%8B%E8%A8%98&type=normal&page=%E3%81%B5%E3%81%9F%E3%81%A4%E3%81%AE%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E5%A4%A7%E5%B0%89%E6%89%8B%E8%A8%98
村にあるのは、赤松に問い合わせもせずに「隊長命令」を記述した援護法申請文書です。それは、赤松本人には気が引けることだったことは、充分に想像できます。
1970頃の渡嘉敷の村人たちの雰囲気を推し量る材料の一つとして、こちらを参考にしてください。
ni0615
こちら
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/847.html
2つの赤松手記
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/845.html
阪神
ni0615さん「それは島」が都内2ヶ所で上映されます。私は9月にポレポレで観ようと思います。
http://www.cinematopics.com/cinema/news/output.php?news_seq=7305&search=%82%BB%82%EA%82%CD%93%87
また、下記の <9>死に至る共同体 にも説明文があります。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~WHOYOU/nakazato-mirai.htm#9
ni0615
>>阪神さん どうもです。
上映日程は近日発表ということみたいですな。
http://www.cinematrix.jp/dds2008/program.html
ところで仲里氏は随分と新左翼的文章ですが、そのなかに、
> ドキュメンタリー『それは島』は、慶良間列島の渡嘉敷島で起こった「集団自決」を映画でとらえようと試みた、おそらくはじめての記録である、と一応はいうことができる。ここで「一応」という留保をつけたのは、作り手たちの意欲にもかかわらず、「集団自決」の核心に迫りえたかといえば必ずしもそうはなっていない、という理由からである。カメラは「集団自決」に入り込む手前で島民の拒絶に会い、沈黙の扉を開けるまでには至っていない。
まさにドキュメンタリー映画ならではの正直さですね。その意味でも必見かもしれません。
山崎行太郎
いつも濃密なコメントありがとうございます。
赤松手記の件、私も、物書きの手が加わっているように感じています。取材の方法論やジャーナリズムの本質論など、一介の元軍人が特別、興味を持つはずがありません。それに、やけに論争的な文章のスタイルも、明らかに変です。素人が、こういう激しい論難の文章をうまく書くのは、不自然です。プロの代筆か助言があったことは明らかですね。
>>和田さん。
曽野綾子の『ある神話の背景』にも遺族年金の話は出てきますね。情報源は明らかにしていませんが、おそらく赤松サイドからの情報でしょう。ということは、『ある神話の背景』の雑誌連載の段階で、1971年頃には、遺族年金のための「玉砕命令」という話は、つまり「隊長命令説捏造」の話は、赤松隊の隊員仲間では、公然の秘密だったように思いますが。
キー坊
>和田さん
>曽野綾子は実証的な作家などではありません。
私もそうだと思います。既に「ある神話の背景」の最初のほうで、関係者の証言を歪曲して「鉄の暴風」は伝聞で書かれたのだと、赤松側に都合の良い決め付けをしています。そしてそれを元に「概要」など、島の実体験者が記述・編集した渡嘉敷村の公式戦記をも、伝聞であるとする荒っぽい結論を導いてます。
こんな不誠実な記述でも、世の人を解った気分にさせる調子の良さが曽野の文章には有りますね。
>ni0615さん
「照屋昇雄証言」の信憑性については、捏造文書が実在した方が、曽野綾子の「ある神話の背景」執筆への動機付けが、より明瞭な感じになるので、私はそう思いたい部分も有ります。しかし、私がいくら想像力を逞しくしても虚しい事なので、自分なりにできる限り、資料を調べて事実に近づきたいとは思っています。
和田
山崎さん
>曽野綾子の『ある神話の背景』にも遺族年金の話は出てきますね。情報源は明らかにして>いませんが、おそらく赤松サイドからの情報でしょう。ということは、『ある神話の背景』>の雑誌連載の段階で、1971年頃には、遺族年金のための「玉砕命令」という話は、つま>り「隊長命令説捏造」の話は、赤松隊の隊員仲間では、公然の秘密だったように思います>が。
当然そうでしょう。真っ先に考えられるのが厚生省援護課ルートです。厚生省は靖国神社に戦死者等の資料を送り続けていましたから。ちょっと脱線しますが1965年靖国神社はノモンハンの戦死者18,000人台(端数付き)と発表し未だに国の見解とされている8千人台と大きな差があります。沖縄県史資料を見ると米軍の日本軍に対する降伏勧告ビラにノモンハンの日本軍死者18,000人台(端数付き)があって少し驚きました。日本の公式見解では第7師団は一部しかノモンハン戦に加わっていないことになっているが、ごまかしたのかもしれません。
さて、勤務隊を含む赤松隊にも当然敗戦までに死者はいるわけで赤松等が防衛庁と厚生省から死に様を報告に行っていることはまちがいないでしょう。その過程で遺族年金の話しは出てくるでしょう。部下の話から島民の年金話に続くことは自然の流れ。その話から赤松が沖縄県史で軍が悪く書かれたら良くないと証言した元防衛隊員などと接触し渡嘉敷島の情報を得ていた可能性が高いとは考えられます。そのような動きの中で赤松が動いている情報を赤松を憎む島民もキャッチし、週刊誌に情報を流したことが1968年の週刊誌報道に繋がったと考えるのが自然と思います。
阪神 「『集団自決』の真実」では住民の証言が10人に満たないわずかなものでしかありません。しかも証言内容も僅かです。曽野綾子は渡嘉敷島に何日滞在し、何人の住民に話しかけたのでしょうか。とても充分な住民への調査をしたとは思えません。少なくとも2ヶ月は滞在しないとまともな調査は出来ないと思うのですが。
阪神
2ちゃんを眺めていたらこんな新聞記事がリンクされていました。
http://altair.mydns.jp/~kiken/sekai/img.php/non/1214050664.jpg
1971年頃、曽野綾子は亡命を考えていたそうです。そんな心理状態で赤松部隊員らと会ったり、「ある神話の背景」が連載された事になります。どこへ亡命するつもりだったのでしょうね。
ni0615
>どこへ亡命するつもりだったのでしょうね。
hahaha,
阪神さん、「亡命」は曽野の「当時」の体験ではなくて「現在」のプロパガンダですよ(笑)。あるいは「鬱症状」体験を、そう言い換えているのかもしれません。
1970-71年の日本の言論界は確かに左翼的な「躁」状態にありましたから、曽野が身の置き所がなかったと感じてたかもしれないということは理解できます。それに対して、1973年「ある神話の背景」単行本初版のころは、左翼的な「躁」状態が急速に退潮したあとですから、曽野はこの期を逃すなとばかり「諸君」連載版にはなかった大江批判を単行本に書き加えたのでしょうね。
曽野は、こうした他者攻撃性を自らの言動マナーに加えることによって「鬱」を克服したと類推します。だとすれば曽野は、仮に自分の宿念のライバルが「左翼」でなくて「右翼」だったとすれば、彼らに攻撃的スタンスをとるために今は「左翼」になっていたかもしれません、ネ・・・
一部モノ書きさんたちの「思想」とは、案外そんな程度のものかもしれません。ただし、「左翼」や「民主」への憎悪は、いつの時代も体制擁護の「乾燥燃料」ですから、それをあたかも「思想」であるかのようにまことしやかに振舞えば、そんなもの書きさんでも「御殿」が建てられるわけです。
July 19(Sat), 2008 お知らせ
●『ウィキペディア(Wikipedia)』の「集団自決」関連項目に、またまた池田信夫一派の工作か……。
ネット百科辞書『ウィキペディア(Wikipedia)』の「山崎行太郎」の項目だけではなく、「曽野綾子」の項目などにも、何故か、池田信夫ブログの「曽野綾子に誤字誤読(罪の巨魁)はなかった。」「誤字(罪の巨魁)は全部、編集者の校正ミスだった……」というようなトンデモ解釈が、定説であるかのように書き込まれ、その上に参考文献として池田信夫ブログがリンクされているが、言うまでもなく、池田信夫こそがこの「曽野綾子誤字誤読事件」では無知無学をさらけ出して、大恥をかいている張本人わけなのだが、どうも、話はアベコベになっているようで、池田信夫の説で決まりということになっているらしい。呆れた話である。「ウイキペディア」は学術的な点に大きな欠陥と限界があることが以前から指摘されているらしいが、やはり怪しい工作員によるデタラメな書き込みが多数あり、それが放置されている模様で、かなり胡散臭いという感じであり、とても信用できる百科辞書というわけにはいかないようだ。『ウィキペディア(Wikipedia)』日本語版管理責任者・吉沢英明よ、記述内容に関して責任を取る気はあるのか。
■『ウィキペディア(Wikipedia)』の正体 http://amr-i-t.com/2008/07/post-69.html
●「無名のネット・イナゴ=池田信夫君」の「恥の上塗り」発言
↓
■曽野綾子の誤読から始まった。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071118
■曽野綾子の「誤字」「誤読」の歴史を検証する。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071127
■「無名のネット・イナゴ=池田信夫君」の「恥の上塗り」発言
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071129
■「曽野綾子誤字・誤読事件」のてんまつ。曽野綾子が逃げた?
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071130
■曽野綾子の「誤字」は最新号(次号)で、こっそり訂正されていた(続)。
和田
土民と血縁的一体性
下記から引用しよう。天皇主義の立脚点を明確にしている主張である。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion02c.htm
教育勅語は、天皇が国民に一方的に命令したものではないことです。天皇は自ら実行するともに、国民に一緒に実行しようと呼びかけているのです。すなわち、敬神崇祖・忠孝一本の道であり、親子一体、夫婦一体、国家と国民が一体の精神を、天皇は国民に対してともに実行しようと呼びかけているのです。
以上のように戦前の国体とは「血縁的一体性」を建前にしていた。「天皇の赤子」という考えもその延長上にあると考えてよい。
この論理の戯画として2つ挙げておこう。ひとつは、オウム真理教の浅原彰晃こと松本智津夫は、オウム信者の目標を(優れたDNAを持つ浅原教祖の入った風呂の水などを飲むなどの方法により)教祖と同じDNAを持つようにすることと語っていた。先後関係はわからないが人気アニメ「ドラエモン」にクローン人間を大量に量産するが、元の人間が他のクローン人間を奴隷化する話しがあった。
このように(オウムの実話やドラエモンの説話が示すように)血縁的一体性の論理は現実には建前とは別に血縁的差別を正当化する論理であった。アジア的社会では上位の氏族・部族が下位のそれらを系譜的つまり血縁的に包摂(抱き込み−血縁擬制)し、そのことを前提に服属支配(血縁序列)していた。古事記の系譜などもその部類で血縁的一体性の論理とは血縁擬制と血縁序列を組み合わせた血縁擬制序列であり、前近代的氏族社会の系譜を引く論理である。
一体性を前提として固定化してしまえば、差異や矛盾・軋轢を認める余地はなくそのようなものは実在しないとして抑圧することにならざるをえない。だから一体性を国家イデオロギーとして主張すると自由は奪われる。天皇主義でない者・靖国に反対する者は反日ということになる。一体性の中身が血縁ではなく普遍性を唱えた社会主義という名による人民の一体性であっても、やはり旧ソ連のように国権に異を唱える余地はなく自由は奪われる。
このように一体性を前提にすれば、権力者に近い官僚が一般住民の上にそびえ立つことになる。そういえば「国体の本義」http://www.j-texts.com/showa/kokutaiah.html
にも「一体」の一言で説明を終えていることが多いことがわかる。
血縁的一体性−血縁擬制序列は、洗脳教育以上に錬成という名のいじめによって叩き込まれ、伝承される。叩き込まれるほう(華族などを除く小の虫だが)は、いじめる側に上昇することによってしか奴隷的待遇から抜け出すことは出来ない。そのような藻掻き(体感)が血縁的一体性という無間地獄を再生産していた。
ところで戦前多くの本土住民は大和民族をアイヌと沖縄人を除くと考えていたようだ。だからアイヌ人差別があった。右翼には曽野綾子のように大の虫になることに主要な関心がある血縁序列派と大東塾・皇道派・一水会のような前近代的血縁擬制派に分かれる。
血縁擬制派は日鮮同祖論や琉球同祖論によって朝鮮人や沖縄人を抱き込もうとする。血縁が無理と考えれば、葦津珍彦のように朝鮮に設立させた神社に朝鮮の想像上の祖神などを天照などと合祀する手法である。血縁擬制が駄目なら文化擬制序列でいこうというわけである。
現在の朝鮮・・・・共和国は壇君の墓を捏造したり金正日と太陽に関連づけて解明させその上、金正日が金剛山で生まれたなどもっぱら民族的・神話的・血縁的一体性を強化しようとしている。戦前日本の嫡子まではいかないが、無意識に真似をしている。
沖縄は日本に帰属するのが遅かったため、本土より一般人から血縁的一体性に欠けるところがあると思われた。昔、NHKで日本人の満州移民が「他の民族より優越感を持っていた」と広言していた。
血縁擬制は建前で血縁序列が目的であったから一般民も軍や政府の本音に同調し、中国人・朝鮮人・満州族・アイヌ・沖縄県民を民族的に劣るとみなし差別したに過ぎない。
石垣眞人
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。
和田
石垣さん
あなたのサイトを見ると数学者で新興宗教家であったアルキメデスを思い出します。
たぶん誤解しているのでしょうが私は「血縁擬制序列」概念をあなたの錬金術的・呪術的方向とは逆の方向で使用しています。
血縁擬制と血縁序列を分離させて書かれていることが多いですが、直接参考にさせてもらった人物は政治思想史学者の守本順一郎氏と弟子の岩間一雄氏です。また殷周社会の松丸道雄氏、日本史の山尾幸久氏なども血縁擬制社会の構造を研究しています。
靖国神社に同調的なあなたの思考回路は呪術的なものから祭祀的なものに軸足を移行しつつあるようです。私は呪術的な方向は具体的で科学に発展する芽を持っていた。しかし、賽銭を投げる祭祀的行為は、自然への贈賄であり個(精神体質)の劣化を招くと考えています。念を押して言っておきますが、私はアニミズムとシャーマニズムを様式化した日本の神道を前近代的なものとして、また自我を否定し自由を抑圧するものとして否定しております。レヴイ・ストロースなどの文化人類学・神話学なども合わせ勉強され、非科学的歪みを矯正する必要があると思われます。
abesinzou
初めてコメントします。私はウィキペディアでいくつか執筆した事があるので注意喚起したいのですが、ウィキペディアはブログ主殿が考える「以上」に大変問題だと思います。
集団自決に限らず南京事件、慰安婦など日本の戦争責任に関わる歴史的事実とその関係者、関係機関の全ての項目で、甚だしい編集妨害が行われており、まともな情報を記載するには相当な努力が必要で、結果的に歪んだ状態になっています。またその記載を巡って編集合戦があったため、現在これらの多くの項目で保護(編集禁止状態)になっており、かなりの数がかなり怪しい状態で長期間(長いものは2年以上)固定され、結果的に誤った知識をネット上で供給する源になっています。
編集した経験から申せば、これはウィキペディアの特殊な編集システムと、やたらと細かく厳格なルール、右翼的心情から項目を勝手な方向に編集する一部の者、そしてそこから起こる編集合戦自体を楽しみにしている圧倒的多数の心得違い(馬鹿者)の存在によるものです。
これらの歴史関係の項目ではその事実に詳しい者が執筆編集しても、産経新聞などに載った誤った情報を根拠としてそれを削除する者の方が圧倒的に多く、それを再修正すれば編集合戦になりすぐに編集禁止状態になります。編集禁止にする管理者はこうした歴史事実に無知(彼らの多くがプログラマー出身であることを考えれば当たり前でしょう)であり、その記載内容をいっさい斟酌せず、単に編集合戦での表面的な議論の様子や、内容には関係ない細かいルールの逸脱を根拠に、事実に詳しい者となんの知識のない者を対等に扱います。
更にウィキペディアが問題なのは、こうした編集合戦を加速する独自のシステムを備えていることです。ウィキペディアではある執筆者が過去に何を編集したか誰でも容易に追跡でき、一度自分と対立した執筆者の発言、編集傾向を分析し、その執筆行為全て覆すことは大変容易です。このため歴史的事実をきちんと書こうと何回も執筆努力する者は、妨害を楽しむ心得違い者には恰好の攻撃対象(遊びの対象)とみなされ妨害されやすいのです。更にウィキペディアにはある執筆者を完全に締め出す措置も用意されており、ネット上で他人を貶しめる事に喜びを見出す人間に恰好の場を提供しています。
こうしたウィキペディアの問題点は、最近「ウィキペディアで何が起こっているのか」という本が出て多少言及されているようですが、一般的にはまったく知られていません。またブログ主殿は池田信夫を批判していますが、彼が過去にウィキペディアを題材に情報歪曲記事を書いたのはご存知でしょうか?顛末はここにありました(http://zeimusmaki.iza.ne.jp/blog/entry/197646/)私もこの「諸君!」2007年6月号は読みましたが変だなと思いました。現在ウィキペディアで項目「池田信夫」は管理者により厳しい監視下にあり、少しでも池田信夫を批判するような事を書けばすぐに管理者から締め出しの警告が行われます。これはikedat76のIDで長期間編集を行っていると思われる池田信夫本人の圧力と私は推測しています。
曽野綾子などのおかしな編集は、池田信夫本人かもしれないし、上記の心得違いかもしれません。ただウィキペディアの問題点がこうした現象として表れている事だけは確かだと思います。
July 17(Thu), 2008 土民
ni0615
その差別観は本土の民衆、知識人にも伝染し蔓延して戦後の事件となっていました。
「沖縄疎開児童撲殺事件」
http://www.izumito.com/sk/li_maruki9602.html
(連載の前後もぜひ)
山猫 牧田 ・・だんだん読んでいるうちに 毒蛇さんの 照準が 少し わかり掛けた気がします・・・しかしまぁ よしのり が 良くもまぁ 月刊日本に乗り込んで「恫喝」まで掛けたとは・・・軍隊用語では 民間を「地方」とも呼んでいたようです。谷川雁に「地方ー意識空間として」だったかなという難解る文章あり・・・・沖縄に関しては 柳田翁・谷川健一の南島論はちょつと本気で読んだけど・・・真に「保守」すべきものは何か・・兄の標的と 小生などの標的は おおむね そこらへんだろうと思っています 僭越ながら・・・・
阪神
曽野綾子が集団自決問題を語るのは「新宿のバーで人の噂話をしている」ようなものなのでしょうか。三浦朱門は「歴史問題でない、愚かだ、政治問題だ」と考えているのでしょうか。動画の4分あたりで語ってるのが気になりました。私の邪推ですが参考までに。
http://jp.youtube.com/watch?v=11W-nbnGVMY&feature=related
ni0615
山崎さん、思い出したことですが、ずっと前のエントリー
>>曽野綾子の依存する「陣中日誌」は信用出来るか<<
に関連して、
曽野綾子氏の「集団自決の真実(新編)」p242―243を再読願います。 谷本氏の誓約を自ら破っていることを示しています。http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/352956/
キー坊
>ni0615さん。
この赤松隊陣中日誌については、既に「ある神話の背景」発刊の直後、1973年7月に琉球新報紙上で、軍隊経験ある大田良博が、これは私製「陣中日誌」であり、改ざん疑惑があると指摘してますね。(太田良博著作集?戦争への反省 p180・p239、240)
8.16の朝に投降勧告文を持たされて来た住民2名を射殺した事を、後で谷本が書き加えたと赤松が自ら言ってますね。それは「誰何」したら逃げたのでそのまま射殺したと、住民2名の処刑を正当化している箇所ですが、太田は「誰何して答え無い場合殺してよいのは、夜間、相手が敵味方判別不明の場合に限る」のが作戦要務令の歩哨一般守則だしています。朝は夜が明けた情況であり、米兵か住民かの区別はつくはずだと疑惑を呈してます。(同 p205)
ni0615
>>キー坊さん
私なんかよりも当然誰かがとっくの疾うに指摘してなくてはオカシイはずです。太田さんなら当然でしょうね。
太田良博著作集(3)戦争への反省 p180・p239、240ですね。有難うございました。
山崎行太郎
>>ni0615さん。
>>キー坊さん。
いつも貴重なコメント、ありがとうございます。
「曽野綾子氏の「集団自決の真実(新編)」p242―243」の問題は、私も、「保守論壇の「沖縄集団自決裁判」騒動に異議あり!!!」(「月刊日本」二月号)で取り上げ、『陣中日誌』に加筆修正の疑いが濃厚で、資料的価値は少ないと指摘しておきました。太田氏の資料批判は知りませんでした。曽野綾子に「分裂症か」と言われた太田氏の曽野綾子批判発言を、今こそ再評価しなおすべきですね。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20080125/
阪神
三浦朱門が先月「うつを文学的に解きほぐす 鬱は知性の影」を出版していました。この本の宣伝の為だったのかもしれませんね。
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032080272&Action_id=121&Sza_id=GG&Rec_id=1008&Rec_lg=100813
しかし三浦の著書を辿っていくと、10年位前からは権力にこびるというか大臣になるためだったのか、全くごますりで一貫性が無くみっともない人間だとわかりますね。
曽野は昨年「うつを見つめる言葉」を出版していました。8年間うつに苦しんだとの事ですから昭和37年にうつになり、沖縄へ行った昭和42年頃に治りかけ、昭和45年に快復したことになります。まさに沖縄を踏み台にしてうつを克服したのではないかと疑いたくなりますね。もう一度、沖縄へ行ったらどんな本になるでしょうね。「沖縄の人達のおかげで鬱になる」なんて本になりそうですねw。
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000031879662&Action_id=121&Sza_id=B0
山崎行太郎
>>阪神さん。
驚きましたね。三浦朱門が、先月「うつを文学的に解きほぐす 鬱は知性の影」を、曽野綾子は、昨年、「うつを見つめる言葉」を出版しているんですか。「鬱病」で一儲けですかね。それにしても、阪神さん、よく気が付きましたね。ありがとうございます。曽野、三浦夫妻を、文学的にまったく評価していないこともあって、夫妻がそんな本を出しているなんて、まったく気が付きませんでしたよ。「鬱病」と「沖縄」……。何だか怪しい話ですが、かなり深い関係がありそうですね。沖縄を発見することなよって「鬱病」を克服した? ということでしようね。低開発国の「貧民街」を放浪することによって「自己回復」する女性達の深層心理に共通するモノは、なんでしょうか。
キー坊
>山崎さん
太田良博は筆力ある作家だと私は思いますが、曽野綾子から突かれた「鉄の暴風」の記述ミスの故に、生前1冊の単行本も出版させて貰えなかったように思えます。死後、夫人の手によって遺稿集が順次出版されてますが、第3巻「戦争への反省」には「ある神話の背景」への反論文が収められています。(安里・知念への取材を怠って「隊長命令」を記述した事を除いては)はぼ曽野綾子を論破していると思います。ただ、弱みがあるせいか、文章全体の調子としては迫力を欠き、曽野を追い詰めているようには感じさせませんね。
>阪神さん
興味深い情報有難うございます。吉村作治に「アラブでは千年以上前の事を歴史という」と言わせていますね。彼らにとっては明治維新も太平洋戦争も取るに足りない事になります。ましてや渡嘉敷の事件など問題外の事なのでしょう。それにしても、久しぶりに見た曽野の人相は、女でも「ある歳になれば自分の顔に責任を持たなければ成らない」の典型でしょうね。
ni0615
キー坊さん
>太田良博は筆力ある作家だと私は思いますが、曽野綾子から突かれた「鉄の暴風」の記述ミスの故に、生前1冊の単行本も出版させて貰えなかったように思えます。
そうだったのですかあ。 わたしには、そういう事情はわかりませんが、太田氏が或る時期から沖縄の論壇・文壇で孤立してしまったのかなあ、と感じています。また、沖縄の言論界には何か逡巡があり、曽野批判をおこたってきたことが推察されます。
数多くの体験者聞き取りにもとづいて、太田氏主導で「鉄の暴風」新版をだすタイミングもあったのかどうか。
私は、「鉄の暴風」は1949年取材時の真実を反映していますから、資料価値はたいへん重いと思っています。
太田氏の「ある神話の背景」批判の採録です。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/881.html
キー坊
>ni0615さん、コメントをどうも。
>>記述ミスの故に、生前1冊の単行本も出版させて貰えなかったように思えます。
私は沖縄の言論事情にそれほど通じている訳でなく、これは私の推察に過ぎないです。マイナーな地元出版社からマイナーな内容の単行本は出されてますが、タイムスで「鉄の暴風」出版に貢献し、新報にも在籍した太田良博が両社から1冊の著書も出版されてないのは、「ある神話の背景」が出たからだと推測しているのです。
また、沖縄の言論界の曽野綾子批判が散発的な事も、「鉄の暴風」における太田の記述ミス、及び座間味・渡嘉敷両村における援護金の為の隊長命令「捏造」が在って、思い切っては叩きにくいからだと推測してます。
TIDA 山崎先生、恐縮ですが、上の私の書き込みは、誤解を招く恐れがあり、一部不適切と思われます。すみません。お手数ですが削除お願いします。
山崎行太郎
TIDA さん。
希望通り、例のコメント、削除しました。今後ともよろしくお願いします。
キー坊
>ni0615さん
自決した住民が援護法による補償を受けるに「隊長命令」を条件としたのは厚生省の窓口役人が、他の戦没者との区別化を図る為ではなかったかと思います。村の援護事務担当者が安易にそれに従ったのです。
宮城初枝が調査官の前で「ハイ」と偽証する以前に、厚生省事務官の「慶良間の集団自決は軍命によるもの」という認識が在ったとする資料が存在すると、宮城晴美の「母の遺したもの」(p250〜257)ありますね。
村の幹部は、宮城初枝を調査官の前に出す必要なかったのです。
沖縄の集団自決者は援護法でなく特別立法でもっての補償を、沖縄の行政は日本政府に要求すべきであったと私は思いますが、今の時点で批判するのは酷というものですね。
ni0615
>>キー坊さん
『第32軍の戦闘指針や、長勇参謀長の檄があったわけですから、米軍上陸時には軍民ともに「戦えるものは一人十殺一戦車」「戦えないものは足手まといにならないように」という実質的な玉砕命令は既に「規定の方針」でしたから、村役場が仮にそれを「隊長命令」と表現しても間違いとは言えないと思います。村の有力者は何か引け目を感じてしまったのでしょうかね。
それよりも一番大きなブレーキは、肉親に手をかけてしまった人がいる島で、人間関係に波風を立てるのが怖い、という気遣いではないでしょうか。
今回ホンドウヨクの連中は、2泊3日の泥靴ツアーを何度繰り返して島の人間関係をかき回してきたでしょうか。』(2008/07/20 16:41)
山崎行太郎
>>ni0615さん。
書き換えましたが、肝心の前後関係がずれてしまいました。書き込みの時間を残しましたので、悪しからず。(笑)
お前等
お前等は特権階級ですか?
自分たちの誹謗中傷には噛みつき
自分たち以外は誹謗中傷してもいいのか?
言っておくが鬱は凄く重い病気なんだぞ!
それを「鬱で一儲けですか」とは何だ!
自称文壇が聞いて呆れるわ!
鬱で自傷癖の人の腕見たことあんのか!
胸くそ悪いわこのブログ
お前等には言葉狩り批判の資格も無いわ!
キー坊
>お前等どの
私は、曽野綾子という特定の人物がある時期「鬱」になった事について、その原因は何か、如何にして克服したのかを、沖縄との関連で推測しているのです。鬱の人全般を誹謗中傷する積りはないです。
山崎行太郎
>>お前等
曽野綾子、三浦朱門が、みずから「曽野綾子のうつ病」をネタに本を書き、それをネタに原稿料を稼いでいる以上、曽野綾子と「鬱病」の関係を語ることが、差別になるわけがない。「お前」の論理なら、三浦朱門こそ、「うつ」を売り物にして、欝の人全般を、面白おかしく、誹謗中傷していることになる。ともあれ、「お前等」よ、礼儀をわきまえないコメントを書き込むなら、その前に、顔を洗って出直して来い。「お前等」のコメントこそ、誹謗中傷だろう。
山崎行太郎 「お前等」名義の書き込みがありましたが、管理人の山崎行太郎の独断で削除しました。
TIDA 論争で論破された相手に向かって「精神分裂病か!」と発言したり、災害で被災した人々に「甘えるな!」とのたまう女史先生のうつ病の原因、まことに興味深いテーマですが、お前等さんは文学にも心理学にも感心のない方のようです。私生活をネタにする作家にとってこの程度の揶揄や批判は当然想定内のはずですが、かの女史先生の場合は特権的にそうでもないのでしょうか。ファンの方か何か知りませんが、そのような擁護は、却ってご本人のイタサ加減を強調するだけですが・・・
山崎行太郎
>>山田
>しかし、あなたもしつこいな。もうどうでもいいでしょう。
竹島の投稿でもしたらどうかな。
すみませんね。しつっこくて。俺は、しつっこいのが唯一の取り柄なんでね(笑)。竹島問題に興味があるなら、さっさとテメーがやれよ。ネットウヨと馬鹿には、つける薬はないな。俺のブログは、下位ブログで、「一人芝居」だそうだから、耄碌気味のオヤジ・ウヨよ、精神衛生上よくない上に、目の毒だから、わざわざ読まないでくれよ。以上。
TIDA
曽野ー太田論争(沖縄タイムス)を昨日初めて最後まで熟読したのですが(SpecialThanks to 15年戦争資料@Wiki)、曽野氏の転倒した論理には呆れてしまいました。突っ込みどころ満載の問題作に、太田氏は少し手加減してやる余裕ももって論破していたと思います。なかでもトオマス・マンの一文を曽野氏が誤読・悪用していることに対して、第11回の太田氏の指摘は胸がすく思いがします。太田氏のこの論文に若干誤りがあったのは事実ですが、当時の情報としてはやむを得ない範囲であり、この反論の価値をなんら貶めるものでもありません。曽野氏が自己の主張や自己愛を満たすために、虚言も厭わず、トオマス・マンという権威や神の名すら口にして相手を貶める手法は30年以上前からの性癖であったことがわかりました。このようなイカガワシイ人物を持てはやし重鎮として奉る日本の商業文壇もまったく情けない限りだと思います。(毒吐き御免)
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/896.html
TIDA
津嘉山正種のひとりがたり朗読劇「人類館」、お勧めです。沖縄人への差別および、沖縄人が日本人に必死に同化しようとして自らもまた他民族を差別するという笑えないおかしさを描いたシュールな演劇です。「お前達土民は・・・」というせりふあり、集団自決の場面も描かれ、30年前の脚本とは思えない新しさがあります。津嘉山さんが標準語と沖縄語を自在に操って、一人とは思えない迫力で演じています。(7/31〜8/4まで東京公演青年座)
http://www.seinenza.com/performance/studio/106.html
キー坊
>TIDAさん。
この明治36年(1903)の「人類館」事件については、戦後の1970年頃大田昌秀の著書によって広く知られるようになったようです。が、これを太田良博が1979年に、それは違うとし、「人類館」は金儲けの業者が勝手に会場の外でやった事だとして、政府が公式の展示としてやったものでないから、沖縄の人間は過剰な反応をすべきでないと、夫人の手によって出された遺稿集1「琉球の女歌人」の中に収録された論考でクレームを付けてます。
しかし、この人類館は、勧業博覧会の関係者が経営者となって開設された事が、近年明らかとなっています。つまり、民間の業者が会場外でやっている体裁に成っていても、日本政府の容認というか、意向で開設されたという事です。
この辺りに、私は太田良博に再び、ため息をつかされる思いを禁じえません。
週末の予約取れましたので、津嘉山正種の一人朗読劇を行って見てきます。
TIDA
キー坊さん、いつも貴重な情報ありがとうございます。
そういう論評があったのですね。遺稿集、探して読んでみます。人類館事件は人の心に二重、三重の差別構造を生みだした醜い事件であったと思います。日本→沖縄差別のみならず、沖縄→東アジア他民族への差別意識の萌芽、沖縄の日本国民への同化志向、皇民化教育受容路線へのきっかけともなった悲しい事件と考えられます。戯曲「人類館」ではまた、皇民化された沖縄人による「土民」沖縄人への差別も描いています。読んでいないのでアレですが、大田氏の論考は、この側面をみたからかもしれません。
キー坊
津嘉山正種の朗読劇「人類館」を観てきました。
私は演劇の実演を観た経験が少ないせいか、朗読劇でも津嘉山の迫力ある演技に圧倒されました。場面は「人類館」に留まらず「集団自決」場面など、あらゆる沖縄人と日本人の葛藤場面をカバーしていますね。
台詞は3分の1が「標準語」、3分の1がいわゆる「沖縄大和口」、3分の1が「沖縄口(方言)」だと思いました。津嘉山正種は、日本語のしゃべりはもちろん、沖縄語のしゃべりも完璧だと感じましたね。
当然ながら沖縄人の私には全部理解できるので、笑えるところでは笑いましたが、後で、大和人の知り合いに聞いたら、雰囲気は伝わって来るが、意味は3分の1位しか判らなかったと言ってましたね。
沖縄人の津嘉山は沖縄語の台詞があるから、あれ程の思い入れもできるのだと思います。でも、沖縄人が大和人を相手に、自分のオリジナル言語で自己表現をすることは楽な事では無さそうです。
July 15(Tue), 2008 「屠殺者」
キー坊・沖縄人
小生の親の生業は長年、田舎町の肉屋でしたが、自分で朝、町営の「屠殺場」で豚を「屠殺」して、そのまま店に持ってきて並べて売ってました。小中学校の頃、学校に出す書類の親の職業欄には「屠殺業」と書いてましたね。高校では「精肉販売」と書くようになりましたが、今でも「屠殺」という言葉に、私は抵抗感はないです。
もちろんこれは今では、日本では特殊の沖縄の中でも、特殊な感覚かもしれません。また、大江健三郎だけが「屠殺」という用語を使ってよいのかという問題とも関係無いことですが。
ni0615 当時、軍はその内部では、沖縄住民のことを「土民」と呼んでいた。「土民」は南方植民地住民を呼ぶときの言葉であったし、信用できないという気持ちがにじんでいる。「独立混成第15連隊本部陣中日誌」
ni0615
「主陣地ノ構築ヲ第一ニ着手シ偽陣地前進陣地海岸陣地ノ順ニ構築ス主陣地以外ハ成シ得ル限リ土民ヲ利用ス」
独立混成第15連隊 第2大隊本部陣中日誌・西地区守備隊主陣地構築要領(土民とは沖縄県民を指す)
http://w1.nirai.ne.jp/ken/syo2.htm
ni0615 なお「屠殺者」という言葉を敢えて使った理由に附いては、大江氏自身が『陳述書』に書いてます。(連投ごめんなさい)
池村健一 大江戸さんの人間を貶めるとはどういうことかを読みました。
和田
中国で「南京大屠殺」という表現がされているのは周知の事実。
何故今までこの事実が指摘されず、比較もされていないのか不思議な気がする。
なお、ATOKで「とさつ」でカナ漢字変換しようとしても出来ない(初期設定)ことを初めて知りました。
山崎行太郎
コメントありがとうございます。
>>キー坊さん。
南九州で生まれ育った私も同じようなものです。差別言語の意味は、差別言語運動なしには注目されません。不当な差別は確かにありますが・・・・・。
>>i0615さん。
いつも資料その他、ご教示いただき、ありがとうございます。日本軍の、「土民」という言葉の使い方は、つまり「土民とは沖縄県民を指す」は、重大ですね。
>>和田さん。
確かに、中国で「南京大屠殺」という表現がされていますね。
キー坊
沖縄の精肉業者が自分で屠殺して売ったのは、日本復帰以前で、まだ日本の法令が適用されなかった時代までです。復帰後は、近代的工場で処理された枝肉を仕入れて売るように成ってました。かつては、人口1万数千のわが町に10数件肉屋がありましたが、今はスーパーに押されてほとんど残ってないようです。
「屠殺」の趣旨に関係ない話でスミマセン。
かきくけこ 呉智英って元左翼だったのか。元左翼過激派で、左翼の悪口を言って保守論壇に媚を売る奴って、許せないよね、っていうより軽蔑するね。西部もそうだな。保守って、前歴をたどると、大部分がそうらしいね。藤岡某なんてのも、熱心な元共産党員だよね。
阪神
戦前の沖縄の家にはフールといわれる豚便所で黒豚(アグー)を飼っていたそうです。中村家住宅、国営沖縄記念公園他で見ました。戦記には「つぶし」て食べてしまう話がよく出てきます。今でも、とあるスーパーの店頭で豚の解体ショーをやる事があるそうです。これは「生きている豚を殺すのではなくて、既に死んでいる豚を包丁で切っていくそうです。そして、さばいたものを次々と店頭販売するそうです。キー坊さんの言われるように沖縄では大きな動物を殺す事に本土の様な抵抗があまり無いのかも知れませんね。
文芸春秋8月号に三浦朱門が「妻・曽野綾子がうつに罹った時」を書いております。その中で曽野綾子がうつになったのは昭和37年で、快復するのに5年以上かかったとなっております。曽野綾子が沖縄の仲宗根先生宅を訪れたのが昭和42年12月ですから、うつから快復したかしない微妙な頃に沖縄に行ったことになります。三浦によると曽野にとって日本は閉所であるから日本にいるとどこか具合が悪いそうです。だから頻繁に外国に行くそうです。当時は沖縄も曽野にとって具合の良くなる場所だったのかもしれませんね。恐らく沖縄に行ってからうつが快復したのだと思います。
キー坊
>阪神さん
文芸春秋8月号コンビニで買ってきました。
上っ面をなでるような三浦朱門の「曽野綾子うつ論」ですね。すっとぼけているのか、のー天気な旦那なのか、それとも我々のような「敵」の眼を意識しての煙幕なのか。
外国に行って、日本にいる事の「閉所恐怖」を克服した・・・。うつの原因と直った事への分析は、いかにも上滑りですね。昭和42年頃うつを克服したと言ってるが、直った途端パワー爆発で沖縄に足繁く通い、「生贄の島」「切りとられた時間」、そして「ある神話の背景」という傑作を書き上げたのでしょうか。
オレンジ
山崎さん、今日のブログにも貼ってありましたがこのHP→ http://w1.nirai.ne.jp/ken/syo2.htm
は使わない方がいいのではないでしょうか。
沖縄関連の内容はどうかわからないのですが、朝鮮関連の記述は
不正確・・・というよりも読者をミスリードさせるものです。
例えば
「日本での労働力不足を補うために徴兵・徴用として多くの人たちが強制連行された。」
とありますが、徴兵・徴用は当時の国民の義務だったので強制連行という表現は不適当ではないかと思います。
もし徴兵・徴用が強制連行というのであれば、赤紙でサイパンへ行った日本軍兵士たちも
強制連行の被害者という理屈になります。
他にも「言葉のわからない異国の地で戦火にさまよう二重の苦しみを味わった。」
とありますが、皇民化政策・同化政策が徹底しており、朝鮮半島でも日本語による
教育がおこなわれていました。
1910年の日韓併合以降、日本語教育がおこなわれているので併合当時に生まれたとしても
1940年の時点で30年分日本語の蓄積があります。
もちろん最初から日本語教育を受けていない可能性もあるので日本語の蓄積分が
もっと少ないかもしれませんが、全く日本語が分からない朝鮮人だけが沖縄に
送られてくるという可能性は低いと思います。
この文章は全く日本語のわからない朝鮮人が沖縄で苦労した、というイメージを
読者に持たせるような含みを持っているといえます。
また「「慰安婦」として戦場へと送られた。」という記述がありますが
慰安婦は朝鮮人の女衒によって派遣されている場合が多く、確かに危険な
戦地に彼女たちはいたかもしれませんが、その事実が即日本軍によって危険な
目にあわされたとはいえません。
ざっと見ただけでも、わざと読み間違うような書き方やある出来事の背景を
隠している記述が多いので、このことを足掛かりに「このHP自体信用できない」→
「それを引用しているこのブログも信用できない」という風になる恐れがあるのではないでしょうか。
せっかくの誤読事件の指摘がつまらないことで台無しになるのは不本意なので
このHPは使わない方がよいのではないかと思います。
新参者がしゃしゃり出て余計なことを書き込んですみません。
山崎行太郎
>>オレンジさん。
丁寧なご忠告ありがとうございます。
これは、ni0615 氏に教えてもらった貴重な資料ですが、私としては、軍隊の「公式文書」(?)の中の記録という点を評価して引用しています。私は、ni0615 氏の資料発掘、あるいは資料分析の力をかなり信用していますので、今はこのままにしておきます。悪しからず。
「慰安婦」問題の日本軍の「強制連行」の問題点等の記述に関しては、今のところ、パスします。そのうち詳しく議論することになるかもしれませんが。
渡嘉敷島にも座間味島にも「朝鮮人慰安婦」がいました。彼女達が、どういう経路を経て、渡嘉敷島等に送られたのか、興味はありますが……。
阪神 オレンジさん、沖縄戦に関する戦記を少なくとも100冊以上読みましょう。どこかの作家が都合の良いところだけつまみ出した沖縄戦の本じゃなくて経験者が書いた本に限ります。そうすれば日本語がしゃべれる人がいなかったのかどうかくらいはわかります。慰安婦の事もある程度わかります。話がずれるのでこれ以上はいいません。とにかく100冊以上、或いは県市町村史10冊以上は読んでみましょう。私も読んでいる最中です。
ni0615
(山崎さん お手数ですが、上記は投稿時に行が乱れたようですので削除してくだされば幸いです)
>>オレンジさん
あなたはどうやら、渡嘉敷島にも座間味島にもそれぞれ数百人の朝鮮人軍夫が、それぞれ赤松隊長、梅澤隊長の配下に属していたことをしらないで、強制連行云々をいっているのですね。
日本人の軍人軍属ならば、姓名、出身地、島にやってくるまでの軍歴、終戦時の消息などが綿密に調べられ大半の人は分かっています。それにたいして、朝鮮人軍属(軍夫)はどうですか?
名簿すらないことが、その「徴兵・徴用」が闇に包まれた「連行」を疑うにたる現実です。
よくもまあ、
>もし徴兵・徴用が強制連行というのであれば、赤紙でサイパンへ行った日本軍兵士たちも強制連行の被害者という理屈になります。
などといえますね。
また、従軍慰安婦についても、
>確かに危険な戦地に彼女たちはいたかもしれませんが、その事実が即日本軍によって危険な目にあわされたとはいえません。
慶良間諸島への慰安婦派遣は、挺進基地大隊もしくは挺進戦隊派遣とともに、第32軍によって配置されたものです。その意味では、「従軍」慰安婦の典型例の一つかもしれません。
今は裁判で、「集団自決」が焦点となっていますが、この裁判を機会に、慶良間諸島に配備された「朝鮮人軍夫」と「慰安婦」の問題にも、光を当てなくてはならないでしょう。
オレンジ
山崎さん
お忙しいところコメントありがとうございました。
阪神さん、ni0615さん
前の書き込みでも書いていますが、確かに私は沖縄に関して門外漢です。
勉強不足の状態で書き込んですみませんでした。
ただあのHPについて心配したのは、私のようによく分からない人が
色々勘違いして、色々言い出してせっかく焦点があっている「誤読事件」の指摘が
うやむやになってしまうのではないかと思ったからです。
例えば指摘されているように
「朝鮮人軍属の場合名簿すらない」よって「連行」を疑う余地がある
この事を知らなければ、私のように勘違いして指摘する人も出てくるでしょう。
そうなればそれに対して反論なり説明なりする必要に迫られるので
その分肝心な論点「大江裁判は誤読から始まった」という点が
ぼけてしまうのではないかと危惧したからです。
やっぱり新参者がしゃしゃりでるのはよくないですね。
すみませんでした。
July 13(Sun), 2008
●曽野綾子は雑誌連載論文で、何を書き、何を書かなかったのか?
曽野綾子は誤字誤読問題の発覚後、逃げ続けていますが、何故でしょう。何を恐れてするのでしょう?( from 山崎行太郎 )
牧田吉明 ・・優れた作家と 劣悪な人格は 共存する。大江健三郎にも それを強く感じます。沖縄論争 あまり 読まない事にしてます。営業保守 まともに相手にしても 時間の無駄ですよ。山浦先輩に会ったらよろしくお伝え下さい。山猫灰
山崎行太郎
牧田さん、
コメントありがとうございます。
牧田吉明と言えば、「例のあの人」ですね。
変な言い方ですが、私たちの世代のものには、懐かしい名前ですね。
ところで、親切なご忠告、了解しました。
また「山浦先輩」の件、了解しました。
小生の西部邁論もお読みいただいたようで、感謝申し上げます。
福田恒存糾弾会会長
>優れた作家と 劣悪な人格は 共存する。大江健三郎にも それを強く感じます。
私の経験からもこの事は事実です(優れた作家かどうかは知りませんが)。
数年前に、文化勲章叙勲拒否に関連して尋ねたい事がありましたので、質問事項を書いた手紙を、返信用の切手を同封して大江に送りました。勿論、送った質問状は常識的に礼を失しない文章で書いたものでした。
その当時は、大江については普通の人が感ずる程度、つまり東大在学中に芥川賞受賞、その後精力的に著作すると同時に政治・社会問題に積極的に発言し、ノーベル賞受賞、と言うようなもので、どちらかと言えば好意的な印象を持っていました。
そういう偉い作家先生のことですから、忙しいだろうし、全国のファンから手紙が殺到しているかもしれないので、たぶん返事は来ないだろうが、もし来れば儲けけもの、と言うようないい加減な気持ちで返事は大して期待していませんでした。
したがって、数日して返事が来たときは大喜びしました。偉い作家先生だのにちゃんと返事をくれた、偉い人は違う、と言うような気持ちでした。封筒裏面の差出人のところには住所氏名を彫ったゴム印が押してあり、姓名の下に(内)と書いてありましたので、夫人が代理で出したのだなと思いました。
ところが開封してみて驚きました。封入されていたのは私が大江に送った手紙そのもの(ワープロで感熱紙に印刷したもの)。その手紙は横書きでしたので
大江健三郎様
年 月 日
私の住 所
氏名 ○ ○
本 文
と言う書式でしたが、なんと返送されてきた私の送った手紙の 大江健三郎様 と言う箇所の 様 をボールペンで消し、右側の私の氏名の○○の後に 様 と書いてありました。そして、本文中の私の質問事項の文章を丸で囲んで、そこから線を欄外まで引き、その所にたとえば「そうです」とか「こうこうでした」等と書いてありました。
それを見てあまりの非常識さに一瞬あきれましたが、次に怒りが湧き上がってきました。
私は日ごろあまり手紙を書かず、従って返事もほとんど来ませんので最近の手紙事情に疎いのですが、それでも大江から来たような非礼な返事を送るような人間は多分いないと思います。
大江は、護憲・反戦平和その他の政治的・社会的諸問題について左翼の立場から精力的に発言していますが、数年前に、改憲・軍備拡張などの立場を鮮明にしている自民党寄りの読売新聞の販促テレビコマーシャルに出演して巨額の出演料を稼いだそうです。要するに金を貰えるならば悪魔の手助けだってなんだってやります、と言うのが大江の根本精神なのでしょう。
読売新聞が売れると言う事は読売の主張がそれだけ日本中に広まり、改憲・軍備拡張の世論を広める読売新聞の目的を支援する事は明らかで、大江が中心となっている護憲運動の同志に対する公然たる裏切りを行っていたわけです。
こう言う裏切り行為を日本中に放送されているテレビで公然と行っていた大江が、現在もなお「九条の会」で最高幹部として活動している事から見ると、大江にはまともな人間として決して行ってはならないことを認識する能力が欠落しているとしか考えられません。それだから、私に対する非礼な行為も大江には当たり前のこととしか認識されないのでしょう。
そういえば、私の知人に大江の返信について愚痴ったところ、「ノーベル賞作家の自筆書簡は市場でいい値段がついている。もし大江が私(糾弾会長)に自筆の手紙を出せば、私(会長)がそれを売って金儲けができる。どこの馬の骨かもしれない人間に自分の手紙で金儲けされるのが許せなかったのだろうよ。」と言われましたが、そういう見方が案外正鵠を射てるのかもしれません。
確かに、牧田氏のおっしゃるように、大江健三郎には「優れた?」作家と劣悪な人格が共存しているようです。
ni0615
>>糾弾長さん
貴方の手紙がどの程度礼を失しないもので、それに対する返事がどの程度礼を失したものなのか、それほど仰るなら画像にとったものを晒したらどうですか? あなたの言い分がよくわかりますよ。
まさか、感熱紙でもう文字は読めない、と前段の証拠が隠滅されていることへの弁解が、都合よく用意されているのではありませんよね。
大江さんも、右翼のいやがらせ手紙も放置せずに結構マメに応答してたんですね。むしろ感心しました。
山猫 牧田
・毒蛇様へ 十代の頃 小説も政治的発言も 大江やサルトルやメイラーにシビレタ時期か在りました。でも クロンシュタットの事 カタロニアの事等知ると 心は離れました。・・吉本さん・・一応・・さん付けで呼ぶことにしているのですが・・・が昔むかし 赤松大尉が沖縄を訪れた時に島の人達が取った対応を 厳しく批判していたことを 思い出します
。具体的な文言は忘れましたが。「本当の事を言おうか」と大尉が言った・・そんな 記憶がかすかに 残っています。また・・・・
福田恒存糾弾会長
nio615さん
>貴方の手紙がどの程度礼を失しないもので、それに対する返事がどの程度礼を失したものなのか、それほど仰るなら画像にとったものを晒したらどうですか? あなたの言い分がよくわかりますよ。
まさか、感熱紙でもう文字は読めない、と前段の証拠が隠滅されていることへの弁解が、都合よく用意されているのではありませんよね。
鋭い突っ込みですなあ。参りました。おっしゃるとおり感熱紙の印刷文字は消えてしまって今は読めないでしょう。と言うのは、その後私は2回ほど転居したので、そのドサクサで大江関連の書類がどこかにまぎれてしまって今はどこにあるか分かりませんので。
したがってすぐにと言うご要望にはお応えできませんが、精一杯探してみましょう。私が印刷した感熱紙の文字は消えているでしょうが、大江または彼の妻が↑のように私の手紙に書き加えた箇所はそのまま残っているはずですし、大江からの封筒も残っているでしょうから、見つけたら、例えば山崎さんのところにでも送って鑑定してもらいましょうや。私はPCの操作が下手でワードがどうやらできる程度、おまけにデジカメなども所有していませんので証拠写真をメールで送る事ができないものですから。
>大江さんも、右翼のいやがらせ手紙も放置せずに結構マメに応答してたんですね。むしろ感心しました。
私が右翼ですって。驚いたなもう。貴方はご存じないかもしれませんが、私は左翼のぱりぱりと言う事で、福田恒存の関係者や旧かな論者の間ではちょっとした有名人なんですがねえ。
大江の非礼手紙については後日譚もありますので、山崎さんのお許しを得られればここに投稿したいのですが、山崎さんいかがでしょうか。
さいごに、nio615さんとやら、誤った先入観と、おかしな思い込みで他人を非難するものではありませんよ。引っ込みがつかなくなりますから。とはいってもおかしな変名で正体を隠しているのだから何でもやりたい放題かあ。
まあ、私のいうことがウソだと言うんだったら大江夫婦か大江の娘さん、あるいは大江の家の近所の人たち(大江の両隣7軒ほどと、大江の家の道路を挟んで向き合っている6軒ほどの家)にでも聞いてごらん。この件の顛末をA4用紙2枚にまとめたものをそれらの家の郵便ポストに入れ、また大江の娘さんに直接手渡してあるから。
福田恒存糾弾会会長
山崎さん
下記の文章は「天才バカ掲示板」と言う掲示板に私が先ほど投稿した文章です。このブログの目的とはかけ離れた完全に私のことなので削除されても何ら依存はありませんが、できましたらnio615氏が読むまで1日ほど表示しておいてくださいませんか、お願いします。
7204 私は右翼だそうです 福田恒存をやっつける会会長 2008/07/15 23:02
男性 自由業 70歳以上 A型 愛媛県
NO.7201の文章を毒蛇山荘日記に投稿したところ早速反応がありました。
>ni0615
2008/07/15 16:13
>>糾弾長さん
貴方の手紙がどの程度礼を失しないもので、それに対する返事がどの程度礼を失したものなのか、それほど仰るなら画像にとったものを晒したらどうですか? あなたの言い分がよくわかりますよ。
まさか、感熱紙でもう文字は読めない、と前段の証拠が隠滅されていることへの弁解が、都合よく用意されているのではありませんよね。
大江さんも、右翼のいやがらせ手紙も放置せずに結構マメに応答してたんですね。むしろ感心しました。<
要するに私が右翼で、大江健三郎を捏造した話で非難していると言う趣旨のようです。私が右翼とはホントに驚きましたね。
それから福田恒存をやっつける会会長と言うHNの事ですが、変えるつもりはありませんので悪しからず。それとも琉球の風ノートの主宰者の何とかさん(姓名失念)のように、福田恒存をやっつける会会長というHNでは困りますか。
山崎行太郎
>>福田……会長
いろいろ議論が続いているようですが、原則として私は、どんな議論をしようと放置しています。ただし、私個人の感想としては、大江健三郎の「人格」云々……という問題にはまったく興味ありません。私は、ドストエフスキーやニーチェが好きですが、彼等が「高潔」な、そして「上品」な人格者だとは思いません。では、彼等がキライになるとか、彼等の文学や思想への評価が低くなる、かというと、そんなこはまったくありません。大江健三郎に対してもまったく同じです。よく大江健三郎の文学を批判する前に、大江健三郎の「人格」や「人間性」を批判する人がいますが、だれが他人の「人格」や「人間性」を最終的に判定できるでしょう。大学時代、「三田文学」の会長は石坂洋次郎でしたが、彼が、挨拶で、「生活第一、文学第二」とか言って、太宰治等の東北出身の作家たち、いわゆる破滅型の作家たちを批判しているのを聞いたことがありますが、私はその話に失望し、石坂を軽蔑したことを覚えています。読者からの手紙をどう扱おうと、作家自身の自由だと思います。馬鹿丁寧に、親切に対応する作家こそ怪しいと思います。
ni0615
>>xx会長さん
あなたが自称「右翼」であろうと自称「左翼」であろうとどちらでも構いません。こういうことをなさるストーカーだったのですね。
(xx会長さんいわく)
> まあ、私のいうことがウソだと言うんだったら大江夫婦か大江の娘さん、あるいは大江の家の近所の人たち(大江の両隣7軒ほどと、大江の家の道路を挟んで向き合っている6軒ほどの家)にでも聞いてごらん。この件の顛末をA4用紙2枚にまとめたものをそれらの家の郵便ポストに入れ、また大江の娘さんに直接手渡してあるから。
わたしの言い分も以下のように直せばストーカーにエサをあげないで済むようですね。
>>大江さんも、ストーカーのいやがらせ手紙も放置せずに結構マメに応答してたんですね。むしろ感心しました。
でわでわ
ni0615 ネットストーカーとしてつとに名を知られた「福田恒存をやっつける会会長」を改名した由。でわでわ
木枯し
山崎先生!本家ブログ上段に記されていた「台風の芽」という言葉が、「台風の眼」に変わっていますね。これはどういう意味なのでしょうか。
私は以前の「芽」の方が「論壇に、台風を、起こしてやるよ(笑)」という意志を込めた「発芽」という意味も掛かっていて、論壇デビューを目前に控える山崎先生にふさわしいと思っていたのですが…
そこんとこ、どうなんでしょうか。
山崎行太郎
そうですか。
私は、申し訳ありませんが、「論壇デビューを目前に控え」ておりません。今までどおり、粛々と書いていくだけです。
July 12(Sat), 2008
●wikipediaの件はこれで終わり。
wikipediaの仕組みとそこに集まっている、頭が悪い上に勉強不足のネットイナゴたち(笑)の生態がわかっただけでも成果は大であった。以後、どうなろうと、どうでもいい。適当に利用したい時に利用すればそれでいい、と思う。この件で、当コメンと欄も「炎上」でもしてくれるのかと、期待していたら、なんてことはなく、一人か二人の嫌がらせのカキコミがあっただけで、ちょっとがっかりした。それも同一人物が、別ハンドル名で書き込んでいるので、実質的には一人? というわけで、僕もまだまだ修行が足りないと思い知らされた次第である。何かあると、すぐに、ネットイナゴどもが湧き出てきて、たちまち「炎上」する、それぐらいのハードなブログを目指そうと思うが、どうだろうか……。(from-山崎行太郎)
●阪神さんの情報より。
赤松隊戦友会の碑。
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/pdf/jiketsu05.pdf
●ni0615さんの情報より。
曽野綾子と赤松隊員の会合写真。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=840&file=aoiumi-akamatsu.jpg
雷
山崎先生、著書に
『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』その他
とありますが、その他とは具体的に何でしょうか?
興味がありますので、教えていただけませんか?
阪神
こんばんは。沖縄戦の捕虜第一号の件ですが「15年戦争資料 @wiki 」のサイトを見ていたら座間味村史の内容が掲載されておりました。http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1007.html
これによると、アメリカの雑誌に阿嘉島の後藤夫妻が沖縄戦の捕虜第一号として掲載されたそうです。米軍の阿嘉島上陸が3月26日8時頃であり、後藤夫妻が何時頃に保護されたのかは不明です。私は染谷少尉が阿嘉島の捕虜第1号確定と以前書き込みましたが、染谷少尉が捕虜になった時刻が不明なのでこれを訂正します。結局、阿嘉島および座間味島での捕虜第一号が誰なのかは今の所確定出来ません。蛇足ですが長周新聞社発行「沖縄戦の真実」の38頁に、『慶良間の戦争体験者も「捕虜一号」と英雄のようにいうことに、「自分たちは、自分だけが生き残り、亡くなった人にどうするかという思いでいっぱいなのに、ああいう感覚は許せない」といっていた。』とありました。これは宮平秀幸氏に対して許せないと怒っている座間味島住民がいるということですね。2004年秋の出来事です。それともう一つ。渡嘉敷島に戦跡碑があるのですが、その碑文が曽野綾子撰となっており、「そこにあるのは愛であった」と記されています。昭和54年3月に建立されていますが、この時点で渡嘉敷島の役場の人間がなぜ曽野綾子の碑文にしたのでしょうかね。うっかりしていたのでしょうか。「愛」に執着する小林と曽野が重なって見えましたw。http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/pdf/jiketsu05.pdfで碑文を見れます。
山崎行太郎
>>雷
自分で調べなさい。
やだん 事実を書かれて罵倒するって子供みたい・・・。
ni0615
阪神さん
> 昭和54年3月に建立されていますが、この時点で渡嘉敷島の役場の人間がなぜ曽野綾子の碑文にしたのでしょうかね。うっかりしていたのでしょうか。
これは赤松隊戦友会の碑です。赤松隊戦友会が曽野綾子を選ぶのは当然です。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=840&file=aoiumi-akamatsu.jpg
「ある神話の背景」執筆模様の写真をご覧ください。
山崎行太郎
阪神さん。
重要な現地の写真提供、ありがとうございます。また、捕虜第一号の件、了解しました。いずれにしろ、宮平が第一号ではないということですね。
ni0615さん。
>これは赤松隊戦友会の碑です。赤松隊戦友会が曽野綾子を選ぶのは当然です。
なるほど、そういうことでしたか。碑と碑文の製作背景が、よくわかりました。
雷 調べた結果、「その他」というのは嘘で、著書は二冊しかないことが分かりました。ありがとうございました。
ni0615
山崎行太郎さん
村や遺族会が建てたのは「白玉の搭」の方です。
赤松隊戦友会の碑に当時の玉井村長が協力したことは確かです。玉井村長は曽野本ではあたかも集団自決体験者であるかのように登場しますが、それは、読者にそう勝手に思い込ませる虚偽です。玉井村長はあの時は島にいなかったのです。「神話の背景」には、イニシャルで登場する複数の女子青年団員たちの話題が「玉砕命令」に向かわないように四苦八苦してる痕跡が残っています。そのシーンを読み直して確認することにしましょう。
ni0615
私が、「ある神話の背景」の諸君連載版1971を国会図書館で読んでからもう日が経ってしまいましたが、曽野綾子は単行本化1973するに当たって、赤松氏や赤松隊隊員からの意見をあつめ、訂正したと思われる箇所が何箇所もあります。古波蔵村長からの聞き取りなどは、単行本になるにあたっては、隊員からの反論でぶつぶつに寸断されてしまっています。
わたしが諸君版を読んだきっかけは、「誤字」「誤読」の起源を探ることでしたが、そこには「誤字」も「誤読」もありませんでした。なんと、そこには大江健三郎批判など一字もなかったのです。
執筆動機は「大江健三郎批判だった」というのも半分はウソだといえましょう。単行本を売るための動機だ、といえばホントですが。
山崎行太郎
ni0615さん。
たびたびの重要なご指摘、ご教示を頂きありがとうございます。
曽野綾子の「諸君連載論文」、私も読みました。コピーもとってあります。
まだ詳しい分析はやっておりませんが、ご指摘の通りだと思います。「古波蔵村長からの聞き取りなど……の寸断……」等には気付きませんでした。これからじっくり比較検討してみようと思います。
実は、私としては、この「曽野綾子諸君原稿」の改稿問題を明らかにするのは、まだ早いと思っていました。何らかのタイミングで、全面的に展開しようと思っています。
たとえば、宮平秀幸証言に関連して、「本田靖春資料」を、「キー坊」氏からの情報提供によって公開したところ、早速、原告側弁護団が、われわれの資料発掘を黙殺して、あたかも自分達で発掘したかのように、「本田靖春資料」の発見を誇示してます。
いい機会と言うか、いいタイミングなので、「曽野綾子諸君連載原稿」の改稿問題について、一斉に公開しましょう。
特に、「そこには大江健三郎批判など一字もなかったのです。」これがポイントですね。
いずれにしろ、重要な資料のご教示、ありがとうございます。
阪神 ni0615さん、ご指摘有難うございました。
ni0615
> この「曽野綾子諸君原稿」の改稿問題を明らかにするのは、まだ早いと思っていました。何らかのタイミングで、全面的に展開しようと思っています。
山崎さんに全面展開していただければ心強いかぎりです。
和田
こんな記事があります。
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/61374ccbeb34ab86f7e0fb69e8b396ac
■玉井元渡嘉敷村長の提案■
昭和54年、渡嘉敷島の戦跡碑が建立された。
その碑文のことで兵庫県の赤松隊長の自宅に、当時の玉井喜八渡嘉敷村長、曽野綾子氏そして赤松対戦友会の谷本小次郎氏が集まった。
「世界日報」の鴨野記者が谷本氏から聞いた話を「月刊ビューポイント」 より引用する。
≪集団自決の数をどうするか、という話題になった時、玉井村長が「315人でお願いします」と発言した。 「それはまたどうしてですか」と谷本氏。彼は渡嘉敷の自決現場を見ていない。 戦後、慰霊のために訪問した時、「せいぜい多くて100人集まるのがやっとではないか」という印象を抱いていた。
玉井村長はこう語ったという。「昭和27年までに亡くなった人の数が315人だからです。 厚生省は(援護法がスタートする)27年まで入れてよい、と言いました。 白玉の碑には、27年までに亡くなった315人の名が刻まれています」
曽野綾子は複数の赤松隊とどれだけ会っているのか。曽野にとっては国会証言など一円玉より軽いのではないでしょうか。
ni0615
>>和田さん
私もこのヨタ記事のことは前から知っていましたし、資料庫の中に入れておきました。しかし「世界日報」の鴨野記者のヨタ記事をきちんと評価しないで引用する和田さんのような方がいて驚きました。
この記事は鵜呑みにしてはならないばかりか、あるいは揶揄したいからといって迂闊に引用してはいけないものです。
ちなみに曽野の碑文は394人になっているのですから、このヨタ記事との異同を和田さんはどう説明するのですか?
どうやら私は資料庫に鍵をかけねばならないようです。
ni0615
なお、曽野碑文でも315人という数字が登場します。
「こうして、当時、島にあった海上艇進三戦隊、同基地隊などの将兵315名は、僅かな火器を持っただけで、島の守備隊とならざるを得なかった。」
こういうことからも、私は鴨野「ヨタ記事」と半分以上断定します。玉井村長は「死人に口なし」、照屋証言でもこのヨタ記事でもいいように利用されています。
和田
NIO615さんへ。かって「375」に次のように書きました。
引用します。
「その中の自決人数とされる315人は
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/pdf/jiketsu05.pdf
渡嘉敷島「戦跡碑」によれば、第3戦隊(ただし広義これは別に説明の予定)の人員でありでたらめではある。
」
和田 「375」は「373」の誤りです。また私は「373」も今回も狼魔人日記を直接見て書いたものであり、資料庫に存在することはつい5日ほど前に知りました。
ni0615
和田さんには、ここからコピペする青少年もいることに是非ご留意願います。信用措けないものは、きちんと冒頭にそう銘記してから引用してください。普通のどくしゃは、貴方を狼魔人氏の代理人と想うでしょう。
おそらくこの鴨野守のヨタ記事は、
死人に口なし、「谷本氏談」、「谷本氏談の中の玉井村長談」、両方ともすべて鴨野の作り話なのでしょう。
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/modules/tinyd03/index.php?id=15
渡嘉敷村サイト「白玉の搭」の説明文です。
「満6年忌を迎えた昭和26年3月28日、住民集団自決の現地北山(現青少年交流の家敷地近く)で、白玉之塔の除幕式と合同慰霊祭が行われ、戦没者(日本将兵81柱、軍人軍属92柱、防衛隊42柱、住民383柱)の御霊を島守りの神として仰ぎ祭られています。」
ni0615
ところで和田さん、「375」とか「373」って何ですか?
【蛇足】私の資料庫では、鴨野記事が「戦跡碑」碑文と「白玉の搭」碑文とを混同している、との私の注釈があったと思います。
和田
ni0615 さん
>ところで和田さん、「375」とか「373」って何ですか?
「373」とは、
沖縄戦についての掲示板(下記)
http://tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php?n=373
のことです。
ni0615
和田さん
>「373」とは、沖縄戦についての掲示板(下記)のことです。
そこは休刊中の私の掲示板ですね。了解しましたが、それを分かれっていうのは私でも無理でしたよ(笑)。
和田 2008/08/20 16:25 徳永信一は近代的な弁護士ではない
徳永の主張
http://mid.parfe.jp/kannyo/100kiroku/nakama/tokusinn/H18-10-22.htm
この中で徳永は、「「人間の尊厳」における「人間」は、「人間らしさ」を形作っている人間的伝統の尊重を意味します。普遍的な道徳、文化、宗教です。それらを離れて普遍的人間などありえません。」と普遍を強調している。
しかし本音は「保守派の基本概念とは、「道徳」、「文化」、「愛国心」、「伝統」、「天皇」、
「国体」です。」と語っていて正統とされる日本主義(地域的・時間的に普遍的なものではなく偏奇している)を普遍的かつ不可侵な存在に祭り上げる。それ以外の思考法は排除の対象となる。
そのことから演繹的に「理性に基づく実定法もまた、慣習法なり、伝統の法を破ることはできないという伝統主義を内在しています。」と言い放ち、伝統に反する法は無効という主張をしている。
近代以前には行政法が民法より基本とされていたかもしれないが、現代では民法が法規の基本(憲法のように上下ではなく横の関係に置いて)であることは法律を学んだ者の常識。
近代民法の基本理念は
http://www.osu.ac.jp/~kuramoch/keiyaku.html
にあるとおり、「契約自由の原則−身分から契約へ」であることはいうまでもない。
中世までは、身分どおりの画一的な行動規範に従うことを強要され自由な契約は出来なかった。
近代以降は合意があり、違法でなければ一応契約は有効である。伝統らしきもので無効となるのは(ヴェニスの商人が)契約したような約束違反の場合に人の肉を切り取るというような場合に限られる。だがそれは伝統とはいわない。公序良俗という。そして、適法であるにもかかわらず、公序良俗によって契約が無効になるような公序良俗とは、法の上に立つ普遍的かつ万能な理と考えられているのではなく、それを適用しない場合には著しく正義が犯されたと絶対多数が認めうるものでやむを得ず適用される(隠れた)存在でありめったに使われない。
公序良俗は特定の時間・地域・多数派による特定の伝統を絶対視するものではないから時代を経れば同一内容ではなくなる場合もありうる。日本人なら「米を食え、着物を着ろ、畳で生活しろ、雅楽を聴け」こんな言い方で趣味や生活文化にまで干渉することは許されない。ところが近代以前は統治者が文化に干渉し伝統護持を強要した。身分不相応との理由付けで自由を奪われた。
チェンジは許されなかった。
マックス・ウェーバーは支配(統治)の類型として伝統的・カリスマ的・合法的の3類型を考えた。石器時代に系譜を持つ氏族社会から連綿として続いた伝統的統治では、法より伝統が優先する。 近代はそうではない、伝統は変わりうる、変えうるもので例より時(山名宗全)なのである。
このような意味で徳永弁護士は近代的な弁護士とは言い難い。タリバーンなどのイスラム原理主義に親近性があり、イスラム教よりさらに原始的な(神道)祭祀を法より重視する前近代的思考を本質としている。
徳永弁護士は祭祀に歴史と伝統が凝縮しているとして、他人の自由を奪いさまざまな身分的強制を強いんとするカルト信徒で現代の弁護士にふさわしくない。
キー坊 2008/08/23 21:27 小林よしのりが批判している佐藤優氏の琉球新報連載コラムの記述内容は、次のようなものである。
佐藤氏の母親は沖縄戦における、デイゴ学徒隊という従軍看護隊の生き残り者であるが、その生き残り同窓生達が書いた回想録のある部分を佐藤氏に示した。それは、ある軍医が部下と従軍看護生徒へ加えた横暴な制裁と、患者となったある中佐の二等兵看護助手への謙虚な態度とを対照的に書いたものだが、母親は「優君、最終的には、主義主張でなく人間性の問題だと思う。日本軍人もいい人もいれば、そうでない人もいた。お母さんはそう考える事にしている」と言ったそうである。
佐藤氏は「論壇人にも、いい人もいれば、そうでない人もいるのである。内地では、『沖縄が反日の島である』というキャンペーンを一部の右翼、保守陣営に属する有識者が執拗に展開している。もっとも、右翼の理論誌である『月刊日本』は、他の右翼雑誌と一線を画し、集団自決に関する日本軍の責任を真摯に受け止めることが右翼、愛国者として当然のことであるという論陣を張る。・・・ 右であれ、左であれ、沖縄について語るものが、それで金銭を得たり、自己の虚栄心を満たすために行っているのか、本気で沖縄のことを考えて行っているかを読解する力が琉球新報の読者に備わっている。・・・」と、名前は出さないが小林よしのり以下、軍の責任を否定する言論人を「結局は人間性の問題」として斬って捨てている。そして、名前は出さないが山崎行太郎さんと「月刊日本」を称えている。
実に痛快だと思う。曽野綾子以下、「大江・岩波裁判」を後押しする言論人は、人間性低劣な人達だと私も思うからである。
小林よしのりは、佐藤氏の琉球新報へ媚びる態度が気色悪いと言ってるが、広範な出版物で売れっ子の佐藤氏が一地方紙に媚びる必要性がどこにあると言うのだろう。
ラサ#lhasa 2008/08/24 20:14 確かに佐藤優氏は地方紙に媚売る必要ないのかもな。
媚売らなきゃ生きていけないのは山ちゃんの方だからな。
植草氏や城内先生は山崎の売名がうざいと思ってるだろうね
キー坊 2008/08/25 23:20 >ラサ
人の言葉尻を捕らえて、話を変な方向に持って行くでない。
佐藤優氏は「集団自決に関する日本軍の責任を真摯に受け止めることが右翼、愛国者として当然のことである」と思っているから、琉球新報に論考を載せるのである。それは山崎氏も同様であろう。
媚を売っているのは小林よしのりの方だ。少年雑誌に書いていた頃は面白い漫画家だと思っていたが、彼はそれ位では満足しなかったのだろう。
小林は「金銭を得たり、自己の虚栄心を満たすために」、反米主義者のポーズを取りながら、権力に気に入られる右翼漫画を描き始めて名を売ったのだ。
またネトウヨの冷やかしに乗ってしまったか。
生江 2008/09/05 18:04 キー坊さんのレスは
山崎先生が媚を売らないと生きていけない言論人だという指摘を暗に認めているようなものですね
自分の支持者にすら暗にそう認定されてしまうようでは山崎先生が可哀想です・・・
ネトウヨの冷やかしにのるのはご自由ですが
次からはそういう部分にも気をつけた態度をとってください
キー坊 2008/09/05 19:59 >ネトウヨ・生江さん。
ご忠告この上なくあり難く存ず。
これからは、お前みたいなネトウヨにつけ込まれないように、気をつけた態度をとりたい。早く消え去れよ。
生江 2008/09/06 00:16 わたしはネトウヨじゃないですよ。
むしろ左翼かもしれません。
キー坊さん、あなたは証拠もないのに妄想で決めつけるんですね、
気に入らないことを言われたらすぐそれですか。
そしてとても好戦的な方ですね。
これではキー坊さんの歴史認識や提供される情報にも信用が置けませんね。
この程度のやりとりでもそうなのですから、
おそらく歴史認識もかなりの妄想と決め付けが混じっているのでしょう。
気に入らないことは空想で否定して相手を罵倒する。
そんな人間にまともな歴史は語れますまい。
まして平和の希求など望むべくもない。
まずは鏡に向かって自分の顔つきをよく見てごらんなさい。