積極奇異型ASの場合に、小学校4年くらいになると、「廊下を走る(ルール違反をする)人が居る自体ストレス」と言うのがよく見られる。
また受動型ASは、「社会全体が自分を理解しない」とか「社会全体から迫害されている」という発想によくなる。
これらから推測してASにとっては、常に「社会全体が相手」という認知と思考の特徴があるように思う。
自分と「社会全体」があり、(特に受動型ASには)それが平和に一致しているか、または決裂状態にあるかどちらかしかない。
無理に説明をしようとすれば、「関連付け思考」の結果、ASの認識の細密画の一方の端がぼやけていることは許されないので、どんなに遠い社会の果てでも明確に白か黒かになっている必要があると説明は出来ないことは無いが。
ジャイアンから見ると、「常に社会全体を相手にしている」というのは、「誇大的、自意識過剰もいいところ」という風に映る。(これは多数派から見ても同様になるはずだ。もっとも多数派はそう思っても言わないだろうが)。
例えば、「社会全体が自分を受け入れるはずだ」と考えれば明らかに誇大的となるし、逆に受け入れないと言えば被害妄想になる。
「理解不可能なことの理解」でも確認したことだが、この前提からものを言う限り、ジャイアンは「井戸の中の誇大的」と反応するだろうし、個々の人の集まりを超えて「社会全体」を考えること自体が、(ナチズムでもない限り)発言の責任を著しくあいまいにして、結果として無責任な発言をすることになることは理解するべきだろう。
どんな権威や被り物をかぶっても、「ASを持つ一人の個人の発言」でしかないのだから。
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「脳と身体症状」のmmmさんのこのコメントに戻るんですけど・・・
私は、確かにある意味困ったので(例のアルコホーリク及び性依存のヤの字と深入りしそうになったので、AS元彼のところに駆け込んだ、これは事実。)
で、「アルコホーリクと共依存(?)」という点をとらまえて、彼が私をACと「診断」した・・・
しかしながら、私は、「アルコホーリク」が気に入ったのではなく、彼が「タクシードライバー」であった(ちなみに、出会った頃は禁酒中だった)ところが気に入ったんですよね・・・
ここから先は、「引きこもり」でない人の想像が困難であると思いますが、「引きこもり」に、もっとも普通に親切なのはタクシードライバーと、たまに家に来るパソコンテクニカルアドバイザーであったりします・・・
で、彼が言うには「そのオリジナル過ぎる行動及び想像力をどうにかしろ」つんですけど。
前置きが長くなりましたが、要するに私は「表面的には困ってないAC」だったんですね。その存在自体が、斎藤何某氏の絶対的権威を傘に被った彼の、「認識の細密画の一方の端がぼやけている」状態だった。
要するに、(私の発言もかなり「ジーキルとハイドの混合状態」してますが、)あれはコントロールというより一種の「廊下を走る奴が許せない」いじめではなかったかと思う昨今です。
私も「誇大的だなぁ」と思いはします。でも「まぁ、そういう人もいるよなぁ」⇒思っていても言わない。です。近い距離の関係なら言います。
また、自分の領地が侵略されそうなとき(オレ様原理の押し付け、例えば無理矢理宗教に勧誘されるとか)は言います。そういう場合「あなたはあなた、私は私だから構わないで」という言い方になりますが、これでは「私に関わらない範囲ではあなたが誇大的である事を尊重します」という行間が通じなかったのか、怒って『決別』を突きつけ『敵』と認識された事があります。
職場の同僚AS氏は他者の指摘に対し長い「私の原理」議論を始めるので、誰も言いません。
まりさんと同じく、「人は互いの違いを知ることが理解である」とか、「他者は存在自体がありがたいものだ」とは言います。が・・・
「何故自分はそう思うのか、人はすべからくそうであらなければならないのか、」とか、「お姉ちゃんは恋愛するといつも1+1=1になってしまう、それはオカシイ」とか、
普通の日本人多数派であれば、「見下しスルー」をしそうなところを、(あるいは肉親だから親切なのかも知れませんが、)
実にAS的に滔々と議論展開したりします。
小さい頃から、何でも考えた事を言語化する習慣がついているのか、はたまた「感覚的には井戸の中から出たAS」なのに「思考法はASの癖が残っている」のか、まことに不思議な状態になっていたりします。
(ちなみに、弟の嫁さんは純然たる多数派で、私に対してはごく普通に「病気は’気持ち悪い’スルー」をしていたりします。)
遠い社会の果て、例えば中東問題などであっても、何故解決しないのかイライラしている自分がいます。解決させられる筈だという感覚と、それはかなり困難であるという知識が、自分の中で矛盾したままで混在しています。
例え誇大的だと言われようとも実際にそう言う感覚を持っている訳だし、別に権威を笠に着ようと思って何かを発言している訳でもありません。自分を含む社会全体のみがそこにある、社会には正しいことが一つだけある、そう感じていると言えば良いでしょうか?
社会全体を見てしまうがために、少数の人の集まりが良く見えなくなるだけじゃなく、目の前の一人の人もちゃんと認識できなくなります。その人のなす反応自体よりも、客観的にどうかを考えてでしか動けないので、結果としてその人との関係を壊しがちです。
社会であっても、目の前の人であっても、理解不能であることを理解する。緻密で正確な社会という織物の幻想を捨てて、社会の矛盾を当たり前のものとして受け入れ、目の前に見えている一見矛盾した現象にもちゃんと対応する。そうすればASも少しは上手く世の中を渡れるような気がします。(言うほど簡単ではありませんが…)
ASにも、(当然かも知れませんが)空気の読める、読めないの程度に差があるように思います。相手が受け入れない状況を読めないASは、自分の原理を垂れ流します。私の周りにもそのようなASが居ります。(何かの指摘とかでなく単なる会話であっても、相手に合わせる事が出来ません。自分の思う話しか出来ません。)ASから見ても困りものです。
「人は互いの違いを知ることが理解である」とか「他者は存在自体がありがたいものだ」と、私も言いそうですよ。実際にそう思ってますから。でも、実際に違いを知ろうとすると「知る」の緻密さが、ASとADHDでかなり違いそうでもあります。
そして逆に大事な相手だと(肉親とかパートナーとかだと)スルーできない。
もちろん正確にはわかりませんが、弟さんは普通にASではないでしょうかね。
当然ですが・・
”全てを分かるためになら悪魔に魂を売る”のが mario さん。
私なら多数派的に正しいことでも、たとえ仕事であっても、確実に自分が不利になっても、それを自分の良心というか尺度が許さなければ ”自分の魂を売ってまでしたくない” です。
自分を誤魔化すと病気になるし。
同じ”魂を売る”でも全然違うのが面白い。
(先生、放映24日になったみたいですね)
>遠い社会の果て、例えば中東問題などであっても、何故解決しないのかイライラしている自分がいます。解決させられる筈だという感覚と、それはかなり困難であるという知識が、自分の中で矛盾したままで混在しています。
これ弟にもあるみたいです・・・レゲエ・ミュージシャンなのですが、「レゲエ」という音楽ジャンルに関する(私にはよく分かってないんですが)独特の、世界情勢を踏まえた論理と言うか哲学があって、これを一歩でも踏み外すと演奏自体が出来ないようです。
(ただ自分の好きなようにキーボード弾いてりゃいいじゃんとADHD的には思うんですが)
>社会全体と言うハッキリしたシステムがあって、その中に自分がどう位置付けられるのかという感覚はいつもあります。システムには意味の分からないことは無く、単に自分が何かをまだ知らないだけだと感じます。理解不能な事は存在せず、自分の努力が足りないと感じます。全てを分かりたいという欲求はかなり強く、俗に言う「悪魔に魂を売ってでもそれを知りたい」と思う気持ちに近いものがあります。
これはAS経済学者の知り合いの小父サマの場合も全く同じです。しかし、この「気持ち」つか「演説」を始終しているので、奥さんは「またラジオが雑音鳴ってる」と形容なさってます・・・
(少し弁護すると、私にとっては、数少ないよき理解者なんですが。)
この点について,ジャイアンとASとではまったく異なる感覚を持っているように思います。
言うまでもなく,ASにとって“世界は説明可能なはず”。
但し,どこで「説明」し尽くせたと見なすかは,AS各氏のよって違う(marioさんのいう緻密さの差?)ので,学問的に高度なものから,第三者から見れば相当個人的な感覚に過ぎないものまで,いろいろな「説明」がありそうです。
それにひきかえ,ジャイアンにとっては,自分の視点を離れた「客観」というのは,認知の特性上,ありえない(あるかも知れないがさほど重要なものとは思えない)のかも知れません。
こういう違いは,それぞれのタイプの,他者への関わり方(あるいは他者を理解しようとする仕方)の違いとパラレルな感じがします。
で,自分を振り返ってみると,marioさんのいう,
> システムには意味の分からないことは無く、単に自分が何かをまだ知らないだけ
という仮説に対してどこか肯定的である(思春期には同じように感じていたかも知れない)一方で,自分が直接体験している現象を離れて意味を追究することができず(能力的になのか,認知の特性上なのか),したがって,目の前で生じていることのわかりにくさをどう整理してわかりやすくするか(体験の仕方としての説明)にばかり注意が向きがちになっている,という感じがします。
これも掲載されないのかな?
>解決させられる筈だという感覚と、それはかなり困難である
これは大変良いヒントになりました。
同僚AS氏はとても頭が良く、空気も読める方なのですが、仕事のときだけ違うのです。顧客に最善の提案をしたのに、顧客の何らかの事情でその「提案」が却下又は変更されると、『最善だという事がきちんと伝わっていないからだ』となり説得をしようとします。説得をしようとしない上司や会社は間違っていると言います。そのまま、戦争の失敗を繰返してはいけないのにまだ戦争は起きていると世界情勢の話にまで続きます。。。
「顧客の何らかの事情」が見えてないこともありますが、「解決できるはず」の力が強いのかもしれませんね。もしチャンスがあったら本人に聞いてみます。
久しぶりに、のんびり、じっくり、私の周りを観察しています。
そして、不意に起こった出来事から、本当に色々なことが見えてきました。
別居中の旦那は、(運転していたのは、次女ですが)、子どもから連絡を受けても、動揺することはなく、いつもの生活同様、淡々と対応をしたそうです。
勿論、同居中からそうであったように、私を気遣ったり、メンタルなケアを口にすることはなく、
自動車を修理に持って行ったついでに、娘と二人でお茶などしながら、娘の彼氏の話から、地元の結婚式事情について、熱く語った・・・とのこと。
mariさんの言われるように、
>遠い社会の果て、例えば中東問題などであっても、何故解決しないのかイライラしている自分がいます。
・・・というように、遠い果ての、誰(何)とも分からないような問題について、旦那は、とても一生懸命に考え時間を費やすことはできても、
目の前の家族の痛みや不安や恐怖について、共感したり受け止めてくれたりすることはできないようです。
私のことはともかく、娘には言ってあげてほしかった、「怖かったやろー」と、気持ちに寄り沿うようなことばを…。
そして、特に理由もなく東京で一人暮らしを続けている長女も、
『ぎゃ、大丈夫なの?自賠責にしてもらった?』
という、メールが一度来たっきりで、姉妹や母親や車の状況やその後を心配する連絡は一切ありません。
この娘も、普段から関心の矛先は、世の中でしかない。
自分の位置づけに、思い悩み、熱く議論を展開しています。
(つづく)
ついでに、実の妹の『二刀流』にも気付いてしまった。
言語的な表現と非言語的な表現の両方を使う現場に、改めて立ち会ってしまい、
私が、家を出たかった理由がはっきりした。
私は『一刀流』しか使えないし、
>表面上は分からないような形で非言語的な表現で突き落とされたりする体験を重ねる。そのうち多くの場合は「後で気が付く」形となり、「だまされた」というショックと見抜けなかった自分自身への情けなさの両方で落ち込む。
・・・というような日々に、嫌気が差したんだと思う。
冷静に考えると、父親と妹と旦那と長女と三女・・・同じ匂いがするよ。
彼らと居ると、私は身体状態が必ず現れて、それでも離れられない状況が続くと「自分が死ぬか相手を殺すかしかない」と思えてくる。
交通事故は後遺症が長引くそうなので、ゆっくり静養してください。
私はAS当事者のコメントよりも、ひまわりさんのコメントを読むほうが、とってもASを理解しやすいです。
なんだかひまわりさんの切ない気持ちが痛いほどわかります。
私の場合、「システムは意味の分からないことだらけだが、自分は全てを知っている」という滅茶な論理で、思春期(ロック評論時代)を一貫して通して来たような気がします。
(今はそこまで傲慢でなくなったと思いますが・・・)
でも、自分の「自分が直接体験している現象の意味を追究することは全くできな」くて、ひまわりさんの旦那サマと同じく、机上の議論を展開する事に無駄な時間を費やしていたような気がします・・・
PS;今は、ここにせっせと書く以外はカウンセリングもセラピーも一切止めました。無駄なお金がかかる上に、上記の「机上の空論」を援助職とえんえんと繰り広げるだけに終わっていた事に気付いたので。
多数派ヘルパーさんと作ったご飯を残さず食べるとか、たまにネットカフェに入り浸りになって夕食をすっぽかしたら「ごめんなさい」と言うとか、毎日シャワーじゃなくてお風呂に入って安らぐことだとか、最近つくづく思います。
(まだ普通に世間話をしたりとか、友人を労ったりとかの境地に至らないんですけど。)
でも、ここで一見不毛な話をしているようで、実は半生悩まされた自分や自分の家族の「意味不明さ」から少し(かなり)解放されて、ほっとしています・・・
YANBARU先生、他の皆さんありがとう。
PS;27日にはまたリアルの専門医にかかります・・・今度は、重いアルバムを抱えていくことになろうかと思います。
何度も、読み返したつもりなのに・・・嫌になる。
●mariさん→marioさん(いつもすみません)
●身体状態→身体症状
私のこういうところが、旦那は許せないらしく、非言語的な表現で、私を追い詰めていました。
これこそが、
>「廊下を走る(ルール違反をする)人が居る自体ストレス」
・・・と同じことなんでしょうね。
大人になった旦那は、marioさんが言われるように
>そして逆に大事な相手だと(肉親とかパートナーとかだと)スルーできない。
・・・という、気持ちになり、私の不手際や間違いを繰り返し指摘し、指導してくれたんですね。
それ故、私はミスしないように、いつも細心の注意を払いながら生活していました。(それでも、ミスばかりでしたが)
なんせ、夫婦の営みを拒否した時なども、しつこく理由を聞かれ、「夫婦はいつでもやれるもんや」と言い切られたり・・・
離婚話が出た時も、「結婚式で言った(共に白髪が生えるまでetc)ことは、どうなるんや?」と言い返されたり・・・
子どもの言い訳(喧嘩)のようなセリフにウンザリし、まともに会話するのが、馬鹿馬鹿しくなっていきました。
ここでは、話せます。
こんな話・・・世間では、呆れ返られ、みんな開いた口がふさがらない、状態ですから…。
今までは、思い出すのも嫌で、ましてや口に出したり、文章にするなんて、とても苦痛だった。
でも、marioさんの話を聞いていて、『旦那はきっとこんな思いだったんだろう』ということが分かり、
旦那の言動を、理解しようと思えるようになりました。
エイトさん、ありがとうございます。
私も、エイトさんのコメントは、言いたいことが理解でき、納得しながら読ませていただいています。
日常の些細な事に、ほっとする というか 満足するというか ”自分は生きているんだな~”と ふと思えることってとても大事です。
回復の最初の一歩というのは、そういうありふれた日常生活に安堵するところから始まると思います。
私のACが重症だったころ、”日常生活”を ”何の疑問も持たずに過ごしたい”って本気で考えていました。
ACからほぼ回復した今でも、美味しいものを食べたときにいちばん”生きてて良かった”と心底思ったりします。
私も先生のブログに参加してからかなり落ち着きました。
”人を必要としない”私ですが、先生と皆さんの存在はとてもとても大きいです。
私は、むーんさんのコメントの言わんとすることが、なかなか読み取れず、
今回も、エイトさんのコメントを読んで、『そういうことだったのか』と分かりました。
むーんさんには、なんの責任はなく(だって、他の方は読み取れているんですもの)、
許してください。
むーんさん
>多数派ヘルパーさんと作ったご飯を残さず食べるとか、たまにネットカフェに入り浸りになって夕食をすっぽかしたら「ごめんなさい」と言うとか、毎日シャワーじゃなくてお風呂に入って安らぐことだとか、最近つくづく思います。
これ、いいですね。
私も、そう思える事が、日々増えていっているのを、本当に幸せに思います。
自分の脳に正直に生きるって、いいですね。
私は今、ASであろう娘に、これを伝授しています。
しかし、彼女は、まず
>「廊下を走る(ルール違反をする)人が居る自体ストレス」
>「社会全体が自分を理解しない」とか「社会全体から迫害されている」という発想
・・・を、取り除いてあげないと、次に進めないんですけどね。
ASもAHDHも、多数派とは異なる認知や志向や思考がある。
お互い、細かく違いを語りあったとしても、多数派の中で生きるには、
やはり、KYさがあったり、
むーんさんが言われるように、
>(まだ普通に世間話をしたりとか、友人を労ったりとかの境地に至らないんですけど。)
・・・のような、苦手さ不器用さがあることには変わりない。
これからも、YANBARU先生やみなさんのことばに、自分らしく生きられるヒントを見つけていきたいです。
私の場合、今までが疑問を持たな過ぎたんです。
親は(一見)優しくて当たり前、ご飯は美味しくて(?)当たり前と思っていた。(と、いうか「物の味」自体がよく分かっていなかったです・・・ひどい話、インスタント食品の方が美味しい、くらいに思ってました。)
今は、「どうしてヘルパーさん、今日は機嫌悪いのかな」とか、「今日の梨は固かったな」とか、いろいろ考えます。’疑問’も持ちます。
そういうのが、”自分は生きているんだな~”と ふと思えることかなと思ったりします。
でも、笑わないでくださってありがとうございます。
両親が、私に対して、飼っている愛玩動物(?それ以下)の関心しかなかったんだと思います。
PS;ところで、そろそろ放送ですね。今日もYANBARU先生の笑顔が見られますように。
> 顧客の何らかの事情でその「提案」が却下又は変更されると、『最善だという事がきちんと伝わっていないからだ』となり説得をしようとします。
何らかの事情が見えてないかも知れないし、見ないというスタンスを(自然に)取っているかも知れません…
私個人の感覚ですが、物事に裏事情があってはならないという意識が強いです。もし相手に何かの事情があるとしてもそれを勝手に読んではならない、話し合いの場ではそれを抜きにしなければならない、もちろん自分の都合も抜きにしなければならない(もし自分の都合を通す必要がある場合には、それは合理的に説明できなければならない)。
ですので最善な案で説得を続け、相手の裏事情による決定をも、表に出た客観的な事実で覆さなければならない。そんな感じでしょうか?その方に、相手の裏事情を解説したら、あっさり納得しそうでもあります…
(私は良い歳になってから、世の中の多くが裏事情で動いている事が見え始めて、その事実に愕然としています。憤慨もしています。)
最近、自分もある程度、空気が読める気がするなぁと考えていましたが、空気を読むのは失礼である、あるいは正しくないという印象を持っていることにも気が付きました。
仕事において、空気を読むのは全く正しくない。キチンと材料を(裏事情をも)付き合わせて議論すべき。
不特定多数に対しては空気を読む。但し、読んだ結果は推測に過ぎないので、大事ではないことは基本的にスルーする。明らかでない事は口に出来ないので、私は多数の中では必然的に無口になります。
パートナーに対しては、空気を読むのは(大事な人の表現することを信用していない意味となり)とても失礼だと感じます。結果として二刀を使うパートナーとは、一旦行き違いが起こってしまうと、意思疎通や気持ちのやり取りが著しく困難になるようです。
お怪我は大丈夫ですか?事故直後の無理が後で響くことがありますから、しっかり養生して下さいね。
さて旦那さんの行動、私には凄く良く分かります(それで良いという意味ではありませんよ)。
事故は事実として起こりました。怪我を治さなければならない。車は修理しなければならない。今後事故を起こさないように注意しなければならない。保険は充分か?車は安全か?
でも、いわゆるメンタルなケアはとても空虚なものに感じます。結局痛みや不安や恐怖は自分で何とかするしかないものです。「大丈夫?」って言っても何かが変わるわけではないと感じます。気持ちに共感するって事に関しても、自分が痛い訳でも恐怖を感じた訳でもないのに、分かった振りをするのは一種の嘘であると感じます(ので困難です)。一方で心配していない訳ではありません。必要があれば(必要があると感じれば)何でもするでしょう。旦那さんに何か具体的な要望(出来れば客観的に必要なこと)を出してみて下さい。きっと叶えてくれます。
夫婦生活にせよ離婚話にせよ、理由が分からなければ、自分が何をどうしたら良いのか分かりません。理由が分かればそれを解決する努力が出来ますが、状況が見えなければ動くことが全く出来なくなります。何だか分からないけど機嫌を取るとか、相手の気持ちが変わるのをじっくりと待つとかは、ASには難しいと想像します。更に空気を勝手に読むのは相手に失礼です。結果として「どうしてだ?理由は何だ?どうすれば良いんだ?それは客観的にはどうなんだ?以前の約束は?」と相手に問うてしまい状況を更に悪化させてしまう、AS者の悲しい性だと思います。
繰り返しますが、だからAS者はそれで良いと言っている訳ではありませんよ。ただ、そう言う傾向(言動の理由)を知っておくことにも幾らかの意味はあるでしょう。
>事故は事実として起こりました。怪我を治さなければならない。車は修理しなければならない。今後事故を起こさないように注意しなければならない。保険は充分か?車は安全か?
でも、いわゆるメンタルなケアはとても空虚なものに感じます。結局痛みや不安や恐怖は自分で何とかするしかないものです。「大丈夫?」って言っても何かが変わるわけではないと感じます。気持ちに共感するって事に関しても、自分が痛い訳でも恐怖を感じた訳でもないのに、心配していない訳ではあり分かった振りをするのは一種の嘘であると感じます(ので困難です)。一方でません。必要があれば(必要があると感じれば)何でもするでしょう。旦那さんに何か具体的な要望(出来れば客観的に必要なこと)を出してみて下さい。きっと叶えてくれます。
再度ありがとうございます。
かねてから、父が私の病気に対して、(メンタルな病であるにも関らず)ひたすら文献を読みまくって、薬を投与するだけに終わっていたのを、大変不快に思っていましたが、ASからすると、心配していない訳ではなく、「分かった振りをするのは一種の嘘であると感じます(ので困難です)。」なのですね・・・よく分かりました。
これからは、もうちょっと具体的に要望を出してみます。
PS;(私は良い歳になってから、世の中の多くが裏事情で動いている事が見え始めて、その事実に愕然としています。憤慨もしています。)
これは父もそうですよ。かなり早くから業界で「談合」を好まず止めさせた人でした。そういうところは尊敬しています。
こちらこそ、私の分かりづらい文章を必死に追って頂いて、なんか申し訳ないです・・・
このブログに参加してから、自分がいかに世間知らずの域を通り越して、ひまわりさんの娘さんと同じく、事実上引きこもり(ごめんなさい)であった事がよく分かりました・・・
(適度な外出はしていましたが、社会参加の域に至っていませんでした。)
それでいて、両親がカウンセリングばかりにかけて抽象論を叩き込む結果に相成っていたので、金魚鉢の中の金魚と言うか、ひまわりさんのような普通の方に分かりにくくて当然の喋り方になってしまっていることに、ようやく気づいたところです・・・
(多数派ヘルパーさんにも、「よく聞かないと、話が飲み込めない事がある」と言われます。)
なんか、小さい時から全体に回りがAS傾向で、世間話とか、ひまわりさんの仰る「当たり前のの精神的フォロー」がない家庭環境だったこともかなり影響していると思います・・・
PS;今、多数派友人に「ようやく普通に口が利ける様になってきたみたい」と言われています。
私にとっては、一種の”拷問”でしたが、AS元彼が”ミーティング”を薦めた(ほとんど強制でしたが)事だけは、今になってみるとやはり感謝しています・・・
「内心の吐露」なるものを、無理やり人前で8ヶ月やらされた結果、「論文みたいな抑揚のない喋り方」から、「普通の会話」に近いところまで、何とかたどり着けたように思います・・・
(ちなみに、彼が勧めたのはアルコホーリクを家族に持つACのミーティングでしたが、私は勝手に「共依存」を防ぐミーティングに通っていたので、フェローシップでも、リアル・・・やはり大事ですね、で大分バシバシ言われて鍛えられました。)
ちなみに、多数派ヘルパーさんとの会話が、今一番いいSSTになってるんですけれども。
発達障害者には辛い辛いスパルタでしたが、結果的には良かったと思います。
私が思うに、道徳的 倫理的 命の尊さ いや普通に人間(ジャイアン?)らしい感情として、何が一番かと言うと、ひまわりさんが無事だった(怪我はしてしまったけれど)ことが有難い、ということです。
だから優先順位として、旦那様はひまわりさんに対して、怪我の具合や事故のときの様子を聞いたり、励ましの言葉をかけたりするのが正しいと思います。
正しいというより、それが普通の(ジャイアンの?)感覚というものだと私は思います。
?がつくのは、ASの思考は分かったけれど、多数派の思考は不明だから・・
車や保険や娘さんの彼のことは二の次、三の次です。
ASとADHD、ジャイアンのあいだには深くて長い川がある。
>理解には多大な努力を要する
という先生の言葉を思い出しました。
私の経験について、丁寧な説明を、ありがとうございました。
(合理的なAHDHだろう)私と(ASだろう)旦那の関係を分析して、コメントを下さったことで、
この、ブログを訪れているみなさんにも、ASの方の思いというか考え方というか感じ方が伝わったことを、嬉しく思います。
少し、痛みが酷くて、お返事が遅くなりすみませんでした。
今は、痛みもほとんどなく、楽になりました。
初めてmarioさんのコメントを読んだ時から、
『まさか、旦那が書き込んでる?!』と思ったほど、旦那の言動にそっくりなコメントでした。
今回、私の事故により、旦那の反応を久しぶりに見る機会があり、
旦那という人について、改めて思い出し、書き込むことができました。
私は、ここにたどり着き、みなさんのやり取りを見るまでは、
エイトさんが言われるように、
>道徳的 倫理的 命の尊さ いや普通に人間(ジャイアン?)らしい感情として、~
>優先順位として、~、怪我の具合や事故のときの様子を聞いたり、励ましの言葉をかけたりするのが正しいと思います。
・・・ということを感じ、怒りなのか、悲しいのか、情けないのか、よく分からないけれど、
(旦那は)心というものがない人なんだと、辛い思いをしていました。
しかし、今は、旦那の予測通りの反応に、かえってホッとしたりもしました。
marioさんのお話も、納得できました。
ありがとうございます。
そして、心配のお言葉を掛けてくださったみなさん、
ありがとうございます。
今回、旦那の反応は、同居していた時から考えても、当然の反応であり、
それを、AS的であろうと、marioさんが説明して下さったことで、
旦那も、自分の意味不明さに気付き、自分の脳について知ることが出来ればいいのに…と思いました。
そして、自分と相手を理解しながら、『ハートをつなごう』でのご夫婦のように、なんとかつながっていける関係が築けたらよかったです。
残念ながら、私は、旦那の言動の意味を理解は出来ても、
再び、身体症状に苦しめられるのは辛いので、戻ることはできません。
もう分かってるつもりでいても、指摘されると今更ながら「なるほどそうかぁ」って思います。
>何が一番かと言うと、ひまわりさんが無事だった(怪我はしてしまったけれど)ことが有難い
当たり前です!当たり前すぎて表現する必要を感じません。表現する必要のない共通の認識がそこにあると感じます。そして、当たり前すぎるその事をワザワザ表現するとなると、逆に裏の意味を含んでしまいそうな恐怖感があります。
>だから優先順位として、旦那様はひまわりさんに対して、怪我の具合や事故のときの様子を聞いたり、励ましの言葉をかけたりするのが正しいと思います。
正しいかどうかは分かりませんが、AS的言動(思考)は多数派にもADHDにも伝わらないんだなぁと改めて理解してる所です。
怪我の具合はきっと一度は聞いたでしょう。「こういう具合だけど大丈夫」って言われたら、言葉通りに大丈夫なんだと受け取ります。もし大丈夫でなければ、それは医者の仕事です。励ましの言葉は(その痛みや苦しみを自分が体験していない故に)やはり嘘に感じます。
私は(変な表現ですが)ASである事を後悔はしてません。ただ素のASは誰にも理解してもらえないんだと悲しい気持ちで一杯です。
『ハートをつなごう』で先生が仰ってましたが、2ヶ国語を使うつもりでAS以外の人に伝わる言葉を使う必要があるなぁとつくづく思います。最近はそのつもりで行動していますが、自分が「嘘ツキ」になった事に苦しんでいる毎日です。
ひまわりさんがASを理解して旦那の元に戻る必要はありませんよ。でも、今後のいがみ合い(?)が少しでも緩和できれば良いですね。
私もここで少しかも知れませんがASなりジャイアンの性質を知って、元妻とのいがみ合いを少なく出来ていると思います。その結果、ほんの少しだけだと思いますが、息子は不幸せを回避できている(両親が激しくいがみ合っている、どちらかの親に会えなくなっているなどになってない)。それだけでも本当に良かったと思います。
>怪我の具合はきっと一度は聞いたでしょう。「こういう具合だけど大丈夫」って言われたら、言葉通りに大丈夫なんだと受け取ります。もし大丈夫でなければ、それは医者の仕事です。励ましの言葉は(その痛みや苦しみを自分が体験していない故に)やはり嘘に感じます。
げげげ、ここまでとは(うすうす感じていましたが)思っていませんでした・・・
(すみませんmarioさん)
「大丈夫」というと「大丈夫」だと思ってしまうし、「大丈夫じゃない」と言わないと伝わらない、しかも「大丈夫じゃない」というとそれは「医者の仕事」になってしまう・・・
(そしてねぎらいの言葉は「ウソ」になるからかけられない。)
・・・70過ぎた父に、今更2ヶ国語使えと言っても無理無体だと感じますので、(しかし何で医者とカウンセラーが増えるばっかりだったのかは分かりました、)こちらが工夫するしかなさそうです。
ごめんなさい。上記のコメントは私の「ASの部分」のみを取り出して強めに表現しています。実際には、それなりに励ましなり、ねぎらいの表現が出来ますし、してます。
書いたような感覚があり、それらの表現が余り得意ではない。最初に一度言う分にはほぼ平気だが、繰り返し言うと嘘をついている気持ちが強くなって段々と辛くなる、とでも解釈して下さい。
もちろん、ASも人によって違いますので、割と平気な人から全く出来ない人まで居ると思いますし、相手の反応を読める度合いにも愛着の度合いにもよるかも思います(愛着がある相手に対して厳しい印象になってしまうのがASの悲しい性質ですから)。
>ひまわりさんがASを理解して旦那の元に戻る必要はありませんよ。でも、今後のいがみ合い(?)が少しでも緩和できれば良いですね。
戻る必要 = あるとかない ではなく
一緒にいる(戻る) = 身体症状に苦しめられて辛い
だから、もう戻れない
この受け取り方の違いは、感情の摩擦のもとになると思います。
それに、ひまわりさんは、もうすっかり旦那様を遠くから冷静に分析していて、いがみ合っているわけではないと思います。
なので、この一行にやや反応してしまう私です。
度々、ひまわりさん、marioさん、すみません。
ですよね~。
AS弟は、多数派(世間)にもまれているせいか、比較的「ねぎらい」が上手いです・・・(最終的には、やはり病を治すのは医師の仕事だ、とは言いますが。)
AS父の場合、長いことえばっている立場にいたのと、年相応に頑固なんだと思います。
・・・今、悩んでいるのは「具体的な要望」を、どういう形で出せば父が納得するかです。・・・私としては、「薬&カウンセラー漬けにするより、20年間のブランクを埋めるために、きちんとした躾をして欲しい」で、あったりするんですが。
(一人で放っておけば、勝手に動き出すと思ってるみたいです。もっと「叱って」欲しいんですが贅沢でしょうか。)
私もストレスですね。
理由は「私だって守ってるのに」というかなりジャイアン的な怒りだったりします。
(娘もそうだと思います。)
自分がルールに沿っているときは違反をする人に対してかなり厳しいと思います。
いわんとすることはわかります
例えば会社のミスであり私のミスでないことでもその会社の一員ならお客様にあやまらなければならない
とか世の中にはそういう嘘をつかせられる機会が山とある。
しかし、それでうまく世の中を渡っていけて、相手も損をせず、ならそういう嘘もありか、と思う。
もうなんというか
お手紙の最初は
拝啓
ですよ
とかそういうレベル
意味も必要も考えない。
うちはAS父の支配が強く、そういう心配だとか愛情だとかの表現がなく、学ばずに育ったので、私は世の中に出て苦労しました。ジャイアン母は突き落とすばかりだし。
風邪をひいた人をどうねぎらうか?
入院見舞いはどうするか?
親戚を亡くした人になんというか?
挨拶はどういう時にどういうかetc。
意外とストレートにオーバーに言う位でちょうどいいのね
というのが実感です
そしてそれで人間関係が良くなるなら、潤滑油として役立つアイテムだと思っています。
もちろん解決は医師なり保険屋なりの仕事ですが、彼等は仕事をするだけですから。
最近うっすらASのそういう言葉足らずな感じには気がつくようにはなりました。悪気はないのもわかりますが、やっぱり言ってほしい。
ひまわりさん。知り合いが事故に会った直後なのでドッキリしました
後遺症に気をつけて。お大事に。
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