論説


 これは『新潟県教育月報』平成10年2月号(特集:心の教育−とらえと取組の方向−)に論説として掲載されたものです。月報よりスキャナーで読み取りOCRにかけましたので、誤植があるかもしれません。


心の教育の在り方・考え方


林 泰成


はじめに

 多くの人が心の教育の大切さを説きます。ところが、「心の教育とは何か」と問われて、明確に答えることのできる人はそう多くはありません。また明確に答えたところで、異なる立場からの反論が提示されることは明らかです。そもそも心という概念そのものが、多くの学問領域でさまざまに定義されており、あいまいな概念なのです。しかし、だからといって、心の教育について語ることができないというわけではありません。その言葉の用いられる文脈を検討してみるなら、そこで強調されていることがらは自ずと明らかになります。

心の教育とは何か

 神戸の連続児童殺傷事件で中学生が逮捕されたことを受け、一九九七年八月四日、小杉文部大臣は「幼見期からの心の教育の在り方」について中央教育審議会に諮問しました。具体的な諮問事項は、(1)子どもの心の成長をめぐる状況と今後重視すべき心の教育の視点、(2)幼児期からの発達段階を踏まえた心の教育の在り方、(3)家庭、地域社会、学校、関係機関が連携・協力して取り組む心の教育の在り方、の三つです。
 ここに言う「心の教育」は、その諮問全文から考えると、道徳教育を意味しているように思われます。たとえば、諮問文の中には次のような表現があります。
 「とりわけ『生きる力』の礎ともいうべき生命を尊重する心、他者への思いやりや社会性、倫理観や正義感、美しいものや自然に感動する心などの豊かな人間性の育成を目指し心の散育の充実を図っていくことが極めて重要な課題となっている。」
 こうしたことは、道徳教育だけでなく、芸術教育や宗教教育などとも関連することは明らかです。しかし、学習指導要領の記述との関連では、道徳教育とのつながりがもっとも強いといえます。したがって、現在の学校教育のもとでは、心の教育の中核は道徳教育であるといってよいでしよう。
 けれども、諮問では、「道徳教育」ではなく「心の教育」という表現を用いているわけですから、従来の道徳教育では足りない部分があると考えられているようです。従来の道徳教育では、道徳的に正しい行為の仕方が示され、そうした行為をするよう薦めることが中心であったといえるでしょう。そのこと自体は、道徳教育の在り方の一つとして間違っているわけではありません。しかし、それだけでは、心にむなしさを感じ「透明な存在」としてしか自己認識できない子どもたちに、生きるカを与えるものとはなりません。道徳的な善悪の問題とは離れた、心の安定を築くような心の教育が必要なのです。このように考えると、心の教育の中核は道徳教育であるとはいっても、その周縁には、心の教育独自の内容があるといえます。もちろん、道徳教育を非常に広い意味でとらえれば、こうしたこともまた道徳教育に含まれます。しかし、今までの道徳教育では、こうした点に十分な注意が払われてこなかったといえるでしょう。

心の弱者のための教育

 道徳教育で教えられる内容は、いつの時代も道徳的多数派の考える正義であり、善です。道徳は普遍的なものとみなされることもありますが、時代や文化の影響を受ける部分もありますから、何を正義や善とみなすかということは十分に吟味する必要があります。けれども、ここでは、何を正義や善とみなすかということではなくて、その正義や善を守れなかった人問が常に糾弾の対象になるということを問題にしたいと思います。もちろん、罪を犯した者はなんらかの形でそれを償わなければなりません。そのことを否定するつもりはありません。しかし、道徳教育において教えられた道徳が、社会的な糾弾の基準になるというのなら、そのことには問題があるといえます。なぜなら、それは、道徳を守れない弱者を排除することになるからです。ここにいう道徳は、社会的なルールのみを意味しているのではありません。個人の生き方に関わる美徳、たどえば努力することや、誠実であることなどを含むものと考えてください。
 人間は万能ではありません。どんなに厳格な人も、一度や二度ならず、道徳的にふるまうことのできない場面を体験しているのではないでしょうか。そういう意味では、全ての人が、心弱きもの、すなわち心の弱者になる可能性をもっているのです。いま心の教育に求められているのは、そうした心の弱者に、生きる力を与えることではないでしょうか。

ケアする心を育む教育

 以上のように心の教育をとらえた場合、それにふさわしい注目に値する一つの考え方があります。それは、女性の立場から倫理と道徳教育について考察したネル・ノディングズのケアリング倫理の考え方です。
 彼女は、正義の原理を中心とした伝統的な倫理思想が、男性倫理であるとして批判し、それに代えて、ケアの概念を中心とするケアリング倫理を説いています。
 ケアとは、「心配する、気にかける、関心をもつ、かまう、世話する、面倒をみる、看護する」などを意味する言葉です。看護学の領域では、以前から、重要概念として論じられてきました。それが、ノディングズらによって、倫理学の領域へ、さらには道徳教育の議論の文脈へと持ち込まれたのです。
 ケアリング倫理は、普遍的な原理を立てることを拒否します。状況に依存して、もっとも適切な行為を選択することを主張します。この立場では、ときには不道徳な行為を、それが相手のためになると思えば、実行します。
 このケアする行為の基礎にあるのは、自然なケアの感情です。それは、泣き叫んでいる我が子を抱きあげてあやそうとする母親の行為の中に見いだすことができるものです。そうした自然のケアの感情を育んで、倫理的なケアヘつなげようとするのが、ケアリング倫埋に基づく道徳教育なのです。
 ノディングズが道徳教育の方法としてあげている例を一つ取り上げましょう。彼女は、病院や養護施設で子どもたちに奉仕させることを唱えています。このこと自体は、ポランティア活動をカリキュラムに取り入れようとしている最近の流れからすれば、目新しいものではありません。しかし、そこに成立する関係のとらえ方に特徴があります。そこでは、子どもは、病人や障害者をケアするのですが、同時に彼らからの応答によってケアされるのです。強者が弱者に手を差し伸べるというのではなくて、相互にケアし合うというような関係が成立すると考えるのです。大局的な見方をすれば、心の弱者をも含めて、互いにいたわり合い、ケアし合う人問同士の大きなネットワークが作り上げられると言うことになるでしよう。
 ノディングズは、こうした考え方を女性に特有のものとして提示するのですが、同時に、男性もまたこうした倫理に参加できると考えています。道徳教育というと、どうしても、何が正しいのかということが中心になりがちですが、このようなケアリング倫理の視点を導入すれば、狭い意味での道徳教育は、心の弱者に配慮する心の教育として新たな展開をとげるのではないでしょうか。

終わりに

 心の教育の中核には道徳教育があるのですが、その周縁部分も含めて考えると、それは、確定した教育方法を拒否するもののように思われます。つまり、ある特定の具体的状況の中で、その状況に巻き込まれている人にとってもっとも適切な対処をする、そういう形でしか展開できないという点が、心の教育の特色であると思われるのです。これは、ノディングズのケアリング倫理の考え方に通じるものであり、特定の具体的状況を前提にするという点で、もはや学校教育の範囲を超え出ています。
 すると、私たちにとって大切なことは、それぞれの立場で何ができるかを考えてみることだといえるでしょう。教師は目の前のこの子どもたちにどう接するのか、親は自分の子どもにどう接するのか、地域社会は、地域の子どもたちにどう接するのか、それぞれの立場で考えねばならないのです。文部大臣の諮問は、「家庭、地域社会、学校、関係機関」に関わる私たち一人ひとりに与えられた課題でもあるのです。その課題を私たちが自らの問題として引き受けたとき、はじめて、心の教育は効力を発揮し始めるといえるでしょう。


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