問われる公共事業の原理

 

 かっては誰でもが無条件に歓迎してきた公共事業に対して、無駄だ、不透明だ、利権だとさまざまな批判が起きているが、中尾元建設大臣の典型的な受託収賄事件を契機にさらにその勢いが高まっている。なぜ、公共事業に無駄があるのか、公共事業を支える原理、考え方は何か、その利権構造がどうして生まれてきたのかを本音で、冷静に考えてみよう。

 

 (1) 何故、無駄なのか

 自動車の通らない高速道路、船がいない港湾、使われない音楽ホールなど公共事業の無駄を指摘する声は枚挙に暇が無い。都市の住民は自分達の税金で地方の建設業者を養うために要りもしない公共事業をやっていると非難し、地方はそうすることが経済格差の是正のために必要だと反論する。北海道が地盤であるのに公共事業の削減を主張する鳩山民主党党首は民主党追い風の中でも、衆議院選挙で大苦戦をした。公共事業への評価は、立場立場によって一様ではない。

 何故、諌早湾干拓事業が必要なのか、何故長柄川河口堰を作らなけれならないのか、公共事業には決定原理がある筈である。にかからず何故無駄な公共事業が進められるかは、本当のところ当事者にも明確ではない。公共事業は経済論理性を超えた政治力学によって決められているからである。何故必要なのかという理論的説明も、必要だと云うための我田引水であり、反対論もまた同じ、お互いに平行線、お互いにその論拠は曖昧なのである。

 これまで何故公共事業が必要かなど考える必要もなかった。要るものは要るのであり、右肩上がり経済の中で既得権を維持するという大義名分で、伸び率シェアの均衡によって投資が決定されてきた。事業別、地域別にどう配分するのか、決定的な理論はなく、力の強いところが優先的に配分を受ける、利益誘導こそ政治力だし、政治家の役割だと誰もが思っていた。

 一つ一つの事業の採択では、公共投資基本計画や各施設別の長期計画があって、それに従って事業が採択されるだけである。事業の採択の基準として情報公開されるべきコストベネフィット分析、対費用効果分析は、最近では建設省もかなり努力して道路事業では事前評価がなされて、公開されるようになってはいるが、未だに大部分の公共事業では何のためにやるのか、どういう効果があるのかは明確に把握されているわけではない。コストベネフィット分析は、分母が投資額、分子はその事業によって得られる収益であり、その比率が大きいほど投資効果があるというのだが、現実には経験も情報の蓄積も不十分、理論倒れであって、客観的で納得のいく数字はなかなか出せない。

 事業のスタートのときは、投資効果のないものをやれるはずはなく、どの事業も投資効果は1より大きかった筈である。ただ、評価に当っては、分母の事業費は極力小さく見込み、分子の収益、例えば交通量、米の収穫、利用者の数などは将来の伸びを最大限に大きく見積もる。単に事業の直接的な効果だけではなく、経済の成長、人口の増大、地価の上昇、税収入の増大などの間接的効果が大きいとしてこれらの効果も極力大きく見込んで費用効果を評価するが、環境悪化などのマイナス面は捨てられる。結果はどの事業も1を超えて、採択されることになる。しかし、一旦事業が始まれば、分母の事業は事情変更ということで安易に増額される。分子はもともと過大に見込まれているのだから、時間をたつのにつれて対費用効果は落ち、コストの割に効果が上がらず、無駄な事業に化していく。極端の場合には、収益ゼロの飛行機の飛ばない空港、漁船の消えた漁港、米が生産されない農地改良などという事態になる。

 おまけに複式簿記をとらないどんぶり勘定の公共事業では成果の確認のしようがないし、もともと公共事業には本来の意味での決算は無い。事業の着手には血なまこになるが、その成果の評価には関心が示めされないのだ。事業の成果はどうであったのかは調べられもしないし、結果は公開もされない。一旦スタートすれば、たとえ無駄だと云われても自己増殖して、事情が代わっても容易に止めることはできなくなる。

 無駄を無くし、役にたつ公共事業を進めるには、まず、すべてを専門家、官僚に依存するのではなく、事業の決定原理について国民的認識として持つことであり、主要な事業には対費用効果分析を義務付け、事業の決定から結果までのプロセスの情報公開を徹底させることが必要である。重要な行政のアカウンタビリティー責任であり、行政内部でも少しづつではあるがようやくその認識が高まっている。

 

  (2) 日英公共事業比較 ドーバー海峡トンネルと本州四国連絡架橋の差

 公共事業の事業評価という点から具体的に日本と英国を比較して見よう。イギリスの専門家から10年前に開通したドーバー海峡トンネル、チャンネルトンネルが成功したのか失敗したのかと云う話を聞く機会があった。成功か失敗かと云う二者択一の評価ではなく、成功したところも失敗したところもあると云う結論であったが、3本の本州四国連絡架橋の最後の尾道今治ルートが、ついこの間完成したばかりなので両者を比較してみると、今の公共事業の問題点が見えてくる。

 ナポレオン以来の欧州の最大プロジェクトの英国と大陸を結ぶドーバー海峡トンネルが開通したのはつい10年前のことである。同じ時期に日本はもっと規模の大きい3本の本州四国連絡橋と東京湾横断道路、それに青函鉄道トンネルを完成させている。ドーバー海峡のチャンネルトンネルは、6千万人の英国と2億人の欧州大陸を結ぶ大動脈であり、ロンドン、パリ、アムステルダム、ブラッセルなどの大都市を結び付ける国際的インフラであるのに対して、日本の青函トンネルと3本の本四架橋は人口500万人足らずの島と1億人の本土を結ぶ国内のインフラである。その意義にはかなりの差がある。工事費は、ドーバートンネルは、工事の施工業者との契約の不味さで設計変更が積み重なり当初の予定に比べて大幅に工事費が増加したとされているが、それでも総工事費は鉄道施設を含めても100億ポンド、2兆円、費用では、日本のアクアラインとそれほど変わらず、本四架橋の半分以下である。

 今、年間700万台の自動車をシャトル方式で運び、300万人の旅客をユーロスターと云う国際列車で輸送している。経営は徐々に黒字になっていると云うものの、株価はいまだに上がらず、配当もなく、建設費の係る利子は棚上げにされている。経営的には不良債権であり、トンネルは不良資産と云うことのようである。

 このプロジェクトの最大の特色は、サッチャー政権下の小さな政府の原則の下で徹底した民間活用が採られたことである。政府は経営期間を55年にする条件や施設の安全性には口を出すものの、資金調達や料金などの経営には全く口も出さない代わりに、リスクも負わず、資金も出さない。事業主体は、英国、フランスとも株式会社による民間経営に委ねられた。政府と云う最終リスクの負担者のいない中で、プロジェクトの推進には、資金をどうするのか、採算性をどう確保するのかで事業主体、出資者や銀行の間で深刻な論議が行われたようであり、その対立から一時は事業が行き詰まり、中止されかねない憂き目にもあったと云う。

 今、その欧州最大の事業が成功したのか、失敗したのかが論議される最大の理由は、このプロジェクトが事業の採算性、収益性を最大の基準にする民間経営で行われたからであり、評価されないのは今だに収益に危惧があるからである。日本では盛んに叫ばれるプロジェクトの地域開発効果や欧州統合への寄与などの定性的効果は資本家にとっては無関係、収益に関係ないとして評価されない。公共事業と民間事業の決定的な差である。

 

(3) 3本の本州四国架橋、公共事業の問題点

 他方、日本の本四架橋を見よう。この20年間に人口400万人の島に3本の超大橋がかけられた。優先度合も明確にされないままに、3本ともに建設されてしまった。確かに、日本の技術力、経済力を代表する巨大インフラであり、土木技術の評価は高い。しかし、計画の有用性、必要性については、疑問を残している。専門家の間では、本四架橋の投資効果を分析する経済モデルがあったが、いまだにその経済効果はおろか採算性すらしっかり確保できていない、そもそも事業成果が疑問だとも云われている。次ぎの世代に大きなつけを残した公共事業の典型である。

 その経過は、高度経済成長の時代の右肩上がり経済が続き、人口も自動車交通量も増えつづけると云う前提から事業が進められてきたものであり、石油危機の時にも一時的に棚上げされたが、バブルが弾け、右肩上がり経済が消えようとしている今、その計画、政策、意義に付いて改めて論議しなければなるまい。

 本四架橋やアクアラインでは、事前にも事後にも、ドーバー海峡トンネル事業のようなシビアな論議は行われずに、もっぱら地域の振興、技術力の発揮と云う抽象的な大義名分で事業が進められてきた。橋を架けることが政治家、地元の悲願と云う精神論、同情論が採算性と云う合理的論理に優先したのである。最終リスクは、公団と云う無限責任を負う政府が負担すればいいのではないかと、負担できるかどうか不明確なままに、リスクの負担論議は先延ばしにして事業だけが強引に進められてきたのである。これが公共事業の本質であり、政治決定がものを云い、問題を先延ばしができる政府の財政負担と云う無責任体制が、これを完成させたと云って良い。

 東京湾横断道路は、形式的には、東京湾横断道路株式会社が事業主体のなっているが、その実、肝心の資金調達とリスク負担は、日本道路公団と云う政府が財政投融資の一貫として取り仕切っているのであり、株式会社は、工事の施工をゼネコンに発注するだけのダミーに過ぎなかったと云って良い。この会社、形の上では今、論議されているPFIの先駈けと言えようが、その実体はPFIの原則とは無縁のものである。公共事業の新しいシステムになると期待されている日本版PFIの存在意義も、まず東京湾横断道路が成功したのかどうなのか、その仕組みの論議がされなければなるまい。

 画期的な土木技術の勝利だと云われた青函海底トンネルも、現実には、新幹線鉄道の見込みなく、青森函館間のローカルの鉄道が利用しているだけ、ドーバー海峡トンネルのように自動車を通せない、衰退する鉄道を運行するだけのトンネルの完成は、技術力の勝利ではあるが、事業は時代の転換を見誤った世紀の失敗であると密かに関係者に評価されているようである。今のままでは、大して利用されないうちに、京都インクラインのような歴史的建造物になり兼ねない。折から、東北、北陸、九州新幹線の延伸が重要な政治課題になっているが、本当に青函トンネルに新幹線が通るのだろうか。

 

 (4) 公共工事の利権、ギルド構造

 もう一つの批判は、公共工事がもつ巨大な利権構造、市場の不透明さである。80兆円、GDPの20%を占める建設市場、40兆円の世界最大の公共事業の市場は、巨大なピラミッド構造を形成しており、そのピラミッドの中に国、都道府県、市町村、公団公社などの発注者毎に同じようなピラミッドの市場を包含している。このピラミッドの市場はそれぞれ縦軸に指名競争入札、横軸に談合調整の支柱によって支えられている。官庁は、その頂点に君臨する。巨大な利権構造であり、テントの支柱の役割の二つの軸が有効に機能しなければこの市場は円滑に動かず、公共事業の統治機構も崩壊してしまう。

 その公共事業では、仲間うちで資源を公平に分配し合うフェアシェアの原則、結果の公平という配分の哲学が機能してきた。ギルドの中で結果の平等を皆で保証し合うことであり、それを誰も不公正だと疑おうともしなかった。100年かけてその秩序を作ってきたのだ。日本の社会経済構造は、同じ利害を共有する集団の利権構造、中世ヨーロッパの職業集団のギルドというべき組織を形成している。特に公共事業の土木では、道路、河川、土地改良、港湾など施設毎に数多くのギルド社会が機能している。ギルドは、予算を握る官庁の霞ヶ関、資金と選挙の票を握る業界の丸の内、技術人材を握る学会の本郷、それにそれを束ねて政策を推進する政治家の永田町に4者よって構成される。

 族議員と言う名の選良を頂点にしたギルドが、単にビジネスだけでなく、資源調達、予算確保、天下り、企業評価、選挙、選挙資金から政策や計画までを仕切る統治組織になっている。都道府県から市町村まで公共事業に関係する地方族議員が議会を牛耳っているし、地方自治体では利権の分配活動が彼等の本来の仕事であると言ってよい。国政、地方をとわず、選挙の時は、ギルドはそれぞれの代表を旗頭に選挙にまい進する。組織の中の官民序列、業界序列が、終身雇用制や年功序列と相まって役人の天下り、業界人の叙勲などを差配し、強固な支配体制を作っているのである。

 学、アカデミーもギルド体制の一員である。ギルドごとに独自の学術分野が形成され、学から官、業に人材が送りだされる。土木は、一般土木と農業土木に、一般土木は道路土木、河川土木、港湾土木、都市土木などに分かれる。一般土木は、建設省、運輸省に連なり、農業土木は農林水産省につながり官を生み出す。経済構造が変化して、人材の需要は減少しても、卒業生の数は変わらない。例えば、農業土木のギルドは衰退する分野ゆえに極めて強固である。農林水産省の構造改善局はその牙城、農業土木出身者が構造改善局の次長になり、参議院比例代表議員にノミネートされる。この族議員を頭に抱いて土地改良区から業界まで広く利権組織、圧力団体が形成される。土地改良事業の役割が減少しても、この組織の既得権を維持するために、農村道路、農村下水道、農村空港まで手をのばす。農林漁村地域は、このギルドの天領であり、最近話題の諌早湾干拓事業もこの延長にあるし、北海道庁の官製談合もその現れでなのだ。

 

 (5) 何故コストが高いのか

 ピラミッド構造は、市場の重層化を生む。大手企業を頂点にする企業系列であり、元受けと下請け、ゼネコンと専門業者という独特の重層下請け市場構造が機能する。その原理は競争ではなく、協力であり、命令服従関係である。片務契約と云われる公共事業の発注者と受注者の関係と同じであり、結果的に建設市場、公共事業は官を頂点にする命令服従による巨大な市場構造を形成している。欧米の建設市場にはこの構造はない。市場は常に競争関係にあり、工事契約毎に競争によって当事者は常に変わり、業者間の系列化、序列は機能していない。

 このピラミッド市場の関係が談合調整を生み、建設コストを引き上げる結果になる。この建設生産システムでは、資金は発注者からゼネコンへ、ゼネコンから下受け、専門業者、さらにその下受けに流れていく重層下受け構造を形成する。対等の当事者の契約ではなく、系列化での下受けの力はきわめて弱い。発注者、政には選挙の票で忠誠度を示すことになる。

 公共事業では、価格決定に予定価格制度が採られて、発注者の積算した価格を基準に入札が行われ予定価格に近接した価格で落札し、契約することが通例であるし、談合を前提にするなら業者間で価格競争を行う必要性も、利益もない。結果としてが発注者の積算が契約価格になり、価格の競争はないといってよい。さらに、施工に当たっては間接経費は重層的に積み重ねられる。全体で20%の経費率としても5段階に下受けされて各段階で各々20%を経費にすれば全体では予算の半分近くが経費に消えてしまうことになる。段階毎には効率的に見えても全体とすれば非効率的な生産システムになってしまう。

 巨額の公共投資は名目的にはGDPは引き上げるが、実物の生産はそれほど上がっていない。わが国の公共事業は、国際比較をしてもGDPの比率においてきわめて大きく、国民一人当りの投資額も世界の中で際立って大きい。しかし、金額の大きい割には、物はでき上がっていない。もし毎年の投資額を金額ではなく、床面積や道路延長などの完成させた物の量で比較すれば、かなり違った数字になるだろう。それだけコストが高いと云うことである。

 

 (6) フェアシェア原理 談合を支える意識

 アメリカ流の競争社会の出現に多くの国民が不安を抱いている。これまで日本人が抱いてきた伝統的な連帯意識、「和をもって尊しとする価値観、協調、相互扶助のウエットな人間関係」が崩れて、「アングロサクソン流の競争によるドライな、弱肉強食の世界」へ変化することへの危惧である。

 建設市場には特にその変化に戸惑いが大きい。もっぱら仲間内で仲良くパイを分け合うという長年慣行で続いてきたやり方が変わり、今まで経験してこなかった完全競争になったとき、自分達の世界がどのようなるのか誰もがよく分からないのである。確かに、これまでの80兆円もの巨大な建設市場が円滑に機能できたのは、公共工事では、発注者の指名競争入札と業者間の談合が円滑に市場調整をしてきたからである。市場が年々拡大することで、談合による仕事の貸借りが上手に清算できた。民間工事でも、お施主さんという言葉があるように、談合以前の人間的つながり、お得意様関係が契約の基礎になっており、話し合い、談合で誰もが満足できる仕事の公平な分配が可能だったからである。談合は明らかに経済犯罪であるが、日本社会では談合を犯罪とする意識は薄い。これだけ談合が横行しても談合罪で捕まった業者はいない。建設業界に止まらず、どの業界でも必要悪、商慣習だと見られているのだ。

 そこでの原理は、既得権であるシェアをフェアに維持することであり、会計法にしろ、地方自治法にしろ全てのシステム、行動がこのフェアシェアを確保することで機能してきたといってよい。発注者による建設市場の区分、業者の資格審査、格付け、入札参加者の指名、選定、予定価格等のシステムによって市場を規模、地域で公平に分割し、その分割された市場では、各々の業界が話し合いで個々の受注者を差配してきた。結果の公平を発注者受注者の全員で保証し合ってきたのである。それが正義であり、そのことに本音で異論を唱えるものはいなかった。

 入札のやり方でも、指名業者数を機械的に10社にして、業者名を公表する。現場説明ということで参加業者を集める。入札は一同に会して、落札するまで続ける。これでは談合してくださいとお願いしている仕組みである。同じ指名競争入札をとるイギリスでは、指名業者の数は案件毎に違うし、公表されることはない。事前に名前をばらしたら担当官は首になるそうである。今の指名競争入札でも、もし、指名業者数や業社名を公表しない、入札は郵送による封印入札をやるだけで談合はやりにくくなるはずなのだ。

 急激に進む国際化の元で、アメリカの圧力はアングロサクソン流の競争を正義とし、このような日本流のやり方を不正義だと断じて、入札契約のやり方についても日本に改革を迫っている。指名競争入札を一般競争入札に変えろ、業者の談合を厳しく規制しろという極めつけの内政干渉をしている。日本はそれに抵抗できない。外圧によって仕方なく、しぶしぶ指名競争入札の手直しを進め、一般競争入札を導入している。行政にも、業界にも混乱が続いている。

 この10年間の日米建設摩擦の本質は、経済問題ではなく、政治問題であった。日米経済摩擦の中でアメリカが常に日本を非難するのは、日本独自のシステム、官僚の主導による日本株式会社、政官業の護送船団方式であり、戦略は、指名競争入札と業界の談合を二つの柱にして巨大な日本の建設市場を牛耳る日本の政官業のギルド体制を攻撃することであった。アメリカの最終戦略は、日本株式会社の本丸である大蔵省、金融機関への攻撃であり、建設省、公共事業への攻撃など本丸へ向かう途中の時間稼ぎに過ぎず、行きがけの駄賃のようなものであったのかもしれない。バブル崩壊の後の惨憺たる大蔵省、金融機関の敗戦こそがアメリカの対日経済戦略の最終の勝利を示している。