シベリア抑留の記録・最終回(全4回)

1956年、最後の引揚者たちが帰国

松本 洋光(2007-07-19 14:00)
Yahoo!ブックマークに登録 このエントリーを含むはてなブックマーク  newsing it! この記事をchoixに投稿

 ソ連は、参戦時から大きな国際法規違反を犯した。

 日本とソ連は、1941年に日ソ不可侵条約(日ソ中立条約)を結んでおり、相互に戦争はしない約束だった。

 この条約があったからこそ、ソ連は対独戦に専念でき、日本は対米英戦に踏み切れた。

 この条約の自動延長を行わないとソ連側から廃棄通告してきたのが、対独戦に目鼻がついた1945年、終戦4カ月前の4月5日だった。

収容所(ラーゲリ)の模型。ハバロフスク地方のムーリー地区で抑留体験をされた方が企画設計されたもので、当該地区の収容所の一例と思われる。収容所は1800もあったといわれ、形式はさまざまだった=舞鶴引揚記念館の所蔵資料による(撮影:松本 洋光)

 当時、在モスクワの佐藤尚武駐ソ大使は、条約の規定に「廃棄通告は期間満了の1年前」と記されてあるので、この点をモロトフ外相に質すと「条約の失効は1年後のことになる。ソ連の中立義務に変化はない」と答えた。ソ連は1年間の中立義務を自ら認めている。

 それを無視して、満州の広野にソ連軍が侵攻してきたのは、1945年8月9日午前零時。

 その1時間前にソ連は、宣戦布告を佐藤大使に通告したが、佐藤大使からの至急電報は、なぜか外務省には届かず、日本首脳は9日になってから、同盟通信の配信でやっとソ連の参戦を知った。

 もちろん関東軍は、完全な不意打ちを食らったわけで、ソ連が奇襲攻撃を成功させるため、電報の妨害工作をしたのではという見方が現在では濃厚だ。どこまでも卑劣な国家だった。

 日本を占領していたアメリカの圧力もあり、ソ連は1946年暮れに抑留者の日本送還に同意。12月19日に締結された「日本人引揚に関する米ソ協定」によって開始された抑留者の送還は、1947年に本格化、1950年4月22日に、ソ連側から47万1000人の送還をもって完了したと発表された。

 実際には、1956年12月26日に最後の引揚者1025人が帰国した。

 ソ連からの引揚者の総数は、47万3000人あまりとなり、まだ多くの行方不明者が残っている。

 日本政府は、ソ連の後継国であるロシアに対し、 以下のことを強く求めるべきだと思う。

◆国家としての正式な謝罪

◆抑留者への賃金支払い

◆死没者への補償

◆個人財産の補償

 ロシアは、石油景気に沸き立っており、支払い能力は十分にある。

 これを実現してこそ、祖国(日本)に帰りたいと思いながら死んでいったシベリア抑留者への、真の供養になるはずだ。

 政府の真摯な対応を望みたい。

【参考文献】
『シベリア決死行』(岡崎溪子著 アルファポリス出版)
『季刊鳥取』(2006年秋冬号 季刊鳥取社)
『流転の旅路~シベリア抑留記~』(佐々木芳勝著 自家本)
『シベリア抑留記 凍てつく青春』(上口信雄著 新樹社)
『検証 シベリア抑留』(W・ニンモ著・加藤隆訳 時事通信社)
『ソ連が満州に侵攻した夏』(半藤一利著 文春文庫)
『ソ連軍が満州に侵攻した日から60年目の日に』(西岡昌紀著 文藝春秋)
『失われた青春 私たちの終戦』(鳥取県倉農語緑会編)
『平和の息吹』(戦後50年記録誌 鳥取県西伯町発行)
※そのほか、新聞各紙

【参考にしたシベリア抑留関連サイト】
戦争に捧げた青春~ベリアを生き抜いて~
※青森県・白井信三さんのホームページ
旧ソ連抑留画集
※元陸軍飛行兵・木内信夫氏のホームページ。抑留中のエピソードを明るいタッチの画で表現している
シベリア抑留は捕虜であった
※1997年11月28日、内閣衆質141第9号により、日本政府の見解として



松本 洋光 さんのほかの記事を読む

マイスクラップ 印刷用ページ メール転送する
74
あなたも評価に参加してみませんか? 市民記者になると10点評価ができます!
※評価結果は定期的に反映されます。
評価する

この記事に一言

more
評価
閲覧
推薦
日付
岡田克敏
44
10
07/19 21:02
タイトル
コメント

オーマイ・アンケート

2008年北京オリンピック、日本の金メダル獲得数を予想しよう!
OhmyNews 編集部
15個以上
10~14個
5~9個
1~4個
0個

empro

empro は OhmyNews 編集部発の実験メディアプロジェクトです
»empro とは?