〈Q〉
最近のインターネット流行の影響からか、格闘技マニアが開いているホームページなどに小島氏に関する色々な話題が書かれたりしていますが、これをどう思いますか?
〈A〉
インターネットは新しいメディアといわれているように、社会に大きな影響を与える存在に変わりつつあると思います。特に、これまでは「声なき声」と呼ばれていた民衆の意見や考えが、世界規模で誰にでも耳に出来るようになったことは、ある意味で革命的な出来事といってもいいと思います。インターネットの誕生によって、我々民衆は大きな権力に対抗する術を手に入れたことにもなるのですから……。
ただ、その一方でインターネットは低俗なポピュリズムとでもいいますか、何の確証も証明もない単なる噂にすぎないものを、いつしか事実であるかのような存在として広めてしまう危険な側面も持っているように思います。いわば、巨大な「落書き帳」とでもいったらいいかもしれません。汚い言葉を使うならば、まるでトイレの落書のような次元の低い噂や中傷がひとり歩きしやすいのもインターネットの恐いところではないでしょうか。 私自身、これまで自分の名前で15冊以上の本を出版してきたためか、特に格闘技関係の世界のなかでは多少は名前を知られるようになってきたようです。さらに私の場合、論調が直截的な表現になりやすい傾向が強いことは自分自身認めているとおりです。それゆえ、私の文に対して嫌悪感を感じたり、なかには自分が批判されていると思い込む人も少なくないようです。つまり、私には敵が多いということになるのですが、その結果、格闘技オタクが開いているホームページなどでは私に対する「悪口」のオンパレードという現象が起こっているようです。
私としては、前述したような私の文章的な特徴を、今後も改める気はまったくありません。オブラートに包んだような政治家的な表現は私のまったく軽蔑するものですし、イエスと思うものには堂々とイエスといい、ノーと思うものには毅然とノーというのが物書きとしての私の信条です。もちろん、自分が書いたものに対してはあらゆる面について責任を持つことはいうまでもありません。責任を持つということのプレッシャーも、私自身、自分で背負い続けてきたつもりです。ですから、私が書いた本、文章に対する嫌悪感や疑問から生じる批判に対しては、甘んじて受ける覚悟は持っています。
ただ、根拠のない単なる噂の上塗りにすぎないような批判については機会があったら正しておかなければならないと思っていることも事実です。たとえ「トイレの落書」のようなレベルのものについても、超然と無視しているのではなく、その土俵にあえて乗ることも時には必要なのではないかと私は思うのです。そこで、以下にそんな「噂」に対する私の回答を少し書いてみたいと思います。
私がいちばん呆れてしまったのは、私が「格闘技の素人で、腕立て伏せなど1回も出来ない」という声でした。呆れたというよりも笑ってしまったのですが、こんな噂に対する答えを私が書くつもりだというと、MUGENの副代表である塚本は逆に呆れ返った顔をして「本当に書くんですか……」といったきり相手をしてくれなかったほどでした。でもあえて私は書こうと思うのです。何故ならば、これは私自身にとってもきわめて重要なことだと思うからです。
※
自分の著書のプロフィールの欄でも書かれていることですが、私は過去、古武道を皮切りに柔道、伝統派空手、ボクシング、極真空手などを学んできました。古武道を始めたのは4歳の時です。磐城(岩城?)流という会派の武道で、主に剣を用いた居合道に似た武器術と組打ちと呼ばれた合気道に似た技術を学びました。といっても、その稽古のほとんどはいわゆる「型」を覚えることに終始し、それらの型を時には詩吟などに合わせて舞うといった、剣舞や舞踊と見紛うこともやっていたように記憶しています。というよりも、私自身の記憶では稽古そのもの以上に正座をしたりといった礼儀作法が厳しかった思い出のほうが今でも印象強く残っています。
古武道は小学校の3年生頃まで続けたでしょうか。それから小学校の5年の頃から市内の警察署の道場で柔道を学び始めました。柔道を始めた理由は以下の2点です。もともと私の父が柔道の経験者で、時折ボランティアで警察署の道場で柔道を指導していたこと。そして、当時は柔道の大ブームで、「姿三四郎」に始まり「柔道水滸伝」「柔道一代」といったドラマがテレビを賑わしていたということです。
中学に入ってからは柔道部に入り、そのまま高校卒業まで柔道を続けました(正確にいえば、上京してからの1年間は週2回程度講道館に通っていました)。ところで、高校時代、梶原一騎原作の「空手バカ一代」が大ブームとなり、さらにはブルース・リーの影響もあって、友人たちと親に内緒で市内の空手道場に入門しました。もちろん柔道は続けていましたが、高校時代は受験勉強中心で、その分柔道部の活動はいい加減なもので、ほとんど自由参加に近い状態でした。そこで、私は2人の友人とともに週1、2回という約束で空手道場に入門したわけです。
当時は空手に対する知識がほとんどなく、「寸止め」も「フルコンタクト」も当然知らず、空手といえばどこでも「空手バカ一代」のように大山倍達の傘下にあるものと思っていました。ところが入門して驚いたのは、何故か道場内では「大山倍達」や「極真会」といった言葉はタブーで、テレビでやっていたアニメの「空手バカ一代」について異常なほどに嫌悪感を顕にしていたということです。私たちはただ戸惑うばかりで、その異様な空気に耐え切れず、1ヵ月程度で退会してしまいました。空手のイロハのイの字も学ぶことなく、ただ空手というものに対する印象を悪くしただけで道場を後にしたわけです。その道場がいかなる流派の空手だったかは今もって不明ですが、多分松涛館系だったのではないかと思っています。
ところで私が大学浪人として上京した時、私はすでに東京で所帯を持っていた従兄に世話になりました。赤羽に下宿したのも従兄が近くに住んでいたという理由からで、特に従兄の奥さんには食事から洗濯、掃除に至るまで迷惑を掛けたものでした。当時、従兄は調理師として仕事をしていましたが、元プロのボクサーで、全日本のランカーを張ったほどの実力者でした。私が上京した時はすでに選手を引退していましたが、たまにOBとして後楽園のジムに顔を出していました。私は従兄からボクシングの話を聞かされ、ボクシングの魅力に取りつかれていきました。
ただ、そうはいっても私自身はボクサーを夢見るということはなく、ボクシングを学ぼうという気持ちもありませんでした。いわばファンとしてボクシングが好きになったという程度でした。ところがある日、私は従兄と赤羽界隈のレジャー施設でビリヤードをやっていると、明らかにチンピラといってもいいような3人組に言い掛りを付けられたのです。正直私は腕力に自信もなく、ただオロオロしていたのですが、従兄は動じるふうもなく、むしろニヤニヤと笑いながら一瞬で彼ら3人をノックアウトしてしまったのです。
そういえば、その頃人気ボクサーだったガッツ石松は10人以上の不良をやっつけたという伝説を従兄から聞かされていた私は、改めてボクシングの凄さを実感した覚えがあります。結局、私は従兄の勧めもあって従兄が所属していた事務に入門することになりました。従兄は私のことを気にしてくれたのか、ジムのトレーナーに、「こいつは受験生なので頭がバカにならないようにあまり殴らないでやってください、眼は近視だし……。健康のためにやりたいということですから」と笑いながら話していたのを今でもよく覚えています。こうして私は、講道館と掛け持ちで週1、2回程度講道館と同じ後楽園にあるジムに通いました。それが約1年間続いたと思います。
そして大学に入学してから、私は心機一転を期して「極真会館早稲田支部」と当時呼ばれていたクラブに入門したのです。大学のクラブには3年弱所属し、私としては一生懸命稽古したつもりです。過去、古武道、柔道、ボクシングとやってきましたが、この3年間ほど真面目に稽古漬けの生活をしたことはありませんでした。頭のなかは空手のことばかり、もちろん女性とは縁がなく、生活費を稼ぐためのアルバイトも最低限に抑え、空手、空手、空手……の生活でした。
ところが3年の夏前頃からオーバーワークのためかひどい腰痛に悩まされるようになりました。いくつもの病院、治療院を転々としながら、一向によくならない腰の痛みに悶々とし、以前のようなトレーニングが出来なくなった自分に対して自己嫌悪感を抱き、その結果、徐々に空手の現場から離れていくようになりました。最終的に、3年目の冬を目の前にして、私はクラブを離れました。それから数か月間、腰の治療に専念し、翌年の春、私は改めて極真会館のある支部道場に再入門したのです――。
※
古武道から極真空手まで、一見華々しい私の格闘技遍歴ですが、その実態は何もかも中途半端で、まるで安物のガラス玉をルビーやダイヤモンドだと偽って身に付けているような嘘臭いものでしかありません。
この点を、私は何よりも明確にしておきたいと思うのです。私は決して格闘技の達人でも武道の実力者でもありません。その対極にいる半端者でしかなく、選手としては四流、五流にすぎず、常に道場の末席を汚していたちんけな人間でしかありません。古武道でもらった目録も、柔道や極真空手でいただいた黒帯も、それらはどれも形だけのものにすぎません。
古武道を辞めたのも、柔道を辞めたのも、そして早大の極真空手クラブを辞めたのも、都合のいい大義名分を並べながら、実はすべて「現実から逃げた」だけのことなのです。これが私の原点だということを、私は広言すると同時に常に戒めていかなくてはならないと自分自身に言い聞かせているのです。だから、たとえば大学時代、極真空手のクラブを辞めたことを取って、当時道場の仲間だった人間たちに、「小島はただ逃げただけだ!」といわれたとしても、それは事実であり、それを素直に受け入れる覚悟を私は持っているつもりです。
しかし、現在の私に対して「あの時、逃げた人間のくせに偉そうなこといいやがって」というのであれば、私はいつでも喧嘩を買う覚悟は持っています。何故なら、私はずっと何年間も、柔道や極真空手から逃げたという十字架を背負いつつ、そんな弱い自分を乗り越えようと努力してきたし、この点については大いなる自負を持っているからです。「あの時」逃げてしまった自分が嫌だからこそ、私はずっと格闘技の世界に居続けてきたし、たとえ自己満足だといわれても、私は今まで汗を流し続けてきました。
今でも私は週何回かは汗を流し、トレーニングを怠ったことはありません。あるホームページには、私のことを腕立て伏せが1回も出来ないと、まるで見てきたかのような文章で書いてありましたが、現在、私は少なくともベンチプレスで110キロ以上は挙げているし、今でも上段回し蹴りは連続100回蹴ることが出来ます。つまり、20年前と同様に極真空手の世界にあっては四流、五流程度のレベルにすぎないにしても、そして末席の道場生程度の技量を越えるものではないけれど、そのレベルは今でも維持している自負はあるということです。
また、たとえ末席の道場生であるとしてもその世界で流す汗の尊さは私自身よくわかっているつもりです。その「汗」の辛さも苦さも素晴らしさも、私は自分の身体で味わってきました。私が自著の書籍のなかで書くすべてのものは、私が流してきた「汗」に基づいているのです。だから、20年前、私が「逃げた」という事実について、「逃げることなく頑張っていた」仲間に罵倒されるならば、それは認めるにやぶさかではありません。しかし現在、私が流している「汗」に対し、過去のことを引き合いにして批判したり侮蔑するならば、私はいつでも戦う覚悟を持っているということを、私は明らかにしておきたいのです。
多分、私は生涯格闘技から離れることは出来ないでしょう。たとえ青春時代のほんの一時期であったとしても、私は格闘技を志し、そのくせ中途半端に放り出した「前科者」だからです。前科者の印である刺青を心のなかに刻み込み、私はこれからもずっとその呪縛から逃れることを夢見ていくことでしょう。私が書く文章は、そんな私の心の叫びだということを少しでも多くの人に理解してもらえれば幸いです。
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