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【断 呉智英】今こそ「聖俗」の議論を
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北京五輪の一番の成果は、支那の少数民族抑圧がいかに過酷か明らかになったことだろう。異民族を「南蛮」「北狄(ほくてき)」などと虫偏や獣偏で呼ぶ尊大な自民族中心主義は、今も支那で続いているのだ。
特にチベットでの想像を絶する抑圧は、今年に入ってからふたが開いたように続々と報じられている。水利、地下資源などの簒奪(さんだつ)、漢民族による観光産業の独占などで、チベット人の生きる術(すべ)を奪い、反抗には有無を言わせぬ弾圧だ。
山際素男『チベット問題』や業田良家『慈悲と修羅』に描かれたチベット仏教の僧侶・尼僧に対する残虐な拷問は、正視に耐えないものがある。銃床で殴る、水さえ与えず暗い密室に閉じ込める、などは序の口で、性的拷問は陰惨を極める。激痛で失神寸前の僧侶・尼僧に「さあ、お前たちの信仰する仏に祈れ、仏が何をしてくれるのか」と嘲弄罵倒(ちょうろうばとう)するのだ。
敵国の捕虜にさえ許されない残虐行為を自国内の少数民族にする非道には言葉を失う。一刻も早いチベットの完全自治の実現を望むだけだ。その上で、こうも思う。チベット人は弾圧者の暴言の意味を今のうちに自問しておくべきではないか。かかる暴虐に対して「仏は何をしているのか」と。仏に頼りすぎた聖俗未分化こそ支那の暴虐を招いたのではないか。一方で、聖俗未分化のイスラム原理主義は狂信的なテロによって世界を血と硝煙に染めようとしている。聖俗未分化はあまりにも無力であり同時にあまりにも凶暴である。事態への根源的問いかけは今こそ必須である。(評論家)