秋葉原17人殺傷事件で見えた問題を改めて振り返る座談会。前回は大澤真幸・京大教授が、40年前の永山則夫事件と対比し、批評家の東浩紀さんは、事件が広く共感を呼んだ構造を指摘。批評家の大澤信亮さんは若年層の労働問題を説く言葉の欠陥を突いた。今回は、問題を根本から解決する糸口を巡って、激しい議論が交わされた。【構成・鈴木英生、写真・川田雅浩】
大澤信亮さん(以下、信亮) 加藤智大容疑者のネットへの書き込みの大半は自分についての言及ですよね。それを秒単位で何回も反復していた。でも、そこに無名性の問題を見るだけでは、「ではどうする」という問いが出てこない気がします。
東浩紀さん(以下、東) 僕は肯定しないけど、無意識のうちに「対策」は生まれている。たとえば自分探しや自己啓発セミナーは、「無名のあなた」に「本当の自分」を発見させる技術だと言える。
大澤真幸さん(以下、真幸) 自己啓発セミナーって、いわば「病気が治らなくとも、それに耐えられる体力をつくる」ような対症療法ですよね。個人がそれで解決しても、社会的には病気のまま人が生きているのはどうなんでしょう。
おそらく、容疑者の苦しみは、「無名であること」自体です。加藤容疑者と酒鬼薔薇(さかきばら)事件の酒鬼薔薇聖人は同い年ですが、酒鬼薔薇は「透明な存在である僕」という表現を使った。透明とは無名、つまり世界から見られていないということ。実際は戸籍名があるのに、「自分には名前がない」と思っている。「本当の名前」で呼びかけられたいわけです。今回の容疑者は、ネットで応答をもらい、透明な存在である自分を克服したかったんじゃないか。
信亮 彼には、最終的なよりどころとしての「自分」は絶対に明け渡さないような、自己に閉じこもる感じがあった気がするんです。自己啓発的な呼びかけで「~への疎外」の世界に入れる人もいるでしょうが、彼にはその種の呼びかけは通用しなかったのではないか。
真幸 最近は自己啓発セミナーもはやらないのでは?
東 自分探しは続いているし、NPOや社会運動のブームも近い感性に支えられている。
真幸 以前は、自己啓発的なものが加藤容疑者のような人を社会の周辺部分に包摂できましたが、その戦略が効かなくなっているのでは? 普通に働く若者みんながそうなったときに、全員を周辺化はできない。
東 別の言い方をすれば、結局、彼に代表される人たちに欠けているのは、自分の人生を自分で引き受けることだと思います。
自分が選択できないものを選択して、人間は主体を構成する。選択できないものとは、普通は地縁や血縁ですね。本当は、この場所でこの時代にこの親の子に生まれたくなかった。でもそれを仕方がないと、いわばあきらめて主体は安定する。あきらめずには大人になれないのに、現代社会ではそのあきらめの回路がうまく働いていない。
今回の事件だけでなく、昨年話題になった赤木智弘さんの論文「『丸山眞男』をひっぱたきたい」も同じ。あれは「自分が正社員になれなかったのが耐えられないから世界をリセットしたい」という話です。確かに、正社員になれなかったのは、運が悪かっただけかもしれない。不条理は修正する必要があるけど、他方で絶対にある程度の不条理が残るのも確か。その部分は世界の決定事項として引き受けるしかない。そもそも戦争で現実がリセットできたとしても、人生はリセットできない。今、戦争が起きても、赤木さんは既に30代半ば近い。それはもう変えられない。
真幸 呼びかけという言葉にこだわりますが、正社員化も「社会の中であなたは必要だ」という呼びかけの一つです。正当な報酬や休みがあって簡単に解雇されない状態は、呼びかけのベースになる。
ただし、正社員化だけで問題は解決されない。それを忘れると、「もっと恵まれない人がいるのに、その程度のことで文句を言うな」となってしまう。
東 その点については、議論を逆転させるべきです。「そんなに貧しくないはずなのに、なぜこれだけうるさいのか」と考えなくてはいけない。精神論で「黙れ」と言っても、状況は変わりません。
信亮 確かに今のフリーター運動は、自分たちが割に合わない世代だという共感で支えられている一面がある。でも、これだけでは世代を超える議論にならないし、理念としても弱い。
たとえば、資本制経済の下では、いくら目の前の敵をたたいても不安定雇用は必然的に要求されます。さらに自分の権利を主張した結果がそのまま、他者の権利を収奪することがあり得る。だから、最終的に目指すべきは、違う原理の経済や組織ということになります。
そこで『フリーターズフリー』は共同出資の事業組合という形式をとっています。雇う人間と働く人間の間に亀裂が入らないシステムを試している。とても小さな試みですが、それは単なる共感ではなく、理念と原則で支えられた活動です。
信亮 ここで見えてきた問題、生まれてくるアイデア、つながっていく関係は思いのほか多い。人には自己啓発的、NPO的に見えるかもしれないけれど、こうした取り組みに、既存のシステムを乗り越える芽があるんじゃないかと思っています。
真幸 つまり、共感だけでは連帯が十分に広がらない。それと、資本主義を最後で最大のゲームとして受け入れてしまっては、究極的に問題は解決しない。たとえば、さっき言った正社員化も呼びかけの第一歩です。しかし、資本主義の原理が徹底されると、すぐ首を切らなかったり社会保障を充実させたりで呼びかけを偽装する企業は負ける。企業が残らなければ正社員で雇われても意味がないから、これでは根本を解決できない。
東 資本主義の横に、愛やケアがあればいいのでは。
信亮 資本制や民主制自体の中に、それらを乗り越える道を探すことはできませんか?
東 それはどうでしょうか。資本制はイデオロギーではない。乗り越えというのは、よくわかりません。
真幸 開き直ってますねー(笑い)。
東 資本制とはおそらく、私有財産と貨幣経済があれば自動的に、何度でも生まれるものです。だから、「資本制のせい」と言っても仕方がない。
真幸 でも、メーンストリームが無理だから別で作るという戦略は、難しくなっているのでは?
東 たとえばベーシック・インカム(注)の考えにひかれます。基礎的な生存権が無条件に保障されれば、ケアや愛も実現しやすくなるはずです。今はNPO職員も給料がないと生きられない。ケアや愛を実行する際の損失コストが大きすぎる。そこが変われば状況は変わってくる。
20世紀の後半、ハッカーたちは誰にも指示されずインターネットの世界を作り上げた。彼らはたまたま、あまり働かなくて良かった。そして暇だからやったことが、新しい産業や文化の核になった。同じようなことが、あり得るのではないかと思います。
真幸 最後に、総括的に言うと、やはり一つの事件が事件以上のものになることがある、ということです。僕にとってはオウム事件がそういう意味をもったし、団塊なら連合赤軍。この事件は、確実にある人々にとって出来事以上の出来事になると思います。
東 今回の事件は、タイミング的にも、フリーター問題やロスジェネ論壇の盛り上がりと一致していた。象徴的な事件になるよう、運命づけられていたと思います。
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基本所得制度。すべての個人に無条件で最低限の所得を保障する制度。受給条件やそのための調査が必要な生活保護と違い、一律に支払われる。人々が自らの意思で仕事を選択でき、雇用の場以外で自らの役割を見いだせるようになるなどとして、80年代以降、西欧を中心に導入を望む声が高まっている。
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■座談会を聞いて
この座談会、元々は、秋葉原事件を糸口に、その他の社会問題も議論してもらえればと考えた。だが、始まってみると、事件そのものを掘り下げる内容に。むしろそれによって、所得や趣味にかかわらない若年層全体の問題をえぐり出せた。特に、東さんの述べた「選べないものを選ぶ場面がなかったからこそ、匿名性と万能感を持ち続ける」とまとめられるあり方は、深刻だ。いわゆるネオリベラリズムはそう簡単に覆せず、地縁や血縁の復興も限界がある。信亮さんの提起したような、新しい共同性の芽を育てることも、一つの方法。実は、生活の隅々にそのきっかけがある気もした。【鈴木英生】
毎日新聞 2008年8月21日 東京夕刊
8月21日 | 秋葉原事件と時代の感性:識者座談会/下 |
8月20日 | 秋葉原事件と時代の感性:識者座談会/上 |