*これは以下の関連スレです。
【朝鮮半島聖火リレー】「愛国中国人の気持ちの代弁を試みる」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1948894)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1948894)
【ソウル聖火リレー】「こんなに赤旗が翻ったのは朝鮮戦争以来」?
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1948729)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1948729)
【平壌聖火リレー】「中国人の愛国デモは不要と世界にアピール?」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1948759)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1948759)
「やはり日本人は戦前に対する反省が全然足りてない」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1942659)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1942659)
【資料】「日本の戦前への反省の要所」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1931835)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1931835)
昔「スターウォーズ尽くし」をやりました。今回の見立てのテーマはこれで…
モグワイは通常状態では可愛い無力な生き物…
だけど
- 「水にぬらさない」
- 「明るい光に当てない」
- 「夜12時以降は絶対に食べ物を与えてはいけない」
という条件を守れないと体内の別の生物が覚醒してしまうの…
李華林回想録に描かれた『1931年当時の上海臨時政府』*「統一日報」の記事よりの再引用
1931年当時の上海臨時政府
- 「朝鮮の悲劇」に同情的だったフランス人は臨時政府庁舎がフランス租界内に置かれるのを黙って見逃したうえ、テロリストたちを匿うことも厭わなかった。独立運動家達は「さすがだ」「自由・平等・博愛の伝統が息づいている」と感激したが、あくまで同情して黙認したに過ぎなかったので、日本に説得されて以降は弾圧に手を貸す様になる。
- 当初から承認した国は、独立して間もないエストニアと、革命を成功させたばかりのソビエトのみだった。孫文指導下の国民党政府(広東護法政府)も少し遅れて承認してくれたが、北伐の問題を抱えていた為に外交上の儀礼を尽くすだけに留まり、孫文死後はさらに日本を気遣ってしばらくの間関係を絶つ様になる。「北京政府(段祺瑞の北洋軍閥)」に至っては臨時政府の特使を門前払いにしたばかりか、独立運動家たちを日本に売り渡そうとすらした。
- 国際的に承認を得られない以上財政が立ちゆかず、頼みの綱はアメリカでロビー活動を展開する李承晩だけという有様だった。そもそも臨時政府自体、賃貸料を払う金がなくてフランス租界の霞飛路460号にあった庁舎から追い出され、政府首脳達ともどもさる朝鮮資産家の屋敷を借りたり、馬郎路4号の中国人有志の邸宅に引っ越すという有様であった。
(統一日報がピックアップした)李華林の証言 「金九が『さて、今日はどこでメシと、ねぐらを恵んでもらおうか』とつぶやくので哀しげな目を向けると、彼は『なに、東家食西家宿は革命の担保だよ』とは豪快に笑い飛ばした」
「私は政府の負担を減らそうと、刺繍縫いをしたり、野菜を売ったり、洗濯を請け負ったりして生計を維持しながら、小銭を貯めて活動費の足しにしました。その頃、銅貨一枚あればお湯をやかん一杯分買えたのですが、その金が惜しくて生水を飲んでいたのです。それでリンパ腫症にかかってしまいました」
「生活はそれほど苦しかったのですが、それでも金九の組織(愛国団)から指示される密偵暗殺の任務や、連絡員の任務をその都度こなしていったのです」
「経済面で逢着する難局は、活動家たちの意志と、朝鮮独立運動を支持してくれる一部中国人たちの助けで何とかしのげましたが、政治的な面や道義の面で味わわねばならない困難は、私たちを窮地に追い込みました。
ところがその年の夏、日本は満州で、朝・漢民族を離間させるため『万宝山事件』を仕組み、朝鮮ゆっけ人と中国人を互いに争わせたのです」
ところが、実際に起こった事件は全然違っていたの…
「わが生涯を朝鮮に(旧朝鮮総督府殖産局長 穂積真六郎 財団法人友邦協会編)」
総督府外事課長として経験した平壌事件 満州で、「万宝山事件」が起こった。
これは、中国の排日から来る朝鮮ゆっけ人排斥とも関係があるが、万宝山で鮮農達が、自分らの田に水を引くため、満州人の所有地に水路を引かなければならないので交渉したが、地主が土地使用を許可しないため、背に腹は代えられず集まって実力行使の挙に出たところ、満人側は官憲も協力して朝鮮ゆっけ人を追っ払い、ぜんぶ追い出してしまった(のが発端である)。
日中間の情勢が極端に悪化しているときであるので、平素あまり重要視していない朝鮮ゆっけ人の圧迫も、これが日本全国の問題となり出した。
朝鮮も李朝時代までは、中国の属国だったことも多く、中国人を大国人(テコクサラム)と敬ったものだが、中国が、日清戦争に負けたり、韓国に勢力が及ばなくなるにつれて、その尊敬心も薄らいでいった。
中国人は、その時分個人としてはもっとも勤勉な民族であり、国の背景を持たないまでも、団結力の強い性格を持っていたから、とくに経済上のことについては、その時分の怠惰な朝鮮ゆっけ人など遠く及ばなかった(のである)。
京城でみていても、漢江の洪水ののち、水はひいて泥をかぶったままの岸辺の野菜に河から水を汲み上げて、一々葉を洗い清めている農夫の姿を見ると、何れも中国の移民たちである。
中国人は労働を何とも思わない。
従って物価に含まれる労賃は安いもので我慢する。
この勤勉な性格が、労働を苦にする日本人や、特に、朝鮮の人とは違う。
それで、同じ商売をするにしても、呉服屋は店の品の出し入れを苦にせず、少しの買い物にもたくさんの品物を出して、客の選びよいようにする。御用聞きに行っても、何か家のことを手伝ってくれる。理髪店でも何でも親切だ。その結果は、朝鮮の治安が整ってくれば来るほど、商売は繁盛する。
その裏には、朝鮮ゆっけ人の商圏は、次第に圧迫されるという事態が、だんだんはげしくなる。したがって朝鮮ゆっけ人の中国人に対する恨みは、年ごとに激しくなってきた。
万宝山事件が起こると朝鮮ゆっけ人同胞が虐待された恨みと、平素の経済的な憤懣が一緒になって、鮮内の中国人に対する感情を刺激し、そのうえ日本全体が、はじめて本気に朝鮮ゆっけ人
の味方をしてくれるという世情に浮かれた点も手伝って、はじめ仁川で中国人街を襲撃して店舗をこわし、死傷者まで出すという事件が起こった。
私はすぐ警務局に行って、田中保安課長に取締りと警戒を頼んだ。田中君は泰然として「警務局を信頼なさい。このくらいのことにびくともすることではなし、少しくらい騒いだほうがよいくらいだ。ちょうど良い時期に、ピタリと鎮めてみせますよ」とえらい自信だった。
私は辞任された児玉統監ご夫妻を東京までお送りして、新しい総監をお迎えに出張した。
私も、事態を少し甘く見ていたような傾きがあったようだ。
今井田新総監のお供をして帰る途中の汽車に電報で、「平壌で中国人の虐殺事件が起こった」と知らせてきた。
私は田中君の真似をしてはじめのうちは、総監に、「朝鮮の警察はしっかりしているから大事には至らないでしょう。」といっていたが、電報の重なるごとに事件は大きくなって、死者百人を超すに至っては、私は車室の隅に小さくなっているより外なかった。
帰ってみると平壌の事件は、実に惨憺たるものであった。
平壌の知事は、温厚にして秀才なる園田寛さんであったが、警察的な経験はない方だったし、警察部長は内地から来たての人で朝鮮の事情を知らない方だった。
それに、警察に関する自信と、今度のことは少しぐらい騒がした上、止めて見せようという心のゆるみから、さすが田中君も、全鮮への注意に十分でなかった点もあったろう。他の地方は、騒動はあっても小さくすんだが、平壌ではえらいことになってしまった。
楊事務官が平壌に行ったが、死人の多いことや、子供まで天井にぶっつけて惨殺したという惨状に興奮してしまって、困った園田知事から「うるさくて仕事ができないから呼び返してくれ」と電話で依頼してくる始末だ。
翌朝私は中国総領事の来訪を受けた。
さぞ激しい抗議があることだろうと思ったので、対座したとき一度お詫びの言葉を述べた後は、相手の興奮が鎮まるまで、三十分くらいは、当方は口を開かないことに決めた。
総領事は、南方の人で、朝鮮に多い北方の人々とは通訳なしにには、同じ中国の人でありながら十分話ができないときいたが、私とはじめから仲の良い鄭領事を連れてきた。
私は謹んで遺憾の意を述べ、死傷者を多く出したことを陳謝し、事後の対策には万全を期すべきことを述べて、下を向いて頭を上げなかった。
総領事は激越に朝鮮ゆっけ人
の暴状をなじり、警察の不手際を責めた。
しかし人間が最高潮に興奮して、1人でしゃべっても三十分とは続かないものだ。
総領事はいうだけ言ってしまっても、私が謹んできいているだけで、一言も返事をしないものだから、だんだん言うことが脱線していた。
そして「
日本の警察は世界一整備したものと承っておりますが、その警察がこんな事件を予知できないはずはない。それにこんな事件のおこったのは最初から警察の陰謀であるとしか認められません。」と遂にまったく脱線してしまった。
私ははじめて顔を上げて「
まことに申し訳ないことをいたしました。華僑の保護及び生活の安定には、極力努力いたします。ただ今のお言葉の中に、事件は警察の陰謀によるものだとありましたが、決してそんなことはございません。今のお言葉は総領事のご意見として伺ってよろしいでしょうか」ときいた。
総領事はびっくりして、「
私は決して苦情を申しに上がったわけではありません。ただ、わが国人の保護について、この上ともよろしくお願いするために参上したのですから誤解のないようお願いいたします」と繰り返して蒼惶として帰っていった。
「
なんだあれは」と同席した小田通訳官を見返ると、小田さんはあきれて「
課長、あなたは図太い方ですね」と言っていた。
こんなことで忙しくしているうちに、満州の情勢はいよいよ緊迫して相次いで起こった中村大尉・井杉曹長殺害事件、万宝山事件をめぐって満州駐剳軍と満州軍との対立はますます悪化し、遂に九月十八日北大営で戦闘の火蓋が切られ、満州事変が勃発してしまった。
その日京城では、中国の駐日大使が平壌で中国人虐殺の現場を視察して、いよいよ京城に乗り込んで抗議を申し込む日になっていたのだが、その朝、北大営事件が一般に伝わったので、大使は平壌事件どころではなく、宇垣総督に会っても平壌事件などそっちのけで、繰り返し「
あなたは日本陸軍の元老だから、満州の事件ができるだけ早く、そして最小限の範囲で収まるようご努力願いたい」と頼んで、大急ぎで東京に帰っていった。
宇垣さんも人を食った方で、大使が土産に吉林の立派な長い人参を持ってきたのに「
ホウ、人参は朝鮮の特産かと思ったら貴国にもできるのですか。」と空トボけておられた。
大使が帰ると、私を見てニヤリとして、「
とうとう何も言わなかった(平壌事件のこと)ね」と言われた。
【参考】【大日本帝国の証言】1927年北満における「不逞の輩」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1864990)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1864990)
不思議に思える事が一つ。あたかも日本人はこの時はじめてこれを見たかのよう…
「朝鮮開化史(恒屋益服著 博文館 明治34年)」
明から清に主人を替えた後の朝鮮ゆっけ人
はじつにおとなしく、清の軍隊召集に馳せ参じ、2回の羅禅(ロシア)遠征と明の征伐に従軍した。父として明を敬っていたはずなのに新しい父を迎えた途端、明に対して残酷無情な態度を取った。3回にわたる明征伐では朝鮮軍は満州人を驚嘆させるほど明人を虐殺した。満州八旗軍はかなり軍紀正しい軍隊であったが、盟友のモンゴル八旗軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まされていた。しかし、朝鮮軍が満州人の軍門に降り清軍に召集されると、今度は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して漢人への凄まじい虐殺と略奪を行ったのだ。清の将軍である龍骨大が率いた、明征伐についての朝鮮兵行状の記録には次のようなものがある。「韓兵ことに虐殺を極めたり。漢民号呼して曰く、天朝、朝鮮において何の仇があろうか。その恩に背いて、ここに至るかと…」
明は300年近く朝鮮を保護し、李氏朝鮮は宗主国である明から国号を下賜された。しかし、いざ明が弱勢になると、朝鮮はすぐさま清に乗り換えて逆に明を逆襲し、明人を虐殺した。日韓合邦後、満州でもっとも暴れたのは朝鮮ゆっけ人である。万宝山事件は、朝鮮ゆっけ人
と中国人の水をめぐる争いから起こり、朝鮮半島における中国人虐殺にまで発展した。満州では、朝鮮ゆっけ人
は「二鬼子」として中国人から恐れられ嫌われていた。
多分この事件は中国人の目には「また、いつものか…」くらいにしか映ってなかったの。でも「良鮮ゆっけ人」と「不良鮮ゆっけ人」を何とか弁別しようとしてた日本人には凄いショックだったかも…
どんなに可愛くても、やっぱりモグワイは手馴れた中国人の管理下に置かれているのが一番良いかもしれないの…