今年も15日の終戦の日が近づいてきました。
終戦の1週間前、現在の筑紫野市で満員の西鉄電車がアメリカ軍の戦闘機から機銃掃射を受け、多くの犠牲者が出ました。
この悲劇の背景には、福岡市から移ってきた日本軍の司令部の存在があったのではないか、という新たな説が浮上しています。
西鉄大牟田線・筑紫駅の待合所だったこの建物。
筑紫野市で大切に保存されていて、毎年8月8日には慰霊祭が開かれています。
1945年8月8日、アメリカ軍の戦闘機は西鉄筑紫駅周辺で、電車に機銃掃射を加えました。
上りと下りの電車合わせて64人が亡くなったとされていますが、犠牲者はそれ以上だったと証言する人もいます。
上り電車に乗っていて足を負傷した吉野忠利さんは、63年ぶりに事件の現場を訪れました。
このとき発射された銃弾の一つを、地元の人が田んぼの中から見つけました。
銃弾は電車の屋根を突き抜け、鉄製の台車をも突き抜けるほどの威力がありました。
吉野さんはすぐに電車から飛び出したため、一命を取り留めました。
戦後63年がたち体験者が減る中、大野城市に住む元新聞記者の坂井美彦さんと妻で児童文学作家のひろ子さんは、この筑紫駅銃撃事件に関する本をまとめました。
乗客や目撃者などから証言をあつめた坂井さん夫妻。
本を書いていくうちにある考えを持つようになりました。
筑紫駅からおよそ2キロ離れた宮地岳の山ろく。
昭和20年、本土決戦を覚悟した軍部は、ここに巨大な地下壕を掘り進めていました。
九州などを管轄する西部軍司令部は6月の福岡大空襲で被害を受け、この地下壕に移りました。
全長4キロの地下トンネルが掘られていたといわれています。
近くに住み、戦後地下壕の整理を担当した水城泰年さんは、当時の状況を知る数少ない人物です。
西部軍司令部の存在が、西鉄電車の機銃掃射と何か関係があったのではないかと坂井さん夫妻は考えるようになったのです。
あと1週間で戦争が終わるという日に起きた筑紫駅銃撃事件。
アメリカ軍の戦闘機の気まぐれによる攻撃だったのか、それとも戦略拠点として狙われたのか。
真相は分かりませんが、事件を伝え続けることが大切だと坂井さん夫妻は訴えます。