「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」から (C)2008森博嗣/「スカイ・クロラ」製作委員会
押井守監督の新作「スカイ・クロラ」が公開されました。実は、5月半ばに試写を見て以来、物語に納得のいかない部分があり、それを確かめるために劇場で再見してきました。以下、結末にも言及していますので、未見の方はご注意下さい。
恒久平和が実現した世界で、人々に平和を実感させるため、国家と巨大企業によって「ショーとしての戦争」が続けられている。戦闘機に乗るのは「キルドレ」。思春期の姿のまま年を取らず、戦死しない限り永遠に戦い続ける子供たちだ。ある基地にユーイチというパイロットが配属され、高い能力を発揮する。ユーイチはどこか破滅的な衝動を秘めた女司令官スイトとひかれ合う。彼女もキルドレで、ユーイチの前任者を殺したと噂されていた。
というのが前半のあらすじです。押井監督が、現代の若者とキルドレを重ね合わせようと考えているのは見ればすぐ分かります。停滞する時間、よどんだ閉塞(へいそく)感が映画全体を覆っています。キルドレたちはシニカルで倦みきっていて、命をかけた戦闘すらルーチンワークと成り果て、姿は若者ですが老成しています。キルドレでない大人たちも似たり寄ったり。基地の整備主任や物憂げな娼婦は葛藤を内に秘めているようですが傍観者的で、あとは、どこかうつろな食堂のマスター、嫌みな戦争請負会社の課長、観光気分で基地に来る軽薄な見学者たち…。少なくとも、情熱をもって幸せを求めている人間、自分の人生と格闘していそうな人間は見あたりません。まるで、死んだような世界です。
思春期の子供が「世の中なんて下らない」と斜に構え、すべてを分かった風にシニシズムを気取るのはなぜかというと(我が身を振り返ってみても)世の中に出るのが怖いけどそれを隠したいからです。なのでそうした子供たちにとって、高い能力を有しつつ大人社会の外に身を置き永遠の思春期を生きるキルドレという存在は、甘美な魅力を放ちます。
問題はこの閉塞とシニシズムをどう突き崩すかだと思うのです。コックピットと基地となじみの食堂と娼館をぐるぐる回る輪から、どうやって脱出するか。この映画は、その問題意識を内にはらみ、スイトの焦燥と暴発というジャンピングボードを用意しながら、残念なことに脱出する先として「死ぬ」か「殺す」かよりほかに示しません。翻ってそれを現実の若者にあてはめてみたら…。これが、私がこの映画にどうにも居心地の悪い気分を感じる理由です。「たとえ不幸や絶望が待っていようとも、情熱をもって人生を生きろ」――今年5月の押井監督の製作発表会見からは、そんなメッセージを期待したのに。
ユーイチは、死んだ前任者の代わりにコピーとして自分が作られたと知り、行動を起こします。しかしそれは、無敵のパイロット「ティーチャー」に闘いを挑むというものでした。ティーチャーは、スイトの娘の父親であり、ユーイチ自身と前任者にとって「オリジナル」にあたる人物であるらしいと、劇中で匂わされています。
でもユーイチはなぜ押しつけられたゲームのルールから出ようとしないのでしょう?例えば闘いを放棄し、独りでもスイトと共にでも、基地から脱出すべきだったのでは?誰かに闘いを挑むとしたら、相手は戦争ショーを続ける企業や国家では?おまけにユーイチはティーチャーに敗れます。同じ戦法を得意とするのですから「本家」に負けるのは当然、というべきでしょうか。コピー(子供)は所詮オリジナル(大人)にかなわないというのでは、あまりに救いのない、というか身も蓋もない結末ではありませんか。
エンドタイトルの後、基地にユーイチの「代わり」が来て、この物語は終わります。閉じた輪の何周目かが終わり、次の周が始まるようです。でも私が見たかったのは、閉じた輪をぶっ壊す最後の周。押井監督の初期代表作「うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー」で、主人公あたるは「永遠に繰り返す学園祭前日」から抜けだし、「文明崩壊後の楽園的サバイバル生活」も「ラム抜きのハーレム」も拒んで、「いざ現実に帰還せん!」と進軍ラッパ高らかに、すべてを痛快にぶち壊してくれたではありませんか。あたるの戻る先が別の閉じた輪であったにせよ、情熱をもってジタバタ暴れてくれたでは、ありませんか。
1967年、東京生まれ。91年、朝日新聞社入社。99〜03年、東京本社版夕刊で毎月1回、アニメ・マンガ・ゲームのページ「アニマゲDON」を担当。08年4月から編集局編集センター員。