稀有な運命で救われた日本人
1993年のパリ・ダカールラリーでの話。
日本人のアマチュア・ドライバーが運転する四輪駆動車が、モーリタニアの最西端ヌアジブから首都ヌアクショットに向かう途中、マンガール村という小さな漁村近くで、砂漠に突き出た岩山に激突、大破した。
ドライバー、ナビゲーターともに複雑骨折などの重傷を負ったが、車はペシャンコで、自力で車外に出ることもできない。発見が遅れれば死んでいただろう。が、運よくそこに、ラクダを引いたひとりの少年が通りかかった。
惨状を目にした少年は、自分の村まで取って返すと、「お父さんたちが乗っている漁船と同じマークの付いた自動車が岩に突っ込んだ。早く助けてあげて」と叫んで回った。漁船と同じマークとは、日本の国旗のことである。
「日本の車」と聞いて、村人たちはスワッ一大事。漁に出ている者も呼び戻すと、村人総出で救出に向かった。2人の日本人は、村から軍の駐屯地へ、さらにヘリコプターで病院へと迅速に搬送され、そのお陰で2人とも一命を取り止めることができたのだった。
ところで、マンガール村の人たちはなぜ、「日本の車」と聞いて救出に躍起になったのか。なぜ漁船に日の丸が貼ってあったのか。その理由を知る日本人は少ない。事故に遭った日本人がその理由を知ったのも、後のことだった。
この村では、ほとんどの人が漁業で生計を立ててきたが、漁船といっても小さな手漕ぎボートしかなかったために、大西洋の荒波を越えて沖合いに出ることもままならない。漁獲量も知れたものだった。
それを知った日本は1992年、沿岸漁業振興計画の一環として、無償援助で漁船や船外機をこの村に贈ったのだが、その際、モーリタニアと日本の友好の印として両国の国旗を並べて貼った。事故現場に遭遇した少年は、その「日の丸」を見覚えていたのだった。
その後も日本は、当初の計画通り、1994年にも漁船45隻、船外機61機を無償供与し、モーリタニアの沿岸漁業の漁獲高は大幅に伸びた。日本の技術指導によってエンジンの整備士も育ち、漁船エンジンの修理も自前でできるようになった、という望外の成果も上がった。
そんなわけで、マンガール村の人たちの日本に対する感謝の気持ちは並々ならぬものがあったのだが、日本に恩返しをしたくても、その手立てが見当たらない。パリ・ダカの日本人の事故は、彼らが日本に恩返しをする千載一遇のチャンスとなったのである。
稀有(けう)な運命の巡り合わせが、日本とモーリタニアの友好を、さらに深めることになったのはいうまでもない。