高句麗,百済,新羅の三国が韓半島に建てられる前は、韓半島の場所によって使う言語がまちまちでした。 西北地方,中部地方,西南地方,東南地方,済州島をはじめとする南海岸などで、それぞれの地域によって異なる言語を使っていました。 そして、紀元前100年頃から、つまり今から2100〜2000年前頃に地球に大激変が起き、洋の東西を問わず、あちこちで民族が移動し始めました。 まず、満州や沿海州地域の民族が南下し始め、徐々にその波は中国内陸に波及し、それとともに韓半島全域でも民族大移動が起こりました。 これは日本列島でも同じで、九州にあった倭王国が滅びると共に九州にいた貴族たちは東の本州地方に東進し、それと同時に韓半島では満州と西北地方の貴族が南下して今の漢江流域と錦江流域に入っていきました。 しかし、その地域は既に伽耶国と馬韓国が陣取っていましたが、地球の大激変による民族大移動にはお手上げで、その結果、過去の王国は力を失い、その代わりに漢江流域から東進すると共に移住者たちが建てた新しい王国が続々と誕生しました。 しかし、当時の王国は、実は今とは違って小さな邑落国家であり、各村ごとに王国が異なる状態でした。
当時、最初に姓氏を使った種族は、漢字の原形を使っていた夫餘族でした。 すなわち、国の名前を文字で明らかにした部族が韓半島最初の姓氏国家として残ることになったのです。 漢字の勝利であると同時に秦国の功績もなくはありませんでした。 だからと言って、それ以前にあった国々に家門がなかったということでは決してありません。 たとえば、高霊の金(キム)氏は、夫餘族が南下する前からの韓半島の先住民ですが、姓氏を使用していなくて、しばらく後にやっと「クム」または 「キム」に改宗したのです。 高霊が滅ぶとともに慶州と金海に編入されました。(1) 同じ系列の韓(ハン)氏は「カヤ」または「カラク」を漢字に変える際に、現在の音のように「ハン」になりました。 これに似た事例は非常にたくさんあります。 最初は韓半島の先住民たちも自分たちの言語に固執していましたが、結局漢字で記録される際に、各自それぞれ自分たちの音に合わせて漢字で表記したのです。 姓氏を表記するようになった原因の中には、中国からも韓半島に移住した貴族たちの影響が大きいです。 むしろ、これら中国や満州から渡ってきた貴族たちが使っていた数多くの姓氏の影響を受けたと言っても過言ではありません。
とにかく、新しい移住者たちに押されるにつれて、韓半島の一部の貴族たちは日本列島に渡っていきました。 皆、自分たちの家門である姓氏を胸に抱いてです。 すなわち、ひとつの部族の構成員は皆同じ姓氏を使っていたのです。 ですから、別の見方をすれば、邑落国家ごとに自分の姓氏をそれぞれ持っていましたが、徐々に漢字が広く使われるとともに集約され、また戦争による相互編入がなされるとともに今のように集約されるようになったのです。 だからと言って、国中の全ての人が現在のように姓氏を使っていたというのでは絶対ありません。ひたすら王族と貴族だけが所有していたのであり、言い換えれば、今の姓氏はすなわち数多くの戦争を通じて獲得した戦利品に値し、すなわち自分の部族と家門の誇示であると同時に、栄光でもありました。 現在の姓氏は2000年間の韓半島の部族の歴史記録であると同時に、生きている歴史の証人であり、その全てが漢字で表記されて現在に至ります。
(1999-06-19 発表)
(1)ここで言う高霊の金氏は新羅 朴赫居世以前の青銅器時代の種族を言います。 現在の高霊金氏とは異なる可能性があります。
2. 檀君
檀君。 韓民族に非常に馴染みのあるこの名称は、ただ単純に神話に登場する人物ではありません。 檀君は古朝鮮当時における君王に対する尊称であり、国の祭祀を行なう祭司長という意味で「ダン(亶,檀,壇)」と名付けるようになりました。 さらに、「ダン(Dan)」という尊称は我が国だけでなく、ユーラシア大陸の向こうの端であるアイルランド(Ireland) 神話にも、最も平和で神聖な種族として知られている「ダナン(Danann)」という女神であるとともに女王の部下たちが登場しますが、この「ダナン」がまさにダン(亶)の王妃を意味するのです。 そして、カナン(Canann) 地域では「ダン(Dan)」というヒブリーン(Hebrew)が国を治めた場所をダン(Dan)と名付け、ギリシャでも初期の王たちは皆「ダン(Dan)」を名前にしました。 これらは全て、聖書が出てくる以前のことです。 ですから、ヨーロッパにおけるダン(Dan),ドン(Don)はこの「ダン(亶,檀,Dan)」から始まっており、「ダム(Damm, Madam)」は「ダナン(Danann)」に比べて低い女性貴族に対する尊称であり、女性を意味する韓国語の「アム」と同じ語源から始まった言葉です。 このような語彙は、支石墓をはじめとする巨石文化圏では皆、似た尊称が残っています。 我が国では、ダン(亶,檀,壇,地)が地上を治める至厳な存在を言う言葉であり、空を治める神はファン(桓,空)でしたが、後には同じ音のハン(韓,漢,汗)に変わって君王の種族または君王が治める国の名前になりました。 ところで、ヨーロッパではカナン地域とギリシャを除いては皆、神のような存在を「ダン(Dan)」と呼んでいました。 要するに、上古時代には檀君たちがユーラシア全域を統治していたのですが、東方のアジアでは男性のダン(Dan)が、そして西方のヨーロッパでは女性のダナン(Danann)が統治するようになっていたのです。そして、天変地異によって巨石文化は幕を下ろし、巨石文化を土台にして東洋では秦、西洋ではギリシャ,ローマで新しい時代が登場したのです。
(1999-10-13 発表)
3. イギリス人の先祖は韓国人
(Koreans are the Ancesters of English People)
イギリス、すなわちイングランド(England),ウェールズ(Wales),スコットランド(Scotland),そしてアイルランド(Ireland)とイギリスの植民地である北アイルランド(Northern Ireland)は、今から4000年以上前の昔にアジア人(Asians)たちが西の死の地を探しに行って住むようになった場所です。 先史時代には死がもう一つの「あの世(the other world)」だという信仰があったので、多くのアジア人たちがブリティッシュ(British)諸島に移住したのです。 それで、彼らが残した言語はいまだにウェールズ地方に方言として残っていて、スコットランドと特にアイルランドには最もはっきりと残っています。 すなわち、文章の最後に動詞が付くという我々のハングルの文法がこれらウェールズとアイルランドの古語に残っていて、また数多くの支石墓(Dolmens)と巨石遺跡(Megaliths)は大部分がアジアから移住したビーカー族(Beaker People)たちが作ったものです。 ストーンヘンジ(Stonehenge)やアブバリー環状列石(Avebury Circle)など数多くのイギリスとアイルランドの遺跡は、大部分がアジアから移住したビーカー族が残したものです。 ちなみに、ビーカー(beaker)というのは、まさに新義州から平壌の間でたくさん出土する「眉松里型土器」のようなものです。
また、韓半島の多くの支石墓はイスラエル(Israel)やヨルダン(Jordan),ロシア(Russia) コーカサス(Caucasas) 地方で発見された支石墓の元形であり、地中海のコルシカ(Corsica, Corse)島では石棺墓(Cists)と一緒に我が国の蓋石式支石墓と卓子式支石墓が発見されています。 また、このような支石墓はピレネー(Pyrenees) 山脈でも発見されていて、フランスとそしてブリティッシュ諸島へ連なっています。 ところで、ヨーロッパの全ての大型巨石遺跡は全て我々の韓半島の支石墓から派生したものです。 インド(India)の支石墓はかなり遅れた時代にヨーロッパの影響を多く受けました。 ブリティッシュ諸島の環状列石(Stone Circle)は、元々スペイン(Spain)とポルトガル(Portugal)から渡っていった韓半島の支石墓種族の子孫たちの影響を受けていて、韓国語で「ムェ」と呼ぶ円形封土墳から始まった構造です。 ですから、イギリスにおける環状列石がどれほど遅れて作られたのか分かるでしょう。 この「ムェ」という言葉はイギリスでムーア(Moor)という言葉として残っていて、このムーア人(Moors)たちがまさにウェールズ地方とイングランド西南のコーンウォール(Cornwall) 地方、 そしてアイルランドに住んでいたアジア人たちの子孫です。
アイルランドはローマ時代にローマ(Roma)の侵略を受なかった唯一のヨーロッパ国家です。 何故だかご存知ですか? まさにギリシャ(Greece)とローマ(Roma)の前身が巨石文化を率いた韓半島の子孫たちであり、当時アイルランドでも韓半島の子孫たちが国を治めていました。 そのため、ローマはアイルランドだけを残して、すべて自分たちの支配下に置きました。ヨーロッパで最も未開人国家だと呼ばれていたイングランド(England)は、その当時にアジア人を西へ追い出して入って行ったサクソン族(Saxons)ゆえであり、そのサクソン族ゆえにローマがイングランドに攻め込んだのです。 とにかく、西ヨーロッパで最も根深い精神はまさに韓半島から始まった太極思想であり、ヨーロッパ人たちが奇妙な紋だと言う渦巻き紋がまさに太極を表現したものです。
(1999-10-18 発表)
4. 東夷族の支石墓 (Dolmens of DongEes)
我が国には支石墓が非常に多くあります。 南北韓を問わず、低い丘や平地には大小の支石墓が数えきれないほど散在していますが、このような支石墓はまさに先史時代の我々の先祖の墓でした。 ところで、南北韓の韓半島と現在中国領土に属している遼寧省,吉林省,黒龍江省の東北三省は、元々韓半島と同じ種族である東夷族たちの根拠地であり、支石墓はまさに東夷族たちが作った石墓です。 元々東夷族出身である秦始皇が中国大陸を統一した際に、まず東夷族(夫餘族,現在の吉林省地域)の漢字を借用して国の文字とし、冊暦もまた東夷族から借用して数えきれないほど校正するとともに、彼らの冊暦に変えたのです。 そして、東夷族たちのすべての歴史と証拠物を全部燃やし、過去の書物を見られないように禁止しました。 山東半島もまた東夷族の地域でしたが、秦始皇に最も凄惨にやられた場所がこの山東地域でした。 それで、山東地域には支石墓がほとんど残っていないのです。(1) 残りの遼東半島をはじめとして、吉林省の地域にはいまだに数多くの支石墓が残っています。
くだらないですね。 このような燦爛たる歴史を持っている東夷族は実際、初めはそんな秦始皇を馬鹿にしていました。 ひたすら過去の名声にばかりすがることにかまけていたため、新しく登場する新しい波に気がつかなかったのです。 しかし、ここにはもう一つの途方もない事実が隠れていました。 まさに天地開闢です。 海が地に変わり、地が海に変わる途方もない変革を経験した後に、数多くの人々があちこちにさすらって放浪生活を始めた時代が、天地開闢以後のことです。 その時代は、まさに中国大陸では春秋戦国時代です。 これ以後にはあらゆるものが変わりました。 それも主に万里長城の東の遼西地方から徐々に新しい青銅器が入ってくるにつれて、支石墓を作っていた東夷族たちも中国の影響を受け始めました。 それ以前は逆に全てのものが東夷族から始まりましたが、天地開闢以後はむしろ野蛮族に降格され、ちりじりに船に乗ってあちこち流浪生活を始めました。 実は、東夷族は元々海洋族出身だったのです。
天地開闢以前にも東夷族たちは西に航海するとともに、ベトナム(Vietnam)を経て、インド(India)北部、そしてパレスチナ(Palestine)地域、その次にエチオピア(Ethiopia)、そして地中海で威力を誇示していました。 イスラエル(Israel)をはじめとしてヨルダン(Jordan)、そしてトルコ(Turkey)中部、ロシア(Russia)南部の黒海沿岸のカフカス地方まで船を通じて彼らの威力を発揮していました。 ところで、まさにこの地中海沿岸のヨーロッパ人(フランス南部とスペイン東部)たちの元祖は、この東夷族の支石墓から影響を受けて徐々にもっと大きな支石墓を作り始め、やがて大規模な巨石建築物を作り始めたのです。 しかし、地中海に移住した一部の東夷族たちはアルプス(Alps) 渓谷を越えてドイツ(Germany) 南部に入っていき、また別の世界を構築しました。 そのうちの一部が現在のイギリス(Scotland)とアイルランド(Ireland)に渡っていき、新しい国を作りました。 ですから、ブリテン(Britain) 島における環状列石(Stone Circle)は、先にイベリア(Iberia)半島人の影響を受けましたが、後には再び東夷族の影響圏に入っていきました。
このように少なくとも今から2500年以前には、我々の韓半島と満州地域は全世界に大きな影響を及ぼす重要な位置にありました。 全世界の支石墓と巨石文化が実は韓半島から始まったからです。 黄海道の黄州一帯は、この支石墓時代に最も中心となる地域だったと思われます。 支石墓が初めて作られ始めた場所ですね。平壌一帯は主に天地開闢以後に拡散したのです。 実は、漢江一帯はこの支石墓時代で最もあやふやな場所です。 確かに黄州で支石墓文化が興った時に、漢江流域にはもう一つの既存の国がありましたが、後には支石墓文化に押されて高霊を経て金海と釜山に移住したと思われます。 そして結局、支石墓文化に影響を受けながら封土墳文化を開拓したのです。 ですから、高霊をはじめとする金海地方は、全世界の封土墳の出発地であるわけです。 しかし、黄州から始まった支石墓が遼東地方に広がるにつれて、中国内陸の文化と衝突して規模が大きくなり、ここから金海をはじめとする南海岸の勢力と一緒に足を海外に向けたと思われます。
結局、このような封土墳さえも、支石墓や積石塚と一緒に地中海を経て、西へ西へと影響を及ぼしたと思われますが、その中で最も有名な場所がフランスのブルターニュ(Bretagne)地方です。 確かに後にはブリテン島から追われたブリテン族たちが更に巨石文化を拡大させて成長させましたが、元々はフランス東南部の地中海沿岸に居住していた東夷族の影響から始まったと言えます。 だからと言って、全世界の支石墓と巨石文化が全部、韓半島と遼東半島から始まったのではありません。 もう一つの場所があったのです。 この韓半島と遼東半島の支石墓では、全世界の全ての巨石文化が一目瞭然に解明はされません。 恐らく今は凍りついた北極近くのカラ海(Kara)のどこかにある氷板の中に、その鍵を解く痕跡が残っていると思われます。
(2000-01-28 発表)
(1)山東省の太山の近くの斉国地域には、過去に何基もの卓子式支石墓が残っていたと伝えられているが、毛沢東の時代に文化革命を行なう際に、毛沢東の紅衛兵たちによって全部破壊され、現在山東半島に残っている支石墓は一つもないという。
5. 古代史の深刻な間違い (Fatal Errors in
Ancient History)
現在まで一般に知られていて、学校で当然のように受け入れて教えている紀元前の先史時代や古代の歴史は、その大部分がヨーロッパの歴史学界で提起した学説を基礎にしたものです。 特に、放射性炭素などの考古学的遺物と痕跡を通じてその大体の年代を測定したという絶対年代は、実は誰にも明確に検証出来ない、最も不確実な年代ですが、かと言って、はっきりと否定することもできない年代であり、ただ各国で主張する通りに受け入れているのが実情です。 ですから、現在我々が習って知っている古代や先史時代の年代は、最も確かな絶対年代だと言っていますが、むしろ最も不正確な推定年代だと言えます。
ところで、このような絶対年代が出てくるようになった動機は、実はイギリスとフランスなどに散在した支石墓に原因がありました。 いつこのような支石墓が作られたのかとても知りたかったのです。 そして、エジプトにある巨大な超大型ピラミッドがヨーロッパ学界に知られるとともに、イギリスとフランスの学者たちはまずエジプト古代王朝の歴史を整理し始め、当然支石墓の年代はそれ以前だと考えました。 このような過程で、地中海をはじめとするヨーロッパの古代や先史時代の年代が成立し、このエジプト王朝の年代に合わせて他の地域の年代が徐々に徐々に決まり始めました。 もちろん、この年代を成立させる最も中枢的な役割は当然、先祖代々支石墓を崇拝してきたイギリスの学者たちでした。
それで、現在知られている支石墓の年代はイギリスで初めて主張され、その年代をおよそ紀元前2000年から3000年位と見なしました。 そして、スペインのある巨石墓地から紀元前4000年頃という途方もない測定結果が出てくることになりましたが、もちろんこの年代を最も喜んだ人々はイギリスの学者たちでした。 それ以後には、支石墓が作られた時期を紀元前2000年から4000年頃として確立し、これを普及させたのです。 ところが、このように無理やり年代を合わせようとしたものですから、フランスで問題が生じました。 フランス西海岸のブルターニュ(Bretagne) 地方に散在する支石墓をはじめとする超大型巨石遺跡は、伝説ではただ紀元前後のゴール(Gauls)族が作ったものと知られていましたが、イギリスに歩調を合わせて、今ではゴール族ではないその遥か以前の紀元前2000年頃に作られたものだと言っています。 結局、イギリスとフランスの古代先史時代の歴史で、何と2000年という恐るべき時間的空白が生じることになったのです。 また、これに合せたものですから、ヨーロッパの支石墓は宇宙人が作った遺跡だとまで言うようになったのですが、もっと笑えるのは、全世界的に有名なイギリスのいんちき作家たちがこれを想像で完壁に装飾し、そのような巨石遺跡が1万年前あるいは2万年前に作られたというなど、はなから先史の歴史を想像と虚構できれいに飾ったのです。それでも、良心あるヨーロッパの学者たちは、自分たちの支石墓が黒海沿岸のコーカサス(Caucasus, Kavkaz) 地方から始まったと言っています。 すなわち、ヨーロッパの白色人種の 根本とヨーロッパの歴史の出発をコーカサス地方に求めているのです。
ところで、このように粘り強くコーカサス地方を眺めるもう一つの理由があります。 ヨーロッパ王族の伝統の中には常に東と東方、東洋が羨望の対象であり、自分たちの先祖とそのルーツもまた東洋であったという古い伝説と信仰のためです。 第三帝国を夢見たヒットラーと彼の側近ヒムラーが追い求めた新しい原動力は、滑稽にも先史時代から伝えられる神秘的な絶対王権維持の秘訣と道具であり、その血統をアーリアン族(Arians, Aras)と見なし、その痕跡を探そうとインドのあちこちを引っ掻き回していきました。 ナチ(Nazis)の鉤十字(Swastica)は十字架(Cross)の原型であり、絶対王権の象徴でしたが、韓国や日本、中国、インドなどの東洋ではこれを主に「卍」で表現しました。この「卍」は、実は太極のもう一つの象徴的紋です。 すなわち、四方に曲がりくねって伸びていく四太極(1)とでも言いましょうか。ヒムラーをはじめとしてヨーロッパの神秘主義者たちがそのように探し回った「聖櫃」もまた、石で構成された光る石棺を言います。恐らく光る碧玉で作った石棺ではないかと思われますが、このような碧玉製石棺は中国をはじめとする古代東洋では、富裕な貴族たちが最高級の棺と見なしていたという記録があります。 ところで、石で作った棺を使用した種族はひたすら東夷族であり、遼東と吉林,山東,南北韓の韓半島,九州,沖縄だけで発見されていますが、その中心となる地域がまさに韓半島です。
イギリスも同じです。 イギリス最高の伝説であるアーサー(Arthur)王と魔法使いマーリン(Merlin)の話は、ストーンヘンジ(Stonehenge)と支石墓(Dolmen)に関連した伝説であり、イギリスでの絶対的な王権維持の道具は単純な石塊と剣でした。 イギリスの国会議事堂や有名な教会の中には、これに似た石や直剣に関する遺跡があちこちに残っています。 ところで、我が国では支石墓はもちろん、全世界で唯一、直剣の原形である石短剣(磨製石剣)が最もたくさん出土しています。 また、秦始皇の墓から出土した宝剣も、直刃剣ではない曲刃剣であり、韓半島と遼東地域だけから出土する琵琶形銅剣から変形したものです。 また、この琵琶形銅剣も、遼東地域ではない南韓で出土する石短剣から変形したものであり、石短剣の剣身と剣把が一緒につながっていて、これにまた別の剣把が加わられて作られた形態です。 ですから、遼東で出土する琵琶形短剣は、まさに南韓の南海岸地域で先に作られ、その後に遼東で大量に生産されたと言えます。 コーカサスとギリシャで出土した青銅剣は南海岸で出土する琵琶形短剣の変形で、葉っぱに似た葉刃剣であり、イギリスとヨーロッパで出土する直刃剣は南韓で作られた石短剣に形態が似ています。 これを見て、日帝時代に日本のある有名な考古学者は、ヨーロッパの剣を 摸倣して我が国の石短剣が作られたと主張しましたが、南韓の支石墓から石短剣が途方もなく出土するにつれ、これ以上主張できなくなったのです。 このようなあらゆるものをどう解釈すべきでしょうか。
明らかに支石墓とその支石墓から出土する遺物を通じて見れば、ヨーロッパの支石墓とその遺物は我々の韓半島から派生したものと見ることができます。ところが、ヨーロッパの学者たち、その中でも特にイギリスの考古学者たちは自分たちが雄大に作った絶対年代とその年代記を羅列しながら、むしろ逆にヨーロッパから韓半島に伝播されたという主張をします。 すなわち、彼らが作った年代には確かに2000年という途方もない時間差があるのです。 彼らの話通りならば、ヨーロッパとアジアの境界では過去に突然アインシュタインが言った時間移動が生じて、その全てがタイムマシン(TimeMachine)に乗って行ったり来たりしたということですね。 すると、北韓では近来このようなヨーロッパ式の絶対年代測定ブームが造成され、イギリスが作った絶対年代と似たように合わせました。 それで北韓と南韓では支石墓製作年代がお互いに2000年以上の差があります。
2000年の差、この差はどこでどのように始まったのでしょうか。 確かにどこかでボタンを掛け間違えたのは明らかです。 約200年間ずっとこのようにボタンを掛け間違えてきており、今となってはそれを到底どうやっても直す方法がないのです。 今までイギリス人たちが自慢に思ってきた全世界の歴史年代記の編年が、全部間違っている可能性があります。 また、このような問題点と間違いが 明らかになった以上、一刻も早く是正しなければならないでしょう。 けれども、他方でこのような間違いを知っていても、イギリス人自らがその間違いを認めなければなりませんが、いままで積み上げた功績が徒労に終わる場面で、ただ座って自分たちの恥辱を喜ぶはずはないでしょう。 明らかに我々が知っているすべての歴史には途方もない間違いがあり、その中には故意に企んでいる途方もない陰謀がある可能性があるのです。
(2000-09-17 発表)
(1)実は四太極という言葉はなく、その代わりに四板文と言えるが、十字環周形の四板文自体は旧河図以前のものであり、桓易を言うものなので、「卍」字紋は陰陽太極の変化(易)を四時四方に合わせてもう少し細分したものと見られる。
6. 韓半島の剣は全世界のすべての剣の祖形
韓半島で支石墓が作られた上古時代には、泥を丸めて土器を作り、石をきれいに磨いて石短剣を作った。 このような石短剣は細石器の細石刃を挟んだ骨刀鞘から始まり、石鏃や石槍と共に獣の脛骨を磨いて作った骨剣に発展したが、豆満江流域の延吉(Yenji)地方とその近くの沿海州地方の土壙墓にはこのような骨剣が、柄があるもの(有柄式)とないもの(有茎式)など多様な形態で出土する。 この時代を前後して、支石墓から石短剣が出土し始めるが、有柄式石短剣は概して黄州一帯から始まって南韓地域に広がったものと見られる。
石短剣は今まで日本の学者が主張した通り「磨製石剣」と呼ばれてきたが、石鏃においては石を割って作った打製石鏃と磨いて作った磨製石鏃の区分がはっきりしている。 しかし、石剣においては北韓地方だけでごく少数の打製石槍剣が出土し、残りは全て磨製石剣であり、実際石剣の大部分が磨製石剣なので打製石剣と磨製石剣という区分は相応しくない。 それで筆者は磨製石剣という用語の代りに「石剣」や「石短剣」という用語を使用している。
今まで韓半島と中国、そして日本で出土した全ての石短剣を総合してみれば、その大部分が韓半島で出土しており、また支石墓時代に限定されていて、中期以後には青銅剣と一緒に出土したり青銅剣のみ出土する場合がほとんどだ。 そして支石墓以後、大きく封土墳を作り始めるにつれて、このような石剣と青銅剣は消え、その代わりに鉄剣が登場するようになる。
韓半島と遼東半島で出土する全ての石剣を総合してみれば、漢江流域を境界にして大きく南北に区分されるが、北方ではほとんど全部の剣と槍が複合したもので、剣根とも呼ばれる茎部だけ付いている有茎式石槍剣であり、南方ではほとんど大部分が柄部(剣把)が付いている有柄式石短剣だ。 そして、このような有柄式石短剣も 南韓の各地域で非常に多様な形態が出土していて、その流れを目で見ることができるほどであるが、主に漢江下流から上流へ、そして洛東江上流から下流へ、南韓を貫通して対角線でつながる姿を見せている。 そして、居昌 武陵里 山浦で出土した石剣は、初めから剣節が柔らかく整えられているとともに、剣身と剣把がつながっていて、剣身の中間部分が膨らんだように飛び出した琵琶形の剣身を見せている。 ここから始まって琵琶形銅剣の形態が出てきたものと見られるが、南海岸地方と遼東地方で出土する琵琶形銅剣は、中国のオルドス(Ordos,鄂爾多斯,河套,昔の綏遠省) 地方とロシアのカラスク(Karasuk) 地方の青銅剣などの形に比べ、古い時代の形態を見せている。 このように古代韓半島の石短剣と青銅剣は、全世界のすべての剣の祖形を見せていて、このような点から全世界で初めて剣が作られ始めた所が韓半島だったと言える。
数多くの青銅剣が出土する中国黄河の中上流のオルドス(鄂爾多斯)地方、そして遼西の内モンゴル(内蒙古)地方では、遼東と南海岸地方のものに比べて圧倒的に多くの数でもう少し精巧な青銅剣が出土するが、その全てが韓半島で出土する青銅剣と石剣から変化したものである。 特に琵琶形銅剣から始まった細形銅剣は、剣身と剣把、そして剣把頭飾の組立式構造を備えているが、このような組立式青銅剣は全世界で唯一中国の遼寧省地域と韓半島、そして日本の九州だけで見られる。 全世界の青銅剣のあらゆる形態は、大部分が一つにつながった構造(一鋳式)であり、このような組立式構造であっても琵琶形銅剣から変化した形なので、全世界すべての剣の祖形が韓半島を中心とする東夷族地域にあるということを明らかに物語っている。 ところが、過去、日本とイギリスの学者たちは、韓半島の剣がすべてロシア南部のカラスク(Karasuk)とオーストリア中部のハルシュタット(Hallstatt) 地域から始まったと主張し、そういう仮説に合わせて、青銅剣を摸倣して韓半島の石剣が作られたと主張するようになったのである。 このような点から、今まで発表された放射性炭素による年代測定方法を通じた絶対年代は、その真偽のほどをもう一度検討する必要がある。
中国の有名な宝剣である越王鳩浅の剣と秦始皇の兵馬俑坑から出土した秦始皇宝剣は、別名「桃氏剣」という青銅剣と同じ形態であり、韓半島南北の様々な所でこのような桃氏剣が末期型琵琶形銅剣と一緒に出土していて、琵琶形銅剣から細形銅剣に変化する過渡期に桃氏剣が出てきたと言える。 また、別名「触角式」と言われる双鳥形の剣把頭飾の青銅剣は、石剣の'T'字形と蚕繭型の剣把頭飾から変化したものであり、カラスクでは韓半島の組立式構造を一つに連結して作った。
剣とは特に脊部を中心としてその両側に刃があるものを言い、刀とは片方に刃があるものを言うが、戦闘と実生活で使われるのは刀であり、剣はひたすら祭儀用に使われていた。 古代インドのムガール(Mugul)帝国では半月形の偃月刀が使われていて、古代ヨーロッパでは両刃直剣が実際に使われており、韓半島の場合とは多くの違いを見せる。 特に「剣」という名称は檀君王倹という名称と同様に神的な君長を意味しているが、元々の石剣はこのような神聖な象徴物に擬人化されていて、剣身に剣眼が刻まれている。 この剣眼とは剣身に長い二本の溝が刻まれているもので、過去日本の学者たちはこの二本の溝が殺傷する際に血が容易く抜けるように血路の役割をすると見なして血溝と呼んできたが、支石墓から出土する二つの穴が彫られた「双穴石器」に見られるように、埋葬者の身分を表わす誌石の一種としてこのような石剣が副葬品として入っていたと言える。 「方相氏」長生に見られる4つの目は、まさにこのような剣の両側の面に彫られた4つの剣眼を集めたものであり、方相氏神は剣のまた別の形態と見なせる。 周代に方相氏は官職として、死体を埋葬する時に熊の皮を被って、黄金で作った4つの目を付け、墓に戈で板と窪みの4隅を刺しながら、墓の窪みに入る染病や悪鬼を追い払う役割をした。
(2001-03-12 発表, 2002-04-11 修正)
(訳注:「7. 夏国以前の三朝鮮」以降の翻訳は割愛しました。)