萌えの違い
人それぞれ萌えの形はある。
それを否定することは簡単だけど、肯定して昇華することは難しい。
他者を傷つけるような言動は随所に存在している。
人は己の痛みには敏感だが、他人の痛みには鈍い。
それを個々人の付き合いとしてメールや電話、直接言うのならともかく、他の人の目にも触れるところ、例えばブログ等で平然と書き連ねる人は非常に無神経だと思う。
相手が名乗らなかったり連絡方法が不明なら連絡のとりようがないので、目に余るようなら仕方のない面もあるかと思いますが、それでも相手を特定したことを自分が「諭す者」「正義者」のように書いて「正しい」と言い切る人はどうかと思うし、何も知らない人が読んだらその人の程度を疑うと思う。
しかも、手に負えなくなると仲間内を集めて論議して、というのがあって驚いた。
関係のない第三者として、傍目から見ると、仲間内でより集まって他人を排除するのを楽しんでいるようにしか見えなかった。それが学校等で行われれば、「集団いじめ」と言っても差し支えのないような雰囲気すらもあった。
そして、そういう雰囲気の悪いところは、「標的にされている人をかばったり、その人と付き合ったら、次のターゲットは自分だ」と心のうちで思ってしまうことだ。余計にそのことによって、どんどん周辺から見れば「怖い」と思われてしまうような空気が出来上がってしまう。
グループや仲間を作ることは悪いことではない。ただ、そのグループをかさにして、自分まで偉くなってしまったような気持ちになり、「仲間内にいない人」あるいは「仲間から弾かれた人」を攻めたり、嫌なところを突き詰めるのがいけないと思う。一度嫌いになれば、その人の悪いところしか見えてこない。逆に、その人のことが好きだったり、「仲間」だとしたら、多少何があっても目をつぶるだろうし、同じ行為をしても、それが「悪いこと」とは思えないのだろう。
萌えは人それぞれと高々に宣言するのであれば、少数派も認めることが大切だと思う。
しかも、議論禁止、という流れもありますが、議論のどこがいけないのか、と。
議論の中から新しいものが生まれることもある。また、議論をしている中で相手のいいところ、悪いところを見ながら理解することもあると思う。
「テーゼ」があって「アンチテーゼ」があって、「アウフヘーベン」があると言った哲学者もいる。
また「ここはこうだけど、そこはああだよね」みたいに、100%肯定じゃなくても、萌えるものもある。それすらも、「アンチ発言」の一言で片付けてしまうような風潮はちょっと異常とも思える。
多数派だから偉いんですか。「仲間」も同調して、「自分」もそう思うから「正義」なんですか。
キャラを愛しすぎて、作品を愛してはいないのだな、と傍目から見るとどうしても思えてしまう。
私自身は作品を好きになるタイプなので、ちょっとついていけない。まあ、だからこそこういう風に引き篭もって滅多に「意見」も書かないし、まして、「創作」など思いもつかない。
二次創作は非常にありがたい。だが、メジャーだったり、人気があったり、多くの「仲間」がいることが「偉い」ということではないとも思う。
人は何を見ているのか。
嫌いと思う人には粗探しを、好きだと思う人にはいいとこ探しをしていると思う。
意見をしたり、諭すのならば個人の付き合いの上でした方がいいと思う。そちらの方が後腐れもないし、言われた瞬間は頭に血が昇っても、本当に思って言ってくれた言葉ならば、きっと後で身に染みて分かるはずだから。それを誰にでも見られる形で表現することは「己の素晴らしさ」を説く自己陶酔となんら変わりがないと思う。
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