シンポジウムの記録
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ペリー提督横浜上陸・日米交流150年記念行事

ぺりー来航と横浜世界史デビュー

開催日    平成16年4月17日(土)
会場       横浜市開港記念館


 
 
 

第1部    記念シンポジウム(13:10〜17:00)

「開会」    総合司会 福田 征孜(せいじ)

150年前の3月31日に、「日米和親条約」が調印されました。調印されたのはこの近くです。調印のあと、ペリーは4月18日に横浜から下田に移動していますから、本日17日はぺりーにとって横浜最後の日でした。ペリー最後の横浜の日を共に楽しみたいと思います。第1部記念シンポジウム、第2部記念音楽祭、そして懇親会を用意しました。また、夏休みには記念特別展、公開講座を行います。
横浜黒船研究会に集まる方は相対的に高齢者が多いのですが、ぺりーも横浜に来た時60才でした。
  「横浜黒船研究会の紹介」    詳細
パンフレットの「開催の主旨」に代表の羽田壽夫が述べております。船や軍艦の研究をする会ではありません。神奈川一円を舞台とする、対外交渉史、文化交流史、などを研究する趣味の会です。
  「地元の行事」    詳細
地元経済界では、「近代日本開国・横浜開港150周年記念事業推進協議会」を設立しておられます。会長の高梨昌芳さまが述べておられますように、2009年の「横浜開港150周年」まで盛り上げて行かれます。今回の私どもの記念行事に対しても、多数の団体様にご後援をいただきました。また33社に及ぶ地元企業様に特別協賛をいただきました。


  「実行委員会」    詳細

ぺりー提督横浜上陸・日米交流150年記念事業実行委員会について」で土井修が述べております通り、今回の会は横浜黒船研究会員による手づくりです。しかもこのような大会を市民の集まりがやるのは、横浜では初めてです。
  「祝電をご披露」
ペリー来航の記念シンポジウム・記念音楽祭が、此処、ミナト横浜で開催されることを 心よりお祝い申し上げます。
主催団体の皆様の一層のご発展とご活躍をお祈りいたします。            横浜市長 中田宏
「主催者挨拶」    詳細
主催者である神奈川新聞社、神奈川テレビ、新聞博物館、および横浜黒船研究会を代表して、
神奈川新聞社 論説主幹     加藤 隆

「ペリー来航があたえた外圧だけでなく、好奇心を目覚めさせたことに注目すべきだ。」

「基調講演」    詳細
司会    横浜黒船研究会実行委員    斎藤 彬

麗澤大学教授 評論家      松本 健一
「ぺりー来航と横浜世界史デビュー」
 
 

開国の恩人は象山と虎三郎   (神奈川新聞 4月30日記事より、以下同様)
1842年、アヘン戦争でイギリスに敗れた中国(清朝)は領土を割譲されました。その翌年に数え二十五歳で老中に抜擢された阿部正弘は「日本でアヘン戦争のような事態が起ってはならない」と憂慮し、漢学の思想家で兵学にも優れた見識を持つ佐久間象山に日本の海防・外交戦略はどうあるべきかを諮りました。 象山は幕府に提出した「急務十条」の中で「夷の術を以て夷を制す(西洋文明の術を手に入れ西洋に負けない国づくり)」を主張。阿部をはじめとする幕閣の外交に対する考え方はこのころから変り始めました。

10年後の1853(嘉永六)年、浦賀沖にペリーが来航。老中首座(現在の首相)となっていた阿部は、当時の開明的な人材を海防や外交の第一線に登用して難局を乗り切り、翌年日米和親条約を締結します。それは日本の独立を守った「開国」でした。
折りしも幕閣は、来るべき日米修好通商条約締結(1858年)を視野に置きながら,下田、箱館(函館)、長崎の三港を開港しようとしていました。このとき下田ではなく「横浜開港」を強硬に主張したのが象山でした。 「「開港場」には大勢の外国人が居住し、しかも武器を保持している。もしも反乱が起ったり、密貿易が行われた場合、下田では幕府の目が行き届かない。そんな場所に港を開いてはならない。その点、横浜は江戸から半日ほどの距離。交易、治安、軍政上での利点は大きい」と。
開国・開港当時の日本には、喫水線の深い西洋型船舶が停泊できる水深の港は少なく、横浜はそうした港の構造上のニーズにも応じられる「地の利」があったのです。
しかし、当時の象山は幕閣に上申するパイプを持っていませんでした。象山は、弟子で後に「米百表」で名をはせた小林虎三郎に「横浜開港の建白」を書くように勧めます。小林の主君である 長岡藩主が海防担当の老中を務めていたからです。その建白が功を奏しました。  1859年の開港を機に、人口わずか千人程度の寒村だった横浜は150年間で350万人の大都会に発展しました。その恩人は、国論が揺れる中で横浜開港を主張した佐久間象山と小林虎三郎だったと思います。


 
 

 


「話題提供 1」    詳細

幕末史家 横浜黒船研究会    土居 良三
「ペリー来航時の老中首座阿部正弘・堀田正睦と日本の開国」
 
不平等条約の非難あたらず
ぺりー来航時の老中首座だった阿部正弘はペリーが浦賀から去った後、在府大名に総登城を命じ、開国の是非を問います。このとき、堀田正睦は「開国して十年後に日本の利益であれば、そのまま続け、不利益であったら打ち切ればいい」と積極的開国を唱えています。 その二年後に老中首座となった堀田は開国の実現に動き、1858(安政五)年にアメリカ領事ハリスと日米修好通商条約を締結しました。 その内容は明治以来、不平等条約であると幕府は非難されていますが、日本に有利な面もありました。まず、外国人に日本国内旅行を許しませんでした。アメリカの商人は日本国内の情勢を自分の目、足で確認できないため、日本人相手の商談には不利だったわけです。  日本商人に5%の輸出税を課したこともポイントです。課税は外国商人との競争に不利だからと”親切に”反対するハリスに、新しく輸出という販路が開けてもうけのチャンスを得た者が、その一部を税金として幕府に納めるのは当然だと主張。それだけ幕府財政が潤うことになりました。
「話題提供 2」    詳細
地域史家 横浜黒船研究会代表代行    草間 俊郎
「日本最初の洋上ディナーと日米接待合戦」

我が国最初の洋上ディナー
1854(嘉永七)年、日米和親条約締結の前後に繰り広げられた「日本最初の洋上ディナーと日米接待合戦」は興味深いものがあります。 日本側(幕府)の接待は形式的迎賓の意味合いが濃かったようです。しかし、本膳料理も何度か振るまわれ、茶や黒塗りの菓子膳でアルヘイ、カステイラ、ようかんが、その後に吸い物、煮魚、酢ガキ、酒などが出されました。豪華料理で将軍の力を誇示したかったのかも知れません。 アメリカ側の洋上接待は日本人を魅了しました。ペリー主催のポーハタン号でのパーティーでは、パリで修行した料理長がニューヨークの一流レストランに匹敵する料理を一週間もかけて準備したそうで、牛肉や羊肉などをごちそうするために、牛や山羊を船内に飼育していたといわれています。しかも、宴会中に軍楽隊の演奏を披露、帰途に水兵にショーをさせるなどで盛り上がったようです。  客の水戸藩士の菊池冨太郎が、包丁で切ってくれた牛肉や牛の舌を「第一の味」だとし、甘酢の酒、薄黒い酒を飲んだと記している史実も残っています。


 
 

「話題提供 3」    詳細

日本郵趣協会理事長    松本 純一
「幕末・明治初年の日本と欧米間通信交通事情」

飛脚の時代に「領事館郵便」
幕末から明治初めごろの日本と欧米間通信交通事情ですが、開港地には、各国の外交館が開設されました。これらの公館は建設時から本国との間で公文書を授受していました。そして領事館が公文書と併せて民間の書信も取り扱うようになり、これを「領事館郵便」と呼びました。これらの郵便機能を「在日外国郵便局」と総称しています。  日本国内がまだ民間の飛脚の時代であったころ、日本と欧米世界との間のほとんど唯一の通信手段であった在日外国郵便局の歴史的意義は大きいと考えます。郵便物の九割は、貿易商の商業通信でした。  日本と欧米世界との郵便輸送手段は郵便船でした。イギリス(1863年)とフランス(1865年)が定期航路を開設していました。アメリカは南北戦争という国内事情から極東航路への進出が遅れましたが、1867年に定期船第一号が横浜に入港しています。 その後、スエズ運河の開通や欧米諸国での鉄道の発達で新しい郵便物ルートが可能になり、郵便輸送はぐんとスピードアップされました。

「話題提供 4」    詳細
横須賀開国史研究会会長 横浜黒船研究会    山本 詔一
「横須賀から見た横浜開港」

浦賀奉行所の役人らが活躍
1854年(嘉永七年一月十六日)、再来航したペリー艦隊は浦賀沖には停泊せず、横浜の金沢・小柴沖まで進み、ここで停泊したのです。金沢沖は浦賀からあまりに距離があるので、浦賀沖まで戻るように説得することから交渉はは始まりました。しかし、ペリーの答えは「NO」。翌日には浦賀奉行所副奉行格の黒川嘉兵衛が金沢沖に出向き、説得しましたが、ペリーの姿勢は頑固なものでした。  二十五日、幕府の再三再四の要請に応じてアダムス参謀長が浦賀を訪れ、応接掛の林大学らと会見しましたが、議論は平行線のままでした。しかも、一度目の来航でペリー側に最も信頼の厚かった香山栄左衛門が一度も顔を出さないことに不満げだったのです。翌日、香山は応接掛の命を受けて交渉の仲介をすることになりました。  二月一日、香山とアダムスの会見で、やっとのことで横浜を応接会談の地とすることを合意決定。この日から日米和親条約が締結される三月三日まで、林大学らの幕府全権とペリー側の会談が始まりました。このように、日米和親条約締結の舞台裏で活躍したのは、香山をはじめとする浦賀奉行の役人たちだったのです。


 
 

「話題提供 5」    詳細

元三菱重工業長崎造船所長 横浜黒船研究会    福田 征孜(知事から長崎奉行を拝命)
「長崎から見た横浜開港」

ヤーパン号で3恩人が来日
横浜開港直後までの三百年間、長崎は海外貿易で繁栄しました。横浜開港は、日本の国際貿易都市の主役交代だったと思います。 浦賀沖に停泊したペリー艦隊は威厳を示して国書を提出し「回答は一年後に」と言い残して帰ってしまいました。ここに国外追放となっていたドイツ人医師のシーボルトが関係していたことはあまり知られていません。  シーボルトは愛する妻タキと娘イネの住む日本を思い、ペリーに手紙で助言を与えていたのです。日本に行ったら「幕府が引き延ばしても、人道的に交渉すべき」「回答は一年待つべき」と。日本人は「一年待つとYESになる」という意味のことを伝えています。その助言を守ったのでした。  幕府は海軍創設に向けて軍艦を手に入れるため、オランダに造船を依頼しました。1857年、そのヤーパン号(後の咸臨丸)に三人の恩人が乗船してきました。船長のカッテンディケは勝海舟を薫陶し、軍医官のポンペは日本の近代医学の礎。機関士官のハルデスは長崎造船所を建設し、日本の重工業の礎を成したのです。

発表内容は福田個人ホームページにも掲載しています。


 
 
 
 

「パネルディスカッション総括」

横浜黒船研究会代表    羽田 壽夫

新しい思想が日本の中に熟成されていた。そしてペリー来航により新しい潮流が横浜から始った。

門閥、上意下達の崩壊    松本健一先生のまとめ
幕末は日本の風景がすべて変わっていった時代だと思います。欧米の新しい文化・文明が流入してきたわけですが、それらが即座に日本の近代化につながったというだけの問題ではありません。 例えば、欧米文化・文明を受け入れるためには通訳の能力がある人材が必要になってきます。能力のある人材が登用される時代、つまり江戸時代の世襲制による門閥制度が崩れ去るという革命が起っていたのです。そうした新しい潮流が横浜から始まっていたわけです。 近年になって老中首座阿部正弘の評価も変わってきています。アメリカ大統領の国書やペリーの書簡を諸大名や旗本に公開し、そこに記されている「開国と通商」についての意見を諮問し、その答申は都合700にも上がりました。まさに江戸幕府で250年間続いた上意下達体制の革命であり、情報公開と民主主義政治の先駆けとも言える英断だったのです。日本が自ら変化していった時代です。自己変革という大きな流れは今に通じるものであり、「歴史はまさに現在の物語である」といえるのではないでしょうか。


「シンポジウム閉会」    総合司会    福田 征孜

ぺりーは1853年7月8日に浦賀沖に姿を現しましたが、アメリカを出発したのは1852年11月24日で、半年以上かけてはるばる来てくれました。日本からの回答を待って香港や上海に居まして、一年は待たずに半年待って1854年3月31日に横浜のこの近くで日米和親条約を調印しました。下田から帰途についたのが、6月25日です。ぺりーがニューヨークに帰り着いたのは1855年1月11日で、2年を越える旅でした。ペリーはお土産に蒸気機関車や電信機などを手配し、フランス料理人とイタリアの軍楽隊を連れてきました。そして「好奇心」を目覚めさせてくれました。

砲艦外交と云われますが、(日本の砲台は丸い玉で400メートル、ぺりー側は3.5キロメートルとは云っても)一発も実弾は撃っていません。ワシントンの誕生日を祝って18発とか祝砲を盛んに打ちました。予め幕府に伝えています。空砲に驚くような日本だったのかどうか。「泰平のねむりをさますじょうきせん たった四はいで夜も寝られず」は明治10年頃の作で、ペリーが来てから25年後です。夜も寝られなかったのは、好奇心のためでしょう。150年経った今日、事実に基づいて見直しました。

好奇心に目覚めた日本は、近代国家として世界の強国になり、世界一の経済大国になりました。そしてグローバル化に向って新たな改革に取組んでおります。起点となったぺりーの横浜上陸をお祝いし、横浜から新たな好奇心を呼び起し、横浜ひいては日本の発展に取組みましょう。
 


 
 
 

 
 
第2部    記念音楽祭(17:00〜18:20)

                                                     詳細
 
 
 
 

「記念音楽祭司会」  間々田正子

ヤンキー・ドウドウル

有名なアメリカの愛国歌で独立戦争以前から今日まで二世紀以上にわたって親しまれている。
曲は18世紀中頃にアメリカ植民地に住んでいたイギリス人の作曲ではないかとされている。当初は植民地に駐留するイギリス軍が野暮ったいコロニーのアメリカ人を嘲笑する歌であった。
  ここに面白い伝説がある。独立戦争初期の1775年4月、パーシー公率いるイギリス軍がボストンからレキシントン・コンコード方面へ出撃した時、ヤンキー・ドウドウルの旋律に合わせて行進して行った。しかし同軍はコンコードで遭遇した植民地のアメリカ軍に大敗し、ボストンは敗走した。今度は植民地軍がヤンキー・ドウドウルを歌いながらこれを追走したので、この時から嘲笑の歌が一転してアメリカの愛国歌になったという。


 
 
ヘイル・コロンビア

1793年、ニューヨークの劇場オーケストラの指揮者であったフィリップ・フィルにより初代大統領ワシントンの栄誉を賛える行進曲「プレジデンツ・マーチ」として作曲された。
  1798年アダムス大統領の時イギリスとフランスは戦争中であり、アメリカはイギリスから同盟を結んでフランスと戦えと、又フランスからは同盟を結んでイギリスと戦えと要求され、しかも両国共に要求を拒否すればアメリカの独立国としての権利を認めないという厳しい態度であった。 しかもフランスとの和平交渉は世に云うXYZ事件の発生もあって決裂し、アメリカは参戦か中立かで国内を二分する激しい論戦を繰り広げていた。
  こうした情勢を見て俳優のギルバート・フォックスは予定していた彼の公演で何か愛国的な新曲を発表すれば大成功すると考え、旧知の詩人ホプキンソンンに「プレジデンツ・マーチ」の旋律に合わせた作詞を依頼した。ホプキンソンンはすぐ「ヘイル・コロンビア」を作詞し、フォックスが公演で発表すると予想通り大ヒットとなった。戦うか、さもなくば独立を失うかという国難に襲われた未だ誕生したばかりの国アメリカの国民はこの愛国の心情溢れる詩に感動し、たちまち全米に拡がって愛国歌となったのである。
  なお、ヘイル・コロンビアは作詞、作曲共にアメリカ人による初めての愛国歌である。


 


 
 
 
 


 
 
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