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なぜ人を殺してはいけないのか その2

1 :考える名無しさん:2008/06/22(日) 02:09:14 0
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1210185908/ の続き

テーマ なぜ人を殺してはいけないのか

16 :考える名無しさん:2008/06/22(日) 21:48:30 0
まず、「なぜ、何かをいけないというとき、それが必ずルールであるか、普通に考えてみないんだ?」と繰り返した通り
「〜はいけない」が、当然ルールをあらわしているという考えはおかしい。「〜はいけない」という表現は、例えば
「(スナック菓子に入っている乾燥剤を)たべてはいけない」のように、単純にある不利益を念頭において、その不利益を
避ける行為を示すために使われる。

つまり、「殺される」ことに付随する不利益を避ける必要性があるなら、「人を殺してはいけない」と指示する理由は
当然ある。これは、人、殺す・殺される、いけないという言葉の意味を正しく使うならば、覆しようの無いことだ。
正しく使わなければ、デタラメな結論を出すことはできるが、それは、言葉を間違って使うことができることを示すにすぎず、
人を殺してよいと論じたことにはならない。だから、>>1への答えは、殺されることによって生じる不利益を指摘すれば、
それでよいといえる。

「〜はいけない」が一般的にルールとして成り立つのは、そういう不利益が一般的に認められるからだ。人は、どういう表現を
とるにせよ、「殺される」ならば、「殺される」ことに不利益が付随すると考えるので(わざと死ぬ決断をすることがあっても、
そこに痛みとか、生きているという状態でなくなることに伴う不利益は観念できるので)、一般的ルールとして「人を殺しては
いけない」は成り立つ、と考えられるのだ。

あるときに人を殺す・殺した人間が存在することは、上のように成立することを妨げない。誰かが人を殺す選択をしたとしても、
その者が殺されることに伴う不利益を観念できないことにはならないからだ(むしろ、それが観念できる(人を殺してはいけない
ことを理解している)から、人を殺すという判断に至りうるとすらいえる)。また、当然だが、殺す側が殺される不利益以外の
利益を観念している事実は、殺される不利益があることを否定する理由にはならないので、やはり「人を殺してはいけない」という
ルールを否定しない。

17 :考える名無しさん:2008/06/22(日) 21:49:28 0

同様に、殺されることに伴う不利益を観念していない人間や、自分が殺されることに伴う不利益を否定する人間を想定したとしても、
一般的なルールとして「人を殺してはいけない」が成立することは妨げられない。それらは、殺されることに伴う不利益に関する判断の
合理性の否定になっていないからだ。

人が〜しない事実からみたとき、「〜してはいけない」というルールは、人が〜しない事実を形づくる一要素であり、
「〜してはいけない」を、それに反する判断「〜する」と対置した関係に限定して、「〜してはいけない」かどうかを考えるのは、
問題の処理の仕方に関する、論理的な誤りにすぎない。


18 :考える名無しさん:2008/06/22(日) 21:55:10 0

745 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2008/06/13(金) 11:38:53 0
>>742
まず>>682を読んで貰いたい。
この場合ある不利益を念頭に置いて「〜してはいけない」と考えた人が存在するわけだ。
この時点で少なくとも誰か(表現した者)の念頭においてはルールとなっている。
「ルール」とは、ある個人のみがルールとしているものも「ルール」であるが、
法のように大抵の人々がルールとしている「一般的なルール」と個人の「ルール」は併存している。
法、宗教、慣習等、「一般的なルールA」「一般的なルールB」「一般的なルールC]と
「個人特有のルール」は同時に存在しうるものであって、
それぞれ何らかの利益・不利益という理由から定められたものであろう。
>>1を見ると、一般的なルールの種別も、誰にとってのルールについて尋ねているのかも指定されていない。
そこで、
>>1への答えは、殺されることによって生じる不利益を指摘すれば、それでよいといえる。
これは適切な答えの一つであると言っても差し支えなかろう。
しかし、どんな一般的なルールも個人のルールが根本にある事を考えれば、
個人のルールから始めて法律等の一般的なルールへと説明していった方が聞き手にも納得され易かろう。
また、どんな一般的なルールも個人のルールがあって成立した筈であるから、
個人のルールのような原初的な所から考えた方がいいのかもしれない。


19 :考える名無しさん:2008/06/22(日) 21:56:21 0

946 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2008/06/17(火) 11:41:43 0
>>945
あるルールが存在している理由と、自分がそれを守るかどうかは、全く別問題。
「人を殺してはいけない」というルールについて言えば、

1.自分以外のすべての人間が、自分がそのルールを守ることを望んでいる、
 という認識がもたらすプレッシャー。
2.その背後にある刑罰という物理的精神的不利益。
3.そもそも、「人を殺したい」という欲求や、目的を達成する手段として
 人を殺す必要性自体が、あまり一般的なものではない。

等の理由で、守る人の方が多い。無論、上記の理由を押し切って人を殺して
しまう人もいる。しかし、それと「人を殺してはいけない」こととは関係ない。

ちなみに、そういう人は「人を殺してはいけない」ことは承知の上で殺して
いるのだから、殺人犯に対して「なぜ人を殺してはいけないのか」について
説教するのは、全くの無駄である。むしろ
1.人を殺すといかにひどい報復を受けるか思い知らせる。
2.人を殺したいという欲求が起こらない方法(または起こっても我慢する方法)
 を教える。
3.人を殺す以外の方法で目的を達成する方法を教える(具体的には
 仕事や住居を確保して強盗の必要がないようにするとか)。
などの方が、ずっと有効である。


20 :考える名無しさん:2008/06/22(日) 22:02:50 0
哲学上の上だけで考えるならば、
人間は一人では生きて行けないため、統合し集団で生活していかなければならない
人を殺すということはその統合と集団を破壊するものであるし、生産性をも失うものである

例えば、平和を求めて戦争に行くということは、
幸せで豊かで平和的な生存と共存を求めて、自分の生存は基より他人との共存を奪う極めて矛盾した行為である
その為、人を殺すということは哲学上は金わ目手不自然であり、生そのものを実は求めていないのだという証左だと言える

従って、人を殺してはならないのだ
ただ、殺してはいけないというよりは、
人が矛盾を犯してはならない理由、或いは人が生を求めてはいけない理由を導き出さなくてはならないと思う

21 :考える名無しさん:2008/06/22(日) 22:05:38 0
★前スレについた、有益な回答を引用した

>>16-17:前スレ682-683
>>18:前スレ745
>>19:前スレ946(682-683の補足的レス)


★以下「なぜ人を殺してはいけないのか」スレが立つ事情への言及:

825 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2008/06/14(土) 18:11:49 0
前からこの手のスレは哲学板に定期的に立つけど、基本的に「殺人できる」
ことを合理化してスカッとしたい人と、悪ふざけしてる人が集まりやすい傾向があると思う。

「哲学」は、合理化する動機(実存的不満)をカモフラージュするのに都合のいい道具で、
まれに682-683(注:>>16-17に引用)や745(注:>>18に引用)のような意見が書かれて合理化が危機に
陥ると決まって呼び出される。(中略)

せいぜい3人程度の頭のおかしい人が、しつこくまわしてる感じだよ。もちろん長い目でみれば
中の人は変わってるだろうけど。(以下略)


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