誰が御霊(みたま)を汚したのか

「靖國」奉仕十四年の無念

あの総埋大臣の無礼な公式参拝は忘れられない。
政治権力との癒着を後任に戒め、私は職を離れた。

    この三月で靖國神社のほうを引かせていただきました。十三年九カ月、ほぼ十四年間、ご奉仕させていただいたことになります。宮司を仰せつかったのが昭和五十三年、あとでまた申し上げるかもしれませんが、当初はお断りしつづけた。ところがどうしても逃げきれなくなって、お引き受けしたときに定年制を採用したのです。宮司は七十三歳、権宮司七十歳、禰宜以下は六十八歳ー。と申しますのは、「トップは十年」というのが私の持論でして、十年以上同じトップが続くと、人事や運営にどうしても偏りができてしまう。当時、私は六十三歳でした。それで宮司の定年を七十三歳にしようと(笑)。ところが十年の予定で始めた整備計画でお社の修築が意外に長びいたり、次にお願いする宮司さんを探したりで、持説通りには参りませんでした。
    私は神職の出ではございません。もともとはエンジニアです。戦前生まれで、松平とか徳川と付きますと、「宮司さん、学習院でしょう」とよくおたずねになるんですが、通いましたのは、靖國神社の隣組の暁星です。それは父の教育方針によるものでした。学習院ですと、教師は身分上は宮内官史ですから、お若い殿下方や華族の息子・娘にたいし、教育者として言うべきことをピシピシ言っているのかどうか。生徒は生徒で、多くの使用人に傅(かしず)かれ恵まれた育ち方をしている子が多い。そういう中に男の子はやれない、ということでございました。その点、外国人の経営する学校は「l+1=2」以外に、躾や人問教育もしてくれるだろうと。それで暁星に入れられたのです。またそのころの暁星は、カトリックでありながら、キリスト教臭の全くない、秀れた学校でした。
    晩星中学から海軍機関学校を経て、艦隊や陸上部隊勤務で南方におりました。戦後は、自衛隊ができるとともに、考えるところがあって陸上自衛隊に入ったのです。若い現役のころから陸海軍の将校教育に非常に批判的でありまして、自衛隊がまた誤らないように、どうしても設立当初の防衛大学校の教官にしてほしい、陸でも海でもいい、そう願っていたのが一つ。もう一つは、私の父(松平慶民)は、戦後のもっとも厭な時代に宮内大臣を仰せつかりまし
た。赤旗を押したてた群衆が「天皇の台所を見せろ」と叫んで、皇居に入り込んでくる。そんな時代で、苦慮する父の姿を身近に見ておりました。皇宮警察は宮内大臣直轄から警視庁に移る。人員は削滅される。むろん近衛兵はいない。それで、いざというとき皇居を守護するためには、海の上でプカプカ浮かんでいるわけにはいかない。まァ、そういったことも考えて、海軍出身のくせに陸上自衛隊に入った次第です。その自衛隊を定年になり、旧藩地の福井から、市の博物館へ来てくれというので参りました。ですから海軍から陸上自衛隊ヘ、そして博物館館長、それでいきなり宮司と。何が本職だか分らない(笑)。そのような経歴ですので、神職を養成する学校へは行つておりませんし、講習も受けていない。自ら"無免許宮司"と称しておりました(笑)。
    なぜ、そんなことができるかと言いますと、靖國神社は単立の神社で、神社本廳には属していない独立王国なんです。神社本廳は人事権も全くもっていない。靖國神社は戦後、国の手を離れ、やむをえず宗教法人になりましたが、法人として認可された靖園神社現則というものがあり、さらに社憲というものがある。この現則と社憲によって運営されていまして、宮司の任免については、宮司推薦委員会によって推された人間が、総代会で認められればよいことになっております。別に神職でなくてもかまわないわけです。前の宮司が亡くなったのが、五十三年の三月でした。その後釜にと私を口説かれたのが元最高裁長官の故石田和外先生で、「宮司になれ」「いや、ならない。絶対、そういう大役はお受けできない」と、さんざん逃げまわったのですが、四カ月目にとうとう、不譲慎ないい方ですが、無埋やり押し込まれてしまいました。
    私は死所を得ないまま、今日まで生き残った軍人ですし、ご奉仕するからには、命をかけてさせていただくけれど、自分は「経営」というものを一度も経験したことがない。それが、私が固辞した一番の理由でした。この神社は先細りになることが分っている神社なんです。やがて、ご遺族、戦友がいなくなる。おまけに「国家」を大切にする教育は、戦後一切されていない。先細りは目に見えている。そういうお社の責任者に、経営経験のないものが就くべきじゃない。そう考えてお断りしつづけたわけです。
    しかし、結局、お引き受けせざるをえなくなりました。もっとも家の宗旨は神道ですし、また自衛隊で防衛庁の戦史室に長くおりましたのも、靖國神社でご遺族との応接、御祭神調査などに大いに役立ちはいたしました。



 軍人だけではない御祭神

    靖國神社について、名前はよく知られていても、実際のところはご存じない方が多いんですね。それで簡単に申し上げますと、御創立は明治二年、いまの御本殿ができましたのが明治五年でございます。いわゆる戊辰戦争で亡くなった方の御霊(みたま)をお慰めするというのが元で、そのときの戦死者が三千五百余柱。以後、明治、大正、昭和と、大東亜戦争にいたるまで、現在、二百四十六万六千余柱の御霊が祀られております。
    軍人・軍属の方だけではなく、一般の方でも、軍の命令でその場を離れることができないで亡くなった方は、みな御祭神としてお祀りされているわけです。ですから女性も五万七千余柱いらっしゃるし、少年少女も祀られております。例えば、国家の方針で、沖縄から鹿児島へ疎開する途中、撃沈された対馬丸に乗っていた千五百名の生徒・父兄、ひめゆり部隊や従軍看護婦、終戦後のソ連軍の侵攻を内地に通報し、「みなさん、これが最後です。さようなら」の声を最後に命を絶った樺太真岡の電話交換手たち。こういう方々も全部お祀りされております。それから吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作といった、暮末に国に殉じられた方々も祀られております。
    ただし、残念なのは、満州事変以降は、殉職者も戦死者扱いということで合祀されておりますが、それ以前は「戦いに於いて」殉死した、という規定があったものですから、八甲田山で訓練中遭難死された兵士たちや、われわれ年配には「修身」で親しい佐久間艇長などは合祀されていないのです。あるいは、官軍に刃向かったというので、日本人なら誰もが心をうたれる白虎隊や西郷さんが祀られていない。いろいろ矛盾があって、心を痛めるのですが、いまとなっては、如何ともしがたいのです。
    ともあれ、そういったお社の性格、御祭神のことをご存じないものですから、いわゆるA級戦犯合祀が間題になりましたとき、相当なお年で、地位も教養もある方でさえも、「なぜ文官の広田弘穀を祀るんだ」とか「東郷元帥や乃木大将が祀られていないのに、束条英機を祀るとはけしからん」といったお門違いの詰間をされました。実に認識不足です。中には「靖國神社から遺骨を返還せよ」と唱えた人もいて、余りのことに唖然とするだけでした。



 創建の姿のままに

    私は大正四年生れで、大東亜戦争の開戦が二十六歳、終戦がちょうど三十歳です。われわれの同期は、まだ生き残りのほうがちょっと多いんですが、その下の下あたりになると、戦死者のほうが多い。大正世代が一番矢面に立ったわけです。靖國神社に参拝に来る戦友会の一つに「のらくろ会」という集りがありますが、われわれは中学生のときに『のらくろ』を愛読した。こののらくろ世代が一番戦火の失面にさらされているんですね。軍人出の宮司ですから、当然、多くの同期生や戦友、上司や部下がお祀りされていますので、日々のご奉仕は極めて深刻なものでした。
    そこで宮司になって考えましたのは、何か決断を要する場合、御祭神の意に添うか添わないか、ご遺族のお心に適うか適わないか、それを第一にしていこうということです。
    靖國神社がよそのお社と異なるところは、『古事記』や『日本書紀』に出てくる「何々の命(みこと)」といった古くからの神様をお祀りしているんじゃない。自分の父親や兄弟が祀られている、わが子、わが夫が祀られている、そういう神社だということです。今でもしばしば見かけますけれど、昇殿ご参拝なさった方が目頭にハンカチをあて、涙を拭われる。伊勢神宮や明治神富、これらは日本国民にとって最も大切なお宮ですが、お参りして涙を拭うという光景はまずないでしょう。ところが靖國神社は、ご自身のご縁のあった御霊がおいでになる。そこで語らいをされ、涙を流される。それが特色だと思うんです。私は〃無免許宮司〃ですが、祭式は、所作が決ってますので、習えば苦にならない。あの装束だって、どうせ百年前は、われわれの祖父たちが着けていたような衣裳ですから、違和感はない(笑)。一等の間題は、ご遺族と相接するとき、どうしたら一番お気持にお添いできるか、ということでした。
    例えば、祝詞は、大きな声で奏上するようにいたしました。一つは、靖國神社では二百四十六万余の大勢の神々に聴いていただかなければいけない。と同時に、うしろに何百人かのご遺族、戦友が控えておられる。その方々は、宮司が自分たちの身内なり戦友だった神々に、どういうことを奏上しているのか、お聴きにならなければいけない。そんな気がしましたものですから、できるだけ大きな音声で区切りを付けて奏上しました。もっとも、もともと声は大きいほうですけれど(笑)。在任中、視詞奏上のとき声がかすれたり咳をしないように、特に風邪には気をつけました。
    もう一つ、宮司になった以上は、命がけで神社を御創建の趣旨に違わず、また本来の姿で守ろうと決意したのです。
    断じて譲れないことが三点あります。
    まず、日本の伝統の神道による祭式で御霊をお慰めする。これが一つです。
    第二に、神社のたたずまいを絶対に変えない。われわれは「靖國で会おう」「靖國の桜の下で再会しよう」と誓い合って戦地に赴いたのです。そのときのお社の姿、現在の姿ですが、これを変えるわけにはいかない。たとえ何百億円寄進するから日光束照宮のような壮麗華美な社殿にしてくれといわれても、絶対に肯けない。
    このたび、御本殿も全解体修理しましたが、私が固く言い渡しましたのは、これは「改修」ではない、「修築」なんだと。板の一枚、柱の一本にいたるまで砂擦(すなず)りをして綺麗にしてもらっては困る。布で洗うだけにしてほしいと。御創建以来、百数十年経っていますので、雨漏りで腐ったようなところが多少はある。そこだけ新しい部材を補充し、大部分は御創建当時の材料でガタの生じた所を締めつけて再建したわけです。
    御本殿と回廊と拝殿は神社の重要部分、中心部分です。この姿はどうあっても変えない、それが第二の決心でした。
    第三に、社名を変えない。当り前だと思われるかもしれませんが、「靖國廟」にしろという意見も以前からあったんですね。しかし初めは招魂社、明治十二年に明治天皇様の思召によって「別格官幣社 靖國神社」となった。この社名はどんなことがあっても変えられない。
    そういう方針で臨んだわけでございますが、就任早々、「国家護待」反対を唱えたのと、いわゆるA級戦犯を合祀したので、大変な攻撃を受けることになりました。



 「国家護持」に断乎反対

    「国家護持」という言葉は戦後誰が言い出したのかは存じませんが、全国の戦友会や遣族会の方々が、何百万何千万という署名を一所懸命集められた。そして国会に何度か法案が提出されたものの、ついに通らずに廃案となった。いわば戦友会、遺族会の悲願中の悲願だったわけです。しかし私は断乎反対いたしました。というのは、「靖國法案」をよく読むと、靖國神社という名称こそ残すものの、役員である理事長などは総理が任命するし、宗教色はなくせというのです。法制局の見解によれば、祝詞は感謝の言葉にかえ、降神、昇神の儀はやめる。修祓も別の形式を考案し、拝礼も自由にするという。つまり、政府はカネを出すかわりに政府が牛耳る。靖國神社と称するものの中身は神社ではなくなってしまうんです。
    ところが、戦前派の人たちは、法制局がいじくった法案なんか目を通しませんし、国家護持といえば、今のままの姿の靖國神社を国が守ってくれると、日本人らしい純粋な気持で信じている。そこへ当の靖國神社の宮司が反対を打ちあげたものですから、すごい反撃でした。
    しかし、人からおカネをもらえば、胸を張って言いたいことも言えなくなります。政府の庇護を受け、それに縛られていると、とんでもない政権が現われ、どんな目にあうか分らない。それに、村や町のお社だって、お祭りとなれば、氏子がめいめいに寄附するから、自分たちのお宮だという意識が生れる。これがすべて町費でやるとなれば、そうはいかない。だから靖國神社も、戦前と異質な戦後の国家による国家護持では危険なので、国民護待、国民総氏子でいくんだと、私は繰り返し申し上げた。それがだんだん分っていただけるようになったのは、結構なことだと思っています。
    誤解がありまして、戦前はすべて国費によって運営されていた、国家護待されていたという人がいる。しかしそんなことはないんです。経理部長に命じて、明治の初めからこれまで百十数年の経常収支を棒グラフにしてみたんですが、それを見ても、戦前も、ほとんどが国民のお賽銭や寄附で賄われております。国庫からは供進金、大正になって寄附金という形で奉納されていますが、大部分は、いわゆる社頭収入によるものです。
    ただし御祭神の決定は、何といっても戦死者の御霊ですから、他では分らない。陸軍、海軍でやっていた、という次第です。戦前から国民総氏子のお社なんですね。
    それから、いわゆるA級戦犯合祀のことですが、私は就任前から、「すべて日本が悪い」という東京裁判史観を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考えておりました。それで、就任早々書類や総代会議事録を調べますと、その数年前に、総代さんのほうから「最終的にA級はどうするんだ」という質間があって、合祀は既定のこと、ただその時期が宮司預りとなっていたんですね。私の就任したのは五十三年七月で、十月には、年に一度の合祀祭がある。合祀するときは、昔は上奏してご裁可をいただいたのですが、今でも慣習によって上奏簿を御所へもっていく。そういう書類をつくる関係があるので、九月の少し前でしたが、「まだ間にあうか」と係に間いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に、思いきって、十四柱をお入れしたわけです。巣鴨で絞首刑になられた東条英機(元首相・陸軍大将)、板垣征四郎、土肥原賢二、松井石根、木村兵太郎(以上、陸軍大将)、武藤章(陸軍中将)、広田広穀(元首相)の七柱。それに囚われの身や、未決のままで亡くなられた梅津美治郎(陸軍大将)、小磯国昭(元首相・陸軍大将)、永野修身(元帥海軍大将)、平沼騏一郎(元首相)、松岡洋右(元外相)、東郷茂徳(元外相)、白鳥敏夫(元駐イタリア大使)とあわせて十四柱。
    その根拠は明白です。昭和二十年八月十五日に天皇様のご命令によって、われわれは一切の交戦行為をやめた。しかし、むこうが撃ち込んできたときは、応対せよという但し書がついていたんです。ソ連が十五日以降に千島列島に上陸したので応戦したのはその例で、相当な戦死者が出ています。
    九月二日にミズーリ号での調印があり、占領行政が始まる。そして二十六年の九月八日にサンフランシスコで平和条約の調印がある。その発効は翌二十七年の四月二十八日、天長節の前日です。
    ですから、日本とアメリカその他が完全に戦闘状態をやめたのは、国際法上、二十七年の四月二十八日だといっていい。その戦闘状態にあるとき行った東京裁判は軍事裁判であり、そこで処刑された人々は、戦闘状態のさ中に敵に殺された。つまり、戦場で亡くなった方と、処刑された方は同じなんだと、そういう考えです。
    そして翌二十八年の十六国会では、超党派で援護法が一部改正されました。それで、いわゆる戦犯死亡者も一般の戦没者と全く同じ取り扱いをするから、すぐ手続きをしなさいという通知を厚生省が出しているんですね。
    それまでの、いわゆる戦犯の遺族は、まったく惨めな思いをしていたんです。あまり知られていませんが、財産も凍結されていて、家を売って糧を得ることさえもできなかった。それを、終戦直後の園会には婦人議員が多かった関係もあり、彼女たちが先頭にたち、超党派で改正されたわけです。
    国際法的にも認められない束京裁判で戦犯とされ、処刑された方々を、国内法によって戦死者と同じ扱いをすると、政府が公文書で通達しているんですから、合祀するのに何の不都合もない。むしろ祀らなければ、靖國神社は、僭越にも御祭神の人物評価を行って、祀ったり祀らなかったりするのか、となってしまいます。
    役所用語でいうと戦犯で処刑された方は、「法務死亡者」というのですが、従来からの「維新殉難者」「幕末殉難者」と使っているのにあわせて「昭和殉難者」とお呼びしようという宮司通達を出しました。
    十四柱を合祀したときは、事前に外へ漏れると騒ぎがおきると予想されましたので、職員に口外を禁じました。しかし合祀後全く言わないと、これまた文句を言う人が出てくる。そこで合祀祭の翌日秋季例大祭の当日祭と、その次の日においでになったご遺族さん方に報告したわけです。
    「昨晩、新しい御霊を千七百六十六柱、御本殿に合祀申し上げました。この中に」−−ここを、前の晩、ずいぶん考えたんです。「東条英機命以下...」というと刺激が強すぎる。戦犯遺族で結成している「白菊会」という集りがありますので−−「祀るべくして今日まで合祀申し上げなかった、白菊会に関係おありになる十四柱の御霊もその中に含まれております」
    そういうご挨拶をしたんです。すると、白菊会の会長である木村兵太郎夫人が、外に出てくる私を待っていらして、
    「今日は寝耳に水で、私が生きているうちに合祀されるとは思わなかった」
と非常に喜ばれた。
    それから半月後に、十四柱のご遺族すべてに、昇殿・参拝いただきたいという通知を出し、お揃いでご参拝いただいたと、こういう経過でございます。そのころは、新間は知らなかったのか、一切騒ぎませんでした。半年後の春季例大祭の直前に、大平クリスチャン首相の参拝と抱き合わせで、いわゆるA級合祀をマスコミが大々的に取り上げ、大騒ぎいたしました。



 政治の渦中に巻き込まない

    私の在任中に、もう一件世間を騒がせたのは、中曾根康弘総理の参拝でしょう。昭和六十年八月十五日。「おれが初めて公式参拝した」と自負したいからか、藤波官房長官の私的諸間機関として「靖國懇」なるものをつくって、一年間、井戸端会議的会合をやりました。そして手水は使わない、祓いは受けない、正式の二礼二拍手はやらない、玉串は捧げない、それなら「政教分離の原則」に反しないという結論を出したのです。しかし、これは私に言わせれば、「越中褌姿で参拝させろ」というのと同じで、神様に村し、非礼きわまりない、私は認めないと言ったんです。そしたら遺族会やら英霊にこたえる会の方々に呼ばれまして、「折角、ここまできたんだから、宮司はゴタゴタいわないで、目をつぶってくれ」と、相当強く追られたのです。
    話は横道にそれますが、遺族会と靖國神社を一心同体のように見ている方々が大半です。しかし知る人ぞ知るで、私が宮司在任中は、多少ギクシヤクしていたと言ったほうが正直でしょう。遺族会はご遺族の年金をアップするとかで、やはり政治家に密接に関わっているし、私は靖國神社を絶対に政治の渦中には巻き込まない方針を堅待していましたので。だから「遺族会は政治団体に徹するのがいいい」と言って、また叱られたことがありましたが、遣族会が政治家と析衝するのは、遺族さんのために、一番大きな任務だと思うんです。事実靖國神社を支えているのは、圧倒的に個々のご遺族さんの力であって、その根源が遣族会のたゆみない運動の結呆であることを私は最もよく認識しているつもりです。一方、神社では「靖國神社奉賛会」というものをつくっておりまして、それは遺族会が運営しているのかと、よく質間されるのですが、違います。今日の繁栄に感謝する財界の大小企業、生残り軍人、有志国民による会です。
    話を中曾根参拝に戻します。遺族会などに「靖國懇」の結論を呑めといわれて、私が反論したのは、手水を便わないのはまあ宜しい。それは前もって潔斎してくるなら、中曾根さんの心がけ次第だ。玉串をあげない、二礼二拍手もしないでお辞儀だけ。これも心の間題で、恰好だけでなく、心から参拝するなら、こちらからとやかくいうことではない。それは譲ってもいい。けれども、お祓いだけは神社側の行うことだから受けてもらわなきゃ困る。火や塩や水で清め、お祓いするのは、日本古来の伝統習俗であって、これを崩されると、一靖國神社のみの間題でなく、地方でも中曾根方式を真似て、お祓いを受けないのなら知事は参拝しよう、そう言いだしかねない。それは神社参拝の本質を根底からくつがえす大きな間題だから、と反論したんですがダメなんですね。それで「分った」と。しかし、いずれにしろ、こういう形の参拝をさせていただきたいと総理サイドがら頼みに未られるのが神に対する礼儀ではないか、と主張しました。
    すると前日の十四日、藤波官房長官が見えたので、目立たないよう、奥の小さい応接間にお通しして、私は言いたいだけのことを言いました。天皇様のご親拝のご作法−−手水をお使いになり、祓いをお受けになり、それから本殿にお進みになって、大きな玉串をおもちになって、敬虔な祈りをお捧げになる−−それを全部やらないというのは、弓削道鏡にも等しい。そう靖國の宮司が言っていたとおっしやっていただきたいと、しかし、これは恐らく言われなかったでしょうね(笑)。それから、私は明日は総理の応接には出ない、泥靴のまま人の家に上がるような参拝は、御祭神方のお気持に反することで、「ようこそいらっしやった」とは口が裂けても言えないから、社務所に居て顔を出しません、それも伝えてほしいと。
    念のために申し添えますと、靖國神社の例大祭などへの総理参拝は、吉田首相以未あったことです。サンフランシスコ調印帰国直後の秋季例大祭に、占領行政下であるにもかかわらず、堂々と「内閣総理大臣吉田茂」と署名し、榊を供えておられます。その後、岸、池田、佐藤、田中と、歴代の総理が参拝しておられますが、吉田首相と同様の形式でした。八月十五日の終戦の日に参拝するようになったのは、昭和五十年の三木首相からで、肩書なしの「私人」として参拝した、などと言ったものですから、それ以来、参拝する閣僚などに「公人としてか、私人としてか」などと新間記者がにもつかぬ質間をするようになりました。
    私は、お偉い方でも心なき参拝者には、離れた社務所からスッ飛んで行くようなことはいたしません。しかし、年老いたご遺族が、特に地方から見えたら必ず知らせてくれよと奥の方の神職には言ってありました。
    それに、八月十五日だからといって、神社は特別なことをするわけではないのです。靖國神社には、新年祭や建国記念日祭といった他の神社と共通の、我が国の安泰を祈願するお祭り、そして春秋の例大祭、月に三回の月次(つきなみ)祭(一日、十一日、二十一日)といった、御霊をお慰めするお祭りと、いわば二通りございますが、八月十五日はいずれにも属さず、特別なお祭りはないのです。朝夕に神饌をお供えする朝御饌祭、夕御饌祭が厳粛にとり行われておりますが、これは三百六十五日、毎日行われていることです。ただ、八月十五日には武道館で全国戦没者追悼式が行われ、全国からご遺族の方が見えますので、参拝者の数が多くなります。マスコミも注目する。それで政治家も地元のご遺族方の参拝に合わせて来られるのでしょう。
    私は例年、八月十五目は、武道館のほうへ靖國神社の代表として招かれておりますので、モーニングを着て出席いたします。式が終って、出ようとしても出口が混雑するので待っている。その間に首相は、さっさと靖國神社へ回って参拝を終えるので、従来から八月十五日には全然首相とは対面していません。ところが、昭和六十年の鳴物入りの「公式参拝」私に言わせれば「非礼参拝」ですが−−そのときは、武道館での追悼式のあと、総理は、時間調整のため昼食をとられ、その間に武道館から退場したご遺族さんたちを神門から拝殿まで並ばせたんですね。その中を中曾根首相一行が参拝するという、ショー的な手配をしたのです。しかし善良なご遺族たちは「公式参拝してくれてありがとう」と喜んで拍手で迎えていました。私はすでに武道館から神社に戻っていたのですが、藤渡さんにも職員たちにも宮司は出ていかないと言ってあったので、出ていかない。社務所の窓からご社頭の状況を眺めておりました。ちょっと子どもじみておりますかね(笑)。
    ところが夕刊を見てびっくり仰天。これはしまったと思いました。参拝が終ったあとの写真が出ているんですが、中曾根総理、藤波官房長官、厚生大臣、それとボディガードが写っている。写真では二人しか写ってませんが、四人ついていた。
    拝殿から中は、綺麗に玉砂利を掃き、清浄な聖域になっているんです。天皇様も拝殿で祓いをお受けになって、あとは待従長などをお連れになって参進される。警護はなしです。
    だから、中曾根総理が、厚生大臣と官房長官を連れていくのは、幕僚だからそれは結構だ。しかしボディガードを四人も、自分を守るために連れていくのは、何たることだと思うわけです。靖國の御祭神は手足四散して亡くなられた方が大部分です。その聖域で、御身大切、後生大事と、天皇様でもなさらない警備つきとは何事かと、七年経った今でも無念の感情が消え去りません。
    先ほどの祓いの件は、拝殿に仮設した記帳台のまわりに幕をコの字型に張り、外から見えないようにして、署名のときに陰祓(かげばら)いをいたしました。神社としては祓いをした、内閣側では祓いを受けなかった。それで結構です、ということで決着をつけたんです。この程度ですね。
    そしたら、その直後に韓国と中国からいちゃもんがついたんで、しっぼを巻いて、以未今日まで総埋の参拝は八年間なし、という情けない状態でございます。



 心すべきば権力への迎合

    それでも、その翌年も中曾根さんは公式参拝したいと思ったけれど、取り止めたんだという。そうしたら、中曾根さんに近い読売新間から出ている『THIS IS』誌に「靖國神社宮司に警告す」という一文がのった。それも巻頭言としてです。光栄の至りというべきでしょう(笑)。読んでみます。「靖國神社当局は政府も知らぬあいだに勝手に合祀し、国の内外の反発を呼んだ」−−先ほど申しましたように、勝手にではなく、国会で決めた援護法の改正にしたがって合祀をした。しかも、そのとき、中曾根さんはちやんと議員になっているんです。続いて、「外交的配慮と靖國の合法的参拝の道を開くため、首相の意を受けた財界の有力者が松平宮司に対し、A級戦犯の移転を説得したが、頑迷な宮司は、これを間き入れなかったので、首相は参拝中止を選択した」
    頑迷固陋は自党しております(笑)。が、A級戦犯という束京裁判史観をそのまま認めたうえ、邪魔だから合祀された御祭神を移せという。とても容認できることではありません。参拝をやめたのも官司が悪いからだと、ひとのせいにする。
    「靖國神社は国家機関ではなく、一宗教法人であって、政府の干渉を排除できるというのも一理ある。だが、それなら、首相や閣僚に公式参拝を求めるのは越権、不遜である」
    そんな人々には案内出してませんよ(笑)。昔は権宮司が敬意を表して総理に案内状をもっていった。しかしある時期から、止めさせたんです。だからこの時点では、そんな案内を出していません。同誌の結論はこうです。
    「頑迷な一人の宮司のために、靖國間題で国論を分裂させたのは許しがたい。こうした不合理を正せないなら、早急に通当な土地に戦没者と公共の殉職者を祀る公的施設を建設し、靖國神社による戦没者独占をやめさせるべきだ。その建設費のための国債の発行には賛成する」
    「戦没者独占」なんて、御霊を何だと考えているのか、まるでモノのように思っているんでしょうか。
    そんな腹立たしい例はきりがありませんが、もう一つ紹介しますと、元外務次官で国策研究会理事長の法眼晋作氏の書いたものです。
    法眼氏は中国の公使に「満州事変、日中戦争は、わが国の貴国に対する侵略だから、貴国の青年諸君が詰(なじ)るのは文句をつけない。しかし、戦歿者を祀る神社を首相以下が公式に参拝して何が悪いのか」と話問したところ、中国の公使は「同神社には戦犯が祀られているからだ」と説明した。それで、「調べてみると、戦犯の人達は昭和の殉難者として合祀されている。これは筆者にとって大きい驚きであった。一つには、筆者は同神社は戦歿者のみを祭神としていると信じていたからであり、二つには戦犯達は被害者ではなく加害者であるからだ。中曾根首相は中国との紛争を避けるため戦犯者の合祀を止めるよう要請したが、同神社の宮司はそれを峻拒したという」
    とありまして、法眼氏はさらに、東京裁判は国際法連反だから認めない。しかし、戦犯は日本を戦争へ駆りたてた軍の横暴を阻止しえず、むしろ助長した。そう述べたあと、
    「日米戦争も充分避けえたのであり、米国の要求した中国からの撤兵、三国同盟の無効化、南部仏印進駐の北への引き揚げはすべて実行出来た筈なのだ」−−つまり「ハル・ノート」の言う通り、アメリカの言うがままにできたはずだと。
    「また、交渉が行きづまった場合、直ちに米国攻撃へ直進する必要もなかった」−−真珠湾になだれ込む必要もなかった、というわけです。
    しかしこれは、結果の出た後代だからこそ言えることであって、果して当時の状況で、本当にそんなことができたのかどうか。また、アメリカの言う通りにしていたら、本当に大東亜戦争は避けられたのか。あるいはもっと悲惨な事態になっていたかもしれません。アジアは依然として西欧の植民地だったかもしれないし、逆にアジア全域が共産化していたかもしれない。歴史がどちらにどう動くかなんて、誰にも判らないことでしょう。結果として、武運つたなく敗れたにせよ、おのおのの立場で国を思い、責を負って、国のため命をささげた人々です。それを敵国が貼った〃戦犯イコール戦争犯罪者〃というレッテルをそのままにして、ああもできたはずだ、こうもできたはずだ、加害者だと一方的に後代から裁く。それはあまりにも反史学的で、同情心のない見方だと思います。
    と、こんなことを言うからでしょう、法眼氏は最後に、
    「靖國神社の間題の宮司を含み」−−問題の宮司...(笑)、「日本には他にウルトラ・ナショナリスト(超国家主義者)乃至ショービニスト(熱狂的愛国者)が多数存在する...」
    結局、私はウルトラのショービニストにされてしまいました。東条さん以下を合祀したということで。
    これまで述べたようなことで、少し分っていただけたかもしれませんが、靖國神社というのは決して平穏な神社ではありません。政治的に非常に圧力のかかる神社です。それは左からの圧力だけではなく、そうでないところからもかかってくる。一見〃愛国〃〃憂国〃を装った形でもかかってくる。だから、ともかく権力に迎合したらいけない、権力に屈伏したら、ご創建以来の純粋性が目茶苦茶になってしまう。権力の圧力を蹴とばして、切りまくる勇気をもたないといけない、ということを、次の宮司への一番の申し送りにいたしました。
    祖父の春嶽松平慶永は、時の大老井伊直弼と対決したのが、「安政の大獄」の引金となり、結局隠居、護慎処分を受けながらも、己れの信念を曲げなかった。そんなことも時に思い出して過してきた、この十四年間でございました。(了)

    ※去る平成 4年10月 3日「東京レディーズ・フォーラム」での講演後に、加筆されて文藝春秋社発行の『諸君(H.4年 12月号)』に掲載されて、関係各位の了承を頂戴してのアップロードです。    



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棚橋 信之(Rev.TANAHASHI Nobuyuki)