【ワシントン=勝田敏彦】第2次世界大戦中、京都帝国大が行った原子爆弾研究に、ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹氏(1907〜81)はほとんど関与していなかった――。米国立公文書館に保存されていた資料から、連合国軍総司令部(GHQ)がそう結論づけていたことがわかった。後年、核廃絶や平和運動に力を入れた湯川氏の軌跡をたどる手がかりとして注目される。
日本の原爆研究としては、旧陸軍の委託で仁科芳雄氏らが東京の理化学研究所で行った「ニ号研究」と、旧海軍の委託で京都大理学部の荒勝文策教授らが行っていた「F研究」が知られている。
政池明・京都大名誉教授(素粒子物理学)らは、米国立公文書館で、GHQの科学顧問だったフィリップ・モリソン氏らによる機密解除報告書などを見つけた。
モリソン氏は、米の原爆計画であるマンハッタン計画に参加した核物理学者で、日本の原爆開発能力を調べるため、日本に派遣された。
終戦翌月の45年9月に京都で、F研究の実験を指揮した荒勝教授と理論の責任者だった湯川教授に尋問し、湯川教授が不在のときに研究室の本や資料を調べた。
報告書は「湯川教授は(ノーベル賞授賞理由となった)中間子論の研究にすべての時間を割いており、原爆の理論研究はほとんどしていなかった」と結論づけている。
F研究のチームは終戦直前、旧海軍との会議を開き、湯川氏も出席している。ウラン鉱石の入手が困難なことなどから、「原爆は原理的には製造可能だが、現実的ではない」との結論を出したとされる。
湯川氏は、「中間子論」を34年に発表し、F研究に参加していたころは世界的に著名な理論物理学者だった。49年、日本人として初のノーベル賞を受賞し、55年には核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えたラッセル・アインシュタイン宣言に署名した。