今、平和を語る

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今、平和を語る:俳人・金子兜太さん

 ◇「蹴戦」を非業の死に誓う

 現代俳句界の重鎮、金子兜太さん(88)は「蹴戦(しゅうせん)」を広めたいと意気盛んだ。反戦でも不戦でもない。戦争を蹴(け)飛ばせである。それは--南方の島で「非業の死」を遂げた部下たちに報いることだ、と断じる金子さんに、体験としての戦争の実相を語ってもらった。<聞き手・広岩近広>

 ◇いたわり、信じ合えば戦争避けられる

 ◇「戦争が貧乏解放」と錯覚し、待望した少年時代。中尉で赴任したトラック島は「真っ黒焦げ」だった。爆死、餓死…人間の尊厳もなく死んだ部下たち。生き物感覚を大事にして、「反戦平和」で報いる。

 --戦争とともにあった10代から20代ですが、いかがでしたか。

 金子 埼玉県は秩父の山国で育ちました。あの時代は、とにかく貧しかった。父親は開業医でしたが、大家族のうえ現金収入が乏しいものだから、私の家もヒーヒーでしたね。ある日、畑仕事をやってくれている農家の男性を呼びに行った。夏の昼だったな、裸で寝ていたが、胃袋が丘のように膨れあがっていて、子ども心にもぞっとした。飢えていて、麦飯だけで胃袋を満たしていたので異常に膨らんだのですね。

 --以前に写真で見た難民の子どもたちのおなかが思い浮かびます。

 金子 そんな貧しい時代にあって、小学校を卒業する前年の1931年に満州事変が勃発(ぼっぱつ)し、36年の旧制中学4年の時に2・26事件が起きた。秩父全体が、この貧しさを救ってくれる正義の決起だと受け取っていたね。本土での戦争経験がないので、戦争の悲惨さを知らなかったんだな。だから翌年に日中戦争が始まると、こぞって歓迎した。貧しさが「戦争待望」になっていたと思う。秩父だけでなく、日本列島がそうだったのではないですか。戦争が貧乏を解放してくれるんだと錯覚していた。

 --東大経済学部に入学した41年の12月8日に太平洋戦争に突入しました。

 金子 経済学をやっている学生だから、日米の生産力の違いをみれば、日本は長期戦を戦えるわけがない、絶対に勝てない戦争だとわかっていた。しかも日本とアメリカの帝国主義戦争であるのは明白だから、ゼミナールの学生も帝国主義戦争に反対だった。だが、真っ向から反対した先輩が特高警察に引っ張って行かれ、拷問を受けたのでしょう、両手のつめがなくなって帰ってきたのを見て、自分なんかではどうにもならないという思いだったな。一般学生共通だったね。でも一方では、これは勝たなければならない、勝たないと民族が滅んでしまう、そう思う面もあった。若気の血気も出ていた、正直言ってね。

 --東大を繰り上げ卒業し、日本銀行に3日間勤めただけで海軍経理学校に配属され、44年3月に南方のミクロネシア・トラック島(現デュブロン)第四海軍施設部に主計中尉として赴任されます。

 金子 トラック島は半月前に米軍の空襲を受け、降り立ったときの第一印象は「何もかも真っ黒焦げ」でした。航空機が270機、沈没した艦船が43隻だから、もういかんと思いますよね、誰だって。

 --その当時の句に〈空襲 よくとがった鉛筆が一本〉があります。「死に体の島」のその後は。

 金子 この年の7月にサイパンが陥落すると、補給路が完全に絶たれた。もはや自活するしかない、武器も自前で確保せよとなった。私の所属した施設部は土建部隊だから、ほとんどが民間人で、兵隊ではない軍属でした。

 武器づくりといっても、その実験を兵隊がやるわけがない。私の施設部で手榴弾(しゅりゅうだん)の実験をすることになり、海岸べりに集まった。実験は手榴弾を鉄の塊に軽く当てて海に向かって放り投げるというもので、海上で爆発すれば成功です。ところが実験を買って出た男が、起爆筒をたたいた瞬間に爆発してしまった。彼は爆発音とともに宙に浮いてから砂場に落ちた。

 私は責任者として、5~6メートル離れた戦車壕(ごう)の上から見守っていたが、びっくりして駆け寄ると、右腕が吹っ飛んでいた。背中は運河のようにえぐれて、白い溝が開いていた。即死でした。そばで立ち会った落下傘部隊の少尉は海に投げ出され、心臓に破片が突き刺さって死んだ。目の前で2人の男が爆死したのだから、戦争に対する甘い考えは吹き飛び、自己嫌悪に陥りました。こんな悲惨なことがあってはいけないと……。

 --今度は餓死者が次々と出るのですね。

 金子 自活するために、すでにこの島に入っていた沖縄の人たちが作っていた「沖縄百号」というサツマイモづくりを始めた。しかし知識のない連中がやるのだから、葉っぱを食べてしまう夜盗虫に一夜にして畑ごとやられるなど、惨憺(さんたん)たる有り様でしたね。

 ひどい食糧不足になると、部下の工員たちのなかには、飢えに耐えられず、食べたら死ぬとわかっていても、捨てられたフグに手を出す者も出てきた。猛然と食らいついては死んでしまう。南洋ホウレンソウと呼んだ雑草があって、煮て食べることは可能ですが、すきっ腹なので大食いをする。そのあげく下痢がひどくなり、脱水症状をきたして死んでいく。飢えて死ぬというより、飢えに耐えられなくなって死ぬんです。そんな餓死者は、やせ衰えて木の葉みたいになってしまう。人間の尊厳などない。食糧調達は主計科の仕事だから、こうして毎日のように部下が死んでいくのはつらかった。「非業の死者」ですからね。

 --トラック島では4万人のうち3分の1が亡くなって終戦を迎えますが、金子さんは1年4カ月間、捕虜生活を。

 金子 捕虜の生活は自治を認められていたので、つらくはなかったです。食べ物に不自由したことのない元気盛んな米軍の若い海兵隊員を見ていて、餓死した部下がいっそうふびんになりました。これはつらかった。戦後は「非業の死者」に報いる生き方をしよう、「反戦平和」でいくぞと心に誓ったものです。

 あれから、間もなく63年ですか。今はね、人間を含めて、生き物同士がいたわり合い、信じ合う、そうすれば戦争は避けられると信じています。生き物感覚を大事にしたい。(専門編集委員)

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 毎月最終月曜日の夕刊に掲載、次回は7月28日の予定です。

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 ■「読ん得」へご意見、ご感想を osaka.yukan@mbx.mainichi.co.jp ファクス06・6346・8106

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 ■人物略歴

 ◇かねこ・とうた

 1919年埼玉県生まれ。旧制高校時代から俳句を始める。東京大経済学部卒業後、日本銀行に入行し、復員後、同行に復職して定年まで勤める。第一句集「少年」で現代俳句協会賞を受賞、日本現代詩歌文学館賞、NHK放送文化賞、紫綬褒章、蛇笏賞などを受賞。現在、俳誌「海程」主宰、日本芸術院会員、現代俳句協会名誉会長。「金子兜太全集」(全4巻、筑摩書房)など著書多数。

毎日新聞 2008年6月30日 大阪夕刊

今、平和を語る アーカイブ

6月30日俳人・金子兜太さん
5月26日作家・半藤一利さん
4月28日哲学者・梅原猛さん
3月31日児童文学作家・高木敏子さん
2月25日作家、画家 米谷ふみ子さん
2月4日小説家、劇作家 井上ひさしさん
11月26日平和学者、ヨハン・ガルトゥングさん
10月29日聖路加国際病院理事長・日野原重明さん
9月3日ジャーナリスト・むのたけじさん
8月6日広島平和文化センター理事長、スティーブン・リーパーさん
6月25日作家・瀬戸内寂聴さん
5月28日映画監督・脚本家、新藤兼人さん
4月23日立命館大国際平和ミュージアム館長・安斎育郎さん写真付き記事
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