The Edge of the Cloud

「雲のはて」。空の色の石。命がけの旅。海峡。「君を愛している」
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早すぎる復活。
・・・いや、時間無いんだけどねリアルに。八個だよ・・・六月末までのレポートの数は。



なんか、ふとしたとき、携帯取り出してカメラモードにしちゃうの。写真が撮りたくて、構えてはっとなる。だったらモブログぐらいいいかなと思って。



最近はぜんぜん学校のことに集中できていなかった気がする。ふと、感じた。



加えてここが晒されている件だけど・・・そうですね、気味の悪さは感じます。でも、それを乗り切らないとならないと思った。なんとなく。少なくとも、わたしという人は。ありがたいアドバイスをいただいて、そのとおりだと身にしみて思ったけれど、結局何も変わっていない私は、やっぱり笑われても仕方ないのかもしれない。



だってあくまで私の日記に対する苦情っていうのは、それを発信している限り当然おこりうることで、それに対して過剰反応すると、『大事なもの』を失うかもしれないと思った。

私が相手にしているものは、あくまで人間が作り出した『言葉』というもので、『インターネット』というもので、ただの箱なんだっていうこと。それを利用し生かすものであってそれに精神を毒されるためのものじゃない。



教育心理学の先生と話をしました。2ちゃんねるの話。先生はカウンセラーで、子供の治療も何人か行っている方です。



2ちゃんねるやネットの問題は、教育界でも散々指摘されてるけどどうしようもないし、行政は白黒はっきりさせるような規制をかけようとしているけど、一方でバーチャル・リアリティは子供の幻想をはぐくんだり、進路についての夢をふくらませたりするのに必要なものであって、一概に規制はできないんだという。ただ先生は、重大な社会問題であることはかなり強調なさってました。



「最近の子は真剣にものを伝えようとすればするほどしらけてしまう」とも言う。だから、案外の常識が通じないときがあるんだって。リアルに。どちらかというと、先生は胸を痛めているふうでした。わたしは憤慨したけどね。同じ若造として。



でも、しらけるって、ある意味とても現実的なところだと思う。大人だってしらけるしね、きっと。最近の子は時々世の中ある程度見限ってるし。そんな!まだあんたの人生これからだよ。



わたしアンチ村上春樹とか言ったりしてますが、その理由はそういうところで、つまりあの喪失感だとか情感だとか文章の言い回しはきれいだと思うし読みやすいと思うんですが、なんだろ・・・もっと内容的な面で・・・ある種の「まじめ」を馬鹿にしてる的なところがかなりひっかかるんです。そうとう、それが嫌いみたいです。私は。一読者として。春樹、というよりは、そういう文学の風潮とか主義がまず嫌いなんだと思います。

それは・・・今の価値観とすれば『よいもの』だと思われるかもしれないし、『理にかなっている』ようにも見えるかもしれない。だけど、『反社会的』ではなくて『非社会的』だとは思うよ。





『風の歌を聴け』で、生物学部?の男の子が、「動物がすきなのね」的なことを女の子に言われて、答えるときに、・・・なんだろ、世界のいくつかの地域の動物の虐殺をだして、そのあと自分の動物実験の話をだして、「それでも自分は動物が好きだと思うか」っていうことを言うシーンが・・・ごめん、ところどころうろおぼえだから帰ったら確認するね、あるんだけど、その・・・一見ぱっとひきつけるやり取りで、なんか含みがありそうな感じがするんだわ。そこは見事だと思います。やっぱりセンスあるよ。



でも、結局のところ事実に対する非難しか言えていない、っていうんですかね・・・じゃあいったい、どうすればよかったの?それについては言わない、ただ現実だけ述べる、っていえばいいんですか・・・「人や人生っていうのはこんなもんだ」って・・・まぁ、一種、魅力的ではあります、なんだろ、こういう主義とか風潮ってなんていうんだろ・・・今度彼の読んだっていうハートフィールド・・・?あってる・・・?も読んでみたいですね。



でも、私はやっぱり作者が自分なりに改善策を持って挑むような話の方が好きです。どんなに支離滅裂でも。



くわえて、そういうことを言うにしても、動物の虐殺と動物実験のあの出し方はちょっと安易ではないかと思います。もう少し面白くて的を射たネタがあるんではないかと。



と、いうことで私個人は彼とは違う文学を求めていて(ゆえにアンチなわけだ)、加えて彼のようなやり方をするにしても、ちょっと安易すぎる、もう少しネタを掘り下げられるんじゃないかな、と感じているから「姑息(その場しのぎ的)」だと考えてる、ってことなんです。



だから彼がそれに気づいて作品にそれが反映されたらノーベル賞取れるだろうとか私は勝手に言ってます。生意気かもしれないけど。っつーか、んな一読者の勝手な予想とはうらはらに、そのうち普通に取るかもしれませんけどね。そしたらそれでもいいんじゃないのかな。ただ、私はそういう想定を結構します。妄想って言われたらそれまでだけど。



そう、別に村上春樹が最近のやたら『しらけてる』風潮を強めたとか一概には言わないけど、結構そういう文学の影響って大きいんじゃないかな、と思うのがひとつ。

あと、わたしは自分もかもしれないけど、最近の子の『言語能力』のことが気になります。







その話になると西尾維新がやっぱ真っ先に浮かんじゃうんです、私の場合は。雰囲気は、実は結構好きです。あんまり読んだ事ないから一概には言えませんが。



ただ、わたしがたまたま見たときに、既存の格言だとか、ほかの文学作品の登場人物なんかを例に取って比喩するっていう方法がさりげなく取り入れられてたのね。



彼のその『例』の選び方もまた安易な気がする。・・・いや、安易どころか実は憤って本開いてすぐ閉じて棚に戻しちゃったんだけど。



「安易」の何がだめかって、深く考えないところです。格言は簡潔にみえて、いろんなシチュエーションや考えによって出されているわけで、既存の文学作品も、文献を探せばそれによる作者のさまざまな公演資料だとかエッセイが残っていたりする。

くわえて格言とか文学作品にはそれを書かれた当時の一種の風刺も含まれていたりする。それをまったく考えずに、西尾維新さんは自分の言語センスでぽーんとのっけてしまうところに、・・・まぁ、自由でいいという考え方があるにしても、私は憤りを感じますし、

そのやり方は文学としてはやや落ちると思います。私は、ね。娯楽としては別です。かっこいいんじゃないのかな。



ただやっぱり・・・ひとつの言葉に意味は一つしかないというような書き方をするというか・・・言葉の多さに、私の頭の中の引き出しが無意味にばーっとあいてしまうんですね。助詞ひとつとっても考えちゃう人間としてはつらいところです。かなり、あのやり方がわたしからすると乱暴に見えます。だから、『文学に対する冒涜だ』という言葉すら用いました。言いすぎと思われるかもしれないけど、ある意味こう指摘することがまったく無意味だったとは今でも思いません。こう指摘してはじめて、みえてくるものがあります。私の探索の問題です。



ただ、友人にある話を聞いて、西尾維新に対する認識はちょっと変わりました。彼は長編小説を一週間で書き終える男だと聞いたときです。



たまたまシュルレアリスムの本を読んでたんですねそのとき。難しくてよくわからなかったけど、なんだろ・・どんな文脈か忘れたけど、「ひたすら意味もなく言葉を書き続ける」、っていう方法が出てきた。その方法に何の意味があるのかよくわからないんですが。これ、学者さんがけっこうやっていること?で、意味なく高速で言葉を文章を書き続けてくうちにある程度気は、ふれてくる的な記述が・・・・・・ごめん、帰ったらもっぺん確認してみる。うろおぼえだらけ。



そのときなんとなくインスピレーションしたのは、西尾維新はある意味その高速に小説を書きまくることで自らシュルレアリスム?を開いた?わからないけど、なんだろ、とにかく彼の書くものはシュルレアリスムを感じさせてくれる、そういう感じなのかな、とは思った。だとすれば、それは功績だと思う。何らかの形で人をひきつけると思うし、そこが彼のすごさではあるんじゃないかとは、感じた。あくまでわたしの考えにすぎないけど。



でもその奇抜さは、どちらかというと芸術性の面でのもので、少なくとも『子供』が母語を身に着ける上で読解力を身につける上では、ある意味邪魔になってしまうんでないかとわたしは思います。文学には、こういう役割もあると私は思っています。大人になっても知らない言葉はいっぱいあるし、一つ一つの言葉は多くの意味を持っているんだから、あの言葉の羅列の仕方はセンスかもしれないけど、わたしは「それを克服するのに編集は何とかできないのか」と思います。あの、『商才』と『雑学知識』の豊富なひとたちにたいして。西尾維新のよさをいかして、編集なにかできないのか、とか。一応物書き志望ってことがあって編集、っていうのも進路の目標の視野のひとつなんだけど、すごいそういうこと考えます。かなり、強く。もう、くたばれの一つや二ついってやりたい心境ですですね。激励もこめて。それくらい強く、そう思います。がんばって、じゃだめなんですよ、この意気を伝えるには。くたばれぐらいの強い感情です、私の中では。



そして私は、結構有名な言葉・・・?とかを引用に使ってたりとかするところが好きではないです。あれだけ有名な言葉を使うなら、もう少しうまくさばいてくれといいたくなります。だから、西尾維新はいろいろ問題ありだと思いますね。問題ありだからっていいところがないとはいいません。ただ、「いい」と「悪い」の白黒で世の中きまんないし、私があえて強調するとしたら批判点だけだった、という話ですね。ここはわたしの日記だし。ただ、前から常々上のようなこともある程度は書いてたと思いますけどね、私は。







なんでこのかたがたを例に出したかっていうと、昨日の苦情掲示板見て一番思ったのが、まず、2ちゃんねるユーザーの価値観の問題と・・・読解力や言語能力の問題・・・?それらを痛感したからです。



「しらける」っていう価値観?真剣だったりイタかったりするものを徹底的にけなす価値観?春樹には直結しません、絶対。でも、現代人の価値観、としてその要素はあるんじゃないの。それ、別に2ちゃんだけの問題じゃないと思います。



加えて言語能力の問題ね。一緒に話した先生は、中学生に授業をしたあとアンケートをとると、「きれいごとばかりぬかしやがって」と書きなぐってあることがあるといいます。割と、「一生懸命」とか少しでもきれいごとっぽい「単語」が出てくるとすぐきれいごとだと頭の中で変換しちゃう感じで。先生は結構現実的な話もしていたのに。



自分の話で申し訳ないけど、たとえば、私は以前日記で「色物のキャラを上塗りするのは好きじゃない」的なことをいったことがあります。それについて掲示板で「夢絵やってる時点でそれは言えないだろ」的な指摘があった。はず。もう、あんまり読む気がしない。

私の言葉の意味は、具体的に言っちゃうと、雲雀さんだったらかなり硬派な部分も強いのに(やわらかい部分がないとは言わない)、『僕』っていう一人称やそのビジュアルだけで、雲雀さんを似たような別の色物っぽいキャラクターの性格にしてしまうことを言ったんです、夢小説の。あきらかに「夢絵」とはつながらないと思うんですが・・・。日本語は文脈依存性が高いので、一文だけでは意味の通らないこともたくさんある。それを一文だけ引用して批判してる気になってるとすれば、ちょっと国語力不足の問題があります。いや、でもたぶんあなたにそれを教えた大人の責任なのかもしれないとも思わなくないですが。



文字だけの世界なんだからもっと考えて読まないと、そして考えて書かないと。だめだよ、『色物』って言葉だけに飛びついたら。いや、気持ちは分かるけど。裏絵もあったし。・・・あれもはがそっかなリンク。



よくわからんが、わたしのサイトを無許可で晒しものにしてる人たちの、私の腰を抜かさせる手段は、サイトやブログを無意味に晒して嫌がらせをすることだけか。箱の中で、コンピューターと指の力を使って。それとももっと違う『手段』での嫌がらせ?いっぺん十キロ級の防具を身にまとって中年のおじさんに馬乗りにされながら竹刀で面を打たれてみたほうがいいと思いますよ。切実に。あんなの、わたしはもう二度と経験したくないけど、してみたほうがいいとすすめる必要性すら感じた。心が病んでた。



だから、ほっとけ、ということはできます。というか、それしかできないからこうなってる。教育は自由を重んじたいとき、時々あまりに無力。だから規制する。締め付けが強くなる。それによってひずみがおおきくなって、いったんその体制が崩壊して、もっかい自由になる。一概に歴史の流れを規定しないけれど、そういう流れをそこかしこに読み取ることができると思う。



集団になったら怖いものはないのは分かります。言論が自由で、いくらでも逃げ場の用意されてるネットの世界だったら何でもできる気がする。実際できるかもしれない。私を貶められるかもしれない(被害妄想じゃないよね、不用意に勝手に個人サイトさらされてんだから)。貶めて、どうすんのかってそこですよ。



今の子供の耐久性の低さとか、暴発性の高さとか、言語能力の低さもだけどそれに派生する表現力の低さとか。まだ、ネット漬けで子供時代をすごした大人になってからそんなに経ってない・・・ずいぶんたったかな・・・けど、これからどうなってくのかって、ネット漬けなわたしも考えてかなきゃいけない問題なんだろうなと思った。



いや、ほんとにひどいらしいね。宮崎県知事が「そのうち徴兵制でもやらなくちゃいけない」的なことを言ってたらしい。そのくらい、今の若者には国からの強制的なしつけが必要だといいたいらしい。あんなやつの言葉、とただそれだけ見て笑い飛ばすようだったらその子は、読解力も知識も足りない。そういう子が増えたんだとしたら、それは憂える事態です。



加えて携帯小説ね・・・わたしは、あれは西尾維新的な意味でいい部分もあるけどやっぱり「文学」としてはどちらかといえば「よくない」と思います。ただ携帯小説作家はほとんどがアマチュアだけど西尾維新はプロだから、厳しい批判をしたいと思った。一読者として消費者として。何がだめ、何がいい、じゃなくて。





電車の中で考えていた。またイタリアの作家の本読みながら。

このまま日記を書いて、どんどん状況が悪化して、どうにかなったら、わたしどうするのかと。

未知なる恐怖におびえ続けるとかかなぁと。どんな嫌がらせをされるか、とか?疑心暗鬼?炎上?所詮わたしの日記。たかがわたしの言葉で?

ただネットのモラルの低さはやっぱり問題なんじゃないかな、と思います。それでも、自分は何でもできると思ってる。匿名性をかさに着て、人の中傷は何でもやっていいと思う。ルール違反なのに勝手に個人サイトも晒す。それって、でも未成年をかさに着て殺人っていうルール違反をやったって誰も俺を裁けないって言ってるのと同じじゃん。「たとえどんな思いでやってるにしても」。



わたし、2ちゃんねる見に行って、はじめて自分への中傷目的の中傷を目の当たりにした。中傷って悪いことに決まってるのに、ぬけぬけとできるのは何でなのか。悪いことはしてもいいことなの?それはやっぱり、自分の管理ができてないからもあるけど環境にも周りにも問題があるんじゃないかな、と思う。



ただ、コメントの全部がそうだったわけじゃないし、大半は読解力の不足による私の文章への曲解だったから、ちょっとひっかかった。それでも、論理を自分なりにくみたてて意見、というその態度自体は、姿勢としては喜ばしいことなんじゃないかな、とは思う。未熟だけど。でも若けりゃしょうがないんじゃない。そこは、ちょっと胸を打たれた。言いたい放題叫ぶけど、ああ、がんばってるなと思って。そういうところ、なんか正直ちょっとうれしくもあった。もちろん言われまくってることは心外ですけどね。『子供のいうことだし』なんて、わたしは思いません。大人だったらなおさらですけど。



あの、トップの写真に関するコメントは「確かに」って思ったし。最初もいったけど、わたしは公開してる以上、批判は避けられないと思う。でも同時にかなり多くのコメントに深刻な言語能力の不足を感じずにはいられませんでした。あとモラルの低さ。これは、ひとつの考察です。でも、結構強く問題意識としてわたしの頭には残りました。わたしのクレームとはかけはなれた、客観的考察です。物事は、何事も自分と離して考える必要もあると思います。自分だけが確かなものだけれど、ちょっと自分だけを頼みにしすぎるんじゃないかいと思うようなコメントはちらほら。



2ちゃんねるがだめとは、わたしは言わないし思わない。面白い部分も結構あるとは思う。2ちゃんねるの住人は屑以下だっていうしコメント見たとき思ったけど(そして本当に屑なのはコメント自体というよりはそれに派生するしつこくて犯罪的な嫌がらせなんでしょうね)、それはどちらかというと住人自体じゃなくて、一種の宗教儀礼的なものを感じる。そういうことをする「ならわしだ」、みたいな。そういうもんなんだ、みたいな。だからってすべて「いい」なんてわたしは断じて思いません。悪い部分もいっぱいある。



いろいろ考えて話をすすめてるスレッドも見かけたりするとうれしいけど。あの、雑多なところがいいのかな。ただ、ものは使いようじゃないのかと思う。





ちょっと迷って、六月中は夜とかやっぱり時間もないので今のままやってくことにしました。日記は、今日以外はそうとう短くなると思います(笑)。
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