The Edge of the Cloud

「雲のはて」。空の色の石。命がけの旅。海峡。「君を愛している」
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知的欲求の海
めんどくせぇええええええ(笑)!

いい、やりたいことはあってるのよ。多分やり方が間違ってるの、私。
でもやろうとしてることがあってたら・・・いや、そんなのは所詮理想論に過ぎないというか・・・難しいところさね(笑)。

だけどいつもそうでしょ。いつだってそうでしょ。やってみないとそれが成功だったか失敗だったかすら、分からないのよ。

意見を言うって、どういうことだと思う?

昨日のジャーナリズムの授業でならったんだけど、批判することは「自分に返ってくる」からとてもリスクを伴うんだって。だから近頃は学者も投げがちなんだって。

・・・学術論文になったら、そりゃ怖いよね、お仕事だし。

物事に意味や目的なんて無理して求める必要ないって、おととい友達の惚気を聞きながら、友達と話をした。ひたすら話していればいいんだって。

大学入りたてのころ感じた焦燥に似てる。現代の風潮。現代。

目的のために言葉を尽くす自分が馬鹿馬鹿しくも見えてきて、伝えたいばっかりにうっとうしがられる自分も馬鹿馬鹿しくなってきて、自分の勉強してることなんて、作家に何も直結しないじゃんと思ったら、勉強なんて今の作家には必要ないんだって思ったら、それも馬鹿馬鹿しくなった。「文章の勉強をすればいいので」、あとの勉強は必要ないような気がしてきて。

でも学校の先生と話して、よかった。

西尾維新の話、しましたよね。批判はいっぱい書いたんですが、実はわたしが憤って一文目から本を閉じた理由は一つだけです。批判点はあっても、読めばいい点だっていっぱい出てくると思います。でも、一文目で憤って閉じました。

人にいって通じたことがないので、所詮私の独りよがりなのだろうと、思います。

わたしの大切な人は大抵西尾維新が好きです。私は、私の友達の好きな作家の作品を好きになりたかった。別にならなくても友達ではいてくれますけど・・・でも好きになれなかった。これは、結局自己満足の問題で、それで自分の気持ちのみの問題です。

憤った理由のほうは、多分まず分かってもらえないのに、詳しく説明しません。ただ、言ったほうがすっきりするので言います。

私が、西尾維新の作品を好きになれなかった理由は、実際たった一行です。
多分、すべてそこに帰結するんだろうと思います。
そしてそれにはどっちかというと編集にも原因を感じます。

詳しい文章の引用はしません。

「探偵っていう職業は、高利貸しと並んで猫からバッシングを受ける職業だけれども、これほど愛されてきた職業はない」、的な文章があります。
ごめんなさい、ちゃんと引用しないとニュアンスが伝わらないかもしれません。

この一文だけです。分かる人には、分かることだろうとは思うのですが、このは前後の単語から分かるとおり、夏目漱石「我が輩はである」のです。・・・間違いないと思います。さすがにそれを「違う」と著者が言ってきたら、私は直接出版社に話をしに行きます。

こればっかりは誤解が飛んでも別に結構、なところです。知らない人が多いの自体は、別にいいかなと。でも編集は知っとけよ、と思ったんです。編集さんも、『どうでもよかった』のかもしれませんけど。「編集」に疑問を持ったのもこれがある意味はじめてです。彼等が身につけるべき「教養」とは何なのか。「雑学」なのか、なんなのか。

わたしは夏目漱石のファンです。

あの一文を読んで、本を閉じました。この先もああいう記述に出会ってつきあわされるのか、と思ったら耐えられない気分だった。ああ、でもこの憤りだけが誰にも伝わらない!本ッ当に伝わらない(爆笑)!すでに、誰に憤りたいというのではなく、何かに憤りたいそれは、物凄く強大なものだと、感じた。それは無関心という名の絶え間ない泉だと思う。

何より私の伝える技術が低いんだろうなとは、思いますが・・・もうさんざんオフで叫んで伝わらなかったので、人に押しつけるのはやめにします。これ以上のことはいいません。確かに、人になにかを言うならあれですよ。やっぱり「やりよう」を考えないと。

気になった人は、暇なとき夏目漱石と明治時代について結構調べると分かるかもしれません。あんまり言わないで置きます・・・。こいつただの自己中女、と何も調べずに言われても、それはしかたのないことかな、と思います。でもこの姿勢をとることは、わたしがまだ戦う術のことを考えているからです。文章を書くって、いうこと。

何もかもに意味を持たないこと。ポストモダン。ニーチェ。

私はやっぱり、旧式の人間なのかもしれないですね(笑)。だけど私もまた私の虚無を持っている。でも彼のような虚無ではないと思っている。

やっぱり、やり方をもう少し考えなくてはならないきもするけれど、帰ってくる。私ここで書くよ今は。



ただ、その西尾維新の一文を読んでも、夏目漱石は多分憤らないと思います。私だから、憤るんです。理由は一重に、「時代が違うから」。

そうだよなぁ、漱石先生が怒らないならいっか、と思い始めてるんですが。
でも、問題はその本を読み進めていったら漱石ネタだけでなく他にもこういうのに出くわしそうな気がするんですよ。駄目ですね、どうしてただの文字の並びとしてあらゆる文章にであってこなかったのか。多分西尾維新の考える言葉と私の言葉が違いすぎるんです。いや・・・やっぱり編集の方が気になるな・・・まぁどうでもいいんだろうけどね・・・。それに文学ではないからいいのかもしれないし・・・楽しければね。内容なんて、ってそういうことなのかもしれない。今はやっぱり「文体」の時代だよ。「サービス」の時代。いいじゃんね、何が悪いんだろ(笑)。ただ逆に言えば文学はもっと自由であってもいいと思うんだけど。やっぱり例外ない。私も、実際自分がなってみれば痛感する話だろうか。

そんなのどうでもいいじゃん、という風潮も世の中には少なからずあるから、そのうち「電車の椅子」を「うさぎ」と呼べちゃう世界になるかもしれないなぁと思って。「それは、いいのかどうか」。そうはならないのか、どうか。そんなことは、誰にもわからないけど。

だけどたった一度でも、憤って本を閉じたことがあったっけ。一度でも。攻撃的になりたかったわけではないんです。

どう考えても私は少数派です。でも、一意見として認めて欲しいと思ってます。

リボーン同人は夢小説を書く、という形で認めさせろ、と思うかもしれませんが、私はそれはもう、認めてもらってるつもりでいます。一人でも、私の書いた物を読みに来てくれるなら、わたしは認めてもらえたと胸をはれるし何より嬉しいです。今は、そう思ってます。

でも日記は、そのうち閲覧者がゼロになるかもしれない。

何かを探している。ずっと、ずっと。
結局、やっぱり小説しかないんだろうか。


「お前は真面目すぎるところが難かもな」とおととい言われた。さんざん夏目漱石について語って相変わらず息をぜいぜいしているところに。「でもそれがいいところでもあるんだから、やっぱりそういうのを書く仕事に就くのがいいんじゃないのか。気になるんだろ。記者でも学者でもいいよ」

反対意見なんて。いくらでも聞いてきた。

だけど、頑張って下さいって言葉だって、ここでたくさん聞いてきた。それでいいんだと思って。

もう少し、鋭い批評家になろう。今のことも分かる批評家になろう。

「サブカルチャーはサブカルチャーで、それはそれでいいところもあるんだよ」

そうだよね。でも今は少し、背いたっていい。



やっぱり1988年に生まれてよかった、と思う人間になりたいです。
そこはやりようだと、まだ思っている。

私のつまらない話も、どもってる言葉も、普通に聞いてくれたのは、イタリア語の先生であり、オランダ人の男の子であり、フランス人の女の子であり、中国語の先生だったりする。訴えは通じるんだと、叫びだって届くんだと。一生懸命の言葉は、「最後まで聴いてもらえる」んだと。まんべんなく。

日本っていうのは、でも、だから面白いんだろうなと思ってしまう時点で、わたし何も分かってないんだろう。
だめだ。だからって外国に行けばいいという発想は。ずっと心のどこかでいだいていたけど、それでは自由になれない。どこにいたって、ちゃんと自分の意見を伝えられる人にならなくちゃ。

・・・文字数を減らすところからはじめようかな(笑)。
- | 07:14 | author レベッカ | comments(0) | trackbacks(0)