The Edge of the Cloud

「雲のはて」。空の色の石。命がけの旅。海峡。「君を愛している」
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こんそめだぶるぱんち
書きたいものが多いです。いろーんな意味で。

旅行に行きたいな。
お母さんと話してて思った。最近国際比較の勉強とか、語学のネイティブの先生と話して思うことなんだけど、日本人(つまり話し手であるわたし)ってフィーリングで勝手に物を考えすぎだと思う。いや、言い過ぎだと思う。それで、それを『フィーリングだ』と認識しないで常識にしすぎだと思う。一部の人の意見で。それで、それが大衆の常識になりすぎだと思う。人は流されやすすぎだと思う。・・・私、よくそういう人だよねって言われます。『真に受けて』『考えすぎる』からだって。いや、『何も考えない』ひとの方を流されてるというんでしょ、と言ってよく大人の人と喧嘩になります。『良識ある』大人の方々と。若いうちに間違えとかないと何も身に付かないと思って。





批判をするときには、フィーリングでやったらいけないと思います。だってそれは個人の感性で、人と違うことだってあるよ、人はみんな違うよ。



何か、学校とかで思ったりすることがあるんだけど、意見を自分の「感性」で言いすぎる。私の考えと人の考えは違うよそりゃ。それをとやかく言うのは違うよ。だから、私がとやかく言っていることは、何も私の『感性』では言ってないよ。



私は自分はそうだと思われたくないと強く思った。『フィーリング』でものを語ってるひとだと思われたくない。哲学で語ってるとも思われたくない。哲学するときもあるけど、哲学の意味は哲学することであって、哲学以外の目的に偉そうに私の哲学を振り回すなんて無様な真似は絶対にしない。哲学するとき以外。



いや、昨日文学論を哲学好きの友達にふっかけて、さんざん痛感した。それが悪いとは言わないけど、ああはしない、私は。絶対と思った。何でかって、結局「自己完結」しちゃうからだよ。私の感性なんて誰にも批判できないんだから、自己完結するしかないじゃん。私の考え方は批判の余地があるから、まだまだ発展して行けると思うけど。



感性ではなくて論理に基づいて言いたい。批判は。その論理がいっぱいあって、人とそぐわないから論争ってものが世の中には無数にあるんだと思う。あ、これは「哲学」ではないですよ。・・・このへんも使い分ける必要があると思います。



気にくわないものっていうのはいつの世の中もあるものだけど、私は「気にくわないもの」で終わらせたくない。私の論理に基づいて批判したい。でも、「日本人」はいつでも逃げるじゃない。それで物事を曖昧にするじゃない。傷ついた顔でもをすれば、批判した方に対する無言の仕返しになるじゃない。だけど「悪口」と「批判」は違うよ。



例え同じ物事についての意見であれ、私は世間に浮かんでる低俗な「悪口」と一緒にされてやりたくない。それがここで叶わないんなら口と足で直接言う場所を探しに行くだけの話だけど・・・でも、ここでそれは出来ないことだろうか。いかんせん玉石混淆過ぎて不愉快な世の中にはなってしまっているとは思うよ、ネット世界。殊にこの業界。
- | 15:21 | author レベッカ | comments(0) | trackbacks(0)
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