The Edge of the Cloud

「雲のはて」。空の色の石。命がけの旅。海峡。「君を愛している」
言って、一体何になる。わかっている。それでも。
日本の小説家の言うことがあまりに話にならないと感じてしまう理由は、それが感性から発せられた言葉だからなんだろうなと最近感じる。

批判はただの感想文、その感想には骨がない、利己的で自分勝手な『意見』ばっかり押し付けるのは正直やめていただきたいです、ついでに編集者、腰抜け。くたばれ今すぐ。



・・・(笑)、つけるべきかな、全文の末尾に。





遺跡の授業とってるんですけど、何で遺跡ってのこさなきゃいけないのか私はさっぱりわからなかったんですね。いや、もうさっぱり。特に日本とか、ビル建てたくてうずうずしてるくせに伝統守らなきゃ伝統守らなきゃって言ってんの何でかって聞いたとき、先生は答えてくれませんでした。いや、遺跡とか守るのはいいと思うんですけど、「何で守るのか」っていう理由がないのに税金かけないでくれませんか、みたいな。すごい遺跡の修復にお金かけてるんですよ、政府。

しかも、遺跡たって全部残してるわけじゃないじゃん。残す必要あるなら全部残せよ、みたいな。残す遺跡選ぶ、とかっていかがわしくない、どんな基準なの、みたいな。



そうしたら私の隣の子が、「たとえ理由はなくても、そこはフィーリングでいいと思います。なんとなく、その町にいて、ああいいなぁって思う、それが大事なんじゃないかしら」



いや、うんうんうなずいて引き下がったけど内心はっきりいってまったく納得しませんでした。

結局、「なぜ残すという考え方がうまれたのか」はその後自分で調べました。それはかなり西洋的な考え方です。納得はいったけど、あくまで、西洋思想なのかな、と思ったりしました。



「フィーリング」というものがだめだ、とは、言ってません。

ただ、人って一人一人違うと思うんですよ。食べ物とかでいうと、ある民族は大好きなのに、ある民族にとっては見るのもいやなものとか、あるでしょう。フィーリングってその危険をおびてるんです、こういうばあい。つまり、あるものを、ある「一部」の人が賛美することで、ある「一部」のひとが肩身の狭い思いをすることになるということね。もっと極端になると、それが価値観の押し付け、につながる可能性も無視できないんでないかな。ほら、これが「文明的」である、とか、これが「きれい」とか。それで、その「文明的」で「きれい」な文化を持ったひとびとが、そうでない文化を「認めない」。「つぶす」。しかも、それは「思いやり」からだったりとかするんですよ、だって「きれい」じゃないんだもん、だからこういう文化はなくなるべきです、みたいな。この問題難しくって、実際なくなったほうがいいのか、どうなのかっていうのは、ほんっとうに多種多様だとは思うんですが、少なくともある文化が自己と違うって理由でほかの文化をつぶすっていうのは乱暴じゃないのかな。



きれいだなと感じるものって、本当に人それぞれだと思う。日本人は、たぶんみんな「感性」とやらがにたりよったりさんだから、「感性」があれですね、共通の言語になれる。けど、ある動物の肉を食べれないひとがいたりだとか、ある種の「味」を識別できない人種がいたりだとか、ひとそれぞれ、いろんなことがあると思う。



はい、本題。物事を「フィーリング」だけできりとったら、自分の「フィーリング」が反応しなかったものが「理解できない」ってことにつながるんじゃないかなってことが、言いたかったんです。



たとえば・・・ある絵があったとします。自分のフィーリングだけではその絵のよさがさっぱりわからない。でも、ある国の人たちはその絵をすっげぇ大事に思ってるし、ほかのありとあらゆる絵に勝るすばらしいものだと、思っていたとします。



ま、いいんじゃない、人それぞれだし。お前ら勝手にすばらしいと思ってれば。わたしは思わないけど。

いや、そうだよ。でも、それってあるいみでいえばさ、その絵がすげぇと思ってる国の人々の美的感覚だとか文化をシャットダウンつか無視する、ってことじゃない?それで、いいのってわたしは謎く思う。「いいんじゃない、人はそれぞれ違うんだし」。だからこそ、工夫してかなくちゃいけないんじゃないの。



ある社会問題にたいして作家が挑むときに、あまりにもありえねぇ!ってときがある。それが間違ってる、とかそれが正しい、とかそのレベルにすら達してない感じのことを言ってる。それは、多分フィーリングだったんだなと思う。いや、内容もなんだけど、内容というよりは、「論じ方」の問題だと思います。論じなくてもいいんですが。論理の組み立て方の問題?手段の問題?



いいのか、自分と違うもんは、もしくは気に食わないものは問答無用でシャットダウンして。すごい思う。「気に入らないひとは、別に読まなくていいよ」、でいいわけ。その時点で超後ろ向きなな考え方じゃん。それがベストセラーだったとしてもそんなやるきねぇぽっと出の本なんざ読みたくないわい。たとえ一人にもよんでもらえなくても、書くひとがそんなこと言ったらおしまいじゃん、ねぇ?!・・・まぁ、無理やり読むとか読まされるのはやだけど。はじめは逃げ腰、うまくいってはじめて、さも計算していたかのような顔ですましてる本。はじめっから終わりまで「利己的」、「自分勝手」な著作物が最近ことごとく目障りです。もぉぶっちゃけそういう文も文字も目障り。だめとかなんとかじゃなくて、目につくわ。ありゃ一種の暴力じゃないの。まぁ発信は自由であるべきなんでそこまで言うといいすぎだけどね。

フィーリング天国。悪いね、感性に乏しくて。じゃあ、わたしも言われるんだろうか。「気に入らないひとは別にみなくていいよ」。

いったいどこに行けっていうの。なんだ、この村八分的感性世界。臆病者どもの描き出す世界のちまいポケットサイズの世界。誰だ探偵批判の猫の言葉の意味を根本からはきちがえてる奴。しかも小説の一文目から。憤りで、一文目で本を閉じたのなんてさすがにはじめてだったよ。わたしどんな本でもとりあえずは読むし、どこかしら好きになるよ。なんだありゃ。ある意味ゴッドじゃね。はきちがえるのもあらたな文学だがあのはきちがえかたはちょっと問題だよ。あんな愚劣な小説がまして子供の間で蔓延するようになったんだとしたらちっとは反省しろK社。



・・・えっと、最後にことわっておきますね。これもまたひとつの価値観なので、うたぐってください。

フィーリングで生きているからあいまいなんですよ、単数と複数が。それっていったい悪いことなんですかって思ったけどね。英語の時間イギリス人の先生がきれてたんですよ、「日本語はどうして単数と複数の区別がないんだ!信じられない」って。いや、そんなこと言われても。



でも、フィーリングで生きるっていう文化はそれはそれでレアな感じがして、それ自体は嫌いではないんですけどね。そっと、宝石を守るように、大事にしたいもの。だけど何かを書くとき、ダイヤの首飾りでいったい何ができるっていうの。
語っちゃってます | 16:32 | author | comments(0) | trackbacks(0)
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