手話で原爆のキノコ雲を表現する森岡正勝さん=28日午前10時すぎ、広島市東区、青山芳久撮影
ピカッと光った後、ドンという音が聞こえなかった被爆者がいる。ろうあ者だ。聴覚障害のため戦後も情報から閉ざされ、「原子爆弾」だったことや放射線被害を知るまで長い時間がかかった。「あの日の体験は一様でなかったことを知ってほしい」。広島の2人の被爆ろうあ者が28日、講演会で初めて手話のできない健聴者向けに声なき訴えをした。
広島市東区の地域福祉センター。森岡正勝さん(79)=同市南区=が手話で「証言」し、それを話し言葉にする同時通訳を介し、約40人が耳を傾けた。森岡さんは、歯を食いしばるように顔をゆがめ、両手を使ってむくむくわき上がるキノコ雲を表現した。
63年前の8月6日。ろう学校の生徒だった16歳の森岡さんは、爆心地から2.3キロの自宅で閃光(せんこう)を浴びた。3歳の時、はしかの高熱で耳が聞こえなくなった。空襲警報に気づかない息子を案じ、たいていそばにいてくれた母は外出中。がれきの下敷きになり、ほこりで目も開けられなくなり、音も光もない暗闇の中で水におぼれたようにもがいた。背中にはガラス片が突き刺さっていた。
「お日様が破裂し、地球が割けたと思った」。皮膚がたれ下がり、男とも女ともわからない人たちの群れをかき分けて歩き、母を捜した。話せないため、何が起きたかを尋ねることはできなかった。
髪の毛がごそっと抜け、発熱が続いた。母はヨモギを煎(せん)じた薬を飲ませてくれた。当時は母を通じてしか社会との接点はなく、しばらくは近くのガスタンクが爆発したものだと思いこんでいた。終戦のラジオも聞けず、「新型爆弾」だったことは年末になって誰からともなく伝えられた。キノコ雲という言葉を知ったのは、被爆から十数年後に原爆資料館を見学してからだった。市内が壊滅している全景写真を見て初めて、被爆の全容を知った。
木工所などでの肉体労働で生きてきた。15年ほど前から、修学旅行などで広島を訪れるろう学校の子らに平和記念公園で体験を手話で伝えるようになったのは、今年1月に77歳で亡くなった高夫勝巳さんの「証言活動」に刺激されたからだった。将棋や魚釣りをして一緒に遊んだ、ろう学校の2年後輩だ。
高夫さんは、爆心地から1.7キロの荒神町で被爆、10メートルほどはねとばされ、板壁に胸を打ちつけて気を失った。被爆から約20年後にやはり原爆資料館で被爆の全容を知り、それから約20年たってから「手話語り部」を始めた。
森岡さんは今回、健聴者向けの証言を初めて頼まれ、「もともとハンディキャップがありながら被爆した人間がいたことを知ってほしい」と引き受けた。
森岡さんとともに証言した村田ヨシエさん(80)=同市東区=は1945年にろう学校を卒業し、爆心地から1.3キロの自宅で朝食の準備をしている時に被爆した。屋根の下敷きになり、母親に助け出された。3カ月下痢が続いたが、誰にも相談できず、ドクダミを煎じて飲み続けたという。「もう二度と戦争はしないでください」と訴えた。
この日の講演会はNPO法人「広島県手話通訳問題研究会」が主催した。同会によると、被爆ろうあ者がろう学校生や手話通訳者以外の人に証言をする機会はほとんどなかった。その存在自体があまり知られていなかったことに加え、学校などが証言を頼むには手話通訳者を手配する必要もあったからだ。かつて、ろうあの被爆証言者は数人いたが、今では森岡さんと村田さん以外の人が話すことはめったにないという。
広島でろうあ被爆者の手話証言を書き取り、記録集をつくっている手話通訳者の仲川文江さん(68)は「原爆は耳が聞こえない人にも、身体の不自由な人の上にも落ちて人生を変えた。被爆ろうあ者の体を使った必死の証言は、数字では表れない被爆の実相を伝えてくれる」と話す。(武田肇)