2008-06-21
ニセ科学批判と超常信念と批判的思考
poohさんのブログの最近の2つのエントリで、ニセ科学批判についていくつか考えさせられることがあった。
Chromeplated Rat:奈辺に愛か存じませぬが
Chromeplated Rat:「説得する」
私は以前からニセ科学批判のされ方に、時々ぼんやりとした違和感を感じることがあったが、そのもやもやした感じが、これらを見ながら何となくまとまってきた。
違和感の一つはニセ科学という批判対象の範囲だ。批判する対象がニセ科学に限定されてしまう。そのくせオカルトやホメオパシーなど、別に科学っぽく見せているわけではない非科学も、ニセ科学と同じ文脈で批判がなされる。それであればいっそ、カルトや宗教までも含んだ、科学とは無関係の文脈でとらえらる観点があって、その中の一種としてニセ科学も論じられるような状況が望ましいのではないだろうか。
もう一つは、ニセ科学の「ニセ」が含む否定的なニュアンスだ。相手の信じるものが「ニセ科学だ」と言ったとき、すでに「あなたの信じているものは間違っている」との決め付けがされている。この決め付けが、ニセ科学批判にどことなく“上から目線”を感じる人がいるという一因になっているのではないだろうか。
そんなことを考えながら、ふと先日FSMさんのブログで教えていただき入手していた「理科教室」5月号(特集:非合理と科学教育)を開き、読んでみた。
何と、私の上記の問題意識がすべて含まれている記事があった。信州大学准教授菊池聡氏の「非合理の潮流と現在 − 人のこころから見た不思議現象 −」である。
記事によれば、マイナスイオン空気清浄機や、血液型占い、霊能者への信仰など、いわゆる怪しいものへの思い込みを心理学では「超常信念」と呼ぶそうだ。超常とは、狭義では物理法則に照らして不可能なこと、広義では現在の科学知識と矛盾したり否定される現象一般を指す。
中でも興味深い部分は「超常信念を形づくるもの」のパート。研究によると、科学的知識の理解度と、超常信念の強さの間にはおおよそ反比例の関係があるものの、関係性はあまり強くなく、ほとんどゼロという結論もあるとのこと。
心理学では、超常信念が発生し強化する背景を、科学的知識や教育の不足といった点のみに求めず、いくつもの要因の複合によってとらえています。これまでの研究からは、大きく4つの要因が着目されています(略)
そのうち3つの要因を以下に簡単に紹介する。
- 人の心の基本的動機付け
「神秘的現象に対する好奇心」「未知な世界を解き明かそうとする探究心」といった、時に人間を学問や研究に向かわせる前向きな動機が、超常信念にもつながる。
- マスメディアなど外部からの情報の無批判な受容
超常現象に対し肯定的な情報は膨大に流通しているのに、懐疑的な情報は少なく、大きな非対象性がある
- 超常信念の合理性
一般には超常信念を「非合理」思考ととらえる。つまり自然法則や論理的思考という「理」から外れたものである。科学の場合は客観的な基準に沿っていることが求められ、これは規範合理性と呼ばれる。
ところが「理」(論理、道理)は、実際には一つではない。たとえば、「おまじないをすると恋人ができる」は非合理的な記述だが、「おまじないをすることで、気分が落ち着いて好きな人と恥ずかしがらずに話せる」であれば、道理にかなった合理的な考えと言えるのだという。
次は特に興味深いので、少し長いが原文を引用する。
合理性概念は、実は多様にとらえることができ、科学的には非合理な信念や行動の数々には、それなりの道理や実用的価値が存在するという意味で合理性がある、と心理学では考えます。たとえば、超常信念によって得られる何らかの利得が、投入する費用を上回るとすれば、その意思決定は経済学で言う「期待効用」という面からは合理性が認められるのです。
超常現象に対する科学者の批判は「それが非科学的な主張だ」という意味での非合理性に基づいています。マスコミに登場する科学者のオカルト批判が実にまっとうなことを主張している割には、あまり一般への説得力が感じられないのは、この規範合理性で非合理を割り切ろうとするからだと思います。
大きく教育という営みを考えたとき、超常的なものが科学的には非合理だと指摘するのは基本中の基本ですが、同時に、そうした非合理的信念がなぜその子にとって合理的なのかを考えなければなりません。相手を一人ひとりの個人として考えたとき、なぜそうした非合理信念を採用しているのか、採用せざるをえないのか、を考えてはじめて、超常信念の克服に向けて総合的な取り組みが可能になるのだと思います。
(強調は引用者による)
最後の行で「超常信念の克服」という言葉を強調したのは、ニセ科学批判行為を語る際、しばしば「信奉者の説得」という言葉が使われており、私にとっては違和感を感じるものがあったためだ。「説得」は、あくまでも批判者側の目線に重きをおいており、「克服」は批判される側の目線にあると考えられる。ニセ科学批判の場合でも結局のところ最終的な目的は「信奉者自身が自分の考え方のゆがみを克服すること」である。「克服」は批判行為の目的を直接的に示す上、批判される側にとっての受け入れやすさもあるのではないだろうか。
※この節、読み返してわかりにくかった部分に若干変更を加えた(詳細後述)。
4つ目の要因「体験の力」は省略する。
最後に、超常信念にどう対応していくかについて。
超常信念に対抗するための理科教育を考えるならば、科学的知識をしっかり身につけさせるというのは必要条件ではあっても、それのみでは不十分だと考えられます。
もっと大きく、私たちの心理やマスメディアのありかた、合理性とは何かといった面も含め、教科固有の科学知識を超えた「科学的な考え方」にかかわる問題として、超常信念は問われるべきです。
そして科学的な考え方の基礎となる「批判的思考(クリティカルシンキング)」を基礎におくことが重要だという。
「批判的思考」とは、人を非難するような意味での「批判」ではありません。ある主張を鵜呑みにせず、論拠を多面的に吟味して明晰に考えることです。そのために、自分の思考を反省的にとらえ、ものごとを基準に照らして適切に判断する論理的思考の体系が批判的思考です
さらに、批判的思考をどうトレーニングしていくかについて。
超常信念とは、批判的思考のトレーニングの素材として、まさに好適なものです。実際に、欧米の教育現場で用いられている批判的思考の教科書の多くで、オカルトやニセ科学といった超常信念を積極的に取り上げており、科学的な分析だけでなく、人間心理や社会とのかかわりといった多様な側面からアプローチしています。
江原の番組も批判的思考の教育に役立つということだ。水伝もこの観点からの教育に用いれば良い効果があるだろう。
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※読み返してわかりにくかった部分に若干変更を加えた。
ニセ科学批判ではしばしば「信奉者の説得」という言葉が使われており
↓
ニセ科学批判行為を語る際、しばしば「信奉者の説得」という言葉が使われており、
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「克服」は目的を直接的に示している上、
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ニセ科学批判の場合でも結局のところ最終的な目的は「信奉者自身が自分の考え方のゆがみを克服すること」である。「克服」は批判行為の目的を直接的に示す上、
- 115 http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1211901606
- 37 http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/
- 21 http://taraxacum.seesaa.net/article/96843794.html
- 16 http://ime.nu/d.hatena.ne.jp/alice-2008/20080621/1214012442
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- 13 http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-06-13
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