弘田組長射殺される 那覇市の路上
二十日午後二時二十分ごろ、那覇市垣花町の国道331号で、車に乗っていた大阪に本部を置く指定暴力団中野会副会長で弘田組の弘田憲二組長(54)=高知市出身=が、オートバイに乗った男に胸や腹など数カ所を回転式短銃で撃たれ、約一時間後に搬送先の病院で死亡した。車は同組長の知人の女性が運転していたが、通行人も含め、ほかにけが人はなかった。平成九年に神戸市内で起きた山口組若頭射殺事件への報復との見方もあり警察当局は警戒を強めている。
那覇署の調べでは、オートバイに乗った男が弘田組長が乗る車に後方から近づき、走行しながら片手運転で助手席の同組長に向けて短銃を数発発砲した。
車は数台の車にぶつかりながらジグザグ運転で逃げ、現場から約一キロ離れた路地に入って停車した。男は停車した車に近づきさらに発砲、その後、近くの路上に短銃を捨てて逃走した。
発砲した男は白いヘルメットをかぶり、黒いTシャツを着ていた。オートバイは北九州ナンバーの黒い四〇〇ccだった。
九年に起きた山口組若頭の宅見勝組長射殺事件では、中野会幹部ら十四人が逮捕されている。弘田組長は中野会でも最も大きな資金源を持つ有力幹部とされていた。
弘田組長は同会の本拠地がある大阪府と沖縄を度々行き来していたとみられる。この日は大阪から沖縄に到着した知人の女性を迎えに那覇空港に向かい、女性に運転させて那覇市内に向けて走っている途中だった。
【写真】発砲を受けた車両=左=を調べる捜査員ら(20日午後3時ごろ、那覇市東町=琉球新報社提供)
県警も情報収集
二十日、那覇市内で射殺された弘田組長は高知市出身。昭和六十年初めに起きた山口組と一和会との暴力団抗争では、高知市内の一和会系暴力団のナンバー2の立場にあり、山口組系の豪友会と激しい抗争が続いた。
県警によると、六十二年の抗争終結後は、いったん暴力団から身を引き、沖縄でゴルフ場開発などを手掛けたとされる。平成四年ごろ、当時は山口組の直系団体だった中野会に入り、弘田組(大阪市)の組長になった。
九年八月、神戸市内で宅見組組長射殺事件が起きた当時は、中野会の副会長。実行犯が中野会組員だったことから、弘田組長は「いつヒットマンに狙われてもおかしくない」(捜査幹部)状況だったという。
高知市内には中野会傘下の組事務所が一つあり、暴力団抗争の再燃も懸念される。県警は「今のところ県内での抗争につながる恐れは少ない」とみているが、暴力団担当の捜査員を招集。沖縄県警と連絡を取りながら情報収集している。
抗争再燃の恐れも懸念
指定暴力団中野会の副会長で弘田組の弘田憲二組長が二十日、射殺されたことで、一九九七年に神戸市内のホテルで同山口組のナンバー2だった宅見勝組長=当時(61)=が中野会関係者に射殺された事件をめぐる山口組と中野会の抗争が再燃する恐れもあり、警察当局は組事務所の監視など警戒を強める。
山口組系の暴力団関係者は「宅見組長射殺事件の後始末が何も終わっていないということ」とみているが、中野会の有力幹部で「山口組にとって最大の報復対象」(捜査幹部)とみられていた弘田組長が死亡したことで、「抗争は一段落」との見方もあるという。
中野会はもとは山口組系の組で、中野太郎同会会長は、若頭の宅見組長に次ぐ若頭補佐だった。九六年に指定暴力団会津小鉄会系組員による中野会長銃撃事件が発生。宅見組長が間に入り、意に反して和解したことで中野会側に不満が残り、宅見組長射殺事件につながったとみられる。
宅見組長射殺事件後、山口組は中野会を絶縁。その後は山口組と中野会の抗争による発砲事件などが相次ぎ、中野会関係者が射殺されるなどしたが、最近は沈静化していた。
|