日下という漢語(5) 中国に見る日下の用例(4)日本の国号と日下
屬 文

日本」が支那の正史に現れたのは「舊唐書」の「東夷傳」で、「倭國なる者は古の倭奴國なり、…日本國は倭國の別種なり、其の國の日邊に在るを以て、故に日本を以て名と爲す、或いは曰く、倭國は自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と爲すと、或いは云ふ、日本は舊と小國にして、倭國を併せたりと」とあり、次いでは「新唐書」の「東夷傳」に、「日本は古の倭奴なり、…咸亨元年、使を遣はして(唐が)高麗を平らげしを賀す、後に稍や夏音(支那語)を習ひ、倭の名を悪み更ためて日本と號す、使者自ら言はく、國は日の出づる所に近し、以て名と爲すと、或いは云ふ、日本は乃はち小國にして、倭の併す所と爲り、故に其の號を冒せりと」とあります。

これら両種の正史は唐が滅びてから成立したものですが、唐代中期成立の文献では柳芳の「唐暦」に「此の歳(長安二年、702A.D.)日本國は其の大臣の朝臣眞人(「續日本紀」によれば粟田眞人)を遣はして方物を貢す、日本國は倭國の別名なり」とあり、また杜佑の「通典」に「倭は一に日本と名づく、自ら云ふ、國は日邊に在り、故に以て稱と爲すと」とあります。

これらに共通するのは日本は別種の国であるとする説同一であるとする説と、相矛盾する認識が並存していたということです。しかも別種説も日本が倭を併合したとする説と、逆に倭が日本を併合したとする相容れない見解が対立していたのです。ここから現代日本の史学界に色々の主張が提出されることとなりました。
即ち
●九州にあった倭が日本と改名したのを、近畿にあった小国の天皇家が併合した上、日本という国号も継承した
(古田富彦)
中世に東国や奥州が「日の本」と呼ばれており、これが倭國に併合された日本に相当する(高橋富雄)
●任那・対馬・壱岐・筑紫を一体とする国家連合があり、その国号を日本とし、任那所在の連合政府を「日本府」と称したが、東進して日本列島を征服し倭國となり、半島における領土を失ってから日本と称することにした(江上波夫)
などの諸説ですが立論が強引だったり根拠が薄弱だったりして、詳説は避けますが人をして容易く首肯せしめないものがあります。そこで「日下」説の登場ということになります。

民俗学者・地名研究家で直木賞候補作家でもある谷川健一さんは「白鳥伝説」(集英社文庫と小学館ライブラリーと2種のヴァージョンがあるようです)において、要旨次のような説を唱えています。

日本」の国号は「日下」に由来する。神武天皇が東征して長髄彦と戦って敗れた土地である日下現在の大阪府東大阪市日下町こそが、「日の本」であり両「唐書」に見える「日本國」に相当する。
長髄彦は恐らく古くから河内や大和などの一帯に蟠踞していた蝦夷系先住民であり、やがて太陽信仰を奉じ饒速日命を祖とする物部氏が河内に進出しこれを服属し、次いで九州から東進してきた勢力が物部・蝦夷連合政権を打倒し大和政権の基盤を樹立した。これが倭國による小國である日本の併呑という史実に対応するものである。新たに生れた大和政権は通婚や登用により物部氏を有力な臣下とし、またその太陽信仰をも接収した。こうした事実が記紀の説話に反映したのである。
草香の地が「日の本」とされるのは太陽信仰に基づく呼称であって、「書紀」の「神武即位前紀」に見える「和珥の坂下」の「下」の読音を「梅苔(もと)」と注記しているので、「日下」の「下」も「もと」と読んだものと類推できる。そして元来は草香を中心とする小王国であった物部氏国家が大和地方に拡大し、当初「ひのもとのくさか」といっていた領域が「ひのもとのやまと」と言われるように変化したのである。

以上たいへん興味ある新説ですが全部完璧に論証されたとは言えないでしょう。例えば大和政権成立時の記憶が、何で突然と飛鳥時代に持ち出されたのか説明が必要であると思います。しかし注目に値するものとして今後の展開が楽しみです。なお下のリンクに「白鳥伝説」についての著者のコメントがあります。
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/yama2.html

なお江戸時代の儒者の村瀬栲亭の「藝苑日抄」も「日下」=「日本」説を述べており、明治時代の学者の飯島忠夫は「日本上古史」で爾雅」の「日下」に因んで「日本」の国号が案出されたものと考えているということです。

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